第四項(4)
――そこは暗く、静かだった。
胎児のように横たわったまま、自分が生きているのか死んだのかも判然としないままに、希紗はぼんやりと思考していた。
生ぬるく、酸素の薄い空気。泥濘みに浸かっているような倦怠感。
遠く、途切れ途切れに、誰かが呼ぶ声がする。三途の川の向こう側からかと思ったが、死者の呼び声はノイズ混じりではあるまい。どうやら無線機も、希紗自身もまだ生きているらしい。
ひょっとしたら、先程まで使っていたペンライトが近くに転がっているかもしれない。光源を求めて、暗闇の中で腕を伸ばしてみる。
意外とすぐに、それは見つかった。
身動きできない狭い空間なので、体も起こせないまま、両手でそれを探る。感触は金属だが、ペンライトではない。ほんのり熱を持っていて、表面がべっとりと濡れていて、その特徴的なフォルムは。
「え……?」
そんなはずはない。
これがここにある訳がない。けれど、希紗には間違えようもなかった。
自身の手で造り出した唯一の銃、ノアがここにあるということは、つまり――
「あぁクソッ、どんだけ重なってんだよ! おい希紗っ、聞こえるか希紗ぁ!」
聞き慣れた悪態と共に、一筋の光が差し込んでくる。
ようやく色彩を取り戻した希紗の体も、両手で握り締めたノアも、赤黒く染まっていた。恐る恐る頭上に目を向けた希紗は、唇を震わせて言葉を失う。
「っ、あ……あ……!」
ショーケースの土台を掴み、両膝をついて、男が希紗を覆うようにして瓦礫の山を支えていた。その脇腹から、割れたステンドグラスの先端が飛び出している。
傷口から止まらない血が、延々と二人の足下に泥濘みを作り続ける。
「うそ、なんで……っ、れいと、澪斗ぉ!」
遼平がようやく最後の壁材を押し退けたことで、解放された澪斗の上半身が力なく崩れていく。背中から無数のガラス片を生やした彼の体を抱き留め、希紗は何度も名前を呼んだ。
しなやかなシルエットに反して、力尽きた肉体は硬く、重い。衝撃で飛ばされたのか眼鏡は無く、僅かに開いた口から血が漏れている。
引き離そうとする遼平の手を払い、希紗は子供のように泣きじゃくった。
「れいと、だめ、しなないで……うぅっ、れいとぉ……!」
淡い若葉色をしていた髪は、血でくすんでしまった。長く綺麗な形をしていた指は、ガラスに肉を抉られている。いつだって冷たくて、気高くて、真っ直ぐだった瞳は、もう開いてくれない。
ぐしゃぐしゃの顔を男の頭にすり寄せて、希紗は「どうして」と繰り返す。
ホール外周にいた澪斗であれば、ダーツが落下してきたところでの迎撃が可能だったはずだ。そうすれば、ホールに直撃することは避けられた。爆風の影響で、真下にいた希紗はどのみち助からなかったかもしれないが。
他人を等しく見下し、唯我独尊を地で行く彼が、どうしてこんな似合わない真似をしたのかが分からない。身を挺して誰かを護るだなんて、らしくないことを。
希紗の問いに、男は答えない。が、代わりに。
「……はな、せ、首を絞めるな……助けられておきながら、トドメを刺しにくる、とは、いい度胸だな貴様……!」
心臓が飛び出るほど驚いて、希紗は縋り付いていた首元から体を離す。やはり死人然とした顔色のままだが、薄らと開いた瞳は確実に怒っていた。
「れっ、とっ……良かった、生きてた……うぅあああ澪斗おおぉ」
「勝手に殺すな……貴様は、眼球まで不良品か……」
「だってこれどう見ても手遅れじゃない! 惨殺死体じゃない! っていうか澪斗死んでたもんっ、絶対三秒くらい死んでたもんばかぁー!」
大口を開けてわんわん泣く希紗をどうにかしたくとも、今の澪斗では指一本動かせない。背後に立っていた遼平に目をやり、「こいつをどけろ」と視線だけで伝えるが、同僚はニヤニヤと面白そうに見物するばかり。
「揃いも揃って、役立たず共め……。希紗、いつまで手を休めているつもりだ、仕事に戻れ」
「現時点で一番役に立たなくなったのはお前だけどな」
「蒼波は帰っていいぞ、森にな」
まだ脇腹を異物が貫通しているというのに、減らず口だけは事欠かないあたり、遼平と似たもの同士と言えるかもしれない。いま本人に伝えたらうっかり憤死しそうなので、その所見は希紗の心にしまっておくが。
