factor.2 - 5
数十分前までは昼食後のOLや観光客で賑わっていた、新宿セントラル公園。
確かに快晴だった空は、今や
『アイちゃんはここに隠れていてね。僕が「いいよ」って言うまで出てきちゃダメだよ。大丈夫、すぐに終わるから』
喚き合うカラスと蝙蝠に怯える少女の手を握り、純也はにっこりと笑ってみせる。万が一つつかれたりしないようにと、自身がかぶっていたキャップ帽をアイーシャの黒髪に乗せて、Tシャツ一枚だけの体を大木の陰に押しやった。
「おい純也。なんか光るもの、持ってるか?」
「あ、そういえば先生の依頼書に『鏡や円盤ディスク持参』ってあったから、おもちゃの手鏡を持ってきてたんだけど」
「アイツ、初めっから俺らにカラスの相手させる気満々じゃねーかッ」
嘆息しつつ、純也からコンパクトミラーを受け取り、頭上に掲げる。案の定それに気をひかれたカラスたちが遼平に照準を合わせたところで、男は鋭い犬歯を剥き出した。
大きく振りかぶり、上空目掛けて投げつけた鏡で一羽のカラスが打ち落とされた直後。蝙蝠、カラス、どちらともなく
開戦と同時に両者の爪が、牙が、互いの翼へ襲い掛かる。
『おらおらビビッてんじゃねーぞ鳥頭ァ! テメーらなんざ一生地面でミミズでもつついてろ黒ずみ野郎!』
『
『うっせぇテメーらとはツヤが違うんだよ! ツヤがッ!』
「遼、いつの間にかカラスとも喋れるようになってない……?」
ギャアギャアと金切り声を上げながら、それでも確実にカラスだけを殴り飛ばし、蹴り落としていく人間の姿がある。
遼平は防御をとらない。敵の爪を避けもしない。ただただ攻撃をもって相手を地に落とす、彼の思考にはそれしかなく、着ていたポロシャツはあっという間に破れ血が滲んでいく。
黒い羽根の先に消えていってしまいそうに、ひたすら前へ、前へと躍り出ていく遼平を追って、純也も続く。
背中合わせになりながら、突っ込んでくる一羽に両手のひらを向ける。瞬間、少年を中心に巻き上がった風が、細い腕を伝いカラスだけを一直線に吹き飛ばした。
これまで気流を利用して自在に滑空していたカラスたちは、未知なる風の支配者の出現に動揺する。
純也が腕を掲げ、くるりと手首を捻るだけで唸る旋風。不自然な突風のせいで近付くどころか羽ばたきも難しく、悲鳴にも似た困惑の鳴き声が公園中に響き渡った。
だがその程度で諦めてくれる相手ではなく、何度空へ舞い上げられても、カラスはめげない。風に煽られる度にきらきらと反射する純也の銀髪目掛け、鉤爪を開いて降下を繰り返しキリがなかった。
「生ぬるいことするぐれぇなら、あのチビと引っ込んでろ! 戦う気あんのか!?」
「ないよ!」
「あぁ!? なら今すぐ、」
「争う気は無いし、ほんとは誰にも痛い思いをさせたくない! けどっ!」
遼平の脳天を狙い強襲してきた一羽を、空高く弾き飛ばして、純也は青の瞳に揺るぎない意志を灯す。
「――けど何よりも、僕は遼を護れる強さが欲しい」
「誰より強く」でも、「共に戦う」でもない。「護る」ときたものだ。自分より頭一つ大きい図体の男を、こんなにも細い背中で。
「遼っ、蝙蝠さん全員に高度下げてもらって!」
「お、おう!」
遼平が指笛で高音の合図を出すと、蝙蝠たちは一斉に弧を描き急降下する。直後、高いところで滑空していたカラスだけを、強い横殴りの風が文字通り一掃し、公園上空から吹き飛ばした。
僅かに空の青が見えるようになり、純也は無意識に一息漏らす。
だが次の瞬間、鼓膜を引き千切らんばかりの音量で、おぞましい猛り声が響き渡った。
遼平もとっさに耳を塞ぎ、背筋を凍らせた雄叫びの方へと顔を上げる。
そこに現れたのは、暗夜だった。
快晴に巨大な翼を広げ、昼を呑み込まんとする、遼平をも上回る超弩級のカラスだ。いや、姿形が似ているというだけで、全長三メートルは下らないサイズは、もはや人間の定義する「カラス」に当てはめて良いのかもわからない。
