第1章 しのとあけみの世界
第1話 素直と率直
不意にラジオから流れていた音楽がフェードアウトした。そして、流行りのポップスの代わりに聞こえてきたのは、駆け足気味に時刻を告げる女性の声だった。
その声に明美は手を止め、顔を上げた。
確認するように壁の時計に目をやると、退勤時間まであと十五分ほどしか残っていない。
「いつの間に……。」
作業に集中するあまり、時間を忘れていた。
明美の仕事は手作業を中心とするもの。細かいことを延々と行うのだが、明美はこの仕事が好きだった。
仕事をしている間は、まるで魂が抜け出るかのように思考は分離し、自分の世界へと浸かることが出来る。
その感覚がたまらなく気持ち良い。
他の人がどのように感じているかは分からないが、少なくとも皆時間を忘れ、自分の仕事に没頭していたのだろう。
明美が漏らした声に、周りに座っていた同僚が皆一様に驚いた表情を浮かべ、明美と同じように壁の時計を確認していた。
その姿に、彼らが自分と良く似た性質をしていることに気付く。
「類は友を呼ぶ」
ふと頭に浮かんだ言葉はとてもしっくりきた。今度から、心の中で彼らのことは『類友』と呼ぼう。そう決めて、明美は一人小さく笑った。
そんなことを考えている内に、気付けば、周りは片付けを始めていた。
明美も慌てて立ち上がり、掃除担当を申し出ると、『類友』と称された同僚達は慌てふためく明美をみて、おかしそうに笑った。
「っていうことがあってね、やっぱり彼女達は私に似てるなって。何時間も無言で自分の世界に入っちゃうんだよ。すごく優しいし。」
家に帰って、今日感じたことを志乃に話していると、「まあ明美さんは優しいですからね」とだけ返ってきた。
あとは、相変わらず聞いているのか聞いていないのか分からないような曖昧な相槌だけが彼女の口から漏れる。
志乃の目はスマートフォンに向けられており、軽快な音楽を鳴らす端末に固定された視線とは反対に手は忙しなく動いていた。
不意に端末から一際大きな音楽が鳴り響く。
その音と共に、志乃が小さく呻いた。
「うう、またアイテムドロップ無しか……。」
そんな志乃を気にすることなく話し続けていると、彼女は明美を一瞥してから、再び端末に目を落とす。
しかし、ゲームに飽きたのか、はたまた明美の止まらない話に集中力が切れたのか、志乃は数度端末を操作してから、それを床に置いた。
「明美の周りは素直な人が多いからね。自分の世界にも素直に入って行けるんでしょ。」
「ほう。」
「素直属性ってやつ。」
先ほどまでゲームをしていたせいか、志乃はキャラクターの分類のように、そう表現した。
「素直な人って強いんだよ。自分の中に存在しないものでも、スポンジみたいに吸収して受け入れられるから。」
そう言われ、明美は周りの人たちを思い浮かべてみた。確かに言われてみればそうなのかもしれない。
不意に周りの人の中に、目の前の彼女の顔が浮ぶ。志乃も間違いなく、明美の周りの人の一人だ。
なら、志乃も素直属性なのだろうか。だが、何となく彼女は毛色が違う気がする。
「志乃は?」
志乃は、二、三拍置いてから、「率直属性」と呟いた。
「素直」と「率直」は限りなく近いような気がするが、彼女がわざわざ言い換えたのだから、何か差異があるのだろう。
「素直とどう違うの?」と間髪入れず聞くと、志乃は少し考えるように視線を天井へと向けた。
それは、志乃が明美と話す時によくする仕草だった。
志乃は感覚で物を捉える。それを言葉で表現しようとすると難しく、変換作業に時間を要するのだと志乃は言っていた。
恐らく今もその変換作業とやらを行なっているのだろう。
明美はそれを邪魔しないよう、口を挟むことなく、志乃の言葉を待つ。
数分もしない内に、志乃が口を開いた。
「……素直属性は『表と中身』を、率直属性は『表と裏と中身』を見る。」
