【第一項】弊社には優秀な人材が揃っております。

第一項(1)

 一般道路を、大型バイクが常識外れのスピードで駆け抜けていく。二人を乗せておきながら自動車の間をギリギリで擦り抜けていく様は、もはや神業に近い道交法違反だった。


「くそっ、このままじゃまた遅刻じゃねーか!」

「っていうか、もう十時まわってるから完全にアウトだと思うんだけど……」


 混雑している道路に悪態を吐いておきながら、その艶やかな漆黒色のバイクは尚も速度を上げる。あまりにハタ迷惑な運転に、クラクションやパトカーのサイレンが聞こえた気もしたが、「うっせー耳触りだゴラァ!」などと逆ギレも甚だしい怒声を上げている内にそんな警告音も遥か後方だった。


「大体なあッ、お前が目玉焼きでボヤを起こしかけたせいだぞ! 何をどーしたら卵があんな消炭色になんだよ!?」

「元はと言えば、りょうが目覚まし時計を握り潰したりするから!」

「お前だってソファで二度寝してただろっ」


 ヘルメットの下で繰り広げられるのは、朝から何度やり合ったか知れない責任転嫁。「よりにもよって一ヶ月ぶりの仕事で現場に遅刻だなんて」と、後部座席の少年から切ない溜息が漏れる。とっくに着いているであろう上司の雷は、避けられそうにない。

 男――蒼波そうは遼平りょうへいの家に居候している身なので、遅刻は当然、連帯責任。そして減給は二倍となって、ただでさえひもじい財布に直撃してしまう。


「チッ、赤かよ。誰だ、信号に赤なんて付けやがったのは!」

「ねぇ遼、『ルール』って言葉知ってる?」

「こうなったら近道だ、行くぞ純也じゅんや!」


 金色の前輪でいきなり歩道に乗り上げ、そのまま細い裏道に突っ込んでいく。けたたましいエンジン音で迫り来る大型バイクに、通行人たちは悲鳴を響かせ道をあけた。


「うわっ!? ちょ、待った待ったぁー!」


 バランスを崩した純也のヘルメットがビル壁に掠ってしまい、焦って遼平の腰にきつく抱きつく。人間さえ通るのが難しそうな路地裏を、遼平の愛車『ワイバーン』が躊躇無く疾走していくではないか。

 どうしてこう無駄に命を危険にさらすことするのかなぁ、と他人事のように純也は思う。案外こういう人間の方が、しぶとく大往生までエンジョイしたりするのだ。

 そんなヒトの神秘を朝っぱらから実感している少年をよそに、バイクは再び車道に出て、竜の唸りに似た轟音と共に灰色の街を突っ切っていった。


     ◆ ◆ ◆


 今回の仕事現場である『宮友みやとも美術館』は、欧州の古代神殿をモチーフに、壁から屋根に至るまで細かな彫刻を施した白亜の大殿堂である。今月完成したばかりの真新しい白さには威厳こそ無いが、都内の一等地だけあってその自己主張は凄まじい。おかげで迷わず目的地に到着できた――と思いきや、正門から目と鼻の先というところで、遼平は初めてブレーキをかける。


「あぁ? ンだこりゃ、また渋滞か!」

「待って遼、なんだか様子が変だよ」


 美術館正面の国道を塞ぐのは、騒々しい威嚇をふかすバイクの群れだった。モラルどころか免許すら持っているか怪しい若者達が、正門前をぐるぐると回りながら、「中に入れろ」と叫んでいる。


「この人たちも、美術展を観に来たのかな……?」


 呆然と呟いてみたが、イベント初日はマスコミと招待者限定のはずだ。仮に彼らが熱心な芸術の徒だったとしても、特効服に金属バットを手にしたままでは、確実にドレスコードで引っ掛かるのだろうけれど。

 これでは美術館に近づくことも出来ないばかりか、固く閉ざされてしまった正門ゲートを通過する術もない。裏手に回れば搬入用の出入り口があるはずだが、広大な敷地を迂回している余裕など有るわけもなく。