「な……ンだありゃ!?」
思わず半歩引いた遼平の前まで、厳かに降下してくる異形の黒鳥。
その羽ばたきだけで辺りを砂埃が包み込み、危うく吹き飛ばされそうになった宋兵衛が遼平の肩にしがみついた。
『蝙蝠、人間……実に矮小な種族よ。我輩の配下を追い返した程度で調子に乗りおって。我が空を
「りょ、りょうっ、あのカラスさん何て言ってるの!?」
「いや
「言葉を合わせてくれるなんて、もしかして停戦の申し出かな? きっと優しいカラスさんだよ!」
純也は大ガラスが着地する風圧に思わずよろけ、遼平のポロシャツの裾を掴む。肩に蝙蝠を、背に少年をくっつかせた男は、眼前のモンスターを前にきょとん顔だ。
『我が名はレイヴン! 此の空の頂点にして、始原の神使である。貴様等の夜は二度と明けぬ。極楽鳥のさえずりも――』
『おうおう遅れておいて名乗り口上とは偉くなったじゃねえかッ、はなたれ小僧の
遼平の頭に飛び移り、宋兵衛は怒りも露わに翼膜で大ガラスを指す。
普通の蝙蝠と比べれば明らかに異質である宋兵衛も、こんな人間の子供を丸呑みしそうな巨鳥を前にしては、愛玩動物サイズでしかない。――にもかかわらず、蝙蝠の一声で相手は明らかに動揺した。
『ばっ、バカっ、我輩はレイヴンである! 軽々しく忌み名で呼ぶでない!』
『馬鹿はどっちだこん畜生めが! たかが百歳そこらのヒナ鳥の分際でっ、この俺様を見下ろしてんじゃねえぞヤタ!』
『だからっ、昔の名前はやめろって言ってんだろ! お前みたいなダッセー名前はイヤなんだよぉ!』
「遼、なんだか言い争ってるみたいだけど……?」
「うーん、とりあえずあのでけぇカラスは『ヤタ』って名前らしい」
「そっか、宋兵衛さんのお知り合いなんだね!」
まだ『レイヴンと呼べ石頭』だの『れーぶんって何だこのすっとこどっこい』だのと罵り合っている二匹を放置して、少年と男は「宋兵衛さん以外にも特別大きな動物がいるんだねー」「俺も初めて見たわー」と呑気に頷く。
『相変わらずてめぇらは道理ってもんがわかっちゃいねえ! ここで会ったが百年目ッ、今日こそ江戸の空から出て行ってもらうぞ!』
『それはこちらの
両種族の長による一騎打ちの緊張感が漂い始め、それぞれの手下も身を引いていく。しかしこの場でただ一人、互いのボスの間に割り込んだ男がいた。
『……宋兵衛。こいつは俺が、やる』
毛を逆立て臨戦態勢だった宋兵衛の前に腕を掲げ、遼平はヤタの前に立ち塞がる。
宋兵衛は黙って契約者の横顔を一瞥すると、溜息とも含み笑いとも知れないまま鼻を鳴らした。そうして近くの大木まで空を滑り、枝にぶら下がって傍観の姿勢をとる。
『なんだ老いぼれ、とうとう人間に庇われるまで
『はんっ、だからてめぇは巣立ちもできねぇんだよヤタ。この俺様が出るまでもねえ、小僧一人で充分ってことだ』
『口先だけは衰えないなクソジジイ……貴様ご自慢の舎弟が、腹から食い千切られる様をそこで見てろ!』
言い終わらぬ内に、男の眼球を抉るべく一直線に向かってくる大ガラスのくちばし。それを上半身を捻る動作だけで回避し、同時に、左拳をヤタの胸に打ち付ける。
だが寸でのところで急所を外された――と遼平が認識した時には、太い脚から繰り出された鉤爪に脇腹を掻き切られていた。
分厚い弧を描く鉤爪は、軽く引き裂いただけでも肉の筋を断つには充分だ。無防備に喰らえば、切っ先は骨にまで達するだろう。
『……俺は
『あ?』
血を流す脇腹を押さえもせず、拳を固く握り直した人間を小馬鹿にした目で見下ろす。翼が巻き起こす風に前髪を掻き上げられると、遼平は激しい怒りを燃やした目で巨鳥を睨みつけた。
『それでも、だ。アイツを
人間ではここまで届くまいと油断していたヤタの高度に、遼平は一瞬で跳躍する。
