004 『オギュっち』

 カランコロンと、パン屋のドアベルが鳴った。

 カラフルなステンドグラスで飾られた入り口の扉が開いたのだ。


 魔法使いのお姉さんがパン屋から店の外に出てきたのかと思った。

 けれど、現れたのは――。


「やあ、パブロちゃん! こんにちは!」


 赤い三角巾さんかくきんで茶色いふわりとした髪を覆い、赤いエプロンを身に着けた小柄な少女だった。フランソワーズだ。

 父親の店の手伝いをしていたのだと思う。


 パブロが「お、おお」と声を漏らしながら、フランソワーズに向かって手を上げた。

 お姉さんのパンツを見た後だから、彼の反応はどこかぎこちないものだった。


「んっ? パブロちゃん、なんかあったの?」


 フランソワーズは普段はいつもパンを食べていて、頻繁ひんぱんに転んでパンツを見せてくれるだけの女の子だけれど、パブロのことに関しては昔からとても鋭いところがあった。


「い、いや別に……」


 赤髪の少年は、小声でそう答えた。

 まあ、魔法使いのお姉さんのパンツを見たとは正直に言えないし、言わないほうがいいだろう。


 ちなみに、パブロとマルクと私は、三人でよくいっしょにいたのだけれど、フランソワーズはいつも決まってパブロひとりだけにしか声をかけなかった。

 私やマルクのことは、彼女の瞳にはまったく映っていないようだった。


 当時のフランソワーズは基本的に『パン』と『家族』と『女友達』と『パブロ』のことしか見ていなかったと思われる。

 私は昔、フランソワーズの女友達がこんな冗談を口にしていたのを聞いたことがあった。


「あの子はパンにしか興味がないんだよ。将来は人間の男じゃなくて、『チョココロネのオス』とか『クロワッサンのオス』あたりと結婚するんじゃないかな?」


 チョココロネやクロワッサンに『オス・メスの区別』があるのかは知らないけれど、いっしょに聞いていた人たちは、みんな妙に納得していた。


 それにしてもパブロは、パンでもなく人間なのに、よくフランソワーズと仲良くなれたものである。

 パブロの恋の努力は、きちんと実を結んでいたのだ。


 人間の中では、パブロは他の恋のライバルたちより一歩も二歩も先を走っていた。

 だから、そろそろ彼はチョココロネやクロワッサンのオスに勝つ方法を、まじめに考える段階だった。


「ねえ、パブロちゃん。やっぱり様子が変だよ」

「そ……そんなことはない」

「道に落ちていたパンでも拾って食べたでしょ?」

「で、では……道に落ちていたパンを拾って食べたということで……。拾い食いして、す、すまんかった……」


 パブロはおかしくなっていて、パンの拾い食いなんてしていないのに謝罪した。

 お姉さんのパンツを見たと告白するよりかは、やってもいない拾い食いをやったことにして謝ったほうが気が楽だと考えたのだろう。


 パブロを見かねたのか、マルクが二人の会話に口を挟んだ。


「パブロは落ちていたパンなんか食べちゃいないぜ。罪悪感という名の飴玉が、少しのどの奥に詰まってしまって、さあ大変って感じだな」


 マルクはパブロに助け舟を出そうとしたのだろうけど、ちょっとダメな感じの助け舟だった。

 フランソワーズは、マルクがいったい何を言っているのかわからないという表情で小首をかしげた。


「んっ? パンに飴玉を挟んで食べたってこと?」


 やはり、伝わっていなかった。

 うんざりしたような顔で、マルクは首を横に振った。


「なんでそうなるんだよ……。あんた、パンのことを一度忘れてくれないかな?」

「……って、わあ!? パブロちゃんの他にも人がいたんだっ! 男の子が二人もいる!?」

「いたよ! 今ごろ俺たちの存在に気がつくのかよ!」

「えっと……キミたち、誰だっけ? パブロちゃんとよくいっしょにいる人たちだよね?」


 私もマルクも、名前すら覚えてもらっていなかったのだ。

 マルクは、胸の前で腕組みをし、不満そうに口をとがらせた。


「俺たちのこと本当に覚えていないんだな! 前に何度か自己紹介したこともあるし、数えきれないほど顔を合わせているはずだし、何年も前から知り合いのはずなのにな!」

「ご、ごめんなさい。パンと女友達の名前だったら、すぐに覚えられるんだけど……」


 赤い三角巾と茶色い髪を揺らしながら、フランソワーズはぺこりと頭を下げた。

 マルクは口をとがらせたまま話を続けた。


「へえー。それじゃあ、パン屋で人間の大きさくらいある巨大な食パンを焼いてもらってさ、それで俺の身体をサンドしてパンの仲間にでもしてもらったら、さすがのあんたでも俺の名前をいいかげん覚えてくれるのかね?」