「純也、俺に一つ名案がある。……もう帰って寝ようぜ?」

「それただの願望だよね!? だめだよ遼っ、諦めないで! それにこの人たちもなんとかしなきゃ……これ以上騒がれたら、オープニングイベントが台無しになっちゃう」


 遼平の、心底うんざりした長い溜息が終わる前に、純也はヘルメットを脱いだ。銀髪を梳かしていく朝陽と春風が心地よい。眼前に、クラクションと排気ガス入り乱れる仕事現場がなければ、純也だって洗濯日和を満喫したいところだ。

 後部シートからぴょこんと着地した純也に続き、遼平も渋々降りようとした瞬間。前方から何かの破砕音と、若者たちの悲鳴が連なった。


 見れば、横転したらしきバイクが、仲間のものにも突っ込んだ挙げ句、街路樹をなぎ倒し煙を吐いていた。しかも異変はそれだけにとどまらない。

 正門前で円陣になっていたオートバイの前輪が、一台、また一台と次々にパンクし、よろめき、制御を失って自ら壁に激突していく。

 糸の絡まったマリオネット・ショーのように、見る見る混乱を極めていく現場を前にして、遼平の聴覚がある音を拾う。


「一体、何が起きて……」

「アイツだ」


 男が忌々しそうに指したのは、遠くそびえる美術館だ。示された先にじっと目を凝らすと、屋根の上で何かが光った。

 細く空気を貫く音は、遼平にしか聴き取れない。直後、強化ゴム製のタイヤに穴を開けられた新たな被害者が、アスファルトに投げ出されていった。

 苦虫を噛み潰したような遼平の顔に反して、眼前で綺麗に片付けられていく暴走族たち。そこからを連想するのに、純也には一秒と要らなかった。


れい君! そっか澪君だ」


 流石だなぁ、と呑気に称賛している純也の横で、遼平の舌打ちが鳴る。

 ここからでは僅かに覗く照準器しか見えないが、あの屋根の先、天使像の陰にいる狙撃手は間違いなく彼らの同僚だ。


 名を、紫牙しが澪斗れいと。外見的特徴でいえば、仲間内で最も人目を引く男である。

 あらゆる人種、血の混ざった家系がデフォルトになった時代とはいえ、淡い若葉色の地毛などそうそう拝めるものではない。シルクのように癖のないその髪は、首元で切り揃えられ。細い体つきもあって儚そうに見える印象を、眼鏡の奥の目力だけで相殺できる鋭さを持つ。

 緻密に計算された彫像の如き顔立ちで、常に他人を見下すか射殺すか、という目つきをしているものだから、遼平との相性はすこぶる悪い。主に、顔面偏差値による格差の為に。


「けっ。奴がザコ掃除してんなら、俺らはゆっくり裏口にでも……って、危ねぇ!」


 半ば自力で前輪を持ち上げながらハンドルを切った直後、アスファルトを細い雷が穿った。強化合成ゴムすら溶かす、極小の電磁針だ。


「あンの野郎、絶対分かってて狙っただろ! 降りてきやがれレタス頭コラァ!」


 ここで喚き立てたところで向こうには一切聞こえていないだろうが、遼平は構わず美術館に向かって中指を立てる。と、ほぼ同時に二弾目が飛来して、寝癖で逆立った紺髪の先を焼き切っていった。遼平が反射的に首を反らしていなければ、確実に眉間を撃ち抜いただろう。

 警告でも威嚇でもない単なる殺意をぶち込まれて、青筋を立てていた遼平の眼が完全に据わる。それに気付いた純也が急いで宥めようとするも、男が再びふかし始めたエンジン音に掻き消されてしまった。


「舐めやがってキザ眼鏡――殺す。今日こそ殺す。テメェの守備なんざ正面からぶち壊して入場してやらぁ!」

「警備員にあるまじき思考回路だよ!?」


 止めようとする純也の首根っこを掴み、後部シートに放ると、遼平はアクセルを全開にする。ヘルメットをかぶり直す暇もなかった少年の悲鳴は、あっという間に風が攫っていった。

 パニックと怒号飛び交う暴走族たちの間をすり抜け、正門ゲートにぐんぐん近づく。だが警備の為に固く閉ざされたそれは、優に三メートルは越える巨大な柵だ。

 激突すればバイクもろとも大破は必至、にもかかわらず遼平が速度を緩める気配は無い。しかもゲートの前には、横転して積み重なった改造バイクが山を作っているのに。

 そこで男の考えが分かってしまった純也から、血の気が引く。


「むむむ無理だよ遼っ、いくら何でもそんな――」

「死にたくなけりゃお前の力を貸せッ!」


 迷う余地も与えてくれない遼平に、「もうっ」と涙目になりながら純也は右腕を空へ掲げた。

 どくん、と小さな心臓が燃える。焼けた鉄を打ち込まれたような痛みと熱を伴い、大動脈から右腕へ、そして指先へと、あらゆる細胞が内側から煮える。

 本来、目には見えない力の渦が、街路を舞っていた桜の花弁によって輪郭を得た。少年の細い腕を覆い形成された、厚い竜巻を。


 ワイバーンは猛スピードのまま、山積みとなったバイクに乗り上げ、それをジャンプ台にして跳ねる。当然、重力に敗北し墜落する運命であったはずの機体は、不自然な追い風によって更に飛び上がった。

 純也が勢いよく腕を後方に向けると、さながらジェット噴射の勢いで大型バイクが空を飛ぶ。地表に叩きつけられた暴風の余波で、道路に群がっていた若者たちが木の葉同然に散らされていく。

 正門ゲートをギリギリ飛び越えた車体は、敷地内の真新しいアスファルトにタイヤ痕を焼きつけて、そのまま美術館へと加速した。

 ゲート内側に立っていた高齢の守衛が、顔面蒼白で追いかけてくる。


「す、すみませーん! 僕たち一応関係者なんですー!」


 瞬きする間に小さくなっていく守衛に、弁明が届いたかは分からない。たとえ聞こえていたとしても、おそらく信じてはもらえないけれど。



 警備員といっても、二人が所属するそこはの警備会社だ。

 マフィア、窃盗団から、無国籍者にストリートチルドレンまで――この法治国家において「不適切」と見なされた人間が、弾き出される場所。それが裏社会だ。

 表社会が目を背け排除し続けた結果、もはや無視できないほど膨れ上がったそれは、今や路地裏に、隣室に、宵闇に、常に在る。


 そんな、紙一重の向こう側にうごめく非合法なヒト・モノを相手取る、あるいは護ることを請け負う企業。それが彼ら『裏警備会社Loseロス Keeperキーパー』である。

 彼ら自身も裏社会に属する存在である為、依頼主はおおっぴらにその雇用を明かせないのが、肩身の狭いところだ。おそらく今回もごく一部の関係者しか、遼平たちの存在は聞かされていないだろう。

 要するに。


「なんかすごい数のシェパードが追ってきてるんだけど!」

「正面玄関はめっちゃ黒服が集まってきてんな……」


 紛うことなき不法侵入者、と見なされた二人に、怒濤の包囲網が迫りつつあった。

 警備員が警備員に捕まる、などという不毛の極致を引き起こせば、『遅刻』など生ぬるいレベルの叱責が飛んでくるのは自明だ。秒刻みで悪化していく事態に、純也のスカイブルーの瞳が潤み始める。


「しゃあねえ、裏口に回んぞ! 方向はどっちだ!」

「搬入口なら美術館をまわって左側だけど……直通の道は無いよっ?」

「俺の通った跡、と書いて『道』って読むだろうが!」

「ねぇそれどこの公用語!?」


 言うと、正面玄関へ向かっていた道路から、綺麗に整えられた芝生へ大きくターンした。どよめく警備員たちに土埃をかぶせ、美術館側壁にそって大型バイクの轍が庭を蹂躙していく。