焦って上昇しようとするも、ぐん、と伸ばされた腕は大ガラスの脚をしっかりと掴む。そのまま重力に従い落ちていく男と共に急降下、しかも着地寸前で手を離され地面に叩きつけられたのだから、たまったものではない。
『いっ、ぐ、がっ……貴様ああぁ!!』
空の支配者にとって、地に伏せられる以上の屈辱はないだろう。ヤタは自慢の翼についた泥も拭わず、なりふり構わぬ羽ばたきで数十メートルと舞い上がる。
高所から狙いを定め、鉤爪を大きく開くと、黒の落雷と化して遼平の喉笛を捕えた。
そのまま脚一本で男の体を持ち上げ、宋兵衛が留まっている大木目掛け投げつける。太い幹に切れ目が走り、喉から出血した遼平は苦悶の声もあげられずに動かなくなった。
がさ、と根本の草が揺れたのは遼平のせいではない。アイーシャだ。
運悪く、自分が隠れていた木に男が飛ばされてきて、その衝撃に驚いた少女が陰から這い出てくる。何事かと辺りを見回して、近くに血を流した遼平が倒れているのを知ると、短く悲鳴をあげて腰を抜かした。
『まま、ママ……ジューヤ……!』
へたり込んだアイーシャにとって、大ガラスはどれほどの魔物に見えたことだろう。肉食獣のごとき眼球にギョロリと照準を合わせられた今、少女の意思では指の先一つもままならない。
瞳から涙が溢れ落ちるのが先か、広げられた鉤爪に顔ごと引き裂かれるのが先か。
答えは既に、次の瞬間に迫っていた。
『――アイちゃんっ、こっちへ!』
とっさに駆け寄り、アイーシャを胸に抱いた純也の背を、熱が走る。
歯を食い縛ることで悲鳴を堪えようとしたが、その口から次に漏れたのは、疑問の音だった。
「りょ、う……っ?」
鉤爪は、少年の背中を浅く切るだけに留められていた。脇目も振らず襲いかかってきたヤタの側頭部に、拳をめり込ませた男がいたからだ。
そこから全力で拳を振り抜いたことで、漆黒の巨体は数メートル吹っ飛び、芝生を抉りながら地を転がっていく。
喉から、脇腹から、拳から血を流し、それでもそこに立っているのは遼平だ。
大きく肩を上下させつつ、前髪から黒の眼を覗かせて、二人の無事を確認してくる。アイーシャを胸に抱き庇った体勢のまま、ぽかんと口を開けている純也の様子に、ふっと彼の口角が吊り上がった。
「そうだな、それが、お前だ」
「え……?」
「俺は元々、何かを護るなんざ向いてねぇんだよ。だから敵をぶん殴るしかない。けど、お前は違う。お前は庇って、逃がして、敵さえ傷付けずに護ろうとする。俺には真似できねえ、それがお前の強さだろ、純也」
そう言って、高く大きく立ちはだかる男の背を、純也は見上げる。
憧れ、追いかけて、どんなに走っても掴めそうになかった頼もしい背中は、最初から隣にあったのだ。
同じになる必要は無い。共に並び立ち、護り合える。違う強さなら。
かすれた唸り声をあげ、地に伸びていた大ガラスがゆっくりと首を上げる。二、三度頭を振ると、己を殴り飛ばした相手を睨み、ありったけの怒号を放った。
それに応じ遼平も静かに身構える。――が。
交差する殺意に水を差したのは、無遠慮なフラッシュとシャッター音だった。
アイーシャに服を握り締められ、腰を落としたままだった純也もそちらを確認する。いつの間にか距離を取った木々の下に野次馬が集まっており、各々の携帯を、巨大ガラスと異種族格闘技を繰り広げる遼平に向けているではないか。
「すげー、特撮? どこの番組?」
「マジ飛んでるし、ホログラムじゃね?」
「新宿が今ヤバいことになってんの! え? いやウソじゃないって!」
「遼、これ、まずいんじゃ……」
「テメェらなに撮ってんだゴラァ! 見せモンじゃねえぞ!!」
中指を立てて怒鳴るも効果は無く、掲げられた携帯機器のレンズばかりが増える。
チカチカと光るそれが
『よそ見してんじゃねーよデカブツ! やーい、お前のカーチャン
石をぶつけられ宙でふらついたところへ、追撃の一声が逆鱗に触れたらしい。『七代先まで