希紗は澪斗の体を慎重に支え、背中に浅く刺さったガラス片を取り除くと、ショーケースの土台に寄りかかれる体勢にする。余計なお世話だと言わんばかりの険しい目つきが、今だけは無性に嬉しくて。
「……なんで、ここまでして私を助けてくれたの?」
「は? 何故も何も、貴様が『爆弾を飛ばしてきたら、いっそ全員道連れにしてやる』だのと脅迫したではないか」
「いや、あれは言葉の綾っていうかー……」
どうやら本気で信じていたらしく、「まさか俺を騙したのではあるまいな……!」とわなわな震える彼を落ち着かせようと「う、ううん本当! マジで全人類を地獄に落とそうと思ってました!」魔王のような台詞を吐いてしまった。
どうしようもなく他人に無関心なくせに、呆れるほど馬鹿真面目で、律儀で、誰よりも真っ直ぐで。いつも無口で反応なんかしてくれないのに、しっかりこちらの言葉を受け止めていたりする。
希紗はようやく合点がいった。
部長に『皆を連れての撤退』を任されたから、彼はその条件を満たす為、希紗のみならず全員の命を護ろうとしたのだ。
……本当に、なんて融通が利かない
そんな面倒で、分かりにくくて、単純な彼だからこそ、もう四年も追っかけているのだけれど。
「まったく……、これでは貴様らの首をくくって連行できんではないか」
「それじゃあ、あちらさんに泣いて尻尾を巻いてもらおうじゃないの」
亀裂が走ってしまったショーケースを睨み上げ、腰の工具差しから新しいニッパーを取り出す。
じきに、残り時間が五分を切る。未だ何十と絡み合っているコードのせいで、爆破装置本体にも触れられていないというのにだ。
それでも希紗の表情に迷いは無く、恐れも無く、諦めなどあろうはずもない。
誰よりも早く駆け出し、身を挺してくれた彼のように。
彼女の背中もまた、仲間の命を預かり戦っているのだから。
「フフッ、アハハハハハハ! いや堪らないね、君の凡庸な絶望は!」
「……な、んで」
刀を支えに膝をついていた真は、崩落した中央ホールを見つめ、呆然と呟いた。敵が目の前にいるというのに、放心した眼は光を失い、嗄れた喉からはそれ以上の言葉が出てこない。
「言っただろう? 君のような人間は、絶望で取り囲んでから死ぬのが最も美しい! フフ、たかが警備員のくせに守護者を気取って、その実は部下一人も救えないときた。そう、全ては君が悪いのだよ。私には分かる、君たちはこれまで多くの命を奪ってきた側だろう。それなのに今になって護るだなんて、性に合わないことをするからさ!」
真はゆっくりと地面へ視線を落とし、項垂れる。顔を上げられないのは、怪我のせいではない。肉体のダメージなど掠り傷程度に思えるほど、両肩に重くのし掛かる呪詛と、後悔。
この
死ぬことも、
遼平や澪斗も、おそらくは似たようなものだろう。
純也を除く四人はそれぞれ、社長によって集められたはみ出し者だ。協調性も正義感も無いが、前科だけは売るほど有る。
壊し、奪い、傷つけ、殺めて、いくつもの光を踏みにじってきた。
そんな自分たちが警備員を名乗る様は、破壊屋からすれば滑稽以外の何物でもないのだ。それぞれの狂気を押し殺し、適材適所の正反対を行った上に、互いが足枷となって本来の力を発揮できない。
結果、何一つ護れないまま惨めに屈する自分たちが――
「……うるせぇな」
不機嫌なテノールが、真のすぐ後ろから聞こえた。声の主を思い出すより早く、跪いていた背中を蹴り飛ばされて、部長は「べへっ」ともう何度目か分からない園芸土を味わう。
「ぼさっとしてんじゃねえよ。俺たちの誰か一人でも、お前に『護ってくれ』なんざ頼んだことがあるか? 違ぇだろ。依頼を死んでも守るのが俺たちだろーがよ」
地面からぽかんとした顔を上げれば、横に立つのは煙草へ火をつけている遼平だ。肺いっぱいに紫煙を取り込みながら、彼の据わった眼はずっとルインだけに向けられていた。
「嗚呼、遼平君! 良かったよ、君だけはどうしても、私が直接壊したかったんだ。こんな素晴らしい夜なのに、タイムリミットが設けられているなんて酷い童話のようだね。ガラスの火炎瓶を落としていけば、私を見つけ出してくれるかい?」
