第3章 奥様は二刀流

「なんだ、この風呂は?」

 つららは脱衣所で服を脱ぐ前にバスルームをチラ見した。

 風呂といっても、大浴場じゃない。あまり部屋の外に出歩かないようにという配慮から、魔子の部屋の中につけられた風呂なのだ。つららは、ひとり暮らし用アパートのユニットバスのようなものを想像していた。

 だが、ぜんぜんちがった。

 まず、単純に広い。浴槽はダブルベッドより大きいし、洗い場に至っては八畳くらいの広さがある。

 そして意味もなく豪華だ。洗い場の床はタイルじゃなくて磨かれた石だし、腰壁まで同じ材料で覆われている。そのくせなぜか榎木風呂だ。

 しかし、つららをほんとうに驚かせたのは、壁一面に広がる窓と天井いっぱいの天窓だった。

 浴槽の向こう側には青く静かな海が、その他の壁には青々とした木々が、そして天井には太陽が煌々ときらめく青空が広がっている。

 それらが絵でない証拠に、動いている。海は波打ち、樹は揺れ、空には白い雲がゆっくりと流れている。

 モニターか。

 つららはこれの意味を理解した。窓に見えるガラスの向こう側にはモニターが設置され、あたかも自然の中にいるように錯覚させる。

 これは魔子があこがれる世界を人工的に構築したものなのだ。

 じっさいに魔子がこんな環境に身を置こうとすれば、それこそ全身を覆う必要がある。だからこそ、裸でいる浴室にこんな光景を作り出したにちがいない。

 そう思うと、魔子のことがかわいそうになった。

 まあ、こういうことなら、協力したかいがあったってもんさ。せいぜい、きょう一日、風太と楽しい思い出を作ればいい。

 もっとも、あいつに女の子のエスコートなんかできるのかよ?

 生意気な小娘のわがままにおたおたする風太を想像すると、吹きだしてしまう。

 なんにしろ、そっちは風太に任せるしかない。自分はあすの夕方まで、無事身代わりをつとめればそれでいい。

 さてと……。

 もちろん、つららは風呂にはいるためにここに来たわけだが、まわりの風景を見て気が変わった。人工的な映像であることはわかっているが、この中で体を動かしてみたくなった。湯船に浸かるのは、汗をかいてからでいい。着ているものは黒のワンピースだが、まあ、動けるだろう。

 つららは足を肩幅まで広げると、腰を落とした。

 両手をゆっくりと前でまわしながら、息を吐く。そのまま、両拳を腰に。

 頭の中で敵を作り出す。つららはたんに型を演じるのは嫌いだ。むしろ、型から外れようが、自分がイメージする敵と戦うほうが稽古になると思っている。

 今回の仮想の敵は、ボクサー。つららよりひとまわり大きい黒人の男。

 同じ空手家を仮想敵としてイメージするのはよくやるが、最近は脳内異種格闘技戦にこっている。

 幻影ボクサーは左構えになり、ステップを踏む。つららは左足を前に出したまま、やはり腰を落とした構え。右手は腰。左手は顔の前に出した。

 ボクサーの左ジャブが飛んでくる。

 それを左手で弾く。ブロックではなく、あくまで横からパンチをたたき、軌道をそらすのだ。

 ボクサーはステップで体を左右に振りながら、連続的にパンチを飛ばす。

 それをときには右から左に、あるいはその逆に、つららは叩き落とす。

 ジャブの直後に右ストレート。

 つららは左手で、パンチを外から内に叩きながら、前に飛び出す。

 そのまま右の正拳を脇腹にたたき込んだ。

 普通ならそこで動きが止まるはずだが、なにせ脳内ボクサー。痛みを知らない。とっさに左フックを打ってきた。

 打ち込んだ右手で廻し受け。左足で前蹴り。膀胱のあたりにぶち込んだ。

 終わった。ここは骨でも筋肉でも守られていない。まともに入れば、つららの力で充分、男を悶絶させられる。

 ぶっ倒れたボクサーの幻影は消えた。

 かわりに召喚したのは、レスラーの幻。

 今度は白人の男。中腰になって、体を前傾させ、両手は前。

 目にも止まらぬ速さで、地面すれすれのタックルを打ってくる。

 つららは右膝を相手の顔に打ち込む。しかし敵は左手でそれをブロックすると、右手で左足を刈りにきた。

 左足を刈らせるかわりに、右脚を後方に戻し、どっしり腰を落とした。

 そのまま、真上から敵の後頭部に手刀を叩き落とす。

 動きが止まったその瞬間、今度は左の肘を上からこめかみに打ち下ろす。

 そいつも消えた。

 ふ~っ。ん? なんかちがうな?

 そもそも、この大自然の映像を見たから、その中で体を動かしてみたら、気分爽快だろうな、と思っただけなのだ。だったら、普通に型を演じればいい。

 それをよりによって、殺伐としたイメージトレーニングを。

 つららは苦笑しつつ、ゆっくりと体を動かした。

 敵を倒す攻めというより、自然と一体となるように意識しながら。

 だんだん動きが太極拳のようになってきた。

 中国の公園で朝、老人たちがやってるようなあれだ。

 スピードと殺気を殺し、自然の空気を取り入れるようにすると、そういう動きになってしまう。

 ん、たまにはこういうのも悪くないな。

 なんというか、気持ちいい。太極拳が、もともとは人殺しの技だったのが、健康体操になったのもわかるような気がする。

 もし、ほんとうに山の中で演じれば、もっと気持ちがいいかもしれない。

 つららは大きく息を吸うと、軽やかにジャンプ。そのまま、空中で、左右の二段蹴り。それで締めた。

 激しい運動でもなく、たいした時間やっていたわけでもないのに、全身汗まみれ。よく考えてみれば、ここは風呂場。温度も湿度も高い。

 なんとなく満足したつららは、湯船につかりたくなった。脱衣所に戻って、服を脱ごうとしたとき、スマホが鳴る。

 外に聞こえるとは思えないが、聞き慣れない着メロを不審がられても困る。着信ボタンを押した。

「はい、つらら」

『俺だ。風太だ』

「おう、どうだ? お姫様とのデートは?」

『……まずいことになった。さらわれた』

「は?」

『さらわれたんだよ、魔子が。相手は四人組。暁と西郷、麝香院、それにジュベールだ』

「なんだって?」

 それって、採用試験をいっしょに受けたやつらじゃないか?

『あいつらは最初っからなにか目的があって、その家に入りこむために採用試験を受けたんだ』

「どうする気だよ?」

『あいつらを追う』

「どうやって?」

『なんとか考える。ただ、おまえの立場はかなりまずくなった。誘拐犯の片割れと思われるかも』

 たしかにいわれてみればそうだ。どう考えても、風太や他の四人と共謀して誘拐したと思われるだろう。

 予定では、あした、入れ替わってそのまま外に出られるはずだったが、それは無理だ。

 かといって、ひとりでここを逃げ出せるとは思えない。

 事情を話すか?

 それもかなりヤバそうな気がした。採用試験のときの奥さまの様子を見る限りでは、無事では済みそうにない。あの真剣の使い方はひょっとして裏家業かも。

 話を聞く余裕が向こうにあればいいが。

『どっちにしろ、あいつらはそっちの家にコンタクト取ってくるはず。魔子を人質になにかを要求するはずだ』

 そうなったら、最初にすることは、ここにいるのが本物かどうかを調べることだ。

 そりゃ、ヤバいな。ヤバすぎる。

『また、連絡する』

「おい」

 電話は切れた。

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