factor.3 - 3

 ここまで引きずってきた足を止め、真は背中から壁にもたれると、ずるずるとその場に座り込む。


 頭を支配するのは、あの小さな捕食者の眼光。もう気配が無いとわかっている今でも、思い返しただけで身震いが起きた。

 こちらの不注意とはいえ、売るつもりの無かったケンカを衝動買いされ、本来の目的であった男たちにはまんまと逃げられ、爪の先からメンタルまで満身創痍まんしんそういなこの有様。


「あァもう、今日もツイてないわァ……」


 生まれてこの方、運勢は右肩下がりで、天井ならぬドン底知らずだ。

 普段は木刀を覆うために持ち歩いている布帯で、先程ナイフが喰い込んだふくらはぎを止血しておく。


 ぎりぎりと痛むのは、刺突された傷口ではなく、後ろめたくくすぶる罪悪感。なるべく関わらないよう注意していたのに、まさかこんなことでスカイと接触してしまうなんて。



 シブヤほどの面積ではなくとも、都内にスラム化した地区は点々と存在する。表社会から見放され、裏社会の組織にも入れない狭間の住人たちは、何の庇護も受けられないまま互いに奪い合うほかない。


 際限なく悪化する治安、混沌とした情勢を治めたのは、政府でも警察でもなく、自ら立ち上がったシブヤの若者だった。『スカイ』と名乗った彼らは瞬く間に都内のスラムを統治し、《天帝てんてい》と敬われたリーダーの下、表と裏の狭間に秩序をもたらす。


 ……三年前、とある男が凶行に走るまでは。


 男は、仲間であった幹部の一人を殺害し、失踪。その混乱に乗じた周辺グループの襲撃により、スカイは一気に追い込まれる。

 かつては支配下や同盟関係であった地区も次々と離反、各スラム街もパニックに陥り、狭間の住人たちは再び餓えと暴力に怯えて暮らすようになってしまった。


 表社会ですら、都市伝説として囁かれる裏切り者。

 『スカイ元幹部・蒼波遼平』の名は、裏側の人間であれば誰もが知っている。



 口元を押さえた真の目蓋まぶたの裏には、やせ細った少年の姿が焼き付いている。

 あの窮状を見るに、遅かれ早かれ、スカイは自壊してゆくだろう。かろうじて外部からの侵食を防いでいたシブヤもやがて、また蹂躙じゅうりんと略奪の街に戻る。


 そうなった時、あの少年もやはり奪われ、もしくは奪う側に回ってしまうのかと考えると、胸が締めつけられるように痛んだ。

 彼らが何をしたというのだろう。本当に悪いのは――



『ちッちッちッ、ポーン! フォックス君が正午をお知らせしちゃうよッ。どうだい仕事のナビゲーションから時報アナウンスまでやってくれちゃう僕の気の利きっぷりに、奥歯ガタガタ言わせて感謝してもいいよ!』


 応答ボタンを押してもいないのに通信が繋がれ、もう今日は聞かずに済むと思っていた疫病神の声が高らかに。反射的に携帯をドブへ投げ捨てようとした右手を、左腕が寸でのところで食い止めた。


「……今更どのツラさげて出てきとんじゃ狐ワレェ」


『あれ真ってば、ちょっと見ない内に闇堕ちしたッ? 全身ボロッボロじゃーん』


 もう怒る気力も残っていない真は「誤ってシブヤに踏み込んで、返り討ちに遭った」とだけ口にして肩を落とした。

 どうせまた指を差されて笑われるのだと腹を括っていた男は、三秒待っても何の音声も伝えてこない端末を、つい自分から覗き込んでしまう。


 画面の向こうからガシャガシャと機械を引き出す音が連続したと思うと、左右で違うキーボードを打ち込みはじめたフォックスが、部屋一面に並んだディスプレイ全てを忙しなくチェックしている。


『……ねぇ真、その相手、どんな奴だったッ? シブヤは、起動してる監視カメラ、少なくてさ……時々忍び込んで設置してるんだけど。見つかるとすぐ、壊されちゃって』


 太いケーブルを乱雑に引っ張り下ろしてきたフォックスは、端子部分を躊躇ちゅうちょなく、右耳の後ろへ突き刺す。


 処理能力を速めるため、彼の体は自身のメイン端末と脳を直接繋げるよう一部機械サイバネ化が施されている。本人曰く「手が二本しかなくてまどろっこしいから」らしいが、その間は意識もほぼネットワーク上にあるため、アナログこちら側での発言は途切れ途切れだ。


「なんや、そんな大したことちゃうで? スカイの縄張りにちょっと近付いただけやし、襲ってきたんは純也くらいのボウズ一人や。えっらい数のナイフ持ってて驚いたわ……シブヤはあんな子供がゴロゴロおんのか?」


『うッわ、それ最悪のエンカウント……これもダメ……あ、ここ映ってる……ぷぷッ、真これ超焦って逃げてるねマジウケる』


 会話が噛み合わないのはいつものことだが、それを真顔で言われると一発殴りたい感が三割増しになる。


 思考を全てネットワーク側に向けてしまったのか、しばらくキーボード音だけが続いたが、「あと五分くらい黙っていればいいのに」とちょうど思ったところでフォックスの作業は終了してしまう。

 耳元に接続していたケーブルを無造作に引っこ抜き、ゴキゴキと首を鳴らすと。


『あー疲れた、今ので一日分は働いたね僕。もう帰っていいッ?』


 結局何一つこちらに伝えないまま【CLOSE】のプレートを出そうとする情報屋に、「いや待て待て待て!」と必死に端末を振った。


「勝手に納得して店じまいすな! ちっとは情報共有せぇ、何かわかったんやろ?」


『えー、ここからは有料サービスになるよ? 情報一件につき百億万円』


「小学生か!」


『いやーだからさぁ――この先はになるから、ね?』


 そっと低められた声に、真もその先を察した。狐面の奥で細められた瞳が、言わんとすることを。


『スカイの動向調査、【蒼波遼平】の機密保持……これらの情報にはロックがかかっててねッ。部長クラスでも情報開示アクセス権限は無いわけよー、トップシークレットってやつ? でも真なら知っててもいいと思うんだよね、一度お爺ちゃんに掛け合ってみるッ?』


「……いや。部下とはいえ、人の過去を根掘り葉掘りっちゅーのは性に合わんわ。本人にバレたらめっちゃ殴られそうやし」


 冗談めかして肩をすくめる友人に、フォックスは何も返してこない。

 昔からの小狡こずるい癖だ。本当に相手の言葉を引き出したい時は、ぴたりと追及を止めるのだから。


「……なァ、フォックス。遼平をかくまっとるワイらも、同罪なんかな。あの子らがようやっと手に入れた秩序を……安心できる居場所を壊して、背を向けて、ワイらは今日も素知らぬふりをしとる」


『遼平が、今も何食わぬ顔で生きていること自体が罪。――真は、そう思うかい?』


「……わからん。今日それが、わからなくなってもうた。アカンなァ、やっぱワイには上司の資格なんて――」




「シンっちー!!」


 春風のように突然、全てをかっさらう明るさをもって、街路を少女の声が駆け抜けた。

 フォックスはそこで、一秒前まで通夜の参列者然としていた男の顔が、一瞬でぱあああぁっと満面の笑みに変わるのを見る。二十五歳によるまさかの擬音に度肝を抜かれている隙に、真へ通り魔の勢いで抱きついてきた影があった。


 男の胸に埋めた髪は明るいキャラメル色で、背中まで緩い三つ編みが揺れる。フリルがあしらわれたベアトップからは細い肩が見え、豊満な胸元も惜しげなく。

 ホットパンツから伸びるすらりとした太腿は誘惑的ですらあるが、左手薬指にはめられた金の指輪は、彼女が真の愛妻であることを意味していた。


「シンっちったらお弁当忘れて行っちゃうから、直接届けに来ましたー!」


「えー、悪いわァ! そんなわざわざ……なんでワイの居場所わかったん?」


「そりゃもー、当然? 愛の力ってやつー?」


「さすがはユリリンやー!」


『それ絶対GPS付けられてるよヤバいって』


 彼女、友里依ゆりえを前にした夫に、もはやフォックスの言葉など届くはずもなく。嫁を膝から横抱きにし、適当な階段に腰掛けて弁当箱を広げだしたではないか。

 こうなった二人を止めるには、突然ここに横転したトラックから逃げ出した仔牛の群れでも突っ込まない限り、無理なのである。


「シンっち全然連絡くれないからぁー、朝からずっと寂しくってぇー、もう胸が張り裂けそうだったのぉ!」


「ああァごめんなー! ワイもユリリンの声聞けなくてめっちゃ辛かったわー!」


「今日は大丈夫だった? また怖い人に絡まれたり、野良犬に追いかけ回されたりドブに落ちたりしてないっ? シンっちの運気が少しでも良くなるように、占いでラッキー食材になってたイナゴをお弁当に入れてきたからね! はい、あーん!」


