【factor.X】子供の喧嘩に鬼が出る
factor.X
ハロハロこんちはッ、ご無沙汰でぇーす!
ちょ、問答無用で切らないでッ! 今日は耳よりなお話を、特別にタ、ダ、でッ、ご提供しちゃうんですから!
ここだけの話、悪いニュースと悪いニュースがあるんですけど、どっちから聞きたいですか?
え、いつものこと? やッだなー、僕は疫病神じゃなくて、むしろピンチを知らせるお助けマスコットキャラですよ!
タダより安いものは無し、聞くだけでも、ね?
『――』
信じるも信じないもそちらの自由ですけどね。狐に化かされたと思って、ここは一つどうでしょ?
……うわ、そんな露骨に嫌な顔します? 相変わらず用心深いんだからなー、もぉー。
まぁいいやッ、そろそろこっちもクライマックスなんで切りますね。
じゃあまた、センセ。
◆ ◆ ◆
きいきいと、風が鳴く。
寂れた倉庫地帯には、潮風が運んできた海水の腐臭が漂っていた。
「おい、くっ、車はまだ先なのかっ! くそ、この私にどこまで走らせる気だぁっ」
贅肉を揺らし、転がるようにしか走れない
振り向けば、大分遠くなった空に黒煙が立ちのぼっている。一代で築き上げた牙城を、突然わけのわからない小娘に潰され、惨めな逃走を余儀なくされているこの状況。
否、これは断じて敗走ではない。百々目鬼は薄汚れた金歯を噛み締める。
「くそっ、ぜぇ、見てろよ、香港での取引が終われば、ビルなんていくらでもっ」
これは次なる栄光への一歩だと鼻息を荒くするも、腹は痛み、運動不足の丸い脚は今にもつりそうだ。
商会のビルが炎上したことで、これまで手出しできなかった警察が、ここぞとばかりにパトカーの群れで公道を占拠している。既に検問も敷かれているはずだ。警察に見つからず、空港に辿り着くには、極秘の逃走ルートで隠し車庫まで走るしかなかった。
「ガレージは、ここの裏口すぐです!」
秘書が威勢良く、廃棄倉庫の扉を開け放つ。しかし一歩踏み入った途端、彼はすぐさま胸元から銃を抜いた。同じく異常を察した護衛たちも、社長を取り囲みながら倉庫内に銃口を向ける。
随分と前に封鎖されて、人が寄り付かなくなったはずの倉庫に、充満する紫煙。
霧がかった室内の奥で、ほんの小さく、赤が灯るのが見えた。
「……よう。急いでいるところ悪いが、ちょっといいかい?」
倉庫内に放置され朽ち果てたボートに、腰掛けている白い影があった。
その言葉とは裏腹に、別段相手の都合を気遣う様子も無く、のんびりと味わった煙を吹き出す。向けられた四つの銃口を一瞥すると、左手を白衣のポケットに突っこんだまま、面倒そうに立ち上がって。
「お前、なんでこんなところに……闇医者!?」
「いや、ある情報筋から、あんたがここに来ると知らされてな。出発は明後日と聞いていたから、デマかと思ったんだが……色々と大変だったらしいなぁ」
見透かすように細められた目は、色の濃いサングラスのせいで百々目鬼側からは窺えない。くわえていた煙草を指で挟み、倉庫の裏口を塞ぐように一歩出た。
『百々目鬼商会が襲撃に遭って、現在社長は必死こいて逃走中です。この様子だと、当分は日本に帰ってこないかもしれませんねぇ』
『狐に化かされたと思って、ここは一つどうでしょ?』奴の機械音声が鼓膜をなぞる不快感を思い出し、闇医者――
何らかの罠かとも警戒したが、なるほど見せられた監視カメラの画像通り、武器商人一行は鬼気迫る顔でこちらを睨んでくる。
「まったく散々な目にあったよ、クソ! わかっているならさっさとそこをどけ!」
「俺も日光は嫌いでな、早々に帰りたいところなんだが。なぁ、百々目鬼さん――あんた、『手術費』の支払い期限はどうした?」
獅子彦が口角を引き上げただけで、護衛は反射的に、彼の眉間へ照準を合わせた。
