「いや、ごめんよ」

「言い訳無用。帰って」

「いや、開けてよ。魔子ちゃん」

「まあ、なれなれしい。あたしにそんな口をきいていいのは、お父様とお母様だけなんだからっ!」

 ううむ。ひょっとして、いきなりピンチなんじゃないのか、これは?

 風太はちょっと焦った。このままクビにされたらたまったもんじゃない。

「そのお父様とお母様に引き留められたんだ。とくにお父様は初めて見る男だから、心配だったんだろうね。品定めされた」

 いや、べつに嘘はいってないよな? そもそも親父の面接は、採用試験のときにやるべきで、それをこの子のひとことで採用を決めちゃったから、こういうことになるんじゃないだろうか?

「……ま、そういうことなら仕方ないわね。今回だけ特別に許してあげる」

 ドア越しに魔子が立ち上がる気配。近づいてくる足音。そしてがちゃりとドアの鍵を回す音がした。

 風太がドアを開けると、目の前に魔子が立っていた。だが採用試験のときとは様子がちがう。あの仮面をしていないのだ。

 透き通るように白い肌と、人形のように整っているという点では同じだ。しかしそこにあるのは明らかに人形の顔ではない。かわいらしいけど、むしろ小生意気な表情を浮かべた年相応の少女のものだった。

 さらに相変わらず黒っぽいワンピースを着てはいるが、きょうは半袖だったし、手袋もしていない。それだけでずいぶん感じが変わって見えた。

 まあ、正直にいうと、この前は長い髪も黒い服も、白い仮面のせいで不気味にしか映らなかったが、今見るとよく似合ってる。

「入りなさいよ」

 魔子はそういって、背を向ける。すたすたと歩いて自分の席に着いた。

「おじゃましま~す」

 部屋の様子自体はほとんど前と変わっていなかった。窓がなく、照明はすこし落とした蛍光灯の明かりだけ。ちがうといえば、風太のためらしき椅子がひとつ増えていることだ。

「ええっと、いいの? 肌を出して」

「昼間、外に出なきゃだいじょうぶよ。この前はちょっと脅かしてみたかっただけ。あれでびびる人はお呼びじゃないから」

 まあ、たしかに驚いたわな。びっくりすることが多すぎて、感覚が麻痺してなかったら、そのまま逃げたかもしれん。どう見ても魔界から来た悪魔少女って感じだったし。

「ん、そっちのほうがいいよ。かわいくて」

「ば、ば、ば、馬鹿いわないでよっ」

 心持ち真っ白な肌がピンクに染まる。意外に純情というか、よく考えたら、家族や使用人以外の男と接する機会などほとんどないわけだから、あたりまえなのかもしれない。

「いい? ふたりっきりだからって、あたしに手を出したりしたら承知しないんだからねっ!」

「いや、出さない、出さない」

 そんなことをしたら、あの親父に殺されます。たぶん、人類最強のあの親父に。

 っていうか、親父といい娘といい、俺のことをどんだけスケベだと思ってんだ?

「な、なによ。そんなにあたしは魅力ないの? それとも子供だからって馬鹿にしてるわけっ!」

 どっちなんだよ、おまえはっ! 手を出してほしいのか、ほしくないのか?

「勘違いしないでよ。ほんとは手を出してほしいくせに、かっこつけて手を出すなっていってるわけじゃないんだからね」

 ううむ。その逆説こそが本音なのか?

 風太はただでさえ女心というやつがさっぱり理解できないのに、こういう特殊な条件で育った少女の気持ちなどわかるわけもない。

「なあ、ひとつ聞いていい? なんで俺を選んだわけ?」

「なんでって、……おもしろいからよ」

「おもしろい? なにが?」

「なにがって……」

 魔子はすこし困った顔をした。

「だって退屈なんだもん。ずっと家の中で、夜は庭に出ることもあるけど、外には出してもらえないし。だから友達もいないのよ。べつに勉強するだけだったら、家庭教師なんか頼まなくたって、ひとりでできるわよ。あの中じゃ、いっしょに遊んで楽しそうだったのがあんたよ。あとは堅苦しそうでしょ?」

 いや、どう見ても変なやつばっかだったろうがっ!

「みんな余裕で試験受けてたじゃない。必死だったのはあんただけよ。その必死さがおもしろかったの。いじめがいがあるでしょ?」

 そういって、ぷいと横を向く。

 いじめがいがあるってのには抵抗があったが、ようはさびしいらしい。

「なあ、今、勉強するだけならひとりでできるっていってたけど、ひょっとして頭いいわけ?」

「あたりまえでしょ」

「予習してる?」

「べつにそんな改まったものじゃないけど、教科書はささっと読んだわ。とくにむずかしいことも書いてなかったし」

「じゃあ、たとえば、これわかる?」

 風太は算数の教科書から、ためしに何問か出してみた。

「簡単すぎる」

 魔子はほんとうに簡単そうにシャーペンを走らせる。完璧だった。あからさまに得意げだ。

「一次方程式くらいまでなら、五年生のときにできたし」

 ほんとかよ?

 まあ、たしかに一次方程式なんてものは中学でやる範囲だが、案外簡単なのだ。じつは小学校高学年の文章問題なんて、一次方程式を使ったほうが楽に解ける。機械的な術式だからだ。それを変に論理的に考えて解こうとするから、逆にむずかしかったりする。

 ためしに一次方程式を解かせてみた。もうペンを動かすのも面倒と、暗算で即答する。

「ひょっとして英語とかもすこしはわかるのか? アルファベット書ける?」

「そんなの一年前からできた」

 さらさらと、aから小文字で書いていく。ブロック体で書き終わると、筆記体で同じことをはじめた。

「ついでに読んでみて」

 魔子はネイティブさながらの発音で、アルファベットを順に読んでいく。

「ついでに人称によるビー動詞の変換までは覚えたわ」

 胸をはり、鼻息を荒げる。

「これはペンです」

 唐突だったが、魔子はしっかり反応した。

「This is a pen.」

「わたしは女の子」

「I'm a girl.」

「あなたは先生」

「You are a teacher.」

「今の書いてみて」

 魔子はノートにさらさらと走り書きした。

「へえ、ひょっとして疑問文、否定文の作り方もわかる?」

「もちろん。疑問文はビー動詞を主語の前に出す。否定文はビー動詞のあとにナットをつける。でしょ?」

「ずいぶん、楽な生徒だな」

「でしょう?」

 魔子は勝ちほこったようにいう。

 っていうか、学力的に俺と大差ないんじゃねえの?

 本棚にある蔵書の量からして、国語だって問題ないはずだ。むしろ読んでる本の中身が気になるが……。なにせ、やたらとオカルトに嵌ってるらしい。

「あとはなにをやればいい? なんでもいってごらんなさいよ」

 せいぜい難しい問題出しなさいよと、いわんばかりだ。

「そうだな。とりあえず、遊ぶか?」

「え、いいの?」

 高慢そうな表情が、びっくり顔に。

「だって教えることないじゃん」

 いや、……マジで。

 小学生のくせに、すでに中学に入って数ヶ月で勉強することはできてるっぽい。ならば焦る必要はなにもない。それどころか、俺のほうが教えられたりしたら洒落にならないぞ。

「ね、なにして遊ぶ? 風太」

 魔子の目がきらきらと輝いたのは、正直少し意外だった。

「一応先生なんだぞ。風太はないだろ?」

「じゃ、風太センセ」

 意地でも先生とはいいたくないらしい。まあいい。きょうのところは勘弁してやらあ。

「なんかあるか? ふたりで遊ぶのにちょうどいいやつ?」

「チェス、将棋、トランプ」

 トランプはともかく、チェスや将棋ができる女子小学生はめずらしい。

「トランプはふたりでやったらつまんないやつしか知らないな。チェスやるか」

「オッケー」

 魔子は机を片づけると、どこからともなくチェスボードと駒を持ってきた。プラスティックの安いやつじゃなくて、ガラス細工でデザイン残ったやつ。けっこうでかい。

「そっちが白でいいよ」

 魔子は自信満々にいう。

 チェスは囲碁とちがって白が先行だ。将棋なんかでもそうだが、とうぜん、先手のほうが有利。

 もっとも風太は舐めていた。日本でまともにチェスができるやつなんてめったに見ないし、ましてや女子小学生ならなおさらだ。指す相手が多いということで、将棋のほうがやる機会が多いが、じつは風太はチェスも得意だ。もっとも対戦相手はもっぱらパソコンのソフトだが。

 ためしにキングの前のポーンを前にふたマス進める。

 魔子はすかさず、同様にキング前のポーンをふたつ進めた。

 あれ? こいつ定石を知ってる?

 そのポーンを取らんと、キング側のナイトをはねる。魔子はクイーン側のナイトをはねて、防御した。

 ちょっと舐めすぎてたな。

 魔子の手順は、定石を知らないと指せない。

「ひょっとして、指し慣れてる?」

「まあね。だって外に出れないから、本を読むかネットで遊ぶしか楽しみがないんだもの。ネットチェスはよくやるよ」

「そうか、そりゃ楽しみだ」

「賭けようか?」

「悪いが子供から金を巻き上げる趣味はない」

「あたしだって、借金で困ってる人からお金取る気はないわ」

 意地悪そうな笑みを浮かべた。

 知っているのか? まあ、とうぜん、調べたんだろうが、とうの生徒に教えなくてもいいだろうが。

 風太はこの一族のやり方に、ちょっとむかついた。

「負けたほうは、勝ったほうのいうことをひとつ、なんでも聞く。どう?」

「いいぜ。もっともなんでもといっても、限度があるぞ」

「違法なことはなし。暴力もなし。人の心を傷つけるのもなし。エッチがらみもなし。これでどう?」

「オッケー。いいぜ」

 そうはいいつつ、負ける気はさらさらなかった。

 だが、局面が進むにつれて、風太は焦り出す。

「いっつもコンピューターとやってるでしょ?」

 図星だ。ネットで対戦相手を見つけるほど、嵌ってるわけじゃない。それにやるのは、いつもというより、たまにだ。

「こっちは生身の人間とやってるの。相手によって戦法は千差万別。コンピューターはワンパターンでしょ?」

 まさにその通りだ。もっとも最近のソフトはよくできていて、コンピューターもいくつかのパターンで対応するが、しょせん、数パターンでしかない。

 あっという間に、風太は劣勢になった。

「チェックメイト」

 魔子のそのひと言で勝負は終わった。

「マジかよっ!」

「さあって、なにをやってもらおうかな?」

 魔子が悪魔のようにほほ笑む。

 だが、その願いは最初から決まっていたらしい。魔子は切実な顔に変わった。

「あたしをここから連れ出して」

「え?」

 な、なに、その『あたしをさらって』命令。エッチがらみはなしなんだろ?

「勘違いしないで。ちょっと外に出たいだけ。お父様はぜったい外に出してくれないんだから」

 こっちの思ってることを悟ったのか、真っ赤な顔で、手をぶんぶん振りまわした。

 なるほど。いわれてみれば、昼間は日光を完全防御しないと出られないし、夜は小学生の女の子が出るには物騒だ。そうでなくても、この家の娘とわかればさらいたい輩がいても不思議はない。

「今からか?」

「ううん。ちゃんと計画を練ってからよ。誰にも見つからずにここを出て、誰にも気づかれずに帰ってくる。わかった?」

 ばれれば、あの親父に殺されるな。まちがいなく。

「ちゃんと話して、護衛をつけて夜出たらどうだ? あるいは完全防備で昼間出るか」

「だめよ。ふつうに遊びたいの。護衛なんて冗談じゃないわ」

「じゃあ、親父さんといっしょに……」

「ぜったいいや。お父様といっしょに外に出たことは何度かあるけど、いつも注目の的だったし」

 そりゃそうだ。

「じゃあ、お母さんとは」

「……それもいやなの。だって、この年で親と一緒じゃないと外に出れないなんて変でしょ? あたしはあくまでも友達と外で遊びたいのよ」

 まあ、その気持ちはわからないでもないが……。

「あんたなら、あたしの気持ちをわかってくれると思ったんだけどな」

 魔子は上目づかいで風太を見る。

「じゃあ、俺がいっしょだったら? 責任を持って連れ帰るっていっても許してくれないかな?」

「無理。前の家庭教師の人もそういってくれたけど、ぜったい許可しなかった」

 魔子は悲しそうに首をふる。

 そもそも護衛を兼ねるからこそ、あんな理不尽な採用試験を受けさせられたんじゃなかったのか?

 まあ、そういってもしかたがない。金持ちが貧乏人に対して理不尽なのは世の中の常だ。

「わかったよ。賭に負けたのは俺だ。まず、きょう説得してみよう。だめだったらやるしかない。だけど時間をくれ。方法を考える」

「ありがとっ」

 魔子は満面の笑顔に変わった。

 そのあとは魔子のオカルト話で続き、お役御免の時間となった。

「約束だからねっ。ぜったい忘れないでよ」

 そう念を押され、部屋から出る。

「先生、どうぞこちらへ」

 待ち伏せていたかのように、メイドのお姉さんにつかまる。連れていかれてのはどうやらダイニングルームのようだ。

「食べてったら?」

 ダイニングテーブルの席に着いていた奥さまがほほ笑んだ。ようは夕飯をいっしょにいかがということらしい。

 本来なら遠慮したいところだが、説得するにはいい機会だ。

「まさか、わしの作った飯が食えんとはいわんじゃろうのおお」

 隣接するキッチンから、着流しの親父が飛びだしてきた。

「い、いえ、じゃ、ご馳走になります」

「わはははは。それでいいんじゃ。なんせ、若いけんのぉおお」

 よくわからんが、食費が浮くのはいいことだ。

 すぐに魔子も同じテーブルにやってきた。メイドさんがテーブルに運ぶ料理は、ぶ厚いステーキやら、中華やら、焼き魚やら、和洋折衷で旨そうなものが次から次へと並んでいく。

「残したら、いかんけんのぉおおおお!」

 料理を終えたらしい巣豪杉家当主は、豪快に笑いながらやってきた。

 なんか知らんが機嫌はよさそうだ。そこで風太は切り出してみることにした。

「あのぅ。たまには魔子さんを外に連れ出してみてもいいですかね? もちろん、僕が責任を持って……」

「んんん? ちょっと耳がおかしくなったかのお? 家庭教師の先生が、わしの愛する娘を拐かしてどうにかしたいといっているような気がするが、気のせいじゃろうのおおおおおおお!」

 関羽親父の声は怒りに震え、吐く息は台風のように風太を吹き飛ばしそうな気がした。しかもただでさえいかつい顔が、らんらんと燃えるような目のせいで幽鬼のごとく。

「あはは。なに無茶なこといってんのよ。冗談うまいんだから」

 すぱーんと、奥さまのビンタが風太の後頭部を引っぱたく。

「なんだ、冗談か。先生はジョークのセンスがなないのぉおおおおお! うわ~っははははは」

 豪快に笑いながらも、その目は燃えさかったままだった。

 だめだこりゃ。なんか作戦考えないと。

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