第一項(3)
くすんだ青の満月が、夜にぽっかりと穴を開けている。
「かつて月は金色に光り輝いていた」という話を聞かされたことがあるが、遼平はそれをサンタクロースの実在並みに信じていない。この二十一年間、東京で生まれ育った遼平にとって、月は常に青銅じみた影の薄さでそこに浮かんでいた。
純也曰く「都市部を覆う大気ガス汚染による影響」で、光の屈折がどうとか。そんな解説を端から理解する気もなければ、この街を出るつもりも無い遼平にとって、月が青い理由などどうでもよかった。
どうせ、月は嫌いだ。
昏く、静かで、あらゆるものを覆い隠してくれる夜。なにものも暴かず、責め立てず、ただただ母の揺り籠のように包み込んでくれる闇。かつて、路地裏で息を潜めていた幼い彼を守ってくれたのは、そんな宵闇だけだった。
暗闇のみが安住の場所だった遼平にとって、いつまでも太陽の真似事をしている月は、いい迷惑以外の何物でもない。一度ぶん殴ってやろうと思って、目についた高層ビルの屋上目指しフリークライミングをした際には、警察に補導された。警察も大嫌いだ。
「よいしょ、っと。遼、どう? 来てくれそう?」
美術館の屋根に這い上がってきた純也が、ぼうっと突っ立っていた遼平に声をかける。そこはかとなく案じるような上目遣いに、男は「そんなに俺が信用ならねーかよ」と返した。
「違うの、そういう意味じゃ、全然……」そう口ごもりながら、少年は震えた眼を伏せる。謝罪の言葉を探している小さな頭に、男は自身の手のひらを押しつけた。
そこからくしゃくしゃと髪を乱してやると、純也は前髪の隙間から不思議そうな目を向けてくる。その、闇に溶け込まないアクアマリンの瞳も、白銀の髪も、遼平とは似ても似つかない。
きっと純也のような人間こそ、太陽のもとに居るべきなのだ。遼平の傍などではなく。
「なんで来たんだよ。下で待っとけって言っただろ」
「その、ちょっと……遼に言いたいことがあって」
それを聞くと、男は「もう説教は勘弁しろよ」と渋面をつくる。「あはは、違うよ。僕も今日はお腹いっぱい」と少年が苦笑うので、遼平は適当に腰をおろした。それに倣って、純也もちょこんと隣に座る。
首筋をくすぐる、四月の夜風はまだ冷ややかで、少年にはそれが心地良い。
「僕の苗字のこととか、誤魔化してくれてありがとう」
「別にお前のためじゃねえよ。歳だの記憶喪失だの、ンなつまらねぇ理由でお前がクビになったら、俺らの収入が半分になるだろ。やっとツケが返せそうだっつーのに」
「でも、わざわざ弟って」
「なんだ、俺の弟じゃ不満か?」
自身のつま先を見つめていた視線を上げると、男の横顔はどこか自嘲気味だった。髪を振り乱す勢いで「そんなことない!」と否定した少年に、遼平の方が面食らう。
正直なところ、もっと上手い誤魔化し方はあったと純也も思う。部長に頼れば差し障りのない説明をしてくれたかもしれないし、少なくとも依頼人相手にあんな見え透いた嘘をついて、不安感を煽ることはなかった。
あの回答は悪手だったと、理屈では分かっている。けれどあの時、頭に手を置かれ引き寄せられて、一寸の躊躇いも無く「弟だ」と言われた瞬間。胸に湧き上がったどうしようもない嬉しさを、伝えずにはいられなかった。
「遼の弟として恥ずかしくないように、僕がんばるよ」
「おう。しっかり俺のフォローに回れよ弟」
「あ、でもセレモニーの時、大声あげて犯人に走っていったのはダメだったと思うよ。僕から注意を逸らそうとしてくれたんだろうけど、あの時点で別に僕は怪しまれてなかったし。今度からは条件反射みたいに飛び出さないでね、お兄ちゃん」
「結局説教じゃねーか……」
