【第二項】弊社では容赦は行なっておりません。

第二項(1)

 美術館内で最も豪奢な、金縁の扉。その堂々たる構えに胃をやられながらも、真は一度大きく息を吸って、扉をノックした。


 入室を許可する声は柔らかく、部屋の奥で待っていた宮友会長は今日ものほほんとした笑みを浮かべている。

 専用の木製デスクは重厚感があり過ぎて、プレジデントチェアーにすっぽり収まっている老爺の小柄さが殊更際立つ。会長の背後は全面ガラス張りで、敷地内の西洋庭園が一枚の絵画のように見渡せた。


 定期報告の為にオーナー室を訪れた真は、部下と同じ制服に、枯れ葉色のくたびれたトレンチコートを羽織っている。

 室内には会長と真の二人きりで、秘書の姿は無かったが、来客用テーブルには彼の分のお茶が用意されていた。「まぁそう硬くならずに」とソファを促されるも、真は「お気持ちだけ有り難く頂戴します」と丁重に断って歩み寄る。


「お時間頂き申し訳御座いません、会長。本日の状況報告と、明日以降の監視体制についてご確認を」

「あぁ、今日も含めてあと三日じゃのう。いやぁ、ここまで特に何事も無くて良かった、良かった」


 湯飲みを啜りながら、老人はしみじみと頷く。

 窃盗の予告状をばら撒かれたり、目の前で立てこもり未遂事件が起こった程度では、「何事も無い」の範疇らしい。あまりに緩すぎるジャッジに真は不安になるが、そこを指摘してしまうと成功報酬が遠ざかるのは警備員の方だ。「ほんまに、そうですねぇ」と渾身の愛想笑いで切り抜ける。


「本日も、現時点で異常は見られません。初日の妨害工作については引き続き調査していますが、まだ犯人に繋がる証拠は掴めていません」

「ふむ、君たちに警察の真似事までさせて悪いのう。まぁ直接被害を与えようとしてこない限りは、穏便に済ませておくれ。我ら宮友グループにとって、この美術展の成功こそが本懐。それ以外は全て、些末なことじゃよ」


 ずずず、と湯気の立つ煎茶を口にして、「細かいことは気にしない、気にしない」と皺を増やして微笑む。これが巨大組織をまとめあげる器なのだなと実感すると共に、たった四人の部下すら統率できない己の素質の無さを見せつけられているようで、真の憂鬱は更に重くなった。


 真とて、何も好きでこんな変人濃度の高い支部の長になったわけではない。それはもうやむを得ず、渋々で、今も隙あらば辞職を願い出たいくらい、本意でない。四年前、社長命令一つで本社より飛ばされてからというもの、彼の胃が痛まない日は無かった。

 ワックスで逆立てた金髪に、浅黒い肌をした外見。裏社会専門の警備員という生業。これらを総合して俯瞰してしまうと、想像できないほどに――霧辺真という若者は、普通の感性を持った単なる苦労人なのである。


「えぇと、それで何じゃったかな。今後の警備体制についても万事君たちに……おや?」


 終始微笑みを絶やさなかった会長が、そこでふと、湯飲みをデスクに置いた。まだ残っていた煎茶の水面を、ずしり、ずしりと揺らす足音が近づいてくる。

 真が背後の扉へ振り返るのと同時。ノックもせずにノブを捻って、扉の上部すれすれの巨体が部屋に入ってきた。

 毛量のある白髪をオールバックにして撫でつけた、筋骨隆々の大男だ。特注であろうスーツもはち切れんばかりの胸板で、拳だけで子供の頭部ほどはある。彫りの深い顔立ちに、幾重にも刻まれた加齢による皺は、歴戦の古傷のように。相手の顔に見覚えが無ければ、カタギの人物だとは絶対に思わなかっただろう。


「よ、代々木よよぎ、会長……っ?」

「……なんだ、お前は」


 真の、ほとんど無意識に口から出てしまった呟きを聞き取り、三白眼がぎょろりと見下ろしてくる。落ち着いたバリトンは別段怒りを表してはいなかったが、生粋の強面が災いして、萎縮以外のリアクションを相手に許さない。

 そのまま絨毯を地ならしでもするように進んでくる大男に、真は黙って一歩退く。


 『代々木コーポレーション』の創設者にして、終身名誉会長。政界、財界に太いパイプを持ち、手堅い事業で着実に資産を増やしてきた大富豪だ。メディアへの露出は少ないが、一度でも経済ニュースを見たことのある人間なら誰でも知っている。その顔のインパクトが強すぎて、忘れようにも忘れられない。

