【第四項】弊社が命に替えて護ります。
第四項(1)
「僕たちが来る、遙か前。美術館を建設し始めた時から、向こうの計画は進んでいたんだ」
日が落ちるや否や押し寄せた夜で、あっという間に館内は闇へと沈み込む。
非常灯以外の光源が無い通路に、響く足音は二つだけ。
「米田さんは特に熱心に、美術館のプロジェクトに参加してたって言ってた。彼女の本来の役割は、建設時に代々木さん側の工作員を紛れ込ませることだったんだと思う」
「っつーことは何か、この美術館自体、そもそも敵が造ったようなモンか」
珍しい、遼平の深い溜息が隣から聞こえた。「じゃあ、俺たちゃ今まで一体何を守ってたんだよ」馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりの感想をこぼしつつ、彼も事の深刻さを察し始めている。
「僕らはずっと、敵の口の中にいたも同然だった。いつ丸呑みされてもおかしくない場所で、何も気付かずに」
「どうしようもねえじゃねーか」
「そうだね。僕らが到着した時には、とっくに詰んでたんだよ」
言いながら、二人は脚を止めない。互いの表情は見えないが、今更確認する必要も無かった。
電気室の発火装置は、建設時から組み込まれていたに違いない。希紗がどんなに監視映像を遡ったところで、カメラを設置する前の犯行など分かるはずがなかった。
頭上から微かな羽音がして、ひとひらの黒が舞い降りてくる。遼平の肩に留まった一匹の蝙蝠が、耳元でチィチィと鳴いた。
宋兵衛からであろう、伝達役の言葉に数度頷いて、男は黒の翼を宙へ返す。
「希紗たちの仕事は一通り終わったみてぇだな、周辺に人影は無くなったってよ。それと――この先に、いる」
「うん」
「危ねぇから、宋兵衛たちには帰るよう言っといたぜ」「ありがとう」人払い、及び蝙蝠払いも終わって、弱々しい安堵を浮かべたのも一瞬。
正面にそびえる両扉を見据えて、小さな肺いっぱいに空気を吸い込み、吐き切る。金の取っ手を握り締め、緊張感ごと押し返すように、純也は扉を開け放った。
中央ホールは、深海の如き冷気で満たされていた。
空調ではない。外気でもない。ただただ、ホール中心に立つ影から放たれている、純然たる殺気によって、だ。
僅かでも気を抜けば、息は止まり、足先から這い上がる悪寒で膝をつきそうになる。これ程までに凄絶な、重力にも等しい威圧感を纏っておきながら、向こうの佇まいは静かなものだった。
「美術展を台無しにできる一番の方法は……館内で最も価値のあるものを、奪うこと」
喉を締め上げようとする冷気に抗うように、純也はそう口にした。
――それは、極めて単純な話。
他の美術品全てをかき集めたところで敵わない、巨額の逸品。一週間借り受けただけで数億という、六グラムの芸術遺産。『鮮血の星』さえ奪ってしまえば、美術展はおろか、宮友グループ全体が大損害を被るのだ。
ホール中心に見える華奢な影は、こちらに背を向けたまま、目の前のショーケースを眺めている。
分厚い強化ガラスの奥の『鮮血の星』は、全ての照明が落ちた暗がりでも尚、貪欲なまでに紅色の光を伸ばす。まるで暗黒の宇宙にぽつんと浮かぶ、孤独な星だ。
ドーム状の屋根を支える柱は、神々の姿を模していて。一様に感情の消えた顔で、孤独な惑星を見下ろしている。昼間の聖堂じみた華々しさとは一転し、この光景自体が最後の審判のように荘厳で、息苦しい。
「……『鮮血の星』。内紛によって国を、妻子を、自身の両目すらも奪われた細工師ラシッド・ジブリールが、文字通りの心血を注いで生み出し、息絶えた作品」
朗々と、詩歌の如く穏やかに、そのアルトはホールに響いた。
後ろ姿の影は、ショーケースにそっと白磁の手を乗せると、振り向かずに続ける。
「『未来永劫、我らが血に染まる大地に祝福を!』そう呪いを遺してこの世を去ったそうだけれど……ふむ。やはり三流の芸術家だけあって、作品も逸話も実に陳腐だね」
言って、影はくるりと身を翻し、警備員二人を視界に捉える。
しかし全身を黒のコートで覆い、目深にフードをかぶっているせいで、純也たちからは弧を描いた唇しかはっきり見えるものがない。
何か強烈な既視感が、遼平を襲った。訳も分からないまま、己の鼓動が速まっていくのを感じる。
「だからせめて、舞台くらいは立派に演出してあげようと思ってさ。墓標、と言った方が日本語として正しいのかな? 私が一から設計したこのホールはお気に召したかい、警備員諸君」
