第三項(2)
オーナー室に戻ってきた秘書の姿を見て、宮友会長は心を痛めた。
表情こそ普段通りを装ってはいるが、火傷した左腕はギプスで吊っており、歩き方もどこかぎこちない。
「巻き込んでしまってすまなかったのぅ。無理はせず、まだ病院で休んだ方が……」
「ご心配をお掛けして申し訳御座いません、会長。ですが、どうしても館内のことが気がかりで」
「うむ、うむ。私も今後について話がしたかったところじゃよ。さぁ、お掛けなさい」
「いえ、大丈夫です」とデスクに向かって進んでこようとした米田秘書を、手で制する。「いかんよ、座っておくれ」ゆるゆると首を振りながら、上司は彼女がソファに座るまで、決して話を始めようとはしなかった。
観念した部下がようやく細い体をソファに収めてくれたので、そこで少しだけ、会長の表情に安堵が浮かぶ。
「君が地下から搬送されたと聞いた時は、心臓が止まるかと思ったよ。来場者に怪我人が出なかったとはいえ、君を含め六人ものスタッフが被害を受けてしまった……」
「まさか設備を爆破されるなんて、想定できないことです。オープニングイベントは……どうなるのでしょう? 明後日に予定していた、イベント最終日の催しは、いかが致しますか?」
不安げに眉根を寄せた部下の視線を受けて、デスクに肘を置いた会長は「うぅむ」と唸る。
「明日の全館点検で異常が見つからなければ、予定通り行いたいと思っておる。が、何よりも優先すべきは来場者・関係者の身の安全じゃ。それが確実に保証できない限り、再開は難しい――弱ったのう」
しかも、借り物である『鮮血の星』はどのみち期間内に返却しなければならない。『鮮血の星』が目玉であるイベントは延期できず、中止扱いになってしまうのだ。協賛企業や広告費などの影響は計り知れない。
「明日の点検については、建設と整備に携わった全ての関係者を招集しておきました。今夜中から準備を進めておりますので、明日の夕方には終わるかと」
「おぉ、そんな怪我なのに悪いのぅ。流石じゃ」
「有り難う御座います。ですが、それでも本当に安全と言えるかどうか……」
秘書が言わんとする懸念は分かる。今回火災が発生した電気室にしても、充分に整備をし、裏社会の警備員を雇ってまで監視させていたのに、事件は起きてしまったのだ。
「イベントは中止せざるを得んか……。すまんのぅ米田くん、君は特段、このプロジェクトに熱心に尽くしてくれたのに」
「はい……。今回のイベントは残念でしたが、この反省を今後の美術館運営に活かして――」
「初めから、それが目的だったんですね?」
どこからともなく聞こえてきたアルトは、あどけなくも冷静で。微かに悲しみすら滲ませながら、こう続けた。
「米田さん。あなたがクィーンの正体です」
驚き目を見開いて、咄嗟に立ち上がった秘書は、きょろきょろと周囲を見回す。「あ、ごめんなさい。ここです、ここ」ごそごそと物音がしたと思うと、宮友会長がチェアーを引いたことで、オーナーデスクの足下から少年が這って現れたではないか。
青の制服を纏った小さな警備員は、米田と向き合って表情を引き締める。が、頭頂部に乗ったままの綿埃のせいでイマイチ緊張感がない。
「宮友会長には事前に許可をとって、お話を聞かせてもらいました」
「は、はぁ……。あの、何です? 『クィーン』とは」
「夕方の侵入者さんたちを、裏で指揮していた人物です。僕も初めは、監視室をジャックしたハッカーさんが、クィーンだったんだと思っていました。でも、それだとおかしな点がある」
きっかけは小さくて、けれど決定的な違和感。別行動をとっていた同僚それぞれの話を聞いて、全ての事柄を俯瞰した時、純也の脳裏に一つの疑問が浮かび上がった。
「僕と遼は一階の搬入口で、真君は地下で、到着からほとんど時間を置かずして敵に見つかりました。この時点で既に監視カメラが乗っ取られていたのであれば、確かに僕たちの動きは筒抜けだったでしょう」
「それの、どこがおかしいのですか?」
「何故か、一人だけが何の妨害も受けずに監視室に到着できたことです。澪君は特別なルートを通ったわけではなく、ただ誰よりも先に監視室へ走った――それだけだったのに」
緊急アラートを聞いた直後。上司の判断を仰ぐどころか途中で無線を切って、行き先を告げる間すら無駄とばかりに動き出した彼。瞬時に監視室に狙いを定めた判断は間違っていなかったが、そのせいで半泣きになっていた上司を、宮友会長も直に見ている。
そう。
「情報源は、監視カメラじゃなかった。このオーナー室で、真君が話していた指示を、そのまま彼らに伝えただけだったんです。米田さん、あなたが」
ここまで真顔を保っていた秘書の頬が、僅かに強ばる。
そこで一つ間を置いた純也は、むしろ米田に弁解してほしいような、切実な瞳でじっと彼女を見つめていた。
「……電気室に仕掛けておいた装置の起爆スイッチを入れたのも、米田さんですよね。たぶん、強襲作戦が失敗した時の保険として。スタッフに被害が及べば、宮友会長もイベントを断念せざるを得ないと」
「そんな……自ら怪我を負ってまでかね? どうしてそこまで……」
「そうです、私にはそんなことをする理由がありません。会長にも宮友グループにも、何の恨みだって――」
「はい、無いと思います。だってあなたは初めから、代々木コーポレーションのスパイとして潜り込んでいたんですから」
