factor.2 - 4
真っ逆さまに地へ落ちていく男の視界で、墨色の羽根がちらつく。
重力に抗う
『我が物顔で飛び回りやがって――思い上がってんじゃねえぞ鳥頭ァ!』
地面へ吸い寄せられていた男の背から、黒の飛膜が広がる。小さな蝙蝠が群がり一対の巨大な翼となったそれは、男を再び宙へと押し上げてくれる。遼平はその勢いのままビルの窓枠に左足を乗せると、さらに高く跳躍した。
ほんの数瞬前まで見下ろしていた哀れな哺乳類は今、カラスたちの遥か頭上に。それを視覚で捉えるより先に、一羽のカラスが、脳天に叩き込まれたスプレー缶と共に地上へ消えていった。
給水塔に着地する前に、空いた両手で二羽のくちばしを鷲掴みにし、落下する勢いをつけて屋上のコンクリに叩きつけてやる。
『ちっ、なかなか減らねぇな……。次から次へと、どっから湧いてくんだ』
十羽目辺りから撃墜数のカウントをやめた遼平が、依然空を覆う黒に唾を吐く。
老人らが購入したカラス撃退用スプレーを、試しに一度は
一直線に向かってきたカラスを
『親分がね、南のシブヤ方面にいたカラスをこっちに追い立ててるよ! もーすぐ合流するから、こっちも数を減らしとけって!』
『宋兵衛の奴もう来るのかよ!? 張り切りやがってジジイ……ここまだ片付かねぇぞ』
初めは「西新宿近辺のカラスの駆除」だけであったはずが、いつの間にか「東京の領空権を賭けたカラスと蝙蝠の仁義なき戦い」になり、今や種の存続までもが懸かった大戦争に発展しつつあった。
言うまでもなく、開戦のきっかけは前線で舌打ちをしているこの霊長類である。
『俺が下町の方へ誘導する。あいつらは高く飛べるからな、ここじゃ
『ある程度低い場所におびき寄せるまで、お前らは離れてろ』と、伝令役の小さな額を撫でてから。遼平はすっと息を吸い込むと、一際大きな叫喚を空へ放った。
びりびりと空気ごと震わせたそれに、カラスの群集は一瞬だけ怯み、すぐさま音源へ標的を定める。
『空はテメェらだけのもんじゃねーってことを、鳥頭でもわかりやすいように教えてやんぜ! 今日の晩飯になりてぇ奴からかかってきな!!』
蝙蝠の言語で放たれたその意味は通じずとも、挑発的な罵倒であったことは察せたのだろう。駆け足で隣接するビルへ飛び降りていった人間を、一斉に追い始める。
西新宿の住宅地よりやや外れたここは、寂れた町工場や倉庫が点々としており、現在も住み着いている人間は少ない。急降下で襲いかかってきたカラスの爪をジャンプでかわしながら、遼平は周辺に空き地がないか目を走らせた。
宋兵衛のような例外は除き、一般的な蝙蝠が飛べる高度はせいぜい十~二十メートル。ならばカラスを追って高所へ行くより、家屋が密集し飛び回りづらい低空におびき出し、こちらの土俵へ引きずり落とす。
町工場のトタン屋根を駆け、軽快に跳ね回りながら、次の廃屋に飛び移るべく左膝をぐっと曲げる。
……だがいくら身軽に飛び跳ねているように見えても、遼平は体重八十近い大の男である。加えて、人の管理が途絶えて久しい工場地帯。
ここまでくればおわかり頂けるだろう。次の瞬間が、いかに必然だったのかを。
「――あ?」
ずんっ、という音と共に、遼平の左足首から下が消える。
それを当人が認識する間も置かず、ずぼぼぼぼと足首から膝、太ももまでがトタン屋根に呑まれていき、とうとう足場もろとも崩落した。
「うおおぉぉお!?」と悲鳴を残し落ちていく、重力に抗がう術も、こんなに簡単な罠を見抜く知恵も無い、哀れな霊長類を嘲笑う声が空に響き渡る。
引きずり落とされたのは、紛れもなく遼平の方だった。
「……っつー、くそ! ハメやがったな鳥頭の分際でっ!」
「ハマったって、二重の意味で?」
「上手いこと言ってる場合じゃねーんだよ! ――は?」
トタンの
自身が落ちたのは、役目を失って久しい、老朽化した町工場だったはずだ。
だが周りに視線を巡らせてみると、どういうことか。遼平が打ちつけた腰元には、針金で編み上げられた花々が咲き誇り、ボルトとネジのきのこが生えていた。