そこで、純也の頬から血の気が引く。初めて聞く声、初めて見る顔。けれど少年は既に会っている。純也らしからぬ、理屈でない直感が、震える唇を開かせた。
「あなたは……初日の会場に居た……?」
「フフ、その節はどうも。小さなボディーガード。前座にしてもあまりに退屈な催しだったものだから、少しちょっかいを出したくなってね」
「あと五分でも茶番が続くようなら、いっそあの場で全て壊してしまおうかと思っていたくらいさ」何でもない世間話をするようなトーンで、影は肩をすくめる。
立てこもり未遂の騒動があった、オープニングイベントの直前。あの時、犯人に近づこうとしていた純也に助けられた――否、あえて邪魔をした喪服の貴婦人。
関係者席付近にいたので、開館にあたって何らかの貢献をした人物だろうとは思っていた。が、まさか中央ホールの設計者……それも敵からの刺客だったなんて。
「失礼、挨拶が遅れたね。私は『破壊屋』ルイン、見ての通り
掲げた右手で指を鳴らすと、ホール中のスポットライトが灯る。
突然の光に晒され、警備員たちの目が眩む。その隙にルインが左腕を背中に回そうとしていることを先読みして、純也は咄嗟に、遼平を扉から外へ突き飛ばした。
「じゅんっ――」
いきなり体当たりしてきた少年に戸惑い、それでも遼平は純也へ手を伸ばそうとする。
あと少しで小さな指先を掴めたはずの左手は、直後床から噴き上がった爆炎の壁に阻まれた。
大地を割る轟音。遼平の体を軽々と吹き飛ばす衝撃波。赤と黒が交互に明滅して、廊下に叩きつけられた頭から意識が遠のきかける。
円形ホールの縁に沿って仕掛けられていた爆薬が、さながら地雷の如き威力で天井まで炸裂した。『鮮血の星』と破壊屋を除く、ホール内の全てが、一瞬にして地獄絵図に塗り替えられる。
砕けた大理石、積み上がる瓦礫に、立ちこめる黒煙。そんな中、先程の位置から微動だにしていないルインの、フードだけが爆風に煽られて降りていた。
露わになった瞳は、冷たい月の銀。腰まで流れるゴールデンブロンドの髪は星々を宿したように煌めき、華奢な体を包み込む。微笑む口元は美の女神、爛々と殺意を放つ視線は雄々しい軍神。
女性とも、男性ともつかない中性的な神々しさをもって、破壊屋は嗤う。
「フフ、より戦力になる方を残したか。悪くない判断だ。その賢明さを讃えて、まずは君から仕上げてあげよう」
爆発に諸に巻き込まれ、倒れ伏した純也へ、影が音もなく歩み寄る。床で身動きできずにいる少年は制服も焼け落ち、新雪色の肌は爛れており、もはや息をしているかどうかも怪しい。
ルインは長い腕を伸ばすと、少年の喉を掴んで軽々と持ち上げ、高く掲げる。びくん、と一度純也の体が痙攣して、酸素を求める咳と共に血を吐いた。
「はな、せ……今すぐ純也からその手を離せッ、テメエェェ!」
廊下でうつ伏せになっていた姿勢から即時、遼平は四肢で床を蹴り、獣の俊敏さでもって一直線に駆ける。ホール中心部まで二秒とかからない瞬発力で、三秒目にはあの石膏じみた横っ面を殴り倒している――はず、だった。
雄叫びを上げながら向かってくる殺意の塊に、ルインは左目だけでちらりと一瞥すると。目を細め、唇を弧に引き上げて、微笑んだのだ。
刹那、男は踏み込もうとしていた右足の力を、寸でのところで逆向きに転換。後方へ飛び退く。バックステップに切り替えた遼平の鼻先を、再び床から現れた爆炎が掠めた。
学習ではなく直感のみで、第二の地雷を回避した遼平は、炎の向こうの破壊屋を憎悪の限りに睨む。
「りょう……にげ、て……」
ほとんど呼気に近い声量で、けれど確かに。遼平の聴覚がそれを聞き逃すはずはない。
首を締め上げられていた純也が、焼け爛れた両手でルインの腕を掴み返し、なんとか確保できた気道で振り絞る。
「今、だけ……ここは、ぼくが……だからっ――あとはお願い、りょう」
「よせっ、純也ぁ!」
今度は遼平が駆け出す間も与えず、暴風によって視界を塞がれる。破壊屋の、炎を孕んだ爆風ではない。無秩序の凄まじい気流が、上下左右の区別なくホール内を暴れ回る。
「う、あっ、アアあぁぁあアァあ!!」
あらん限りの力でもって風を呼び寄せた少年から、喉の張り裂ける叫びが放たれる。一切の加減無く、自らの肉体を燃料として捧げることで生み出される制御不能の嵐だ。脳の血管、内臓、脊髄に至るまで、純也のあらゆる細胞が食い破られていく。己の中に棲まう、異形の力に。
ルインの黒いヒールが大理石にめり込むが、純也を締め上げたままの腕は離そうとしない。しかし、元より少年の狙いは破壊屋本人ではなかった。