「どうしよう……まだ現場に着いてもいないのに、クビ最速記録を樹立しそう……!」

「あぁ? 細けぇこと一々気にすんじゃねーよ」

「細かくないよっ、まず被害総額が既に!」


 半ば縋るように遼平の上着を掴んでいた純也が、男の頭部の先、上空で光った何かに気付く。

 通過する寸前、片腕を伸ばしたことでキャッチできたそれは、一対のイヤリングだった。飾り気のないシルバーのカフス型だが、その実体は彼ら専用の無線機だ。

 おそらく屋根の上から彼が投げてくれたのだ、と純也が察するより早く、イヤリングから当人の声がした。


『遅れてきた上に、暴徒の先頭に立って器物損壊とは見上げた度胸だ。可及的速やかに死ね』


「紫牙テメッ、いきなり弾撃ち込んでくる奴があるか!」

『悪く思うな、あの中で一際低俗な顔を狙ったところ貴様だったのだ』

「悪意しかねーじゃねーか!」


 澪斗の相変わらず辛辣な台詞は、機械音声と間違うほどに抑揚が無い。今も顔色ひとつ変えずに引き金を引いているのだろう、マイク越しに射撃音が淡々と連なる。


『――遼平、純くん聞こえる? こちら監視室』


 罵声の隙間を縫って聞こえたのは、女の声だった。澪斗がわざわざ無線機を寄越してきたのは、別に二人に殺意を伝えたかったからではなく、オペレーターである彼女と繋げてくれる為だったのだ。たぶん。

 監視室からカメラ越しに侵入者、もとい同僚二人を視ている彼女は、安藤あんどう希紗きさ。じきに少女の時期も終えようかという年齢なのに、未だ好奇心と遊び心が暴騰気味で、いつも大きな栗色の瞳を輝かせている。

 そんな彼女の、珍しい緊迫した声色に、純也は状況の深刻さを悟る。


『緊急事態につき、そのままセレモニー会場に来て! 中央ホールまでの道は分かる?』

「敷地内の構造は覚えてるから大丈夫だけど、一体何があったの? ゲート前の人たちも……」


 庭を突っ切ったバイクは、二車線のY字路におりる。左前方に見えるドーム型の建物を純也が指さし、遼平はそちらへハンドルを切った。

 一週間前、事務所で打ち合わせの際に見せられた資料は、全てその場で暗記してある。展示品一覧、館内構造から関係者名簿まで、純也の特殊な記憶力は苦もなくそれらを飲み込んだ。遼平の方はといえば、依頼人の名前すら正しく思い出せないのに。


『それが、次から次へと問題が発生してて、何から話せばいいやら……。ことの始まりは、昨日の夜にもメールした件なんだけど』

「知らねえ!」

「ごめん、今月から携帯代、払えなくなっちゃって……」

『あーもう、そんなことだろうと思ったわよ! じゃあかいつまんで説明するけどね――』


 異変の皮切りは三日前。美術展の主催者である宮友グループに届いた、一通の手紙だった。

『鮮血の星、頂戴に参ります』

 あまりに古典的な、新聞の切り抜きで綴られたメッセージとは裏腹に、同封されていた警備配置図は本物だったと言う。それも、表社会側で雇った一般的な警備員だけでなく、ロスキーパーのことまで把握された上でだ。

 主催者側に走った衝撃は、想像に難しくない。なにせ、その『鮮血の星』というのが今回のイベントの目玉展示品であり、欧州の巨大美術館から数億かけて借りてきた代物なのである。

 二十一世紀最後の天才と称された名匠による細工指輪、『鮮血の星』。極めて純度の高いルビーが散りばめられ、リングは全て白銀。紅く強烈な光と斬新な造型は、美しくもどこか恐ろしく、時価十億とも二十億とも言われている。