志乃の言葉に、明美は頭をもたげた興味に心が踊るのを感じた。
自分の目は間違いなく爛々と輝いているだろう。
色々な意味で自分の正反対の位置にいる志乃。普段の会話にこそ興味はないが、時折、彼女が話す”彼女が構築する世界”は面白かった。
自分の知らない世界。自分が感じたことのない世界。
そして、そんな彼女の世界を自らの中で分解し、”新たな思考”として生まれ変わる瞬間が明美はたまらなく好きだった。
志乃は明美と違って、人の感覚を自分の事のように捉えることは難しく、共感するという点に置いては普通の人より劣っていた。けれど、志乃は独自の視点で物事を見ており、それを拾っては自分の理論で構築しているようだった。それが志乃の話す「世界」だ。
結局の所、人生の楽しみの大半を「内側に世界を創造する」ことに費やしている二人は、対照的ながら最も近い位置にいるといえるだろう。
気付けば、明美は湧き上がる衝動をそのままに「どう違うの?」と食い気味に質問をぶつけていた。
そんな、明美に応えるように志乃は口角を上げ、「卵」と答えた。
「たまご……。」
何の脈絡もないように感じる単語に、明美が首を傾げていると、志乃は徐ろに立ち上がった。
彼女は、近くにあった冷蔵庫から、一般の家庭の冷蔵庫に殆どの確率で入っているであろう小さなソレを一つだけ取り出し、明美に渡した。
明美は手の平にすっぽりと収まった白い卵を三本の指で摘み、目の高さにまで掲げる。
そして、どこにでもある普通の卵から、”彼女の答え”を探る。
「ーー殻の表面が建前、裏面が計算、黄身と白身が本音?」
「概ねそう。細かく言えば黄身が本音、黄身を包む白身は…感情かな。」
様々な不安や恐れから本音を隠し、自分の利ばかりを求めて行動する人。
卵はそういう人を表しているのだろう。
明美はそう解釈し、頷く。
「明美、相手の言葉が建前や嘘だって気づいた時、それがどういう本音から来るのかも分かるでしょ。」
「認めてもらいたいんだなーとか?」
「そう。でも、その裏は考えない。その必要性を感じてない。」
「困らないからね。」
さらりと返してから、「ああ成る程」と再度頷いた。
志乃には相手の「人間らしさ」まで見えてしまうのだろう。
自分の心を守るために利己的な手段で相手をコントロールしたり、支配しようとしたりする人間らしい行動。
何故、嘘をつく必要があったのか?何故、建前で話す必要性があったのか?
その答えに行き着けば、明美はそこで終わるが、志乃はそこで止まらないのだろう。
何故、そうしなければならなかったのか?何故、その感情を持ったのか?
相手の本音を見て、そのままを受け取る明美とは違い、見透かすように、その本音のさらに奥を見る志乃は、確かに「素直」ではなく、「率直」と言えよう。
明美の視線の先にある卵は真っ白で、指の腹でなぞれば、サラリとした感触が伝わる。
この白さや肌ざわりが人間の購買意欲を掻き立てるために必要だと判断し、卵が意図的に実行したとすれば、それは志乃の言う「裏」の部分に当たるのだろう。
「卵はそんな意識で産まれてないと思うけど、まあそんな感じ。」
気づかぬ内に漏れ出た思考を志乃が拾うが、明美は既に自分の世界に片足を突っ込んでいた。
卵を床に置き、力を加えた方向へ、鈍い動きで回転する卵を見ながら、志乃が見せた世界を分解し始める。志乃の言葉を頭の中で反芻しながら、少しずつ咀嚼していく。
卵を頭よりも高い位置に持ち上げ、天井の照明に透かしていると、いつの間にか居なくなっていた志乃が「おやすみ」と横を通り過ぎて行った。
ドアが閉まる音と同時に、卵が指からするりと滑り落ちる。
「あっ……。」
静かになったリビングに、硬いとも柔いとも言えないものが割れる音が響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます