生きるのが辛いって、一度ぐらい考えたことはある?


 喉が乾いたなーってくらいの同じ感覚で、死んじゃおっかなーって考えたこと。


 今日、学校行きたくないなって感じ。

 今日、生きるの辛いなって感じ。


 そういうのを繰り返して生きてきた。


 考えるのが億劫で、ただ働いて、ただ生きる。

 楽しみなんてない。

 食べることは生きるために自然と行うことだし、排泄と変わりない。寝るのは疲れたから。

 誰かから良く思われたいなんて気持ちは、とうの昔に消え失せていた。




 そんな風に世間をシャットアウトしていたら、周りだって関わりたくないだろう。

 あたしに声を掛けるのは、仕事で必要な最低限のやり取りだけ。

 それで良かったし、それが良かった。


 でも、ある日、どこかの誰かに言われた。

「あんた、そんな顔してたらダメだよ」

 どんな顔?

「ほら、おいで。飴、あげるから」

 飴。

「まったくもう。おばちゃんはね、あんたみたいな顔した女の子、見るのは嫌なんだ」

 見なきゃいいのに。

「でも、しようがない。目に入っちゃうからね。ほら、食べな。嫌がるんじゃないよ。食べな。ったく、野良猫でももっと素直に食べるよ。毒なんて入ってないから、ほら」

 大きな飴をぐいぐい押し付けられて、口の中に入れられた。

 あたしに、嫌なことをする人はいっぱいいた。

 でも、このどこの誰か分からない人は、嫌なことをする割には嫌に思えなかった。

「あんたね、鬱だか何だか知らないけど、そんな青白い顔でフラフラ歩いてんじゃないよ。ちゃんと寝て、ちゃんと食べな。嫌なことあったら、口に出しな。どうにもならないことは世の中に掃いて捨てるほどあるけどね! いいかい、あたしは、今の政治が――」

 その人はよく分からない話をずっと、続けた。

 時々、あたしにも何か言えと言う。

 おかしな人だった。


 すると翌日、また別の誰かに声を掛けられた。

「吉田さんが言ってた子よね。あなた、可哀想な子なんだってね。良かったら、その先でパン屋やってるのよ。寄りなさいな。余り物のパンだけど、あるから」

 別の、どこかの誰かは、

「こういう偽善ってのは好きじゃねえんだけどな。吉田のババアが煩くていけねえ」

 お風呂屋さんだと名乗った人は、あたしを女湯に放り込んだ。


 激安服店をやっている人は、「余り物」をアパートの玄関前に置いていった。

 初めて顔を見る隣の部屋の人が、

「あんた、ゴミを押し付けられてんの? 嫌なら嫌って言わないとさ」

 そう言って中身を見てくれた。

「あー、まあ着れないことはないか。あんたの今の服よりゃマシだね」

 言いながら、中からマフラーを取った。これは使えそうだから、と。

 そうしたら後で部屋へやって来て、

「もらいっぱなしはヤなんで、これ、お返し」

 持ってきたのは鍋に入ったオカズだって。なんていう料理かは分からない。見たことがなかった。

「何とか言いなよ。ったく。まあ、そんな上手じゃないけどさ。肉じゃが。食べなよ。別れた旦那には、美味しいって言われたんだ。じゃあね」

 隣の部屋から子供の声が聞こえた。

 そうだ、この狭いアパートに子供が二人いるんだった。そのことを何故か唐突に思い出した。


 何故、子供がいることを知っているのか。

 ということまでを思い出した。

 雪の日、鍵をなくした小さな子供が二人、扉の前で蹲っていたのだ。

 あ、昔のあたしだ、と思った。

 あの時すごく寒かったな。誰か助けてくれないかなって思ってた。でも誰も助けてくれなかった。それが普通のことだって知って、大きくなった。

 だから、震えてる二人を通り過ぎ、部屋に入った。

 でも、今ここで小さな子供二人を暖かくしたら――。

 あの時のあたしも暖かくなるような気がした。

 だから、おいで、って家に入れた。

 何にもない部屋だけど、拾ってきたコタツはあったし、少しぐらい電気代がかかってもいいよね。だって、この子供はあたしだもん。あたしがあたしのために使うんだから。

 子供二人はコタツに潜り込んで、まるまってた。

 その日の晩ご飯の、半額になった菓子パンをあげたら、仲良く半分にして食べてた。

 あたしは、昔のあたしがお腹いっぱいになれたらいいなと、思った。



 飴の人とも、あたしは出会っていた。

「どうせ、あたしのことなんて忘れてるんだろうけどね。あんた、ボーッとした顔して、転んだあたしを助けてくれたんだよ。通行の邪魔だから、って言ってたから、その時はムッとしちゃったけど」

 覚えていなかった。

 パン屋とお風呂屋の人は飴の人の知り合いで、何か言われてあたしに声を掛けたそうだ。

 名前を覚えていないことに呆れられたけど、やっぱり飴の人と同じように見かけたら声をかけてくる。

 変なの。



 服屋の人は、子供が二人で震えているのを見たのに、通り過ぎたそうだ。

 それが心に残っていた。重たかったんだって。

 誰にも言えなかったって。

 お風呂屋の人が、

「やらないより、やる偽善だもんな。柄じゃねえんだけど」

 そう話しているのを聞いて「これは偽善だ」と考えるようになったらしい。

 偽善なんだから少々わざとらしいことをしても構わないって、言い聞かせるんだって。

 自分に言い聞かせるの?