『開催前に悪い評判は立てたくないからって、グループ側は今回の件を公表してないわ。警察にもね。だから表面上は予定通りに、開館セレモニーを迎えるはずだった。けど』

「ゲート前にいた奴らは強盗団、ってわけじゃねぇんだろ? ご丁寧に予告状を送れるほど、新聞とってなさそうだもんな」


 朝刊どころか電気・水道代も払えない自宅の台所事情は完全に棚上げして、遼平は先程の顔ぶれを回想する。何やら美術館に向かって抗議しているようにも見えたが、彼ら自身がふかしていたエンジン音がうるさくて、聞き取る気も起きなかった。


『北関東破離拳ハリケーン連合っていう、まぁ見たまんまの純粋で真っ当な暴走族よ。いきさつは不明だけど、どこかで「宮友会長が地元を侮辱する発言をした」っていうガセネタを吹き込まれたみたいで、勘違いクレーマーと化してるってわけ。だから窃盗目的じゃないでしょ、新聞もロクに読んでなさそうだし』

「でも、誰がそんなデマを?」


 純也も会長本人にまだ会ったことはないが、経済ニュースや事前資料で、その風貌と人柄については一通り把握している。小柄で、いかにも好々爺といった顔つきの、一見どこにでもいそうなおじいちゃんだ。

 ただしその実態は身一つで起業し、次々と関連事業の幅を広げ、ついに巨大グループにまで育て上げた生ける伝説。『細かいことは気にしない』を社訓に、今も尚、新しい事業に参入しようとしている旺盛さで、良くも悪くも他企業から常に注目されている。


『デマの拡散元は調査できてないの。っていうか、更にそれどころじゃない事態になってて』

「まだ何かあんのかよ?」


 聞こえよがしな溜息を吐いて、遼平はうんざりと返す。じきに中央ホールの裏手側なので、少しずつ速度を緩めながら。


『うん。実はいま、セレモニー会場で拳銃を持った男が人質を盾にしてて』

「大問題じゃねーか!」


 「それを一番先に言え!」と声を荒げた拍子に、前輪がレンガの花壇に突っ込んだ。それを体の良い駐輪パイプ代わりにして、二人は急いでバイクから降りる。

 とりあえず手近にあった窓を蹴り破って侵入し、純也が示した方へ駆け出す。客は全てイベント会場に集まっているので、大理石の廊下には関係スタッフの影も無かった。


『セレモニー開始直前に、客の中に混ざっていた男が発砲してね。たまたま近くにいた関係者を人質にして、今は舞台の上よ。おそらく単独犯。武器は小型拳銃のみの模様』

「オイどーすんだよ、これ俺らの仕事完全に終わってねぇ?」


 「次回にご期待ください、ってことで帰るか?」と心底面倒そうにぼやきながらも、遼平は脚を止めない。

 彼ら裏警備員に課せられた今回の依頼内容は、『オープニングイベント期間を、何事もなく終わらせること』。少なくとも、そうだった。

 不審な影は事前に追い払い、悪評はもみ消し、とにかく不穏要素の一切を無かったことにする。そのためなら、どんな手段を用いても構わない。

 ――の、はずだったのに。よりにもよってセレモニー壇上に躍り出てしまった立てこもり犯のせいで、もはや誤魔化しようのない警察案件だった。


『だーいじょうぶよ、まだ巻き返せるって! ホール内の客に通報されないように、館内にジャミングしといたし』

「それ共犯者のやることだよね!?」


 希紗曰く出入り口も全てロックしてあるそうで、だから館内の混乱が外の警備員には伝わっていないらしい。それも、時間の問題ではあろうが。


「とりあえず俺はそのバカをぶっ飛ばしゃあいいんだな? 後のごちゃごちゃは純也、お前がなんか考えろ!」

「そこ一番重要なとこー!」


 全力疾走する男の背は、少年の涙声も振り切ってホール前にさしかかる。扉は開け放たれているが、床に座らされた客たちで半ば壁が出来ていた。

 手前で止まり、柱の陰に隠れながら、遼平と純也は中の様子を窺う。

 二階まで吹き抜けになったドーム状の天井には、聖堂さながらの絵画とステンドグラスが広がり、天の楽園を表現している。大理石の柱そのものも巨大な彫刻像であり、女神や軍神として象られていた。