威嚇ではない。
今、確かに背筋を走った悪寒が、本能が「早く殺さなければ」と言っている。
殺さなければどうなるというのか――こんな、丸腰の医者ごときに。
「あぁ、今日の昼だったか? それなら後できっちり払うっ、そんなことより今は、」
「そんなこと?」
きいきいと、悲鳴じみた声をあげながら風が倉庫に吹き込む。獅子彦の低い言葉の直後、引き戸であった倉庫の出入り口が、勢いよく閉じた。
黒服が四方へと銃口を向けるが、やはりこの場に自分たちと闇医者以外は誰もいない。にもかかわらず、明らかに風のせいではなく、固く閉ざされ、ビクともしなくなった扉。
徐々に恐れの色を滲ませだした視線の中、獅子彦だけは悠然と、世間話のような調子で続ける。
「いやなに、俺も鬼じゃない。持ち合わせがない時に無理に払えとは言わないさ。期限より遅れたって、耳そろえて用意してもらえればそれでいいんだ。……今のあんたに、支払う意思があるのなら、な」
より薄暗くなった霧の中で、男はサングラスを外して胸ポケットに押し込む。
露わになった瞳に、光は無い。どこまでも深い黒、虚ろな空洞がぽっかりと浮かんでいるだけだ。
「銃の密輸入には多額の現金が必要だが、あんたらは東アジアの『準指定犯罪組織』リストに載っている。周辺国の銀行にも資産は預けられない。首尾よく隠し口座を作れたとして、そこから引き出すための電子キーを持っていることが空港でバレれば終了だ。……だからわざわざ俺に頼んだわけだ、センサーが感知できない内臓の奥に、隠し口座の電子チップを埋め込む手術をな」
この位置からは見えないはずなのに、いま確かに鋭い眼光を錯覚して、百々目鬼は無意識に右手を腹に当てる。
昨晩施術され、自身ですら縫合の跡が全くわからないまでに完璧な切口が、ふいに痛んだ気がした。
きりきりと、風のか細い声が響く。真綿で首を絞められているような圧迫感に、百々目鬼は思わず前の護衛を押し退け、闇医者を指差した。
「だからっ、明後日の商談が終われば大量のブツが手に入るんだ! それを売りさばけば金はいくらでも手に入るッ、お前にはその後に――」
「……『好きなだけ鉛玉をくれてやる』って?」
「な、なっ!?」
失望と嘲笑をない交ぜにしながら、獅子彦は一歩ずつ距離を詰める。拳銃の引き金に指を当てられても、何食わぬ顔でひらひらと両手を上げて見せた。
「困るんだよなぁ百々目鬼さん、ウチの支払いは現ナマのみって伝えたろう? それは『支払いの意思無し』と捉えていいのか?」
「はんっ、だったらどうする? 私はいま虫の居所が悪いんだ。大人しく引きこもっていれば良かったものを……闇医者風情が金の催促なんぞするから、こういう目に遭うんだよォ!」
百々目鬼が腕を掲げ、四つの発砲音が連なった。
一介の医者でしかない獅子彦では、微動だにできない。
――そう。
確かに射出された銃弾は、標的に届く寸前で何故か散り散りになり、鉄くずとなって舞うに終わる。
「は……!? えぇい撃て! とにかく殺せえっ!」
激高し唾を飛ばすボスの号令に、しかし追従する銃声は無い。
ぎりぎりと、風が呻く。
振り返った百々目鬼は、その場の光景に口を開いて腰を抜かす。屈強な護衛四人が、揃って白目を剥きながら、宙に浮いているではないか。
「……これでも医者なんでな、無益な殺生は嫌いなんだよ」
関節があらぬ方向に曲がったまま、男たちは必死に、自らの首に手をやろうともがいている。
彼らの首や服に絡みついているのは、透明な糸だ。それも、目を凝らしてもどこから伸びているのかわからないほど細い。
頸動脈を締め上げられながらも、震える銃口を闇医者に向けていた一人の右腕が、鈍い音を立ててくの字に折れ曲がる。