「キミ、食べ物で遊んじゃダメだよ!」


 フランソワーズは、まじめな口調で普通に怒った。マルクは皮肉を込めて冗談を口にしたわけだけど、彼女にはうまく伝わらなかったのだ。

 皮肉も冗談も伝わらない相手とは会話がし辛そうで、マルクが気の毒だった。


 フランソワーズはそれから、私に声をかけてきた。


「んっと、確かキミは……トンカチくんだよね?」


 私は、父親からもらった木槌を使って、よく町の物を叩いていた。ハンマー術の修行のためである。

 そのため町の人々から、『トンカチくん』だとか『ハンマー坊や』とか、『クレイジーハンマー』とか、『クレイジー地質調査』『クレイジー道路工事』『クレイジー大工』なんて、色んな呼ばれ方をされていた。


『トンカチくん』と呼ばれた私が、黙ったままこくりとうなずくと、マルクが言った。


「んっ……まあ、わかっていると思うが、そりゃ、こいつの本名じゃないぜ」


 マルクは、私の肩をぽんっと叩きながらこう続けた。


「本名はオーギュスト・フジタだよ。俺やパブロやあんたよりも、ひとつ年下だ」

「オーギュスト・フジタくんね」


 フランソワーズは――本当に覚える気があったかどうか疑わしいが――私の名前を口にした。


「まあ、俺たちは『オギュっち』って呼んでいるけどな」


 そう言って銀髪の少年は、今度は私の背中をぽんっと軽く叩いた。


「うん、わかった。トンカチくんは、オギュっちくんって呼ばれているんだね。それで、さっきからなにかとうるさい銀髪のキミは……わたしが転んだときなんかに、パンツをじっとエッチな目つきで眺めてくる人だよね。名前は知らないけど、顔はよく覚えているの」

「うっ……。俺、そんな覚えられ方なのかよ」


 マルクは落ち込んだような表情を浮かべた。

 いつも明るくて騒がしいマルクだけど、けっこう傷つきやすいハートの持ち主だったりするのだ。


 ただ、フランソワーズの指摘通り、マルクが彼女のパンツをエッチな目つきでじっと眺めている場面を、私も過去に何度か目撃したことがあった。

 彼女の主張は事実だ。

 だから、マルクのことを擁護ようごすることはできなかった。


「と、とにかく……俺の名前は、マルク・ハセガワだよ。俺はパブロの親友なんだから、そろそろ名前くらい覚えてくれよな」

「それは本当にごめんなさい、エッチな目つきの人」


 フランソワーズは、銀髪のエッチな目つきの少年に向かって申し訳程度に頭を下げた。

 ずっと黙っていたパブロが、フランソワーズにこんなアドバイスをした。


「フランちゃん、二人の名前をメモか何かに書いて覚えたらどうだろうか?」


 私の友人の赤髪の細マッチョ少年は、普段は口数が少なくどちらかといえば硬派こうはなイメージだった。

 けれど、自分の好きな女の子とは「フランちゃん」「パブロちゃん」とお互いをイチャイチャ呼び合う感じだったのである。


「メモなら持っているわ、パブロちゃん」


 少女はエプロンのポケットからメモとペンを取り出した。パン屋のお手伝いで使っていたのだろう。

 フランソワーズは、まず私に尋ねてきた。


「じゃあ、キミの名前をもう一度確認させてね。えっと、トンカチくん……じゃなくて…………チャパティくん?」

「はあー! チャパティくんって誰だよっ! 『フジタ』くんだよ、オーギュスト・フジタな! チャパティってのは、何かパンの名前か? びっくりするくらい、ぜんぜん違うぞ」


 私が口を開いて訂正するよりも先に、マルクがそう大声を出した。


「ごめんなさい、オーギュスト・フジタくんか」


 フランソワーズは私に謝罪すると、続いてマルクに尋ねた。


「それで、えっと……銀髪のキミは……。パニーニ・ハトシくん……だったっけ?」

「ぬあぁああああっ!? パニーニ・ハトシくんって誰だよっ!? その名前、どこから出てきたのっ!? 俺はマルク・ハセガワだよ! あんた、絶対わざと間違えているだろっ!?」


 マルクが少女に詰め寄ると、パブロが彼の肩をポンポン叩きながら謝った。


「すまん、マルク」

「なぁーんでお前が謝るんだよ、パぁーブロぉお! はあー!?」


 マルクはそれから、私に向かって言った。


「オギュっちも黙っていないでさあ、こういうときはきちんと相手の間違いにツッコむべきだぜっ!」


 私は少年のころ、どちらかというと無口だった。

 けれど、おそらくこの日のこの出来事がきっかけとなり、マルクが私に彼なりの話術をいそいそと仕込みはじめた。


 そのおかげか私は、大人になるころにはすっかり無口な人間ではなくなっていた。

 相手がおかしなことを口にすれば、ツッコめるようになったし、ときどきはマルクのように皮肉を込めた冗談を言えるような大人になったのである。

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