第二項(2)
本館南側の庭園を一望できる、二階のカフェテラス。
春の快晴にパラソルを広げ、優雅に語らう客たちから少し距離を置いて、一席だけが異様な空気に包まれていた。
死刑を言い渡された被告人の顔色で震える男と、その向かいで困り果てている少年。そしてテーブルの上には何故か、トイレットペーパーが一つ。
取り調べのような雰囲気にしたくなくてこの場所を選んだのに、純也の思惑に反して、相手はちょっと目を離したらテラスから身を投げそうな気配すらある。
緊張を解こうとコーヒーにサンドイッチを注文したが、向こうが全く手をつけてくれないので、純也は五皿目のタマゴサンドを頬ばり始めた。
もはや「軽食」と呼ぶには無理がある量の食パンを、あっという間に平らげていく少年に、男はまた違った意味で怯えだしている。今にも「次はお前の番だ」と宣告されるのではないかと、少年の小さな口に収まるミニトマトに自身を重ねて。
「あの、ほんとに、安心してください。まだ何もしていないのなら、僕もお兄さんを捕まえたりしませんから。これはちょっとした、職務質問っていうか」
「うぅ、気を遣ってくれてありがとう……けどもう遅いんだ……おれ、俺は既にとんでもない罪を犯して……!」
「そんな、一体何を?」
朱色の瞳から滂沱と涙を流し、ぐっと奥歯を噛み締めて、男は震える指先でよれたトイレットペーパーを示すと。
「だッ、男子トイレからこれを盗んできたんだ……!」
「…………はい?」
思わず聞き返してしまったが、「だがらねっ、ドイレのねっ、紙をねっ」と鼻水混じりで懺悔をリピートしてほしかったわけではない。
ポケットティッシュを差し出しながら、聞き取りづらい彼の話を要約するに、こうだ。
男は、『泥棒としての名を上げる』という目的でこの美術館にやって来た。しかしあまりの館内の広さと、人の多さに縮み上がり、思わずトイレに駆け込む。そうして緊張に震えること三十分、「このままおめおめ帰れない」となけなしの勇気とガッツを振り絞り、宮友グループから奪い取ってきたのが――
「……このトイレットペーパーひとつ、だと」
「仰る通りです……」
「おれがっ、俺がやったんですうぅ!」と両手首を差し出してくる自称泥棒に、ひとまず声を抑えるよう人差し指を立てる。『トラブルを表沙汰にしない』のが今回の依頼内容であるし、それ以前に、彼を警察署まで連れて行って「トイレットペーパー泥棒です」と突き出す気も更々無かった。
たぶん根は物凄く善い人なんだろうな、とコーヒーカップに口を付けながら相手を窺う。
確かに、消耗品一つだって、勝手に持って行くのは良くないことだ。そんな『極めて平凡な
「お兄さんは、どうして泥棒に? お金に困ってるとか……」
「え、ううん。俺、副業として週七でバイト入ってるから」
「……ちなみに、泥棒としての収入は?」
「ゼロだね……」
「今月に入ってですか?」
「いや、泥棒稼業を始めてから……」
それはもはや、ただの働き熱心なフリーターではなかろうか。
前科も無いらしきクリーンな自称泥棒(ほとんど虚偽)に、どう対応すべきか純也は考えあぐねる。すると、今度は彼の方から「あの、さ……」と切り出してきた。
「俺なんかに、敬語使わなくていいよ。一応、泥棒だし……。俺、
「じゃあ、リンリンさんですね! 僕の名前は純也です」
「あは、いいねそれ。さん付けも要らないよ。俺も、純ちゃんって呼んでいい?」
「はい!」
つい敬語で返してしまってから、少年は気恥ずかしそうに「じゃなくて、うん」と頭を掻く。これまで冷や汗と涙でぐしょぐしょだった李淵の顔に初めて、弱々しい本当の笑みが浮かんだ。
「リンリンはどこに住んでるの?」「足立区だよ」「僕は高円寺なんだ」「えっ、近いじゃん~」と互いの本業を忘れて和気藹々とする二人に、近寄ってきた一つの影が。
「こんなとこで何のんきに茶ァしてんだ、お前」
思わず肩が跳ね上がったのは李淵だけでなく、純也も同様に、恐る恐る背後へ振り向く。タキシードのスラックスに両手を突っ込んだ姿勢で、遼平が眉間に皺を寄せていた。
彼の常に不機嫌そうな目つきは、相手を見下ろしているだけで攻撃性を放ち、ちょっとした小動物なら本能的に固まってしまう。実際、李淵が今にも泣きそうになっているように。
