第二項(3)

「あァ、状況は分かった。遼平と純也はそのまま一階の関係者通路、および搬入口を抑えてくれ。澪斗は……へ? ちょっ、待てって、人の話を聞けェ!」


 オーナー室の隅で「あーもー!」と涙声を上げた警備員に、皆の視線が集まる。

 真が無線を切ったタイミングを見計らって、宮友会長が声をかけた。


「何かあったのかのぅ?」

「はい。おそらく地下エリアに、侵入者です」

「なんだと。宮友、来場者を避難させた方が良いのではないか?」


 ふぅむ、と顎髭に手をやって、雇い主は細めた片目を警備員に向ける。


「霧辺くん。私たちには構わず、君も現場に向かいなさい。お客様の心身を一切害さずに、じゃ。君たちなら出来るじゃろう?」


 あくまで穏やかなままの会長の言葉は、けれど「はい」以外の返事も結果も認めない強さがあった。

 だがもしも、侵入者の目的が宮友会長自身であったら。そんな、真の一瞬の逡巡も見抜いて、老爺は微笑んだ。


「心配は要らんよ。そんじょそこらのネズミなら、小太郎のドラミング一つで逃げ出すわい」

「俺はゴリラか何かか」


 短く嘆息した代々木会長も、旧友の意見には賛成らしい。「騒ぎが収まるまで、この部屋にいよう」と腕を組む。

 オーナー室があるのは本館三階だ。一階から侵入してきたのであれば、わざわざ地下に向かったところを見るに、狙いが会長の身柄である可能性は確かに低い。

 であれば、侵入者の目的は何か。

 地下エリアは完全に関係者のみが使用している場所で、あるのはせいぜいスタッフの作業室、展示品の倉庫、電気室といった裏方ばかり――。


 真はその場で二秒考え、結論を出すと、「失礼します」とだけ言い残して即座に部屋を出る。扉だけは丁寧に閉めて、すぐさま廊下の絨毯を蹴り、階段へと。

 羽織った褐色のコートがはためく速度で、男はほとんど飛び降りるように地下に向かっていった。



     ◆ ◆ ◆



 一階搬入口に到着してすぐ、純也は異変に気付いた。

 中型トラックが一台停まっており、荷台のドアは開いている。にもかかわらず、運転手どころか、運搬作業をするスタッフの姿さえ見当たらない。

 静まりかえった搬入口に遼平が一歩、踏み込もうとした時、純也は弾かれたように「待って!」と男の腕を引いた。

 微かに、遼平の鼻先をツンとした刺激臭が掠る。


「こいつは……」

「催眠ガスだと思う。いま、消すね」


 純也はきゅっと口を真一文字にすると、右手を空間に突き出す。人差し指だけ内側に曲げて、それを親指で押さえるようにした。

 目をつむり、大動脈から毛細血管の先まで、体中の血が導火線となって一ヶ所に集うイメージをする。沸き起こる熱の起爆地点は右腕、人差し指、その爪の先。

 ぺちっ、と。

 ただのデコピンにしか見えない動作の直後、少年の前にあった空気が唸りを上げ、渦を巻いて搬入口の外へと吹き飛んでいった。突如現れ、そして消滅した小型トルネードによって、空間からガスの臭いが消え去る。


 額から流れた汗を拭いながら、遼平に「もう入っても大丈夫だよ」と告げる。少年の力に今更驚きもしない男は、「おう」とだけ返してトラックに近づいていった。

 遼平自身が『あらゆる音を使いこなす』なんて特異な体質であるためか、純也の『風を自在に操れる』謎の能力も、男は深く考えていない。

 けれど純也本人は、原理不明の力を宿した体に「自分は本当に人間なのか」と幾度も悩み、恐れてきた。ヒトとして生まれ育った根拠を抱きたくとも、頼りの脳は記憶喪失ときている。


 見知らぬ広い世界に、見慣れぬ空っぽな自分。

 あの冬。

 見渡す限り真っ白で。怖くて。虚しくて。寂しくて。

 二つの脚で立てる力もなくて、ただただうずくまって泣いていた小さな化け物に、彼は手を差し伸べてくれた。


『――最後まで、俺がお前の傍にいる。もう、何にも怯えなくていい』


 そう、言って。不器用に頭を撫でてくれた硬い手は、とても温かかったから。

 特殊な力のために警察を頼れないとか、公に親元を探せないとか、そんなものはあくまで建前だ。

 人間離れした少年を受け入れてくれる仲間がいる。縁もゆかりもないのに、「兄弟だ」とまで偽ってくれる人が、すぐ傍にいる。それだけで、これ以上の幸福を知らない自分には充分だ。