悔しそうに歯を食い縛り「別に! お前のためじゃねえし!」と言い張る兄に、弟は笑う。「でもやっぱり、嬉しかったよ。ありがとう」と。
結果としてそれをきっかけに上司が怪我をしてしまったのだから、表立って感謝を言えなかった。部長もその辺りは察していて、だから遼平の行動を責めなかったのだろう。いつだって短慮で、故に迷い無く、たとえそれが悪手だと指摘されようとも遼平は省みない。時に、己の命ですら。
頬を柔らかく綻ばせて礼を述べる純也に、遼平はむず痒そうに顔を逸らす。そんな彼への助け船が、夜空を切り裂いてやって来た。
徐々に大きくなる、宙を叩く飛膜の波音。宵闇より尚暗い、蠢く黒。
おびただしい
端から見れば襲われているとしか思えない光景の中心でも、遼平は何ら動じることなく、虚空へ右腕を伸ばした。
群れの奥から現れたのは、ヒトの幼児ほどの体長はあろうかという一際大きな蝙蝠。出迎えご苦労と言わんばかりに、男の腕に留まり、両翼を広げる。全長五十センチは超える、他の蝙蝠では比較にもならないモンスターじみた巨体だ。
『随分と遅かったじゃねぇかよ、
『馬鹿野郎、手前がこんな場所まで喚び出すからだろうが! 深夜料金割り増しだからなこんちくしょうめ!』
『お前ら元々夜行性だろ!?』
一人と一匹の間で交わされる高音域での会話は、人並みの聴覚である純也には聞き取れない。無音のまま口から唾を飛ばしてやり合っている彼らを、見守るだけだ。
かつてこの国には、『音の民』と呼ばれていた一族があった。彼らは鼓膜と声帯が著しく発達しており、本来ヒトには聞き取れない、超音波といわれる高音ですら自在に操れたという。現代日本ではほとんど知られておらず、純也も遼平から「その末裔だ」と教えられるまで、蒼波一族の名すら聞いたことがなかった。
更にそんな音の民にとって、古代からの宿敵であるというのが、あの巨大蝙蝠らしいのだ。在来種で唯一の吸血蝙蝠であり、特に蒼波の血液を好んでいたことから、両者は激しく争ってきた。
しかし時代が流れてゆくにつれ、どちらも急激に数を減らしていく。蝙蝠たちは希少価値から乱獲され、蒼波一族はその特殊能力故に戦争へ狩り出された為だった。
そうして互いに、もはや絶滅したと思っていた種族の生き残りは、何の前触れも無く寂れた路地裏で出会うことになる。
『手数が足りねぇんだ、お前の群れを貸してほしい。夜だけでいいから……一週間』
『はぁ!? いっつも俺様たちを頼りやがってッ、たまには手前だけで仕事しろってんだ小僧!』
『今回はマジでそれが出来ねーから、こうして頭下げてんだろうが!』
『……じゃあ、今までのは単に楽したいからだったんだな?』
『あ』
『あ。ってなんだッ、あ。って! もういい、俺様は帰る!』
古傷が走る大きな飛膜を羽ばたかせ、空へ帰ろうとしてしまう宋兵衛の胴体に、遼平が半ばしがみつく。
男の頭にべしべしと翼を叩きつける蝙蝠のボスと、それでも引き下がらない人間の攻防。そんな展開にも周りは慣れたもので、純也は近くに降りてきた小さい蝙蝠とじゃれながら、交渉の結果を待つことにする。
『そこをなんとか、報酬は二倍にすっから!』
『チッ。仕方ねえ、前払いの日給制だぞ』
『やってくれんのか?』
『べらぼうめぃ、男に二言はねえ!』
『助かる。それで、お前らに頼みたい内容なんだがな……』と切り出しながら、遼平は監視室での打ち合わせを思い返す。
夕方に行われた記者会見で、宮友グループは『鮮血の星に対する窃盗予告』を有無を言わさず否定した。警察の介入も一切不要、また不安にさせてしまった来場者へのお詫びに「イベント期間中の入館料を下げる」と発表し、マスコミもネットも大いに沸いた。というか、沸き過ぎた。