「あーん!」


『……あの、やっぱり僕もう帰っていい?』


 そこでようやく姿なき声に気付いた友里依が、「どちらさま?」と夫の通話画面に小首を傾げる。

 「あァうん、ただの迷惑電話」とイナゴの佃煮を頬張りながら電源を切ろうとする友人に、狐面の男はディスプレイに両手をかけてまで前のめりになってきた。


『どーも初めまして、布瓜ふうり友里依ちゃん! 君の旦那様にお世話しまくってる甲斐甲斐かいがいしい同僚だよッ、以後お見知りおきを! お話しするのは初めてだけど、データ上では好きなブランドからスリーサイズまでばっちり網羅させてもらって、』


「すまんユリリン、ちょっと袈裟斬けさぎりに行ってくる」


『お噂通りの実に美しい奥様ですね!!』


 とうとう電波越しに殺意を送れるようになった真にたじろぎ、狐面が引きつった笑みで手を揉み合わせる。友里依は瑞々しい唇を無邪気に綻ばせると、「ダーリンがお世話になってまぁす」と甘い声を出しながら夫に頬を寄せた。


「シンっち、今日は一人でお仕事なの? 希紗ちゃんたちと一緒かと思ったのに」


「せやねん、皆それぞれ別の依頼に行っててな。あいつら今頃ちゃんとやっとるかなァ、派手に器物損壊してへんかなァ……」


 真が上司として敬われていないのと同様に、友里依も『部長の妻』という肩書きで接されることはほぼ無く、特に希紗や純也とは仲の良い友達だ。頻繁に事務所へも遊びに来るので、実質、中野区支部の六人目とも言える。


『希紗ちゃんならさっき、「銃器の仲介業者をぶっ潰す!」て僕に組織のアジトを聞いてきたよッ。デートのお誘いかと思ったから、迷わず真との通信ぶっち切ったのにィ』


「はァ!? なんでそんなことに……澪斗はっ?」


『そういや澪斗もいたっけ? 僕さぁ、基本的に男は一キロバイト以上記憶しないことにしてるからさーッ。あぁなんか言ってたかも、「そのビルの窓は防弾仕様か、爆破は可能か」とか』


「物理的に潰す気かあのアホ共!」


 ほんの僅かでも澪斗にストッパー役を期待した己が馬鹿だったと、真は頭を抱えた。損害賠償、部下の不始末、連帯責任……その他諸々の不吉なワードが脳裏を過り、愛妻の卵焼きが徐々に味を失っていく。


『まぁでもさッ、真も人の心配してる場合じゃなくない? 未だ何の収穫も無いじゃん、港区にチンピラ大増量の謎も解けないしさー』


「ぐっ……確かに対処どころか、原因もわかってへんけど……」


「なぁに、こっちでは悪い子が増えてるの? イヤねー、せっかく世田谷の方は平和になったっていうのに」


「えっ?」


 水筒から注いだ緑茶を啜りながらの何気ない呟きに、夫は彼女の顔を凝視する。それは画面の中のフォックスも同様で、そんな男二人の視線の意図がわからない友里依は、ぱちぱちと二重の目蓋を瞬かせた。


「ユリリン、その話ホンマっ? 世田谷で何かあったん?」


「んーとね、うちのマンションのゴミ捨て場で、他のママさんとお喋りしてる時に聞いたの。『ちょっと前まで世田谷はガラが悪かったけど、なんだか最近、不良みたいな子たちを見かけなくなったわね』って」


「最近って、どれくらい!?」


「えっとぉ……その話をしたの、もう三ヶ月は前だったかもー。なんで悪い子がいなくなったのかは誰も知らなかったんだけど、ある時を境に世田谷からパッタリ消えてて、不思議よねーって」


 人差し指を頬に当てて首を傾げる仕草をする友里依を、夫がいきなり抱き締める。「ユリリンやっぱ最高や! ワイの女神! 愛してるッ!」「私の方がシンっちのこと愛してるー!」「ならユリリンの三倍愛してるー!」公衆の路上でしばらくそのやりとりを続けていたバカップルでは、暗い仕事部屋で独り壁を殴っていたフォックスの心境など気付こうはずもない。