「おい純也、何ぼーっとしてんだ。人に注意しといて、自分はガス吸っちまったんじゃねえだろうな」

「あ……ごめん、僕は大丈夫だよ」

「なら早く来い。これ、見てみろよ」


 遼平が顎で示した先が見えるように、小走りで彼のもとに向かう。運ばれてきた荷物を一度降ろす場所に、備品の詰まった段ボール箱がまだ山になっていた。

 そんな段ボールの陰に隠すようにして、幾人もの美術館スタッフが横たえられている。

 純也は慌てて駆け寄って、全員の脈を確認する。目立った外傷は無いが、揺さぶって声をかけても意識が戻る気配はない。

 少年が彼らを診ている内に、周辺を探っていた遼平が、手のひらサイズの細い缶を拾って戻ってくると。


「どうやら、の奴らの犯行臭ぇな」

「うん。あのトラックの荷台に人を乗せてきたんだとしたら、二十人はいるね」

「ハッ、たったそれっぽっちかよ。虫ですら一匹見たら三十匹、っつーのによ」


 機動隊で使われる催眠ガスのグレネードを適当に投げ捨てて、遼平は薄手の黒いグローブをはめる。愉快そうに引き上げた口元は、捕食者のそれだ。

 ここに常駐していた表社会の警備員も夢の中なので、純也は彼の持ち物から搬入口専用のカードキーを拝借。外との境にある重厚なシャッターを降ろして、とりあえず逃げ口を塞いでおいた。


「侵入してきた人たちの現在地、わかる?」

「ちょっと待ってろ」


 遼平は膝をつき、床に耳朶を押しつけて眼を細める。今も美術館内にひしめく客の足音が地割れのように響く中で、意図的に気配を殺している忍び足を探し当てるのだ。滝壺に落ちた一本の針の音を拾う方が、まだ易しいだろう。

 にもかかわらず、遼平は五秒と置かない内にすっくと立ち上がり、凶暴な笑みを深くした。


「ごめん、必要なかったみたい」

「いいじゃねえか。こっちから行く手間が省けたぜ」


 自分たちが来た入り口に、二人の視線が向けられた。直後。

 両扉は一瞬で蜂の巣になり、全身武装した複数の影が突入してくる。各々の手に自動式拳銃、サブマシンガン、ベルトにはコンバットナイフまで下げており、さながら戦地の特殊部隊だ。


 敵の照準が定まる前に、遼平は真っ直ぐ飛びかかり、一人目のヘルメットを側面から強打する。軽々と吹っ飛び壁に激突した体は、痙攣する間もなく動かなくなった。

 まさか素手で襲いかかってくるとは夢にも思っていなかったのだろう、銃火器を構えていた彼らの判断が瞬間遅れる。その一秒にも満たない硬直は、遼平にとって、二人目の顎を蹴り上げるのに充分すぎる時間だった。


 侵入者たちは一様に、後方に飛び退きながら遼平へ狙いを合わせようとする。うち一人が、着地した先で何かにぶつかった。思わず半分振り返ると、視界の下に白い毛のようなものが見えた気がして――そこで、男の天地は裏返る。

 相手の腕を掴んで一本背負いにした純也は、昏倒した侵入者が握り締めていたマシンガンを手に取る。と、クッキーでも割るような気軽さで、銃口をぱきっとへし折ったではないか。


「遼、あんまりやり過ぎちゃダメだからね。それとそのタキシード! レンタルなんだから大切に扱ってよ!」

「あー、銃声がうるさくて聞こえねぇなぁ!」

「うわぁ絶対嘘……」


 言っているそばから、遼平は銃弾が掠るのにも構わず真正面から敵に殴りかかっている。背広に穴が空こうが、肉を抉られようが、男が攻撃の手を緩めることはない。むしろ血を流し、血を浴びるほど、その笑みは濃くなるばかりだ。


 今日まで暴れられなかったフラストレーションが、相当溜まっていたのだろう。巡回も監視もろくに出来ない遼平が、曲がりなりにも警備員という職を続けてこられたのは、ひとえに彼がだからだ。

 相手の武器のリーチや、数の戦力差、そういった誰もが無意識にでも計算してしまうものを、遼平は一切考慮しない。故に策は無く、恐れも無く、ただただ圧倒的な暴力でもってねじ伏せる。