「ンな物騒なシンデレラ、誰が探すか。大体テメェが時限爆弾なんて用意したのが、そもそもの原因だろうが」
呑気に一服しているようにしか見えないのに、男の佇まいには死角が無い。張り詰めた殺気は破裂寸前で、互いが一挙一動に神経を研ぎ澄ませ、相手の喉笛を裂く筋道を模索し合っている。
向こうも己と全く同じことを考えているのだと、何故だか確信できてしまう。その事実に、ルインは胸が躍る。遼平は反吐が出る。
「……遼平。間に合うと思うか」
「アイツなら問題ねぇよ、それよか俺たちだ」
咥えていた煙草を右手の指に挟み、ニコチンを風に乗せる。戦線復帰を装ってはいるが、ここまで歩いてこれただけで奇跡のようなものなのだ。リミッターを完全解除する前に真が止めてくれたとはいえ、利き腕である左の拳はもうまともに上がらない。
真も顔の右半分を覆う火傷と、失い続けている血液のせいで、動きは鈍くなるばかりだ。破壊屋側とて既に満身創痍に見えるが、それを差し引いても、二人だけでは押し切れまい。
大きくよろめきながらもなんとか立ち上がった真は、刀についた血と泥を払い、両手で柄を握り締める。普段は己の体の延長でしかない鋼が、今はこんなにも重い。カタカタと震えてしまう切っ先を、歯を食い縛って抑える。
遼平は火をつけたばかりの煙草を、勿体なさそうに一瞥してから、背後に投げ捨てた。
微かな赤を明滅させながら、放物線を描いて落ちていく燃えさしが、地に着くと同時に。
警備員二人が、示し合わせたように左右へ跳んだ。
どちらを狙うべきか、という判断の時間は破壊屋に与えない。ルインを挟み込む位置で、二人はそれぞれ必殺の構えをとる。
一瞬でも迷えば即死、片方を迎撃したところで刺し違え。そんな選択肢を計算する間すら許さず、二人分の殺意が襲い来る。
結局、破壊屋は選べなかった。
故に、二人とも迎撃することにした。
どちらの男とも視線を合わさないまま、両腕を左右に広げて、一矢ずつ。至近距離で発生した爆炎が、ルイン自身の両手を焼く。
サラウンドで聞こえる苦痛の叫びに、自らも炎に巻かれながら哄笑する様は、磔刑を楽しむ魔女のそれだ。
響き渡る歓喜を、一発の銃声が穿つ。
高笑いの口のまま、目を見開いたルインは、自身の右肩に空いた穴を不思議そうに見下ろす。
次いで頬、太股を実弾に抉られたが、急所は寸でのところで外れた。ルインが躱したというよりも、照準がぶれたのだ。
「……チィッ」
「澪斗っ」
「非常事態だ、今くらい耳を塞いで我慢しろ!」
『鮮血の星』の土台にもたれ込んだ体勢で、曲げた膝を二脚代わりにして両手を乗せ、回転式拳銃の引き金を絞る。狙いが定まっていないことは重々承知の上で、弾倉が許す限りの連射。発砲の反動の度に、脇腹を貫くガラス片が傷口を広げ、唇の端から血が噴き出す。
先程の衝撃でノアが再起不能になってしまった今、彼の手元にある唯一にして本来の武器。よく手入れされた旧式のコルト・パイソンは重く、鋭く、敵と使い手の命を等しく削る。
「ふ、フフ、今になって連携の真似事かな? 苦し紛れの即興としては良い線をいっていたけれど、しかし遅すぎたね」
地に伏してとうとう動かなくなった真を見下ろして、ルインは嘲笑う。ホール側からの銃声も止み、再装填もできず大きく血を吐いた狙撃手に、少女の悲鳴が聞こえる。
人の丈ほどの炎が立ちのぼる、一面の煉獄じみた焦土。そんな中でただ一人起き上がり、天に向かって吼える彼こそ、まさしく
だが虚しいかな、警備員側にとって最大のアドバンテージであった人数の差は、とうとう破壊屋と同じにまで縮まってしまった。独り残った遼平がどれだけ粘ったところで、戦力も時間も足らずにゲームオーバーだ。
「……遅すぎたのはテメェの方だぜ、ルイン」
周りを炎で覆われ、荒い息で肩を上下させているにもかかわらず、鬼が嗤う。血と汗でしな垂れた前髪の隙間から、完全に獲物を捉えた獣の眼が光る。
四方から火の壁が迫り、勢いを増していくこの絶望的な状況下で、何故――
「ん?」
とうに焦土であるのに、火勢が増している?