予告状の噂によって来場者が減るどころか、会見直後から予約チケットは即刻完売。明日からの当日券を求めて徹夜組が集まり出し、美術館スタッフが対応に走り回っている。
館内関係者を招集しての緊急会議に真も顔を出したが、その席でも会長は「これはこれで困ったのぅ。どうしよう?」とやっぱり呑気に小首を傾げていたらしい。
……やがて青ざめた顔で戻ってきた真は、胃薬を噛み砕きながら、今後の方針を部下に伝える。
一般警備員は客の整理に駆り出される為、セキュリティ面はいよいよをもってロスキーパーに一任されることになった、と。
日頃『少数精鋭』と言い張っている中野区支部だが、その実、単なる人材不足である。たった五人しかいない警備員で、この広大な敷地、数々の美術品に目を行き渡らせることは、物理的に不可能だ。
故に、猫の手も借りたい――否、蝙蝠の手も借りざるを得ないのである。
『っつーわけで、夜間この辺りに群れを敷いて、不審者を見かけたら教えてくれ』
『適当なのは追っ払ってもいいんだな?』
『まぁな。だが基本的には、俺に知らせてくれるだけでいい』
『ふん、承知したぜ』
交渉成立と見て、遼平は制服の右腕をまくる。厳かに開かれた宋兵衛の口は、新生児ならそのまま丸呑みできそうだ。
対で生えた太い牙が、遼平の前腕に深々と突き刺さる。反射的にびくんと跳ねた右腕を、左手で固定して熱に耐えた。
本来は宿敵同士であるはずの一人と一匹は、同族のいないこの世界で生き抜く為、共生契約を結ぶことにした。遼平の喚びかけに応じて群れを使役する代わりに、宋兵衛は報酬として蒼波の生き血を得る。
あくまで対等な同盟であり、しかも両者がこの性格なので、交渉どころかただただ掴み合いの喧嘩に発展して終わることも少なくない。今回はそれを我慢し、遼平側から報酬を跳ね上げただけ、彼なりに事態の深刻さを理解しているのだろう。
『……なぁ、採りすぎじゃね?』
『ばぁろうめ、初期費用でぃ!』
『お前ホントそういう言葉どこから覚えてくんだよ……』
遠慮なく牙を引き抜いた宋兵衛は、宙へ舞い上がると、一度甲高く鳴いた。その合図で群れは一斉に羽ばたきだし、ボスに従って屋根の下へ滑空していく。
はあ、と息を吐いて喉をヒトの音域へと戻していた遼平に、純也が歩み寄ってくる。慣れた手つきで素早く右腕を止血して、シャツの袖が汚れないよう垂れた血を拭うと。
「お疲れさま。交渉、上手くいったみたいだね」
「まったく、ジジイにゃ骨が折れるぜ……」
蝙蝠たちによる上空からの眼と、希紗が操る無数の監視システム。これだけ網を張り巡らせておけば、並大抵の襲撃では遅れをとらないだろう。
それでも不審者に侵入されれば、直接出向かねばならないのは遼平たちなので、今夜はロクに仮眠もできない。
何も起こらないのが一番だけど、と純也は思う。
だが水面下で不穏な影が動いている確信が、少年にはあった。違和感、と言い換えてもいい。
今日立て続けに起きたトラブルが、それぞれ全く関連性が無かったとは考えづらい。
『鮮血の星』への窃盗予告がただの悪戯であるとすれば、立てこもり犯の教唆までするのはいささかやり過ぎだ。しかし本当に強奪する気があったなら、結局何のアクションも起こしてこなかったのは何故か。
どちらにしても中途半端で、測れない真意に胸がざわつく。
「おい、いつまで突っ立ってんだよ。戻るぞ、弟」
茶化すように口元を上げた遼平が、それだけ言って屋根の端から飛び降りていった。しばらくぽかんとしてしまった純也は、我に返ると困ったようにはにかんで、兄の後を追う。
不穏も、不安も、あの大きな背中が傍にあってくれたなら。何も恐れることはないと、少年は思った。
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