ホール内で縦横無尽にとぐろを巻く風の龍は、容易に瓦礫片を持ち上げ、そして床に降らせていく。小規模な流星群によって次々とクレーターが発生し、埋められていた地雷が起爆する。この世の終わりもかくやという光景に、壁まで吹き飛ばされた遼平はただ、少年の名前を呼ぶことしかできない。
「……嗚呼。なんて哀れな」
台風の目の中で、破壊屋はぽつりと、そう呟いた。つんざく暴風も、乱れる髪すらも意に介さず、自身の右腕が吊し上げている少年を嘲笑う。
「彼の戦いを妨げる障害を取り除く、ただその為に命を燃やそうというのかね? 君、それは実に美しくないよ。何故なら――君のような化け物ごとき、それっぽっちの価値も無いからさ!」
ルインは右手の力を更に込め、少年の悲鳴すら握り潰した。抵抗していた両腕は力なく落ち、天を仰いだ小さな首の、青い瞳がくすむ。
不可思議な嵐にも何ら動じない女神は、左手で彫刻用ナイフを取り出す。鼻歌混じりで器用に刃先を回し、純也の腹部を抉り取ろうとした、その時だ。
上空からの突風に乗った、巨大な黒い翼が、滑空の勢いのままルインを蹴り飛ばしたのは。
破壊屋の痩身が、反対側の壁にめり込むまでに吹っ飛ばされる。代わりに廃墟の中心に降り立ち、少年を抱きかかえているのは、背に悪魔の翼を生やした男。
「……っ、あぁ、なるほど君か……」
得心の声と共に、ルインの口からごぽりと赤が落ちる。
一対の巨大な翼に見えた飛膜は、蝙蝠の群れが重なり合って作り上げたもの。役目を終えた黒は散り散りに宙を舞い、男を守るように取り囲む。
蒼波、遼平。
東京の裏社会に属する者で、その名を知らない人間はまずいない。
漆黒よりも昏い紺の髪。光を知らない奈落の瞳。三年前、たった一人で街ひとつを崩壊まで追いやったという《
「報告で聞いてはいたけれど……そうか、君がそうなのか……!」
ルインは壁に埋もれたまま、口内の血にも構わず、銀の瞳を輝かせる。対する遼平はというと、破壊屋には目もくれず、じっと腕の中の純也を見つめていた。
煤と血で汚された少年の顔に生気は無く、かろうじて鳴っている心拍は、遼平の聴覚でも薄らとしか拾えない。閉じられた瞼から伝う涙の跡は、少年が最後に何を想っていたかを如実に物語っていた。
沸々と込み上げる怒りが、後悔が、遼平の奥歯を削る。純也の傍にいると、独りにしないなどとのたまっておきながら、このざまだ。
遼平の背中に張り付くことで、翼の接合部となっていた宋兵衛が、男の肩に飛び移る。黙り込んでいる契約者に代わり、少年の容態を見て低く唸った。
『おい小僧。……このちび助、長くは保たねぇぞ』
『わぁってる。悪ぃがコイツをどこか安全な、風通しのいい場所に運んでくれ。ここからは俺が、やる』
『あと今度こそお前ら帰れよ。急に助けに来やがって、ビビるじゃねーか』『おっ、俺様は帰るっつったのに、子分共がオメーが危ねぇって喚くもんだから! 仕方なくだぞべらぼうめ!』超音波を更に上ずらせて、大型蝙蝠は反論する。
あの暴風の中、老体に鞭を打ち、真っ先に遼平のもとへ。言葉も交わさないまま男の意思を汲み取り、契約者は背中を支え飛んでくれた。
そんな宋兵衛と、群れの仲間たちは、遼平にとって盟約以上の関係だ。
だからこそ、彼らを危険に晒したくない。
蝙蝠は何か言いたげに渋面をつくるも、諦めて鼻を鳴らした。宋兵衛の忠告を一々聞き入れるような性格だったなら、こんな図体ばかりの悪餓鬼には育っていない。
『……みっともねえ犬死にしやがったら、ただじゃおかねぇぞ』
それだけ耳元に残すと、群れ全体で純也の体を攫うようにして、宋兵衛は後方へ退がっていった。少年を抱えていた両腕はその重みから解放されたが、深く傷ついたまま気を失った白い相貌が、遼平の瞼の裏に焼き付いて離れない。
よりにもよって。
『化け物』という言葉は、純也の最も深く柔らかい場所を、幾重にも切り刻むものなのに。
「ふざけんな。あんなチビで、泣き虫で、大食らいで、よく笑うただのガキが、化け物なもんかよ。いいか、本当の化け物ってのはな――」
男が何気なく踏み出した左足によって、床に亀裂が走り円形に窪む。ばきり、と鳴ったのは彼自身の大腿骨だ。
己の脚が悲鳴を放つまでに込められた力で水平に跳び、残像を見る間すら与えず、ルインの眼前で拳を振り上げる。
「――俺みてぇのを言うんだよ」
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