まさか、とルインが空を仰ぐと、突如としてそこに太陽が現れた。遼平のすぐ頭上に浮かんだ巨大な火球は、闇夜を焼き払わんとばかりに、更に膨れ上がっていく。
「炎がテメェの専売特許だって、誰が決めたよ?」
「いや、遼が扱ってるわけでもないけどね?」
目の眩む火球の下で、それを片手で掲げるように立っていたのは、ひとりの少年だった。
焼け爛れた制服も、流れた血の跡もあの時のままであるというのに、傷口はほぼ塞がりかけている。それも人工的な治療によるものではなく、あたかも自然治癒したような姿でだ。
「種火に俺の吸い殻使ってんだから、半分は俺の技みてぇなモンだろ」
「これで五割持ってっちゃうんだ……」
伸ばした右手の先、球状に渦巻く風の中心に浮かんでいる燃えさしを見上げて、純也は苦笑う。
今や火球だけでなく四方の炎壁も、気流ごと少年のコントロール下にあった。部長ら三人の連携が目的としていたのは、破壊屋の首を取ることではなく、ただ『純也の接近を気付かせないこと』それだけだったのだ。
加えて、より正しく言うなれば。
「俺たちゃこれでも、ずっと連携してたんだぜ? テメェが、コイツを完全に
「もっと早く復帰できていれば良かったんだけど……ごめん」
「いいじゃねーか、間に合ったんだしよ」
ルインは目を、そして耳を疑った。あの少年を生死の境に突き落としてから、まだ三十分と経っていない。人智を遙かに越えた再生スピードで蘇った上で、あれは「もっと早く」などと言い放ったのだ。
「君、は、何なんだ」
心からの問いを投げかけながら、同時に、脳裏に浮かんだ呼び名を既に確信していた。
――化け物。
先程は戯れと皮肉を込めて向けた言葉が、いま初めて真実味を帯びる。
子供らしからぬ知識と、身体能力。風を操る特異な技。そして異常すぎる自然治癒速度。どこをとってもヒトらしからぬ、少年の姿を模した化け物ではないか。
「僕は……純也です。たとえそれ以前に、化け物だったとしても。この力で大切な人たちを護れるのなら、僕は化け物を受け入れる」
空からの息吹が炎を強め、温められた空気が更に気流を生む。循環する度に力を増し続け、文字通り純也の追い風となって、見る見る内に少年の肌を修復していく。
純也の風に関する力は「燃費が悪く、連続して使用できない」というデメリットの反面、「自然風を浴びることで、力を取り戻すことができる」さながら自家発電じみた特性がある。急速再生もその延長らしいのだが、当人すら理屈が分かっていないため、本当に復活できる保証はどこにも無かった。
万が一、部長ですら敵を止められなかった場合の、最後の保険。その為に必要な初手なのだと説得することで、真は渋々、この作戦を承認してくれた。
純也は安らかに瞳を閉じ、両手を太陽に掲げる。
奥の手と呼ぶにはあまりに分の悪い賭けを信じて、道を切り開いてくれた仲間たちを想う。
直径三メートル強にまで膨張した火球から、紅炎が噴き上がり、帯状に伸びて頭上を覆っていく。四方の炎壁と、灼熱の天蓋で逃げ場を奪うつもりなのだ。
少年の狙いに気付き、破壊屋は僅かな夜空の隙間へと跳び上がった。ぎりぎりで包囲網を脱出できるはずだった痩躯は、しかし猛火の奥から獅子の如くタックルしてきた男に阻まれ、地に叩き付けられる。
仰向けになったルインに馬乗りになり、両手を顔の横で押さえて、身動きをとらせず無力化させる。だがこの体勢では、これ以上打つ手が無いのは遼平も同じだ。
完全に密閉されてしまった煉獄の外から、ほとんど悲鳴じみた少年の呼び声がする。「いいからこのまま、弱めんな!」と叫ぶ男の額にはびっしりと汗が浮かび、薄い酸素に息が荒くなる。
爆薬使いとは、誰よりも火の扱いを心得ていながら、同時に火が致命的な弱点である手合いだ。あたかも無尽蔵に爆弾を取り出せるということは、それだけ大量のストックを忍ばせているということ。もしそれらに引火する事態になれば、一瞬にして自身が灰となってしまう。
炎によって動きを封じれば、これ以上の破壊行為は止められると純也は考えていた。
だが遼平は違う。たかが退路を断たれた程度で、降伏するような部類ではないのだ、これは。
「テメェは自滅させられるくらいなら、火だるまになっても突っ込んで巻き添えにしてくるタイプだろ」
「どうしてそう思うのかな」
「俺だったらそうする」
「成る程」
仕方なさそうに笑って、ルインは真上の位置にある遼平の顔をまじまじと見つめる。業火を背にした彼の眼差しは真剣そのものだ。徐々に激しく、耳朶を焼く風の唸り声。
まるで終わる世界に二人きりのようだと、女神は口元を緩めた。
「……参ったね。私と心中でもしてくれるのかい」
「それでテメェが満足するなら、悪くねぇかもな」
「ああ。まったくもって、悪くない」僅かに肩をすくめるジェスチャーをして、ルインは両手の指を、男の指へと絡ませる。互いに、捕らえた相手を逃がすまいとする体勢ながら、それはあたかも睦言を交わす恋人同士のように。
「……ガキの頃から、人間が嫌いだった。憎くて、吐き気がして、片っ端から潰したくなる。今でも」
「うん」
「そのくせ俺自身も人間だってのが、一番ムカつくんだよな。初めから身も心も化け物として生まれてたら……いっそ生まれてこなければ、こんなに苦しくなかったのに」
「うん」
自分でも何故こんな話が口から出るのか分からないまま、誰にも伝えたことのなかった吐露を、遼平は続ける。ルインは半生を共にした片割れのような眼差しで、静かに相づちを打つ。
「壊してきたんだ、本当に、たくさんのものを。失いたくなかったのに、大事にするつもりだったのに、気付いたら俺の手が壊してた」
「仕方ないさ、それが私たちの宿命だもの。君のせいじゃない。君は間違っていない」
それはかつて幼かった遼平が、ずっと欲しかった言葉。侮蔑の目、嘲笑の声、振り下ろされる暴力の中で、いつしか望むことすら忘れてしまった温もり。
思わず揺らぎそうになる心に自らかぶりを振って、男は痺れる両手に力を込め直す。
「……これまで散々壊して、奪って、裏切って、捨てられて、失いきってきた。他の奴らも。だからこそ、今度こそ、俺たちは《護る》ことを選んだ」
逆巻く天の炎はもうすぐそこまで迫っており、遼平の背中をじわじわと炙る。この体勢では先に身を焼かれるのは警備員の方だが、それでも彼は手を離すまい。
肺を侵す熱気のせいか、ルインの胸は焦げついたように痛む。前髪同士が触れ合いそうな程に近くなった彼の瞳は、夜の水底のように深く、寂しかった。
「それが手遅れだろうが場違いだろうが、たとえ不可能だとしても、何一つ知ったことじゃねぇよ。俺たちは護っていくと決めた。そう望んだ。――この社会には化け物の数だけ欲望があって、希望がある。そんな奴らの想いを護る為に、俺たちLose Keeperは在る」
その覚悟がいかに矛盾したものであるかは、男自身が最も知っていた。人間が憎いと言っておきながら、身を挺して他者を護ろうとしている。どちらの心も真実であるが故に、彼は苦悩し続けている。