 咄嗟に、真は宮友会長の顔を窺った。正反対の企業体質ながら、『宮友グループと代々木コーポレーションの犬猿ライバル関係』は有名なのだ。

 そんなトップ同士がどうしてこんな所で、と目を白黒させている警備員をよそに、口火をきったのは宮友会長の方だった。


「おぉ小太郎こたろう! 嬉しいのう、どうしたんじゃ突然に?」

「なに、お前の美術展には一度来たいと思っていた。遅くなってすまん」


 プレジデントチェアーから跳ね上がり、握手を求めた宮友に、代々木も大きな右手を差し出す。真の錯覚でなければ、代々木会長の眉間の皺が一つ消えた、気がする。


「連絡をくれれば迎えを寄越したんじゃが、水臭いのぅ」

「ちょうど関係者口にお前の秘書がいてな、案内を頼んだ」


 言いながら二人分のソファにちょうど収まった代々木会長は、扉の前に直立している米田秘書を顎で示した。

 代々木会長の体積が大きすぎるあまり、その存在に気付かなかったが、どうやらずっと彼の背後に控えていたらしい。相変わらず真顔のまま会釈して、部屋の隅の置物のようにまた固まる。

 事態についていけない真も、とりあえず米田秘書に倣い、彼女の隣で背景に混ざることにした。幸い、影の薄さには定評がある。


「初日に届けられなかった花を、ついでに持ってきた。まぁ、今更飾る場所も無いかもしれんが……」

「何を言う、お主からの品なら特別じゃ。有り難く、正面玄関に置かせてもらうよ」


 向かいのソファに腰掛けた宮友会長は、にこにこと子供のような破顔をする。代々木会長の表情筋から読み取るのは難しいが、どうやらこの二人、旧知の仲らしい。兎を睨み下ろす獅子くらいの体格差があるのに、互いにそんなものは気にも留めず、茶飲み友達のように世間話に花を咲かせている。


「小太郎も忙しいじゃろうに。わざわざ時間を作ってくれたのじゃろう?」

「お前が気にすることではない。それよりも……本当なのか、先日のメールの件は?」

「あぁ。私もとっくにいい歳じゃからのう。今回の美術展開催を最後に、会長職からは降りるよ」


 真は、思わず上げそうになってしまった驚きの声を懸命に堪える。そんな話は初耳だし、もし公表されれば経済新聞のみならず一面を飾ること必至の大ニュースだった。

 壁際の観葉植物と同等にまで存在感を消した結果、うっかり極秘の話を耳にしてしまい、額をダラダラと冷や汗が流れる。不可抗力ということで、今からでも退室できないか――そう考えあぐねているグリーンインテリア(偽)をよそに、二人の会話は進んでしまう。


「お前も俺と同じ歳ではないか。辞めてどうするのだ」

「いやぁ、小太郎ほど足腰も立たんでのう。どうせ老い先短い身、田舎で孫たちとのんびりするのも悪くなかろうて」

「そうか……」


 筋肉質の腕を組み、代々木会長は目を伏せて思案顔になる。「寂しくなるな」ぼそりと、ほとんど独白の声量で零れたそれは、純粋な吐露に聞こえた。

 そんな友人の面持ちを見ているのかいないのか、まだ煎茶を啜っている宮友会長の方は、晴れやかなものだった。


「此度の美術館の完成、そしてイベントの成功は、私の最後の悲願じゃ。ここで有終の美さえ飾れれば、思い残すことは何も無いわい」


 言って、宮友会長は誰にも気付かれない程度に小さく、ウインクをした。その送り先であった真は、「なのでよろしく」という意味合いと、責任の重さを理解して土気色に変色する。

 会長の最後の功績に、泥を塗るようなことがあれば――「成功報酬が手に入らない」などと言っている場合ではない。裏社会とはいえ、中野区支部のような弱小事務所など、野花を摘みとる気軽さで消されかねない。

 ぷるぷる震える観葉植物、もとい目尻に涙を浮かべた警備責任者は、今日も何事も無く閉館時刻を迎えられるよう祈るばかりだった。



     ◆ ◆ ◆



 日が傾き始めたことで、美術館内は淡い橙に染め上がる。

 自然の彩りではなく、天井や窓のステンドグラスを通すことで着色された、ブラッドオレンジの日射し。光が差し込む方向によって色が変わる仕組みになっており、一面がターコイズブルーで満たされる午前も、純也は好きだ。

 空間が薄らとその色に支配されることで、館内に飾られた芸術品の数々も、表情を変えるように見えるから不思議だ。『二度、来たくなる美術館』というキャッチコピーはなるほど秀逸で、本日も満員御礼、どの時間帯も客足が引くことはない。


 もっとも、来場者が日に日に増えているのは、あの予告状が主な要因である。会見ではっきり否定したものの、一度人々の興味が集まってしまうと、真偽などどうでも良いと言わんばかりの勢いで噂は広まっていく。

 その為『鮮血の星』が展示されている中央ホールの混雑は特に酷く、「セキュリティ以前に、床が抜けるんじゃないの?」と希紗が隈のできた目でうんざりしていた。彼女が常駐している監視室は地下にあるので、割と気が気でないのだろう。


「こちら純也。本館一階東エリアに異常なし。二階に上がるね」

『はーいこちら監視室。冷蔵庫にあったプリン食べてもいい? どうぞ』

『それ俺のだぞ!』


 別館を巡回しているはずの遼平が、『食うなよ絶対!』と無線機に吠え立てる。『あーうん、わかったわかったー』と返す声に紛れて、ぺりぺり、とふたを剥がす音が聞こえたので、この後勃発する戦争は避けられないのだろう。


