第5話 檻人《おりじん》

私はその日から、夏休みを含む三か月の強制的な休学になった。


結果として、2週間後に結核の疑いは晴れた。

陰性という結果と

吐血の原因は、重度のストレスによる気管支炎という診断だった。


しかし、その2週間の間に、私は大病院の精神科に連れてかれて、精神分裂病や危険な薬物の使用を疑われて、脳波から薬物検査、心理テスト、精密検査、カウンセリング、いろいろ受けさせられていた。



当時はまだわかっていなかったが、私はアスペルガーとADHD、

その発達障害特有の感覚過敏も、きっと影響していたのだろう。



「私は狂ってない、本当に見える、感じるんだ」

と医師に訴えれば訴えるほど、事態はどんどん悪い方にすすんだ。


精神分裂病で幻臭は起こらない、こんなケースは見たことないと言われ、


あげく自律神経失調症と受験ノイローゼという病名がついた。



虫やビー玉の幻覚が、授業中に頻発したのが、受験ノイローゼと診断された原因になった。

環境が変われば幻視がなくなるかもと、精神病院の閉鎖病棟に2週間、入院させられた。

30人くらいの精神分裂病患者や薬物依存性の人がいる鍵のかかった大部屋に、15歳で放りこまれる。


リアル「ショーシャンクの空」精神病院版だ。


そこは人間の尊厳なんてない世界。


廊下を歩けば、薬物中毒で、金属バットを持って暴れる少女がいる。


(どこから金属バットを手に入れたんだろう)



きちんと正座して、上品に笑ってるかと思えば、おしっこをその場でして、


濡れたスカートでくるくると踊り出すお婆さん。


薬物中毒者の人は、全身をはい回る幻覚の虫を追いかけ、


頭の中から聞こえる声とよくおしゃべりしていた。


そして、5年、10年もずっとこの精神病院にいるという人が、何人も何人もいた。



みな、幽霊のように表情がなかった。


私は、ここから出られるんだろうか、


学校に戻れるんだろうかと、


夜布団にくるまって、全身を貫く恐怖に耐えた。



そしてここでは、死が日常だった。




私は、大部屋でいるのが苦痛で、


一日1時間の外出許可をもらって、よく喫煙所に行った。


タバコは吸わないけど、そこが病院の中で一番、まともな人が多い場所だったのだ。


喫煙所で本を読んでいると、


りゅうさんという15年くらい病院に入院しているオジサンが来て、


私たちは本の話をよくした。


龍さんは、「本を読んでてエライ」と言って、私を喫茶店に連れて行って、パフェやケーキなどを食べさせてくれた。


いつも同じ服を着て、痩せて、無精ひげこそ生えていたけれど、


龍さんは優しかったし、話も頭もまともに見えた。



ある日、喫煙所に行くと、その龍さんの顔が、


ひどくドス黒く濁ってみえた。



あれ?どっか悪いのかなって思って、


「龍さん、体調悪くない? 内科の診察を受けた方がいいよ」


と私は何気なく言った。


龍さんは

「大丈夫、大丈夫、明日、家族が来て外泊すんだ。


も、元気元気よ」


と笑って言った。


龍さんの体調の心配をしたくせに、体の具合が悪くなったのは私の方だった。


その夜から、原因不明の微熱とだるさが出て、私はしばらく外出禁止になった。



三日後、私が喫煙所に行くと龍さんがいなかった。


珍しいなと思って、そこにいた男子棟の看護師に


「龍さん、どうしたの?」

と聞くと


「三日前に脱走して行方不明になったんだよ」

と返ってきた。


「え!私、三日前に龍さんに会ったよ」


看護師は、私の顔を見て、少し声を潜めて言った。


「・・・で、今日、川に落ちて死んでたのが見つかったよ」


「じゃあ、龍さんには、もう会えないの?」


私がそう言ったのを看護師さんは


龍さんと最後のお別れがしたいという意味に取ったようだ。


「あー、やめといた方がいいよ。


かなり腐ってるから、見ない方がいい」


その言葉を聞いた時、


私は


うつぶせに川に沈み、

腐乱したぶよぶよの白い肉で、いつものよれよれシャツとズボンを、


パンパンに膨らませた龍さんの死体を、見たような気がした。



私は、龍さんがいきなりいなくなった、


そのことにただ、呆然としていた。そんな私の視線の先に、


喫煙所でタバコをふかす若い男の人がいた。


その人の顔は真っ黒で、いなくなる前に見た龍さんの顔と同じ色に見えた。


そうだ、確かこの人は


「うつ病で、たびたび自殺未遂を起こして、病院に入院している」


と龍さんに話していた人だ。



私は、吐き気をこらえて、その場を離れた。


その若い男の人が、差し入れのお饅頭に洗剤を混ぜて食べて自殺したと聞いたのは、

退院してからだいぶたってからのことだ。



それよりも30人の大部屋で、顔の黒く見える人がいる方が、私には怖かった。

ここには老いも若きも関係なく、たくさんの自殺未遂の常習者がいた。


私の目の前にいる、顔の真っ黒に見える女の子は、17歳。

薬物中毒で、バットを振り回していた女の子だった。


彼女が自殺をして、死んだかどうかは、私は知らない。


ある朝、起きたら、

いきなり、いなくなっていたからだ。


毎日、目に映る、彼女の顔に貼りつく黒い影も、

夜中に鍵付きドアが開けられる音と、バタバタと看護師さんが駆け回る足音を聞いたのも、

全部全部、幻覚なんだと私は思いたかった。


血まみれの天井も、あるはずのない匂いも、ラップ音も相変わらず、私の周りには溢れていた。


でも目の前にふらふらしてる霊なんかより、自分で自分を殺す、壊す、人間の狂気の方がどれほど恐ろしいか、思い知らされていた。


「私は絶対、狂ってない」と自分に何度も言い聞かせ、


学校の授業で習ったクラシックを、何曲も何曲も、頭の中で繰り返し繰り返し再生し、


その曲の歌詞を作り続けた。


そうやって目の前の阿鼻叫喚から、目を逸らした。


(そのときに作った歌詞は、


大人になった今も、すべて思い出せるくらい、


私の中にある。)




受験ノイローゼという診断のせいで、


勉強道具が全て持ちこみ禁止だったのも辛かった。



面会に来た校長から、


「君の精神は普通の学校には向いてない。


陶芸の専門学校に推薦するから


そこでゆっくり静養して、


技術を習得するのはどうだろう」


と言われた。


私はまだまだ色んな知識を得たくて学びたくて、


高校、大学に進学、大学院まで行きたいのに、陶芸なんて習う気はなかった。



(数学は壊滅的にできなかったけれど、それでも好きだった。)


こんなことで私の将来が奪われてはたまらないと思った。

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