見知らぬ赤毛の男と、純也を交互に見てから、遼平は円形テーブルの空いていた席にどかっと腰を下ろす。中央に置かれている、謎のトイレットペーパーをまじまじと見つめて、「……マジで何してたんだ?」と素直な疑問を漏らした。
突如現れたチンピラに困惑している李淵も、涙目だけで純也に説明を求めてくる。男たちの対照的な視線に促され、少年は一つ一つ言葉を選びながら。
「うーんと……あのねリンリン、こっちは僕と同じお仕事をしてる人なんだ。遼、こちらは林李淵さんっていう、たぶん、泥棒さん?」
「えぇ!?」
「はぁ!?」
反射的に逃げようとした李淵を、やっぱり反射の速度で遼平が首根っこから捕まえた。躊躇無く拳を振り上げた警備員と、泣き喚く泥棒の間に、純也は急いで割って入る。
「違うの遼っ、聞いて! リンリンは自己申告上は泥棒だけど実質ただのイイ人っていうかっ、プランクトン一匹殺せないようなハートの弱さで、僕の友達だから……!」
「じゅ、純ちゃん……!」
友人として庇ってくれようとしている少年に感涙し、李淵はひっしと純也の手を握る。「テメェいま微妙にディスられてたぞ」と呆れるチンピラの言葉など届きもしない。
純也が確たる意志の瞳でこちらを見上げてくるので、遼平は不服そうに舌打ちしつつも、李淵を元いた椅子に戻させる。そうして自身も脚を組んで座り、「で?」と再び説明を求めた。
「なに泥棒と仲良くお茶会してんだ、お前はよ」
「あ、そうだった。実は、リンリンに聞きたいことがあって」
純也は美術館のパンフレットを取り出し、テーブルの上に広げた。オープニングイベント限定のチラシも横に並べて、李淵の表情を窺う。
「リンリンは今回、何を盗むつもりだったの? やっぱり『鮮血の星』?」
「いッいやいやいや! あんな凄いもの盗れるわけないよっ、警備だってめちゃくちゃ厳重だったし」
「ここに侵入する前に、誰か協力してくれた人はいた? あるいは、窃盗を依頼されたとか」
「俺に盗みを期待してくれる人、いると思う……?」
「あっ、うん……」
李淵の虚ろな視線に促されるようにして、トイレットペーパー一ロールを見やり、純也は小さく謝る。彼はここに入る時もきちんと列に並んで入館料を支払ったらしく、「本当に普通のお客様だねリンリン……」「もう土産物買って帰れよ」と警備員二人から無害判定を受けていた。
自身の推測が的外れだったと悟った純也は、けれどどこか嬉しそうに息を吐く。
初日の騒動の際に裏で糸を引いていた何者かと、李淵は全く関係無かったのだ。どんなに些細なことでも敵に繋がるヒントが欲しかったが、その為に友達が尋問されるなんてことは避けたかった。
少年の吐息の真意を誤解した李淵が、申し訳なさそうに「なんか、ごめん」と頭を下げる。
「俺こんなだから、泥棒同士のコミュニティにも入れなくてさ。純ちゃんの役に立てそうな情報も持ってないし……」
「テメェみてーなヘナチョコじゃなくてよ、もっと『鮮血の星』を狙ってきそうな大物とか、いねぇのかよ?」
「俺の知る限りではいないかなぁ……。っていうか、自分で予告状を出してわざわざ警備を強化させちゃうなんてハードルの上げ方、俺には意味が分からないよ」
「その分殴れる人数が増えるからじゃね?」
「それをお得に感じるの遼だけだからね」
純也も李淵と同意見で、だからこそ敵の動機、理由が掴めずにいた。
窃盗予告を出し、発砲事件を起こし、マスコミに触れ回られたせいで、オープン初日の現場は多忙を極めた。それ以来ずっと警備側は神経を尖らせているが、五日目である今日までに、目立った問題は一度も起こっていない。
額に眉根を寄せて考え始めてしまった純也を、李淵は心配そうに見つめる。何か声を掛けようとして、しかし言葉が見つからず、隣で大きくあくびをしていた遼平に向き直ると。
「あの、十円玉を持ってたら貸してほしいんですけど」
「テメェで泥棒だって自己紹介しておきながら、よく人に金の催促できんな赤毛弱虫」
「いやすぐ返すし、フルネームより長い蔑称つけないでよぉ……」
「じゃあ赤虫な。ほれ、利子は三倍だぞ」言って、遼平はポケットから取り出した十円硬貨を指で弾く。