 純也は左耳につけたイヤリング型無線機に触れて、通信を切る。

 巡回と言っても表立ってではなく、一般客に扮しての警備なので、館内で制服は着られない。さりとて普段の全身古着ファッションでうろついても浮いてしまう為、貸衣装屋でフォーマルなものを見繕ってもらった。

 糊のきいたワイシャツに、濃紺のハーフパンツとサスペンダー。試着時、白い膝小僧をさすりながら「ちょっと子供っぽいんじゃないかなぁ」と抵抗を感じていた純也に、希紗が「そう? 七五三みたいで似合ってるわよ純くん!」などと後押しだかトドメだか分からない一言で刺した傷は、まだ癒えていない。


 成長期の真っ只中であるはずなのに、二年前からほとんど伸びていない身長のせいで、純也の外見年齢は『中学生くらい』から抜け出せずにいる。おかげで昨日、館内を何時間も見回っていたところ、表社会の警備員によって迷子センターへ連れて行かれそうになった。


 ……いや。迷子というのもあながち、間違ってはいないのだけれど。


 純也の前を歩く裕福そうな夫婦に、子供が「もう帰りたい」と駄々をこねていた。まだショーケースより低い背丈の幼子にとって、美術館はさぞ退屈だったのだろう。父親が苦笑いで息子を抱き上げ、母親は「帰りに好きなものを買ってあげるから」と宥めている。

 そんな、きっと何処にでもある光景が、純也には酷く遠い。


 父親の手。母親の声。自分にも向けられていたのかもしれない愛情。そのどれもが思い出せず、初めから無かったようにすら感じて、己がいかに空虚な存在であるかをまざまざと痛感させられる。


 二年前、遼平に拾われたあの冬。雪積もる路地裏に横たわっていた、あの夜。

 それ以前は何処で、どう暮らしていたのか。両親や兄弟、友人はいたのだろうか。「じゅんや」という、そもそも自身の名前かどうかすら定かでない響き以外の全てが、未だあの吹雪の向こうに攫われたまま。

 それは、紛うことなき迷子だ。けれど当人である純也は、このままでいいとも思っている。ある事情で警察などの機関を頼れないから、という理由も有るが、何よりも――


「うわっ」

「ふぎゃっ」


 ローファーの先だけを見つめてぼうっと歩いていた純也は、斜め前から急に現れた人物にぶつかり、尻餅をつく。焦って顔を上げると、同じように倒れてしまったらしい相手が「いたた……」と腰をさすっていた。


 軽い純也とぶつかっただけで転んでしまった成人男性は、不健康なほどに痩せ型で、半袖から伸びる腕は枯れ枝のように弱々しい。レディースかと見紛う細いジーンズに、白いTシャツをしまっていて、美術館を訪れる服装にしてはあまりにラフすぎた。

 かといって、『予告状の噂』を目当てに増えた野次馬たちとも雰囲気が違う。連れがいるようにも見えず、やつれた頬と常に八の字で固定された眉は、衰弱死寸前の草食動物じみた儚さだ。顎上までの赤毛は癖なのかウェーブがかっており、目元を隠してしまうほど前髪も長い。


 つい警備員としての癖で相手を観察していた純也に、向こうは「だっ、大丈夫?」と四つん這いで迫ってくる。少年に怪我をさせたと思ったのだろう、いつまでも尻餅の体勢でいた純也へ「たッたたた立てるっ? 救急車呼ぶ? ドクターヘリにする!?」などと口走りながら、男の方が涙目になっていた。


「いえ、平気です。ごめんなさい、僕が前を向いて歩いていなかったせいで」

「良かったぁ……。お、俺の方こそごめんね、そのっ、ちょっと急いでて……あはは」


 ぎこちない笑みを浮かべて、男は先に腰を上げ、少年へと手を伸ばす。その厚意に甘えて、彼の手を取って立とうと力を込めた瞬間、子供の体重すら支えられなかった男が大きくよろめいた。

 咄嗟に純也が彼のTシャツを掴むと、ジーンズから解放された裾を出口にして、ぼとり、と白い何かが絨毯に転がっていくではないか。


「え」

「あ」


 間の抜けた声を漏らしながら、二人が呆然と視線で追ったのは、トイレットペーパーのロールだった。

 さながらレッドカーペットのように堂々と、真っ直ぐ白線を伸ばしていくトイレットペーパーを、男は声にならない悲鳴で必死に追いかけていく。顔面からスライディングする勢いでロールの芯を捕まえると、急いで紙を回収し、何事も無かったかのように再びTシャツにしまい込んで「ほっ……」と安堵の息を吐いた。

 そんな男の撫で肩に、小さな手が優しく添えられて。


「あー……ちょっとお話、いいですか?」

「は、はひぃ……」


 少年から提示された警備員証を見て、弁解のしようがない不審者は白目を剥いて項垂れた。

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