恋とは?

NEO

恋とは錯覚である

 タイトルの言葉は、よく言われる事である。

 果たしてそうなのか? ある意味間違いではないとは思うが、この辺りを掘り下げてみよう。


 最初に断っておくが、私は恋などという感情は理解出来ない。

 子孫を残すための行為であるなら、そんなものは不要である。ただ本能のままに行動すればいい。私は猫好きで多数飼っているが、発情期には大騒ぎである。

 しかし、そこに愛はあるか? 恐らくはないであろう。本能のまま動き、行動しているだけなのだから。

 万年発情期であり、無駄に脳が大きく育ってしまった人間ゆえに、そんな余計な感情が入るのである。この人ならいい。これは本能がもたらすものだ。より強い子孫を残そうとするのは、他の動物でもみられることである。

 しかし、人間はそこに愛情という余計なものが入ってしまう。好きだの嫌いだの、まあよくやるものである。結局、やる事は子孫を残すための行為だというのに、面倒な事をやる。余計な感情も持つ。これは、恐らく肥大した本能がもたらす錯覚だ。情などという余計なものがあると勘違いし、またそれを求めるのである。

 私に言わせれば、無駄なもの以外のなにものでもない。とっととやる事をやればいいのだ。っと、どうしても思ってしまう私は、やはりおかしいのだろう。分かっている。


 唐突だが、私は生粋のSM人間である。この世界には愛情などというものはない。まさに、本能と本能のぶつかり合いである。性癖とはそういう物だ。子孫を残すための建設的な行為はないが、ある意味これが正しい姿だと思っている。SMは愛情表現? ちゃんちゃらおかしい。そんな面倒なものではない。剛速球の投げ合いである。ゆえに、私にとっては最高に居心地がいい世界だ。ありのままでいられるのだから……。


 さて、話しがそれたが、恋とは人間だけが持ちうる特殊なものだろう。

 思い人が近くにいるだけで、意識が高揚し、脳内物質が大量に分泌される。普通はそうだろうと思う。私は経験ないが。


 ここまで言っておいてなんだが、私にも彼女がいないわけではない。しかし、何とも思わない。思った事がない。まるで、枯れた老夫婦のようである……とはよく言われる。性交渉も最初からない。お互いにその行為が嫌いだからだ。しかし、関係は継続出来てる。例え、最近の会話が老齢年金だとしても……。


 恋なんてしなくても、パートナーを作る事は出来る。それが、生物として、人間として、健全かは別であるが……。




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