第三項(3)

 依頼六日目。

 芳春の曙に浸る間もなく、美術館敷地内には次々と業者の車両が到着する。

 緊急メンテナンスの休館日でありながら、あるいは普段以上に、館内は関係者で騒がしくなっていた。

 その様子を全画面でチェックしている監視室も、緊張感で張り詰めている――かと思いきや。


「なんでやねん……あちこちで土下座して帰ってきたら、なんか秘書の人捕まえてるし……黒幕はやっぱり代々木会長とか言い出すし……なんで誰も相談、っちゅーか共有すらしてくれんの……上司やのにっ、ワイ上司やのにぃ!」


 部屋の隅で泣いていじけている部長と、それを必死に慰める少年の姿があった。


「ごっ、ごめんね真君っ、昨晩は色々余裕がなくて、つい忘れちゃってたっていうか……!」

「どぉせワイなんて名ばかり上司とか、ゴマ粒以下の存在感とかみんな思てるんやろォ知ってるぅぅ」

「ほう、自己分析だけは優秀ではないか真」

「朝からグダグダうるせぇぞゴマ粒」


 床に水たまりを作る勢いで泣き崩れ、希紗には「いい加減うっさいんだけど!」とディスプレイから振り返りもせず背中だけで一喝される始末。


「ったく、監視に集中できないでしょうが! 純くん、悪いけど友里依ゆりえさんに繋ぐから、それ適当にどうにかしてもらって」


 上司を「それ」呼ばわりしながら希紗が渡してきた携帯は、既にコールを始めていた。まだ早朝ということもあり、しばらく呼び出し音が続いてから、やがて「ふぁい、もしもしぃ?」と半覚醒状態の声が返ってくる。


「こんな時間にすみません、純也です。実は、今ちょっと真君が……」

『もしかしてぇ、またメンタルがキャパオーバーしちゃった感じ? ありがと純ちゃん、シンっちに代わって』


 流石と言うのか、彼の伴侶だけあって友里依の飲み込みは早い。年齢は希紗と大差ない若さだが、こと男の扱いという点において、友里依の右に出る女性を純也は知らない。

 三角座りのまま拗ねている真に、「友里依さんだよ」と声をかけると、夫の眼はそれだけで光を取り戻した。


「ユリリンっ、ユリリーン! あのな、みんながな…………うん、ぐすっ……」


 そこから面倒臭い上司は嫁セラピーに任せることにして、部下はそれぞれ一日の予定表を確認する。純也の名前は、今から仮眠の欄にあった。


「今日はいたる所に点検の作業員がいるから、その中を巡回、っていうか怪しい動きの人物がいないか監視ね。スパイが会長秘書に潜り込んでいたくらいだもの、あらゆる立場の人間を疑ってかかるべきだと思うわ」


「やはりあの秘書を尋問して吐かせた方が、最も効率が良いのではないか」

「ううん、僕は違うと思う」


 はっきり首を振った純也に、澪斗は片眉を寄せて見下ろす。遼平と同じく長身の部類に入る彼に対して、少年は真っ直ぐ視線を合わせた。


「この期に及んで、『手荒なことはやめてほしい』などと甘えた考えを抜かすのではなかろうな」

「それは……そういう気持ちは無いって言ったら、嘘になるけど。でも違うんだ。理由はちゃんと、別にある」


 スカイブルーの真剣な瞳に、澪斗は一度「ふん」と鼻を鳴らす。そこから黙って壁にもたれ、腕を組んだ姿勢は、彼なりの『話を続けろ』という意思表示だと解釈する。


「米田さんを問い詰めても……仮に、代々木会長に証拠を突きつけられたとしても。今更で一連の計画が止まるとは、とても思えないんだ。代々木さんは異常なほど決意の固い人だって、宮友会長は言ってた。それこそ、自身が破滅したとしても止められないような絶対的な奥の手が、既に放たれている。僕は、そう考えてる」


「……元凶を断つにはとうに手遅れで、俺たちは水際でそれを防ぐしかない。そういうことか」

「うん。希紗ちゃん、米田さんの経歴について、どこまで分かった?」


 監視を一時的にAIに任せた希紗が、振り向きざまにパッド型端末を差し出してくる。疲れで両目を充血させながらも、彼女の表情は誇らしげだ。

 画面には米田秘書の表向きの経歴から、あの強襲屋――『軍隊蟻』という名らしい――での仕事ぶりまでが羅列されていた。


「ふふふん、私、情報屋の素質もあったみたい。自分の多才ぶりに、我ながら震えが止まらないわ!」

「……純也。睡眠不足がもたらす弊害に、痙攣の症状があるのか?」

「どうだろう、貧血からくる体温低下かも……?」

「とりあえず一回寝ろよ希紗」

「いや病気とかじゃないから!」


 不審げな顔つきを並べる男たちの前で、ポニーテールが怒りにぴょんぴょん跳ねる。空元気だとしても、まだ当分は大丈夫そうだ。


「米田凛子、って名前は偽名だったの。宮友グループへの入社は二年半ほど前。それより昔から強襲屋に所属していたようだし、今回の一件の為に潜伏していた、ってところかしら」