ああ、とようやくルインは得心した。酸素の欠乏した頭でぼんやりと、まどろむように紡ぐ。
「……きみは。だれかに、護ってほしかったのだね」
見開かれた漆黒に、一瞬だけ、孤独な少年の面影が過ぎった。けれどそれはきっと、この地獄が見せた陽炎だ。
口角を引き上げ、切れ長の眼を細めて「そうかもな」と笑う相貌にはもう、未練など無かったから。
「誰も望んでねえのに生まれちまった時点で、そんな資格は無かったのにな。その俺に出来ることなんざ、高が知れてンだけどよ……せめて目の前で泣いてる奴くらい、繋いだ手ぐらいは、何があっても何をしてでも護ってみせる。だから――」
祈るように瞼を閉じて、男は身を屈める。互いの額が付くと、熱い呼気のみならず、相手の心拍すら伝わってきそうだ。
霞む意識の中、破壊屋は思った。
――まるで、泣いているのは彼の方だと。
遼平は言葉の続きを躊躇い、呑み込み、おもむろに上半身を仰け反らせると。
女神の額に、強烈なヘッドバットをかました。
鈍器で殴り殺したような痛々しい音が響き、一テンポ遅れてルインの全身から力が抜ける。
「……よしッ、勝った! おい終わったぞ純也、火ィ消せ! クソ熱い!!」
炎壁の向こうにいたせいで中の様子が全く分からなかった純也は、急いで風を止めて鎮火させる。何故か額からダラダラと血を流している遼平がガッツポーズをしており、ルインはすっかり地に伸びていた。
「遼、大丈夫っ? 一体何が……」
「おう、頭突きで倒した」
「頭突きで!?」
うつ伏せの姿勢から顔だけ上げられた部長が、「頭突きて……あれだけやっといて決まり手が頭突きて……!」と息も絶え絶えに吐いた後、再びガックリと力尽きる。
「うっせーな、どんな手を使っても勝ちゃあいいんだよ、勝てば!」
『やめてよ戦いの後にそういう台詞っ、私たちが悪役みたいじゃない!』
「僕てっきり、遼は説得するつもりなんだと思ってて……」
「いやコイツどう考えても手遅れだろ。世の中所詮、力こそ全てだぞ純也」
『まったく、失うもの(脳細胞)が無い人間は強いな……』
「小声聞こえてんぞ紫牙ッ、もう一回プレスされてぇかゴラァ!」
ホールに向かって中指を立てる遼平に、よたよたとした足取りで純也が駆け寄ってくる。恐る恐るルインを覗き見て、失神しているだけと分かり、そこでようやく胸をなで下ろした。
少年は「目に血が入っちゃうよ」と遼平にハンカチを手渡すと、倒れた部長を担いで中央ホールを目指していった。
狂気と殺意が焼きついていた大地に、一陣の風が吹き抜ける。涼やかに、軽やかに、燻ることも許さず熱を攫っていく。またすぐに左胸の奥が渇き始めて、遼平は思わず、ルインへと振り向いた。
この仕事を続けている限り、遼平の渇きも飢えも、永遠に満たされることはないだろう。そうしていつの日か必ず、後悔と虚しさに埋もれて独り死ぬのだ。
それでも。
「遼? みんな呼んでるよ、りょうー」
「わぁってるよ、一服ぐらいさせろっつの」
ポケットに手を突っ込んで踵を返すと、こちらを不安げに見やっていた蒼穹色と視線が合う。
無条件に世界全てを愛する、生まれたての赤子のような澄んだ瞳。あれが不幸に曇らぬよう、護ることが出来たなら。
この先に待つどんな罰も破滅も、何も拒む理由はないと、男は思った。
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