それを右手でキャッチした李淵は、銅色の硬貨を手のひらの中心に乗せて、純也の前に差し出した。
「リンリン……?」
「俺さ、大したことは出来ないけど、手品が趣味なんだよね」
テーブルの中央に右腕だけ伸ばして、骨張った指先で器用に硬貨を回す。五本の指は滑らかにウェーブを生み出し、その隙間を十円玉が意思持つ生き物のように泳ぎ潜る。思わず目を見開いてコインを追っていた二人の鼻先で、一度高くムーンサルトし、硬貨は手のひらに戻っていった。
そうして握り締めた右手と、同様に左手を突き出し、「十円玉はどちらでしょう?」と眉を八の字に下げた気弱な笑みのまま問うた。
「は? どっちって、ずっと右だったじゃねーか」
「あはは、遼さんって意外とピュアなんだね」
「誰が遼さんだゴラァ!」
口より先に出た遼平の拳によって、李淵は鼻からテーブルに叩きつけられる。衝撃で開いてしまった彼の右手に硬貨は無く、左手も空だった。
「えっ、あれ、十円玉が消えた……?」
「いたたた……。大丈夫だよ純ちゃん、お金はほら、ここに」
片手で鼻梁を押さえながら、李淵はテーブルの端に寄せていたトイレットペーパーを持ち上げる。するとロールの芯から、じゃらじゃらと大量の十円硬貨が溢れ出てきたではないか。うち四枚を摘まみ上げると、「ご協力ありがとうございました」と遼平に返す。
「すごいよリンリンっ、今のどうやったの!?」
「いやぁ、これくらいは手品とも呼べないようなものなんだけどね」
「次はこの百円を十倍にしろよ」
「錬金術でもないんですけど……」
興味深そうに銅色の山を観察している純也の横から、遼平がグイグイと百円玉を押しつけてくる。「無限増殖とかじゃないからっ、ちゃんとタネも仕掛けもあるからぁ!」「うるせぇ、何でもいいから金を出せ!」と鬼の形相で、自称泥棒を恐喝する自称警備員。
「て、手品の基本はね、『誘導を気付かせないこと』なんだ」
「誘導?」
「タネを仕掛ける時、お客さんの視線とか意識を、違う方向に誘導してるんだけど。その、注意の方向が相手に操作されていることを、自覚させないのがポイントなんだよ」
客は、自らの意思で注視していると思い込んでいるが、実際は手品師に誘導された結果なのだと言う。あからさまな右手も、逆に怪しかった左手もフェイク。実のところ、遼平から十円玉を借りるよりも先に、硬貨の仕掛けはセット済みだったのだと。
感動した純也は手を叩いて喜んでくれたので、李淵も安堵に頬が緩む。
出会って三十分と経っていない男を友達だと言い切り、守ろうとしてくれた。そして同時に、館内の安全を真剣に考えるプロでもあるという。李淵よりも一回りは若いであろう、まだこんなに小さな少年が。
純也の事情も、覚悟も、李淵は何一つ知らない。だからこそ、ただ単純に、友達には笑っていてほしかった。
「そっかぁ。手品が始まる前から、僕らは目を奪われていたん、だ――あれ?」
純也の表情が固まる。
一拍置いて、遼平が跳ねるように立ち上がった。
遼平は右手でイヤリング型無線機に触れて、回線を繋ぐ。純也も周囲の様子を窺いながら、自分たちにだけ届く緊急事態アラートに耳を澄ませた。
警戒レベル三。『総員、速やかに原因を排除せよ』という意味合いを持った電子音が繰り返される。
「希紗、侵入者か? どこだ?」
『…………』
「おいコラ、応答しろ。何のアラートなんだよ」
男の声に苛立ちが滲み始めた頃、警告音は唐突に終わった。これが解除できるのは監視室にいる希紗だけなので、彼女が止めたのは間違いない。
『今の警報は何だ。屋上から異常は見られんが』
「あ、澪君? 分からないんだ、どこかシステムの誤作動かも」
「館内からも、別にトラブってる音は聞こえねーしな」
言いつつ、遼平は肩まで伸びた髪を掻き上げ、左耳を塞いでいた黒い耳栓を取り外した。遮音器具を使っていても尚、常人を遙かに超えていた聴力が、限界まで音を拾い始める。
何百という人間の声、足音、心拍までもが男の脳になだれ込み、内側から頭蓋が割れそうになる。荒れ狂う音の暴風雨を、噛み締めた奥歯だけで耐えて、遼平はそれを見つけ出した。
「――下だ!」
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