 美術館というより、まるで自分自身が作品の中に紛れ込んでしまったようだと、純也は思った。だがそんな悠長な感嘆からは、一瞬で引き戻される。


「出てこい宮友岳蔵たけぞう! この人質がどうなっても構わないのか!」


 遼平たちが潜んでいる柱から見て正面、真っ赤な特設ステージの上に、二つの影があった。

 唾を飛ばして興奮している痩せぎすの男が、立てこもり犯と見て間違いない。よって、隣で銃を突きつけられ、弱々しく両手を上げている中肉中背の若者が人質ということになる。


「……おい希紗。何だあれ」

『立てこもり犯と、運悪く関係者こと――うちの部長よね』

「警備員が人質になってんじゃねーよ……!」

「相変わらず千年に一度の不運体質だね、しん君……」


 無論、花束を小脇に挟んだタキシード姿である彼が警備員――それも裏警備会社の支部長だということが、犯人に悟られている風は無い。

 彼、霧辺きりべしんは、異例の出世スピードで二十代にして部長に就任した人物……と言えば、聞こえは良いが。

 浅黒い肌に逆立てた金髪、といういかにも軽薄そうな風貌ながら、他者を威圧するオーラとは無縁の優男であるため、部下にすら目上扱いしてもらえない哀しき中間管理職というのが実態である。

 あんな細腕の立てこもり犯にも「無害そうで人質に最適」と認識されてしまう時点で、彼の凡庸ぶりはお分かり頂けるだろう。

 遠目でも、また胃痙攣を起こしているらしき土気色の顔が見て取れる。頬にぐいぐいと銃口を押しつけられながらも、泣きそうな苦笑いを浮かべて、犯人に何やら話しかけているようだ。


「こ、ここは落ち着いて、穏便に話し合いません? どうしてこないなことしたんか、まずは動機とか、ねっ?」

「全ては宮友のせいだ……奴が思いつきで自動車産業に手を広げたばっかりに、古参企業の孫請け工場で働いていた親父は早期退職を余儀なくされ、そのせいで俺に『お前もそろそろ職に就いてくれ』と言い出したんだ!」

「えらい紆余曲折を経た八つ当たりですね……」


 「働くくらいなら、宮友とお前を道連れに死んでやる!」「そのメンツにワイ必要あります!?」と両者違う涙を浮かべながら、壇上でじたばたしている二人組。

 犯人のみならず、客の注意も人質に向いている内に、遼平と純也は腰をかがめてゆっくり歩み寄る。着替える時間もなかったので、二人の格好はライダースジャケットと子供用パーカーのままだが、今更そんなカジュアルさを気にとめる者は誰もいなかった。


 座り込んだ客の間を縫うように、そろりそろりと慎重に距離を詰めていた純也の前で、一人の女性が倒れ込んだ。反射的にその華奢な体を抱き留めると、周囲が異変に気付いてざわつく。同時に、犯人の視線も。


 犯人が咄嗟に拳銃を純也へ向けた瞬間、違うルートで近づいていた遼平がすぐさま立ち上がり、ステージへ駆け出す。だが間隔は詰め切れておらず、また床に無数の客がいる状態では発砲まで間に合うはずもない。