遼平は右肩で純也を俵担ぎにし、左腕でアイーシャの胴を抱えると、そのまま一直線に公園の出口へと駆け出す。
「うわっ、え、逃げるの!?」
「一旦退却だ! っつーかよ純也、俺やべぇことに気付いた!」
「これ以上なに!?」
「……今回の依頼って、別にカラス根絶やしにしなくてもいいんじゃね?」
「その気付きがあと三時間早かったらなぁ……!」
一種族の抹殺に何年かけるつもりでいたのか、今更ながら気が遠くなった。
「要はこいつらの餌場を新宿から遠ざけて、どっか違うとこに押し付けちまえばいいんだよ! どうだ名案だろ!」
「いや、あのね遼、それだと結局また二の舞に……」
ナイスアイディアと言わんばかりに『臭い物に
気付けば子供二人を抱えた遼平は都庁を横切り、首都高速の下をくぐっていた。腰を捻り後方を窺うと、黒雲と化したカラスの群れがびっしりと追いかけてきている。
「りょうっ、これ、どこに向かって逃げてるの!?」
「適当だ、適当ッ。むしろこっちが聞きてーよ、今どの辺だここ!?」
赤になった信号機の上まで跳躍し、停止していたトラックの荷台に着地。また歩道へ飛び降りていく浮遊感の中で、視界の端に第二国立劇場が映った。
しばらく京王線に沿って走ったところで、遼平は急にこれまで逃げてきた大通りとは一転、狭い路地裏へ横向きで入り込んでいく。
純也にも鼻でわかった。表社会から隔絶されたエリア特有の臭いだ。
風化したビル壁の隙間、気分まで
侵入者を追い返そうとこちらに歩いてくる大人たちは、身なりや人種に統一性がない。だが見張りらしき彼らが口を開く前に、頭上からの人外の怒号が、全員の視線を
「くそ、アホみてぇに飛びやがって!」
「そこは鳥類のアイデンティティだから許してあげて……」
呆気にとられた見張りを押しのけ、遼平はスラムの奥へ奥へと駆ける。
入り組んだ路地は徐々に狭くなり、巨体のヤタは大分飛びづらそうにしている。しかしこの道幅を見るに、いずれ袋小路に突き当たるであろうことは明白だった。
「純也! 次の角を左に曲がったら、お前らをそこで投げ捨てる! お前はこのチビ連れて、カラス共が遠ざかるまで隠れてろ。いいな!」
「待って、ダメだよ! それじゃあ遼はっ」
「俺が売りつけた
純也を担いだまま、傷だらけの手で髪を撫でられて、次の言葉が出てこない。遼平の腕で持ち上げられ、不安げに辺りを見回しているアイーシャも、これ以上巻き込めない。
蝙蝠たちも助けに追いつけないまま、あの大群に襲われては、いかな遼平でも無事では済まないとわかっていても。
「……うん。必ず約束を守ってみせるから、だから……遼も『無茶しない』って僕と約束して?」
弱々しく微笑んで小指を差し出す少年に、両手が塞がっている男は応えることができない。
そんな約束は結ばれないとわかっていて尚、純也は自身の「祈り」を「約束」と言い換えたのだ。なのに。
「おう、こっちは任せろ。あんな鳥頭連中、この俺が無茶するまでもねぇよ」
小指を結び返す代わりに、純也の細い腰に回していた腕でバシバシと背中を叩いて、縮こまっていた体を奮い立たせてくれる。
護られるわけではない。任されるのだ。敵の相手を遼平に任せるかわりに、純也は少女の身を託された。
こんな状況であるにもかかわらず、胸に灯る熱は喜びであり、確かな勇気だ。
「そこを曲がったらすぐだ! いくぞ純也!」
「任せて、遼!」
一際大きな廃ビルの角を曲がった瞬間、遼平は右足でブレーキをかけ、両手それぞれで純也とアイーシャを投げ放つ体勢をとる。
純也を先に着地させ、そこ目掛けてアイーシャを放物線上に――
『あ、ママー!』
「えっ?」
「はぁ!?」
ビルとビルの狭間に押し込まれたように建つ、古ぼけた一軒の教会。
その前で何やら口論する大人たちに向かって、少女が満面の笑みで手を振った。
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