「いッぎゃあああぁ!!」
「まあ、俺に有益なら構わないんだが」
くい、と獅子彦が人差指を内側に軽く曲げると、つんざく悲鳴を上げていた黒服が泡を噴いたまま首を落とし、動かなくなった。下手な人形劇のような動きで抵抗していた男たちは、土気色の顔で沈黙した同僚を見て、口々に助けを求めだす。
闇医者が虚空で両手を広げると、まだ煙を上げていた吸殻が床に落ちる。その微かな火が一瞬だけ照らしたのは、獅子彦の指から天井まで伸びる、無数の縫合糸。
事前に張り巡らせた殺気を、紫煙で覆い隠し、ここで捕食者はただ待っていた。丸腰で蜘蛛の巣にかかる、哀れな餌たちを。
振り絞られる命乞いを心地よいBGM代わりにして、獅子彦は軽い足取りで彼等の前に立つ。今しがた失神させた男の腹部を軽く叩き、口角だけを吊り上げて振り向いた。
「おい百々目鬼さんよ」
「はッ、はひぃ!?」
尻もちしたまま見上げてくる百々目鬼を
この距離になって、はじめて見えた。
こちらを捉えた闇医者の眼には、瞳孔が無い。本来、眼球の中央にあるはずの黒い円が無く、濁った半透明の穴のみがこちらを凝視している。
「ん? 『ポニーテールの小娘』ってまさか……。はぁ、あいつら本当にただの便利屋じゃないか。ま、あんたの場合、身から出る
百々目鬼から読み取ったいくつかの情報を繋ぎ合わせ、獅子彦は「あー、そういうことか」と独り言つ。
西新宿の老人たちが騙されたガラクタの売り手が、まさかこんな身近にいようとは。その不良品を持たされた息子コンビも、今頃この狭い街を駆けずり回っているのだろう。
遼平と純也だけではない。希紗も澪斗も、真だって、獅子彦から見ればまだまだ子供のようなものだ。
揃いも揃ってやかましくて、面倒臭くて、放っておけない。
生まれつき他人の心が読める人間不信の闇医者にすら、そう思わせてしまう馬鹿な子供たちが、彼は嫌いではない。
だからここからは、大人げない大人同士の話だ。
「さて、ウチは現金支払いが原則だが……こいつらはなかなか良い商品になりそうだ。
「ほ、本当か!? ならいいっ、いくらでも持っていってくれ!」
部下たちの抗議の悲鳴も、縫合糸で締め上げられた喉からは言葉にならない。涙目でもがく彼らに見向きもせず、百々目鬼は腰を上げると、スーツの汚れを払うことも忘れて薄ら笑いを浮かべた。
「じゃあ、これでいいな、これで手術費はチャラだ。そうだろう闇医者!?」
「あぁ。そうなるな」
一歩ずつ後ずさる百々目鬼を、もう獅子彦は見もしない。興味は失せたと言わんばかりに、指に結んでいた糸の端をほどき始めている。
サングラスをかけ直し、ポケットをまさぐって煙草のボックスを引っ張り出すと、無造作に一本くわえてライターを灯した。
「へ、へへ……いや、話がわかる奴で良かったぜ。じゃあ私は行くからな!」
ぼんやりとした白衣の後ろ姿に安堵して、一目散に裏口へ向かう。
倉庫最奥の錆びたドアノブに、丸々とした指を伸ばした時だ。「おっと、一つ忘れてた」と何の気なしの言葉が紡がれたのは。
「そうだ――延滞金がまだだな、あんた」
きいきいと、糸が鳴く。
肥え太った脚に縫合糸が巻き付き、視界が反転したことに気付いた頃には、百々目鬼の体は宙吊りになっていた。
体重を支える糸が肉に食い込み、もがくほどに裂ける皮膚から赤が噴き出す。
「ぎ、あっ、そんな、たすけ……!」
「おやどうした、血が出てるぜ? こいつは
紫煙をくゆらせながら歩み寄る闇医者が白衣を開くと、裏地に仕込まれた無数のメスが牙を剥く。
酷い潮風が、反響する悲鳴すらも覆い隠してしまった。
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