 そうして遼平が本能のままに暴れ、叫び、敵の注意を引いている隙に、純也が死角から技をかけて気絶させていく。人体の構造を理解しているからなのか、純也の投げ技、絞め技には無駄がなく、過剰に力を込めることもない。

 ちょこまかと、かつ的確に戦闘不能者を生み出している子供を止めようと、侵入者の一人が遼平に背を向けたが最後。落雷の如き踵落としが後頭部に直撃して、砕け割れたヘルメットと共に床に伸びた。


「見たか! 俺の必殺、デスボンバー爆死キック!」

「死が多すぎて回文みたいになってるよ遼」


 本当に必殺になっていないか、純也は念のため倒れた男の心音を確認する。どうやら脳震盪を起こしているだけのようだが、もしヘルメットをしていなければ致命傷になっていたのは間違いない。残りの人数も少ないし、あとは遼平に任せて、自分は倒れている人たちの介抱に回ろうかと考えていた時。

 突然、純也の脇にあった中型トラックが爆発した。否、正確にはのだ。


 衝撃風だけでいとも簡単に吹き飛ばされた純也の体を、咄嗟に遼平が掴む。そのまま二人で後方に転がり、男の背中がシャッターにぶつかったことで勢いが止まった。

 遼平に抱えられた体勢のまま、状況を確認した純也は、言葉を失う。

 入り口のところで膝をつき、こちらに照準を定めているのは、対戦車用のバズーカではないか。流石にそんな装備は想定外だ。


 ロケット弾を撃ち込まれたトラックの荷台は当然大破しており、まだちらちらと炎も残っている。即座にガソリンに引火しなかったのは奇跡だが、もはやいつ炎上してもおかしくない。

 侵入者たちにとっては逃走用でもあったはずのトラックを、自ら破壊してしまった。それが意味する事態に、少年は青ざめる。


「やめてください! 撃たないで! 僕たちは降伏します、だからっ」


 痛切な声で両手を挙げる子供を視界に捉えながら、彼らは二発目を装填した。

 全て壊す気なのだ。敵も味方も、自身でさえも諸共に。

 作戦失敗と見て、彼らはプランを変更した。あるいは、そう命令されてしまった。

 こんな狭い場所で二発目を撃ち込めば、漏れ始めたガソリンに確実に引火する。そうなれば搬入口のみならず、上階まで一瞬で炎が吹き上がりかねない。


 相手の意志が変わらないことを悟り、純也は降ろした拳にぐっと力を込める。普段ならそれだけで風が集まり始めるのだが、シャッターを閉めてしまったせいで、室内に気流が作れない。

 ようやく立ち上がってきた遼平に、純也は後ろ手である物を押しつける。


「……遼。それでシャッターを開けて」


 手渡されたのは、先程のカードキーだ。それを一瞥して、男は少年の狙いを理解する。


「やれんのか?」

「やらなきゃ」

「だな」


 遼平はカードキーを握り締め、口の端を引き上げた。「任せとけ」と言い放ち、シャッター扉に向き直ると。


「うをらあぁッ!」


 分厚いシャッターにねじ込むようなアッパーを喰らわせ、大きく歪ませると、次いで左脚の回し蹴りで綺麗に吹っ飛ばした。

 目の前で突然、物理法則と常識を蹴り飛ばした男に、全員が唖然とする。


「いやそういう開け方じゃないよ!?」

「えっ」


 「他にどうやって!?」という顔をする男に、純也の集中力が乱されてしまった、その隙をつかれた。

 引き金にかかっていた指に力が込められ、ロケット弾が射出される。


 純也は床を蹴り、自ら弾頭との距離を詰めた。外から不自然になだれ込む突風がロケット弾を押し返し、宙で制止させる。だが所詮は気流、このままのバランスは保てない。

 突き出した左手で突風を呼び寄せながら、降ろした右手には違う力を溜める。

 心臓は今にも肋骨を突き破りそうなほど暴れ、煮立つ毛細血管のせいで脳は溶けそうだ。


 ぷつり。

 一本の糸が切れるように不意に、そして静かに、全ての風が消える。

 少年の鼻先まで迫ったロケット弾が、胴の部分でズレたかと思うと、何かに両断されて床に転がり落ちた。全てが止まってしまった世界で、この世のものとは思えない滑らかな断面を晒した兵器だけが、無念そうに煙を上げている。