「二年以上もかけてか。気の長い話だな」

「その代々木ってジジイは、そうまでして『鮮血の星』を手に入れたいのかよ?」


 手近にあったパイプ椅子に逆向きで座り、遼平はあくびを零す。どのみち敵の狙いなど知ったことではなく、現職を『来た奴をぶん殴るだけの簡単な仕事』としか認識していない遼平にとって、別に知りたい疑問でもなかったが。

 純也は白髪をふるふると揺らし、「違うよ、遼」と律儀に答えてくる。


「『鮮血の星』が目的だったなら、奪いやすい方法は他にいくらでもあった。初日からの……嫌がらせ程度のものから、直接的な襲撃まで、手口こそバラバラだったけど最終的な狙いは一つ。――それだけだったんだ」


「しかし、動機が見えんな。そんなことをして、代々木コーポレーションに一体何の得がある?」

「それは……まだ分からないけど」


 そこを考える為にもう少し時間がほしい、と少年は神妙な顔をする。が、そこで背後から首根っこを掴まれ持ち上げられたせいで、途端に生まれたての子犬じみた光景になった。


「なら、考え事は布団の中でやっとけ。俺たちゃ仮眠の時間だ」

「いやでも、まだ……。わっ、分かったから下ろしてっ、自分で歩くからぁ!」


 ばたつかせた四肢の抵抗も空しく、遼平に片腕一本でぶら下げられた格好のまま、純也は仮眠室へと運ばれていく。

 監視室を出る直前、壁際で「ユリリン好き……めっちゃ好きぃ……」と嫁の尊さにひれ伏す上司が見えたので、彼のストレスケアももう心配要らないようだ。あれはあれで、手の施しようが無いとも言えるけれど。


「みんな、何かあったらすぐに呼んでねっ」

「交代の時間前に起こしたら殺すぞ」


 そう正反対のメッセージを残し、でこぼこ兄弟は隣室の扉に消えていった。希紗は監視画面に、澪斗は巡回の準備にと、各々の仕事を始め出す。

 誰もが――あの遼平ですら、直感的に――確信していた。

 敵は必ず、今日の内に仕掛けてくると。


「ありがとうユリリン……ワイこの仕事が終わったらユリリンと結婚するんや……!」

「あ、これ死ぬやつよね」

「重婚になるぞ」


 ただでさえの不運体質に、自ら呪いを重ねがけしていく上司を見やる部下たちの表情は、既にお通夜のそれだった。



     ◆ ◆ ◆



 警備員たちの危惧に反して、館内の点検作業は何事も無く終わった。

 どの業者からの報告も、判を押したように「異常なし」。先程、希紗から無線で『全ての作業員が撤収した』と聞いた時は、思わず安堵したものだ。


「でも……」


 ただの通路と呼ぶにはあまりに幅がありすぎる、本館二階。沈みかけの太陽が、最期の力を振り絞ったかのような鮮烈な橙を射し込んでくる。

 吐息に疑念を混ぜて声にしたのは、一人ぽつんと佇む少年。

 見渡す限りに人の気配は無く、あるのは静寂と、胸のざわつきだけ。

 純也が担当する時間は終わっており、加えて言えば、ここは今日の巡回ルートでもない。


 ……何か、大事なことを見落としてしまった気がする。

 その落とし物を探す為、純也は初日からの自身の足取りを、再度辿ってみることにしたのだ。

 ここを訪れたのは、昨日の午後。この二十四時間の内に色々とありすぎて、なんだかもうずっと前のことのように思える。

 人混みの中で偶然、李淵とぶつかり、話を聞こうとカフェテラスへ移動した。そこで――


「迷子センターはこっちじゃねえぞ、チビ」

「うわぁっ」


 すぐ背後からの声に、驚き跳び上がる。完全に不意をつかれて胸を押さえている純也を、不機嫌な切れ長の目が見下ろしていた。


「いきなり後ろから現れないでよ、遼」

「じゃあ次は上から降ってくりゃいいのか」

「ごめん後ろでお願いします」


 「下も?」「下も」彼なら本当に天井を突き破りかねないので、Z軸からの登場は心底ご遠慮願いたい。

 遼平は相も変わらず制服を着崩していて、ネクタイは巻いてすらいない。注意したところで、「今日は客もいねぇしいいだろ」などと屁理屈をこねるのは目に見えているが。


「どうしたの、巡回の時間は終わったのに」

「その言葉、そっくりお前にも返るだろうが。また一人でウロチョロしやがって」

「いや、僕は気になることがあったから……。そういえば遼、昨日も突然カフェテラスに来たけど、なんで?」


 李淵から話を聞く為に、純也は本来のルートを逸れて、カフェテラスの一席にいた。あの時、別館を見回っていたはずの遼平があそこに現れるのは完全に予想外だった。


「あぁ? そりゃ、煙草吸えんのはここの喫煙室だけだしよ。ンで、二階からお前の声が聞こえたから……」

「心配して、見に来てくれたの?」

「べっ、別に心配なんざしてねーけど!」

「あ、もしかして今も?」

「違ぇーしッ」


 ふふ、とおかしそうに笑う純也に、遼平はむきになって否定する。

 事実、彼は心配などと思ってはいなかった。ただ少年の声を聞き取って、なんとなく気になったから、なんとなく足を向けただけ。それを「心配」と呼ぶことを、本人がまだ知らないだけで。


「大体アレだぞ、『どこにもいかないで遼~そばにいてぇ~』ってピーピー泣いてたのはどこのチビだと思ってんだ!」

「そっ、そんなの二年も前の話じゃん!」


 声帯模写の無駄遣いで再現される自身の台詞に、今度は少年の方が真っ赤になって抗議する。純也にとってはもう遠い過去だが、遼平から見れば当時も今もさほど変わらない。


 純也を拾ったばかりの頃。それまで人の世話を焼く経験など一度も無かった男は、幾度となく失敗し、居候を泣かせた。コンビニ弁当を買って戻れば泣いていたし、仕事から帰宅しただけで泣かれた。

 涙で顔をぐしゃぐしゃにした幼子が、男に縋りついて振り絞った小さな願い。そこでようやく遼平は、己が為すべきただ一つの責任を知る。

 ――何があっても、傍に。取った少年の手を、決して離してはいけないと。



「……で。今度は何が気になるってんだよ」

「えっと……昨日ここでリンリンと出会って、そうだ、ちょうど遼と一緒に話を聞いて……あの時、何かが引っかかったんだけど」


 李淵の狙いが『鮮血の星』なのでは、という当初の勘ぐりは、いま思えば全くの見当違いだった。そも黒幕の狙いは、『美術展を台無しにする』という大々的かつ身も蓋も無いものだったのだから。


「なんで……違うな、……? 向こうは、どうやってイベントを徹底的に潰す気なんだろう」

「デマ流したりスタッフを襲ったりよー、やり方がチマチマまだるっこいよな。俺だったら一番デケェところを、一発ドーンとぶっ壊しゃあ清々するぜ」

「え……?」


 青の瞳を見開いて、純也は男の顔を凝視する。「いま、なんて……?」と聞き返す声は掠れ、確信と悪寒に唇が震えていた。

 ――やっと、繋がった。

 パズルのピースは綺麗に組み上がり、そこに描かれていた途方も無い悪意が露わになる。

 タネは、はじめから。全てが始まる前から、警備員たちは目を奪われていたのだと。


「あ、あぁ……そうか、リンリンの言った通りだったんだ……どうしてもっと早く……ううん、無理だ、こんなのどうしようもない……!」


 恐怖で崩れ落ちそうになる体を、必死に支える。それでも目尻には大粒の涙が浮かんでしまい、整理できない思考のせいで瞳孔は不安定に揺れる。


「っ、とにかく、僕は確かめに行かなきゃ……! 遼は急いで監視室に戻って、館内の人を全員避難させて! 希紗ちゃんに分析を頼まないと、それから――!」


「……おいコラ。なに勝手にテンパってんだ、落ち着け」

「ふひゃっ」


 独り言をまくし立てながら、今にも駆け出してしまいそうな純也の。その真っ白な頬を、男の指が両側から引っ張る。

 大福餅の如くよく伸びた顔で「いひゃいよっ、はにゃひて!」と憤慨するものだから、「俺に分かるように説明しねぇお前が悪い」と意地悪く笑って、指を離した。

 そうして空いた左手を、少年の髪に乗せて。


「ま、面倒臭ぇ話は全部終わってからでいいわ。何だか知らんが、俺も連れてけ。一人でウロチョロすんなって、言ったばっかだろうが」

「でも、これはまだ僕の憶測でしかないから……それに、本当にそうだとしたら、すごく危険な場所で……」

「なら尚更だっつの」


 白銀の髪に置いていた大きな手のひらで、ぐっと少年の頭を掴み、俯いていた顔を上げさせる。未だ震えていた青が、恐れを知らない黒の眼とかち合う。


「約束したろ。お前がビビることなんざ何もねぇんだ、俺が、最後まで付き合ってやるんだからよ」


 二年前に交わした、最後のための、最初の約束。

 わざわざ思い返すまでもなく、あの時の小指の温かさは、昨日のことのように鮮明だ。


「……うん。ありがとう、遼」


 制服の裾で目元を拭い、いま出来る精一杯の笑みを返してみる。覚悟を決めるにはそれで充分で、純也は確かな足取りで、本館の奥へと歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る