「ようやく繋がってきたな……いま港区を荒しとる連中は、元は世田谷方面におったんや。事の発端は三ヶ月ほど前。そして今も古巣に戻れんっちゅーことは、今回の大移動の切っ掛けとなった何かは、今も世田谷に在る。それをどーにかせん限り、港区の治安は良くならんわけや。フォックス! 世田谷区のここ三ヶ月前後の動向を」


『いまデータ解析してるよッ、エリア絞るまで待ってて!』


「まァ期待はせんけどな、主婦の井戸端会議以下の情報収集リサーチ力やし」


『う、うるさいやいッ』


 プロとしてのプライドなのか必死になって打鍵し始めた情報屋に苦笑しつつ、妻が箸で運んでくれるミートボールを頬張る。

 今度はこちらからしばらく通信を切ってやろうかとも考えたが、友里依がデザートのタッパーを開けたタイミングで、『ここだぁッ!』と興奮した機械音声がやかましく。


 最初からこれくらい懸命にやれば済むものを、と真は吐息を一つ。

 能力は充分あるくせに、常に気分のままでしか仕事をしないから、いつまで経っても目の敵にしている上司シュンを追い越せないのだ。


『確かに三ヶ月前から、世田谷区の軽犯罪率が低下してるみたい。でも警察や裏側の組織が動いた形跡は無いね……不良グループ間の大規模な抗争もナシ。日ごとでさかのぼってみたけど、これ――下北だよ。下北沢から、まるで蜘蛛くもの子を散らすみたいにチンピラが姿を消していってるッ!』


「下北に何か……ちゃうな、や。組織に属さない何者かが、下北沢から移動しながら奴等を追い出した。目的は何や? 世田谷に何がある?」


『そこからは、行ってみてのお楽しみーッてやつじゃないッ?』


「はあ、やっぱそうなるかァ」


 ウサギの形に剥かれたリンゴを名残惜しそうに咀嚼そしゃくしてから、男は膝に乗せていた妻を抱き上げ、ヒールをアスファルトへ下ろす。彼女のメイクを崩さないようそっと頬に唇を触れさせて、「ごちそうさま」と目尻を下げた。


「ユリリンありがとう、今日も美味しかったわァ。それじゃあ気をつけて帰って……」


「えーっ、私もシンっちと下北デートしたいぃー!」


「いや、デートやなくて仕事になるから、危ないし、なっ?」


「でもぉ……この辺り、悪い子が増えてるんでしょ? 私ひとりで帰るなんて……もし道端で怖い男の人に捕まったらって思うとぉ、ぐすっ……」


 顔を俯かせ、露出した肩を弱々しく震わせて、友里依は指先で目尻を拭う。最後は心もとなさげに、潤んだ栗色の上目遣いを向ければ完璧だ。


「あああァ確かにアカン! ユリリンの魅力に目が眩んだ男は何するかわからん!! 泣かんといてユリリンっ、仕事が終わるまでワイが護るから、一緒に行こ!」


「キャーッ、やっぱりシンっち頼もしー!」


『え、でもその子、ここまでフツーに来れたんじゃ……』


「っちゅーわけでフォックス、パートナーチェンジ!」


『ちょッ、いや待ってよ真こんなの絶対おかし――』


 ぶつり、と端末の電源も諸共に、通信を切断する。散々振り回してくれた忌まわしき携帯を腰ポケットへ押し込んでいると、空いた手に友里依がしっかりと指を絡めてきた。


 「それじゃあ早速、下北沢へゴー!」と意気揚々、拳を空へ掲げ、ピンヒールを履いた細脚を曲げてポーズをとる。


「ゴー! ……ってユリリン、なんやヒールの底が汚れてへん?」


「うそ、やっだぁ、これお気に入りなのにー。さっきお兄さんのシケた下半身潰した時かなぁ、サイアクー」


「下半身……?」


「ねーシンっち、下北行く前に目黒で靴買っていーい?」


「あ、うん、エエよエエよー」


 愛妻に手を引かれ、すっかり頬の緩んだ真は気付かない。頭上で陽光を遮っていったのが雲ではなく、不気味なほど音も無く滑空していく、大群のカラスだったことを。

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