項垂れるように弱々しく、純也は首を振る。「僕らと同じ、裏側の人間。強いて理由を挙げるとするなら、それはプロとしての矜持ですよね」クィーンは、任務を失敗した部下に、自爆じみた攻撃を命じる指揮者だ。必要とあらば自身の命ですら同じことをやりかねない人物だと、推測はしていた。
「……結局また、状況証拠ではないですか。あなた方はどうあっても、代々木会長を黒幕にしたいようですが」
「もちろん、物理的な証拠もあります。付け加えると、『
「はい?」
徐々に苛立ちを隠さなくなってきた秘書の視線が、険しくなる。それに怯えるでもなく、身構えるでもなく、少年は淡々と続けていく。
「さっき僕が、『オーナー室からの指示』を敵に漏らしたのが米田さんだと名指しした時――それが事実でなかったなら――あなたは自然と、こう反論できたはずなんです。『その時、部屋には代々木会長もいた』と」
自分に容疑をかけられているのにもかかわらず、どうしてその指摘をしなかったか。彼女が弁解できなかった沈黙が、何より『代々木に疑いを向けさせることのできない立場にある』という証左だった。
「……最後に。クィーンとして指示を出していた連絡用の端末を、米田さんはまだ持っているはずです。あなたが体を張って逃がした彼らが、本当に全員撤収できたかどうか、確認するためにも肌身離さず。だから……」
そこで最も重要なラストを言い淀んで、純也は再び、彼女に縋るような眼を向ける。
今になってようやく、米田は理解した。
この少年は初めから。トドメを刺す寸前の、今に至るまで。
女の無実を、あるいは罪の懺悔を、心から望んでいるのだと。
「……。身体検査でしたら、この場でして頂いても構いません。どうぞ、煮るなり焼くなり――」
「えっ、まま待ってくださいここではちょっと!?」
おもむろにジャケットのボタンを外し始めた彼女に、純也は慌てふためく。その分かりやすい虚をついて、米田が裏地から取り出したのは拳銃だった。
少年が会長を押し飛ばしたのと、マズルフラッシュはほぼ同時。
片腕のせいで狙いの定まらなかった弾丸が窓を撃ち抜いた直後、米田は踵を返し、オーナー室を飛び出していった。
「会長っ、お怪我はありませんか!?」
「いやぁ驚いて腰が抜けてしまったが、これくらい細か……あれ、立てんのぅ。ちょっと細かくないかも」
身を丸めた宮友会長を急いで抱き上げて、ソファまで運ぶ。そのまま会長の腰の様子を診察し始めた純也に、逃げた犯人を追う気配はまるで無い。
たぶん、もう必要が無いのだ。
廊下の先で、「逃げられるワケねーだろうがぁ!」という悪役じみた高笑いと、短い悲鳴が聞こえたから。
いざという時の為、遼平には廊下で待機してもらっていたのだが、そういえば「やりすぎないで」と釘を刺すのを忘れていた。
やっぱり追う必要があるかもしれない、と純也は心配げに扉を見やる。
「希紗ちゃん、聞こえる? こっちは予定通り済んだよ、今から遼がそっちに米田さんを連れて行くから。詳しい話、は、今ちょっと聞ける状態じゃないかもだけど……」
バキリ、ずしん、ポキッと続いていた破砕音もやがて止んで、廊下は不気味なほど静かになる。「純也くん、怪我人にあまり無体なことは……」「もっ、もちろん配慮してますのでっ」少年はこれ以上無い嘘をついた。
ソファに横たえられたまま、宮友会長は長い息を吐く。骨の浮き上がった喉から漏れる空気は頼りなく、瞼を降ろした顔は疲労で翳る。
「会長、ご協力頂きありがとうございました。それと、すみませんでした……」
「米田くんから話を聞き出したい、と頼まれた時はどういうことかと思ったが、まさかのぅ。しかし君が謝ることは一つもなかろう。全ては、私の目が行き届いていなかったせいじゃ」
必死にかぶりを振る少年を、老爺は優しい瞳で見やる。そこから目線を天井へ持って行き、少し考える風にして続けた。
「これにて一件落着……というわけにも、いかんのじゃろうなぁ。何か気掛かりのある顔をしておるね」
小さく肩を動揺させて、純也は「いや、その」と口ごもる。「推測でも構わんよ、君の考えを聞かせておくれ」寝台で物語を乞う子供のようなトーンとは裏腹に、会長の表情は真剣そのものだった。
「まだ……いくつかの疑問が残っているんです。会長秘書の米田さんだって、そう簡単に電気室に侵入できたはずはない。イベントの中間である今日、直接的な襲撃を仕掛けてきた意味。もしかしたら、まだ何か……誰かが……」
徐々に独白じみた声量になっていく、思考の断片。パズルのピースは既に出揃っていて、あと少しで真相に届く。酷く、嫌な予感のする真実に。
「……小太郎は。代々木小太郎とはな、幼少の頃からの友なんじゃ」
そう切り出した会長に、純也はハッと顔を上げる。老人の心境を想像して、少年の青い瞳は今にも泣きそうに歪む。が、会長の眼差しには確固たる鋭さと決意が宿っていた。
「故に小太郎のことは、私が誰よりも知っておる。
宮友会長は上半身を起こし、居ずまいを正す。眼前の警備員としっかり目を合わせてから、深々と頭を垂れた。
「どうか、何としてでもこの美術展を護ってほしい。君たちこそ、私の初手にして切り札、最後の砦なのだから」
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