パイプが組み合わさった大樹の下では、溶接された金属片の仔兎が寝そべっている。大型の工具が重なり合った峰の向こうにあるのは、豆電球型人間の集落だ。そんな彼らの営みを、カッターの羽を背負った天使が静かに見下ろす。
どれも町工場にあって不思議ではない材料なのだが、しかし同時に、全く違う幻想的な世界を体現してもいる。
この世界を今まさに創造していた主が、天井の穴から注がれる光の中で、突然現れた遼平に目を丸くしていた。
寂れた町工場にも、幻想の箱庭にも場違いな、ダークブラックのネクタイとスーツ。上着と同じく質の良さそうなスラックスで作業台に腰掛け、すらりと長い脚を組んで、白磁の指先でワイヤーを編み込んでいた最中らしかった。
陽の光によって銀色を帯びる瞳は、冬の月にも似て。性差に囚われない超然とした相貌には、軍神の勇壮さと、女神の優美さが調和している。首元までのショートヘアー、その鮮烈なゴールデンブロンドは忘れようがない。
「な……、ンでこんな所にいんだよ、ルイン!」
「うーん、空から降ってきた我がヒロインを迎えるためかな?」
「誰がだ!!」
「この国にはそういうお約束があるのだろう?」と小首を傾げた人物との出会いは、一ヶ月ほど前になる。
泥棒、殺し屋、テロリスト――警備会社にとって敵対業者は数あれど、ルインはもはや遼平たちにとって天敵に等しい。依頼さえ受ければ、あらゆる物質・存在を完膚無きまでに壊し尽くす、警備員の対極とも言える『破壊屋』だ。
先月の一件で生死不明となっていたが、そう易々と死んでくれる玉でないことは遼平が誰よりもわかっていた。ゆえに、今一番の驚きは別にある。
「……お前、なんで男物の服なんて着てんだ?」
遼平の
「フフッ、そういえば君、じかに私の体に触ったものね」
「誤解しか招かねぇ言い方すんな! 全身ぶん殴っただけだろうがッ」
「その表現もどうかと思うけれど……」
革靴で軽やかに床へ降りると、ルインはネクタイを締めた襟元に手を当てる。「別に、隠しているつもりは無いのだけれど」と前置いてから。
「性別を一度で言い当てられることは少なくてね、少し驚いただけさ。……先月の仕事で髪が短くなったことで、男物の方が違和感が無くなってしまったのだよ」
ルインの言う通り、確かにこうしていると気品ある美男子以外の何者にも見えない。その立ち振る舞いは、さながら上流階級の御曹司だ。
仕事時と違い、日溜まりの中の相貌は
「俺は似合ってねーと思うけどなっ、ンな格好」
「おや、そうかい? ……ふぅん、そうかい」
ルインはうんうん、と頷くと、静かに「覚えておこう」と独り言ちた。
「で、お前はこんな所で何やってんだよ。これも破壊屋の仕事なのか?」
鈍色の作品たちを指して、遼平は問う。一つ一つ精巧に生み出されたそれらを見下ろしていると、まるで自身が巨人にでもなったかのようだ。
一方、この世界の創造主たる女神は肩をすくめて答える。
「まさか。君だって、廃墟の屋根に穴を開けることが警備員の仕事かと訊かれたら、同じように答えるだろう?」
「いや、俺は仕事中なんだけどよ」
「え、そうなのかい……?」
意外な返答にきょとんとしてから、「本当に、何故そのような仕事に就いてしまったのだろうね」と仕方の無さそうな笑みを浮かべた。
「今日はオフさ。これは依頼ではなく、私の趣味のようなものだね」
「仕事中も趣味全開だったじゃねえかお前」
「あれは我が社の特色、と言ってもらいたいね。まぁ私一人でやっているから、実質フリーランスだけれど」
ふわぁ、とあくびを零す無防備な仕草からは、彼女が言うところのオンの面影は一切無い。肩のこりをほぐすように背伸びをしながら、流し目を寄越して。
「『破壊屋Ruin』は事業名だからね、正確には、今の私はルインじゃない。ゆえに警戒は解いて良いよ、今ここにいるのは――単なる君の
瞬間、これまでで一番遼平の目つきが鋭くなった。敵対心からではなく、強い拒絶が男の体を強張らせる。
彼のそんな反応など意に介さず、少女のように無垢に腕を広げて、創造物の中で女神は微笑んだ。
「どうだい、私の創った世界は。なかなか良い出来だろう? ……この工場はね、三日後に取り壊しが決まっているんだ」
「じゃあ、壊されちまうのかよ、これ」
「あぁそうさ。この繊細な世界は間もなく、巨大な重機の
思わず無意識に、誘われるように閉じた瞼の裏に、優しい世界の終わりが映る。
解体重機によって抉られる大地と、耳をつんざく金属の悲鳴を上げながら砕き割れる山々。やがてトタンの空が崩れ落ち、花々も、仔兎も、人間も天使も皆平等に押し潰されていく。そこに一切の例外も許されず、創造主が意図した通りに、滅ぶためだけに生まれた世界が終わる。
あまりにも無残で、無慈悲で、イメージだというのに激しく五感を揺さぶるそれは。
「――それはとても、美しいだろう」
その言葉は、自身の口から漏れてしまったのかと思った。それほどまでに、音に込められた感嘆の想いすら、己のものと酷似していたのだ。
はっとしてすぐさま眼を見開いた遼平の前で、穏やかな陽光を浴びた女神が、世界を祝福する笑みでそこに立っている。
「勘違いしないでくれたまえ。私は何も、壊すことにしか能が無い訳ではないのだよ。この世は実に正しい真理から成っている。生まれて、死んで、創られて、また壊れる――その
廃墟の楽園で、創造物へ順に愛おしい眼差しを送り、彼女は紡ぐ。
「だから私も、この既に終わったものたちへ、再び命を吹き込んだのさ。くたびれ、力尽きた彼等にもう一度、鮮やかな姿を! そして最期にもう一度、凄惨な滅びを!」
両腕を天へ広げ、華やかに
「……それは、こいつらに対するお前なりの弔いか?」
「いいや。これは私のためのアート、私自身の快楽さ」
だろうな、と男は低く呟く。「俺たちは、そうだ」静かに頭を垂れた遼平のそれが、悲しみから俯いたものか、肯定し頷いたのかは定かではない。
破壊屋は遼平のことを、同類と呼ぶ。それは紛れもない事実だ。
遼平の本質は『壊す者』であり、何かを傷つけ、踏みにじることでしか、彼の胸の内は満たされない。
当然、誰からも理解されなかった。異常者だと、お前なんていなければいいと、石を投げられ続けてきた。
自分たちの存在は、誰にも受け入れられない。事実だ。
自分たちの命は、誰にも望まれていない。事実だ。
いっそ心のまま破壊者と成り果てれば、全ての苦しみから解放される。事実だ。
事実を否定することはできない。
けれど、拒むことはできる。
爪が食い込むまで拳を握り締めていた遼平の耳に、慣れ親しんだ羽ばたきの音が届く。男が我に返るとほぼ同時、左肩にのしっといつもの重みがかかった。
『急に消えやがってっ、油売ってんじゃねえぞべらぼうめ! 生存競争なめんな!!』
契約者の耳を噛み千切る勢いで怒声をあげていた宋兵衛だったが、ルインの存在に気付くと、すぐさま牙を剥いた。後を追ってきた群れも次々と周囲に舞い降り、ボスの殺気に満ちた視線の先へ向く。
『あれ誰だっけ?』『リョーヘイの敵だよ!』『じゃあ親分の敵だ』『僕らの敵だ!』一斉に騒がしくなる群れの前で右腕を上げ、男は一言『よせ、今は違う』と制する。
左耳にギャンギャンと吠えてくる宋兵衛の口をうんざりと抑えつけながら、遼平は破壊屋の目になりつつある彼女にも矛を収めるよう告げた。
「オフのお前とやり合う理由はねぇよ。こっちはカラス根絶やしにするので忙しいんだ、これ以上かまうな」
「種の撲滅なんて依頼、私にもなかなか来ないけれどねぇ……。君のところ、実は既に警備会社の皮をかぶった破壊屋だったりしない?」
「うううるせー!」
稚拙な声しか上げられなかったのは、それを否定できる要素が見つからないことに、さすがの遼平も薄々気付いているからである。
「……最近この辺で、やたらカラス共が増えてるらしいんだよ。一応聞いておくが、まさか今回もお前が噛んでたりしないよな?」
「残念。私がその黒幕だったなら、また君と一戦交えられたのに。……けど、そうだな。カラスは知能が高く、人間がどれだけ対策を講じても生ゴミに有り付くらしいからね。人が住む限り彼等を根絶させるのは難しいだろうし……カラスが急に増えたと言うなら、それは」
指先に
「――この街に、
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