 叫びながらこちらへ向かってくる紺髪の男に、犯人はパニックになり、遼平の顔目掛けて引き金に力を込めた。

 乾いた響きが一発、ホールにこだまし、そして世界は暗転する。




『皆様、ご来場ありがとうございまーす! これより宮友美術館オープニングセレモニー開幕となります、どうぞお楽しみください!』


 一瞬照明が落ちたと思いきや、場違いなほど明るいアナウンスが聞こえ、次いでファンファーレが流れ出す。再び会場が明るくなったとき、ステージ上で人質だったはずの男は花束を掲げており、それに内蔵されていたらしい大型クラッカーから花びらが舞い上がっていた。

 パンパンと空砲が連なり、天井からも真っ赤な花弁が降る。

 先程まで立てこもり犯として健闘していた男も、客も、一様に理解が追いつかない顔で口を半開きにしている。ただし純也からは、その犯人がついでに白目を剥いて失神している様も見えていた。

 あの僅かな隙の中で、鳩尾を強打でもされたのだろう。隣でへらへらとした苦笑いを浮かべながら、「お騒がせしましたー」と犯人と肩を組んだまま退場する彼に。

 そんな真と入れ代わるようにして、ステージに上がってきたのは小柄な老人だった。


「……いやはや、余興のつもりだったのですが、少々驚かせてしまいましたかな? 大変失礼。ですが私ども宮友グループは、あらゆる芸術を支援する志のもと、こうした美術館から果ては新進気鋭のお笑い芸人まで、枠に囚われない発表の場を用意しておりますので」


 「刺激的なコントではありましたが、どうか彼らにも盛大な拍手を」言って、中折れ帽を脱ぎ頭を下げた人物こそ、誰であろう宮友岳蔵会長その人である。

 呆気にとられていた客たちも、一連の出来事がすべて演出だったと理解すると、各々が取り繕った笑みを浮かべて手を叩きだした。「また会長のドッキリだろうと思ったんですよ」「まったく宮友さんはお人が悪い」などと談笑に戻るセレブ層の中で、純也は真が消えていった舞台裏に素早く目を走らせる。


 無論、いま目の前で起こったことは前座でも茶番でもない。間一髪のところで真が犯人を押さえ込み、それと同時に希紗が照明を落とした。確かに発射された実弾を、クラッカー音だと誤魔化してはいたが、真が犯人の肩に回していた腕には赤い染みが広がりつつあった。


 よろめいたところを助けた女性を、丁重に起こすと、純也は会釈もほどほどにステージ裏へと走り出す。

 宮友会長がとっさの機転で事態を収めてくれたので、セレモニーは予定通り始まるだろう。あとは表側の警備員に任せても大丈夫だ。

 純也が今なすべきことは、このたった五人しかいない『ロスキーパー中野区支部』の治療担当として、負傷した上司の手当てだった。




 小走りで人混みの奥に消えていく純也の頭が見えて、遼平はようやく、己が完全に状況から置いてけぼりを喰らったことを悟った。すぐに事態の全容を理解した純也と違い、未だ頭上に大量の疑問符を浮かべながら、すごすごと少年の後を追う。

 そんな中で、不意に目が合った人物がいた。先ほど純也が助けていたドレス姿の貴婦人だ。

 ドレスと言っても、一切肌を見せないその黒さは喪服に似ていて、顔もヴェールで覆っている為に年齢すら判然としない。それでも一瞬視線が合ったように感じたのは、ヴェールの向こうで薄らと紅が微笑んだからだ。


 遼平が訝しげに眉を寄せる前に、彼女は背を向け、関係者席に戻っていった。白陶のうなじの上でまとめられたゴールデンブロンドが、やけに目に焼きつく。

 どこかで会ったことがある気もするし、全く勘違いのような気もする。もとより他人に興味が無いので、一昨日喋った相手だとしても記憶していることは滅多に無いが。

 故にその人物も、すぐに遼平の視界だけでなく意識からも消え失せた。口うるさい上司の招集命令を届けてくるイヤリング型無線を外し、男は両手をポケットに突っ込んだまま、今更になって遅刻の言い訳を考え始めていた。

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