episodeー4

 あれから会場の道なりに猫の足跡を描いてその足跡をたどって貰うと言う、学生ならではの発案もあり、猫になって魚のスタンプを集めると言う趣向に決まった。

 漁港が近い港町ならではの趣向で、大学生は揃いの猫耳に揃いのTシャツを着て参加するらしい。

 市の職員は皆揃って浴衣を着ると言う。

 全員が参加型のイベントになりつつある中で、一哉いちやは一人、景品の手配からサービスチケットの原稿制作、チラシに至るまでパソコンと向き合う日々だった。

 祭の事で常陸ひたちとは時々連絡を取り合う様になった。

 二人の間にあるのは、十年前の琴線にお互い触れないと言う暗黙の了解。

 それでも、一哉にとって声すら聴けなかった十年間に比べたら余程健全で、閉塞感の無い日々だ。


 出来上がった原稿を市役所の常陸のパソコンに送信して、印刷用のコピー用紙を持って車に乗り込み市役所へと走らせる。

 祭が終わったら、飲みにでも誘ってみようかと思う程度には少し気持ちに余裕も出て来ていた。


 市役所まで車で五分。

 盆休み中の市役所に場違いなアメ車が一台、駐車してある。


「市役所にあんな派手な車乗るヤツがいるんだな……」


 そんな事を一人零して、印刷用の紙を1ロット抱えて常陸に言われた通り裏口へと回って、一哉は足を止めた。

 今日は盆休みで、印刷する為に常陸が態々裏口を開けて待っていてくれたはずなのに、部外者がいて、しかも扉に隠れるようにしてその男とキスをしている。

 長身で黒髪、自分より少し若く見えるその男に見覚えは無かった。

 状況を把握するのに少し時間の掛かった一哉は、徐に片手に持っていた紙の塊をゴトリと落としてしまう。


「……誰?」

「あ、すまない……」


 紙を拾い上げて、車に戻ろうと素踵を返す一哉の耳に「イチ」と言う聞きなれた懐かしい声が聞こえても、足を止める事が出来ずにひたすら車へと戻る。


「あ、わ、綿貫わたぬき君! ちょっと待って!」


 車のドアに手を掛けたまま、下唇を噛み締め生唾を飲む。

 落ち着け。落ち着け。兎に角、冷静に、平常心を装え。

 そう自分に言い聞かせた一哉は、大きく息を吸い込んで勢いに任せて顔を上げた。


「悪い、邪魔して……。紙もダメにしちまったし、また出直す……」

「あ、紙なら事務所にあるから……」

「でも、ほら、連れ来てんじゃん。休みなのにコピーごときで潰して悪かったよ。じゃあな」


 笑えているか。歪んでないか。声、震えてないか。

 

「か、彼はもう、帰る所だから……」

「何それ、常陸ひたち。つめてぇの……折角会いに来たのに」

「仕事だって言ってあっただろ? 今日はもう、帰って」

「とんだ邪魔が入ったもんだ」


 男はそう言って一哉を一蹴するとアメ車を吹かして行ってしまった。

 茜雫せんなと付き合っている、そう聞いていたはずだったのに、その事実より今、目の前で起こった事の方がより、衝撃的だった。


「ごめん……変な所見せてしまって……」


 意外と平然としている常陸に違和感を覚える。

 十年前なら、常陸に限って二股かけるなんて事は絶対にあり得なかった事だ。


「お前、茜雫と付き合ってるって言ってなかったっけ……?」

「あ、えっと、うん。だから、彼とはもう会わないって言ってあるんだけど、なかなか言う事聞いてくれなくて……」

「キス、とかするからじゃねぇの……」

「まぁ、そうかもしれないね」

「へぇ……」


 十年経てば人は変わる。

 恋人でも、まして十年ちゃんと友達して来たわけでもない。

 自分には何も言う権利はない。

 それでも、どうしても、納得がいかないから、一哉は腸が煮えくり返りそうになるのをどうにか堪えようと口をきつく結んだ。

 抑揚のない、落ち着いた常陸の声がそれに輪を掛けて苛立たせる。


 市役所内のコピー機は事務所に向かう廊下の隅に置いてあって、そこで必要な印刷を全て済ませるつもりで来ていた。


「はいこれ、さっき送ってくれてた原稿。終わったら声掛けて、事務所にいるから」

「あぁ……」


 何事も、まるで、何も無かったかのような常陸の振る舞いに声が低く掠れてしまう。

 自分だけが取り残されているんだと、明確に分かる。

 十年間、ほったらかしにしたツケが回って来たのだ。

 悲しむ権利は自分にはない。


「綿貫君、僕は茜雫と結婚するよ」


 事務所へと戻ろうとした常陸は、一哉の方を振り返る事無くそう言い放った。

 細い猫毛の掛かる襟足は、少し憂いている様に見えるのに、その声は意外にもはっきりしている。


「へぇ……そうなんだ」


 急速に零下へと冷めて行く。

 ついさっき男とキスをしていた口で、女と結婚すると言う常陸に一哉は嘲笑を漏らした。

 良かったな、おめでとうって言わなきゃいけないのか。

 自分だって結婚していた癖に、今更そんな科白を言わされる事に苛立ってしまう。

 何も望まないなんて思っていても、目の前で奪われてしまうのとは訳が違う。

 こんな事なら、帰って来るのではなかったと後悔してももう遅い。


「おめでとうって言ってくれないの?」

「言って欲しい?」


 コピー機に向かって、常陸に背を向けたまま返す。

 無機質にコピー機が紙を吐き出す音だけがやけに耳障りに響いて、夕立の来そうな陰りのある夏の昼下がりの陽射しは、廊下の奥をさらに仄暗くする。


「僕達、何時が終わりだったんだろうね」


 常陸のその言葉は、正しく動いていた一哉の心臓を狂わせる。

 握りしめた手が震えても、もう抱き寄せて好きだと言う事は許されない。

 裏切ったのは自分で、常陸の幸せを願わなければならない。


「常陸」

「何?」

「良かったな。おめでとう」


 これで、良い。これで、終わった。

 今、長い長い回遊がやっと終わった――。 

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