第3章 奥様は二刀流
1
「なんだ、この風呂は?」
つららは脱衣所で服を脱ぐ前にバスルームをチラ見した。
風呂といっても、大浴場じゃない。あまり部屋の外に出歩かないようにという配慮から、魔子の部屋の中につけられた風呂なのだ。つららは、ひとり暮らし用アパートのユニットバスのようなものを想像していた。
だが、ぜんぜんちがった。
まず、単純に広い。浴槽はダブルベッドより大きいし、洗い場に至っては八畳くらいの広さがある。
そして意味もなく豪華だ。洗い場の床はタイルじゃなくて磨かれた石だし、腰壁まで同じ材料で覆われている。そのくせなぜか榎木風呂だ。
しかし、つららをほんとうに驚かせたのは、壁一面に広がる窓と天井いっぱいの天窓だった。
浴槽の向こう側には青く静かな海が、その他の壁には青々とした木々が、そして天井には太陽が煌々ときらめく青空が広がっている。
それらが絵でない証拠に、動いている。海は波打ち、樹は揺れ、空には白い雲がゆっくりと流れている。
モニターか。
つららはこれの意味を理解した。窓に見えるガラスの向こう側にはモニターが設置され、あたかも自然の中にいるように錯覚させる。
これは魔子があこがれる世界を人工的に構築したものなのだ。
じっさいに魔子がこんな環境に身を置こうとすれば、それこそ全身を覆う必要がある。だからこそ、裸でいる浴室にこんな光景を作り出したにちがいない。
そう思うと、魔子のことがかわいそうになった。
まあ、こういうことなら、協力したかいがあったってもんさ。せいぜい、きょう一日、風太と楽しい思い出を作ればいい。
もっとも、あいつに女の子のエスコートなんかできるのかよ?
生意気な小娘のわがままにおたおたする風太を想像すると、吹きだしてしまう。
なんにしろ、そっちは風太に任せるしかない。自分はあすの夕方まで、無事身代わりをつとめればそれでいい。
さてと……。
もちろん、つららは風呂にはいるためにここに来たわけだが、まわりの風景を見て気が変わった。人工的な映像であることはわかっているが、この中で体を動かしてみたくなった。湯船に浸かるのは、汗をかいてからでいい。着ているものは黒のワンピースだが、まあ、動けるだろう。
つららは足を肩幅まで広げると、腰を落とした。
両手をゆっくりと前でまわしながら、息を吐く。そのまま、両拳を腰に。
頭の中で敵を作り出す。つららはたんに型を演じるのは嫌いだ。むしろ、型から外れようが、自分がイメージする敵と戦うほうが稽古になると思っている。
今回の仮想の敵は、ボクサー。つららよりひとまわり大きい黒人の男。
同じ空手家を仮想敵としてイメージするのはよくやるが、最近は脳内異種格闘技戦にこっている。
幻影ボクサーは左構えになり、ステップを踏む。つららは左足を前に出したまま、やはり腰を落とした構え。右手は腰。左手は顔の前に出した。
ボクサーの左ジャブが飛んでくる。
それを左手で弾く。ブロックではなく、あくまで横からパンチをたたき、軌道をそらすのだ。
ボクサーはステップで体を左右に振りながら、連続的にパンチを飛ばす。
それをときには右から左に、あるいはその逆に、つららは叩き落とす。
ジャブの直後に右ストレート。
つららは左手で、パンチを外から内に叩きながら、前に飛び出す。
そのまま右の正拳を脇腹にたたき込んだ。
普通ならそこで動きが止まるはずだが、なにせ脳内ボクサー。痛みを知らない。とっさに左フックを打ってきた。
打ち込んだ右手で廻し受け。左足で前蹴り。膀胱のあたりにぶち込んだ。
終わった。ここは骨でも筋肉でも守られていない。まともに入れば、つららの力で充分、男を悶絶させられる。
ぶっ倒れたボクサーの幻影は消えた。
かわりに召喚したのは、レスラーの幻。
今度は白人の男。中腰になって、体を前傾させ、両手は前。
目にも止まらぬ速さで、地面すれすれのタックルを打ってくる。
つららは右膝を相手の顔に打ち込む。しかし敵は左手でそれをブロックすると、右手で左足を刈りにきた。
左足を刈らせるかわりに、右脚を後方に戻し、どっしり腰を落とした。
そのまま、真上から敵の後頭部に手刀を叩き落とす。
動きが止まったその瞬間、今度は左の肘を上からこめかみに打ち下ろす。
そいつも消えた。
ふ~っ。ん? なんかちがうな?
そもそも、この大自然の映像を見たから、その中で体を動かしてみたら、気分爽快だろうな、と思っただけなのだ。だったら、普通に型を演じればいい。
それをよりによって、殺伐としたイメージトレーニングを。
つららは苦笑しつつ、ゆっくりと体を動かした。
敵を倒す攻めというより、自然と一体となるように意識しながら。
だんだん動きが太極拳のようになってきた。
中国の公園で朝、老人たちがやってるようなあれだ。
スピードと殺気を殺し、自然の空気を取り入れるようにすると、そういう動きになってしまう。
ん、たまにはこういうのも悪くないな。
なんというか、気持ちいい。太極拳が、もともとは人殺しの技だったのが、健康体操になったのもわかるような気がする。
もし、ほんとうに山の中で演じれば、もっと気持ちがいいかもしれない。
つららは大きく息を吸うと、軽やかにジャンプ。そのまま、空中で、左右の二段蹴り。それで締めた。
激しい運動でもなく、たいした時間やっていたわけでもないのに、全身汗まみれ。よく考えてみれば、ここは風呂場。温度も湿度も高い。
なんとなく満足したつららは、湯船につかりたくなった。脱衣所に戻って、服を脱ごうとしたとき、スマホが鳴る。
外に聞こえるとは思えないが、聞き慣れない着メロを不審がられても困る。着信ボタンを押した。
「はい、つらら」
『俺だ。風太だ』
「おう、どうだ? お姫様とのデートは?」
『……まずいことになった。さらわれた』
「は?」
『さらわれたんだよ、魔子が。相手は四人組。暁と西郷、麝香院、それにジュベールだ』
「なんだって?」
それって、採用試験をいっしょに受けたやつらじゃないか?
『あいつらは最初っからなにか目的があって、その家に入りこむために採用試験を受けたんだ』
「どうする気だよ?」
『あいつらを追う』
「どうやって?」
『なんとか考える。ただ、おまえの立場はかなりまずくなった。誘拐犯の片割れと思われるかも』
たしかにいわれてみればそうだ。どう考えても、風太や他の四人と共謀して誘拐したと思われるだろう。
予定では、あした、入れ替わってそのまま外に出られるはずだったが、それは無理だ。
かといって、ひとりでここを逃げ出せるとは思えない。
事情を話すか?
それもかなりヤバそうな気がした。採用試験のときの奥さまの様子を見る限りでは、無事では済みそうにない。あの真剣の使い方はひょっとして裏家業かも。
話を聞く余裕が向こうにあればいいが。
『どっちにしろ、あいつらはそっちの家にコンタクト取ってくるはず。魔子を人質になにかを要求するはずだ』
そうなったら、最初にすることは、ここにいるのが本物かどうかを調べることだ。
そりゃ、ヤバいな。ヤバすぎる。
『また、連絡する』
「おい」
電話は切れた。
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