 超局所的に気圧を変化させる純也の力は、最大限までエネルギーを圧縮することで、真空までも生み出すことができる。狙ったポイントに真空の空間を出現させ、気圧差によって一瞬で切り裂く――古来「鎌いたち」と呼ばれていた現象を応用し強化した、見えない一閃だ。

 真空の影響で、純也の足下に這い寄っていた残り火も消え去り、時間まで消失してしまったかのような錯覚に陥る。そんな、完全に理解が追いつかなくなってしまった侵入者に、頭上から大きな影が降った。


 先程の騒々しさとは一転、音も無く振り下ろされた拳は、しなやかな獣のように。タキシードの男が視界に入り、衝撃が脳天を穿ち、膝から崩れた頃にようやく、破壊音が辺り一面に響き渡った。

 本能的に逃げようとした最後の一人を、遼平は長い腕ひとつで捕まえると、襟を掴んだまま床に叩きつける。

 背骨を強打し、呼吸ができず喘いでいる男のヘルメットを、乱暴に剥がす。恐怖と痛みで涙目は充血し、口からは泡を吹いていた。そんな相手に馬乗りになり、いつでも絞め殺せる体勢で喉仏を押さえている遼平の目は、どこまでも昏い。


「答えろ。テメェらの依頼主は誰だ」

「おおっ、おれは知らな――ひぎぃ!」


 射貫くように見据えたまま、遼平の右手が、男の指先を叩き潰した。


「安心しろ、殺しはしねえ。答えるまで、壊すだけだ。……頭と口さえ残ってりゃ、喋れるだろ?」

「待っ、やめっ、あああぁあ!!」


 言って、ストローか何かのような気安さで、男の右脚をあらぬ方向へ折り曲げる。「やめてくれ」という張り裂けそうな嘆願が、鼓膜を震わせる度に、遼平の恍惚とした笑みは深くなる。

 殺しはしないと言ったものの、正直なところ遼平は、人間が体のどこをどうされたら死ぬのかがよく分かっていない。なのでうっかり死んでしまうかもしれないが、その時はその時だ。


 男の悲鳴がこだまする程に甘美に痺れていく脳は、とっくに目的を忘れている。右手から伝わる、肉を潰し骨を砕く繊細な快感。抑えられていた破壊衝動が、下腹部からゾクゾクと熱を持って込み上げる。

 そこで遼平の聴覚は、男の左胸で音を立てている臓器に気付く。


「……なんだ、ここ、まだ元気そうじゃねえかよ」


 熱い吐息を漏らしながら、ソレを取り出そうと爪を立てた遼平の腕は、背後から何者かに掴まれ阻止された。


「だめ、りょう、それ以上は、ほんとうに……っ」


 男の右腕に抱きつくようにして止めていたのは、困憊した少年だった。


 魔法じみた力とて、純也も無制限に風を使役できるわけではない。代償として急激に熱量カロリーを奪われるらしく、「加減を間違えれば最悪、衰弱死だぞ」と掛かりつけ医にも釘を刺されている。

 限界寸前まで能力を使ってしまった後は、指一本だって動かすのがつらいはずなのに。額にはびっしりと汗が浮かび、蒼白になった顔で、懸命に首を横に振っている。遼平の真っ暗な眼を見つめて、潤んだ空色が振り絞る。


「お願い、遼――」


 そこでとうとう気力が尽きてしまった純也は、ずるずると床にくずおれていく。純也の頭が床を打つ前に、遼平は左腕を伸ばし、あまりにも軽い体を抱き留める。意識を失っても尚、少年の指先は弱々しく男の袖を掴んでいた。


 目尻に涙を溜めた小さな顔を見下ろして、遼平は長く重い溜息を落とす。先程までの、熱病に似た視界は醒め、胸の内側が急速にまた渇いていく。

 遼平ならば片腕だけでも担げる子供の体躯を背負い、男は立ち上がりながら。


「純也、しっかりしろ。ったく、今は病院にかかれねぇってのに……」


 どうすんだよ、と続けようとした遼平の言葉を、『ぐるぎゅぎゅぎゅう』などという名状しがたい怪音が遮る。それも、背負っている純也の腹部から。

 当の本人は気絶しているというのに、実際の口よりも正直に物を言うそれは。


「……おいそこのお前。答えろ。この近くに安い定食屋ねぇか」

「こ、国道沿いに一軒……」

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