 変なの。


 パン屋の人は、自分が幸せに生きるためには、上も必要だけど下も必要なんだと笑っていた。

「あの人はわたしよりも下なんだーと思うと、優越感に浸れるのよ。こんなこと他の誰にも言えないけどね。あなた、誰にも言わないものね」

 パンを無造作に袋に詰めながら、パン屋の人は笑う。

「もっと生活が楽になりたいって思うのは、上に誰かがいるからよ。あんな風になりたくないって思うのは、下の誰かの苦労が理解できるから。でもね――」

 袋をあたしに押し付けて、パン屋の人は笑顔を止めた。

「あなたみたいな顔を見るのは嫌なの」

 あたしみたいな。

「生きても死んでもどっちでもいいって、諦めるとか、それ以前の顔」

 世を拗ねて諦めているだけなら気にしていない。そう言って、パン屋の人はあたしの腕を叩いた。

「わたしね、嫌な顔して働いてたことあるのよ。その時レジで、お客さんが言ってくれたの。『忙しいのね、お疲れ様。いつもありがとうね』って。一瞬、上から目線の発言? なんて穿ったこと考えた。でも、すぐに違うって分かった」

 声を掛けてきたお婆さんが、どう見ても「上」の人間には思えなかったからだそうだ。

「……思いやりって一方的で傲慢で、時に大きなお世話だったりすることあるでしょ。でも、自分が言われて嬉しい言葉を贈るぐらいは、いいかなと思ったのよ。偉そうに聞こえるかもしれないしプレッシャーに思うかもしれない。でもいいの。だって、わたしは嬉しかった。それに言葉ってタダでしょ?」

 口角がぐいと上がる。パン屋の人は、タダは良いよ~と、あたしの腕をまた叩いた。

「そのうち自腹でうちのパン買ってよ。安くしとくわ」

 頭を下げると、早く出て行けと手を振られた。




 仕事場で、話しかけられた。

「この間、ごめん」

 何が?

「……仕事押し付けて。なのに、自分のポイントにしなかったって聞いて」

 そうしたら、他の誰かも話し始めた。

「無視してごめん」

 そうだっただろうか。でも、仕事の話はしたはずだ。

 だから、首を横に振った。同僚は深刻な顔になった。

「……いじめられてるのに気付かないから、バカって言ったし」

 すると他の人が割って入った。

「この子、リーダーに怒られたの。ちゃんと謝ってこいって」

「リーダーって、ちゃんと見てるんだね」

「係長も見てるよ。他の子も怒られてたもん」

 何人かの子たちの話し合いを、あたしはボーッと見てた。そしたら、一人の子が言った。

「ほらあ。そういうところがダメなんだよ。ちゃんと話に混ざりなよ」

「ちょっと。あんたも、それがダメだってリーダーに言われたんじゃない? 人それぞれなんだから。コミュニケーション取れない性格? 能力の人もいるって、リーダーが言ってたじゃん」

「そーだけどー」

「あんたも、そうとうヤバいよ? 分かってる?」

 えーやだー、と言いながら仕事に戻っていく。

 彼等を見送りながら、あたしは「変なの」と呟いた。


 呟いてから声がガラガラだって気付いて、そして独り言が出たことに驚いた。


 変なの。




 でも、不思議。

 変な気持ち。


 ふわふわした、なんだかおかしな気持ちで仕事をしていたら、リーダーに呼ばれた。

「この三ヶ月見ていて、まあ、仕事ぶりは真面目だから。一年契約にしようと決まった。どうかな?」

「……よろしくお願いします」

「声が小さい」

「よろしくお願いします」

「うーん、まあ、しようがないか。うちは、対外的なことは事務方がやるしな。もうちょっと、社員同士のコミュニケーションを上手くやってもらいたいが」

 頭を下げると、リーダーは頭をコツンと叩いた。

 頭を叩かれて痛くないのは初めてだ。

「仕事自体は丁寧にやってくれて、助かってる。手も早い。集中力もあって、あいつらよりずっとノルマも達成できてるからな。だから、プラマイゼロってところか。お前の苦手な部分はどこかで補うとする。ただ、気にはしていろ。分かったか?」

 頭を上げたが、よく分からなかったので返事はしなかった。

 あたしがボーッとしていたからだろう。リーダーは溜息を吐いた。

「人と、会話のキャッチボールをしようってことだ。苦手でも前向きにな。頭の片隅に入れておいてくれ。無理して喋らなくてもいいが、だからといって努力しないこととは別だ。お前が、皆とコミュニケーション取ると死んでしまうってんなら違うが。……おい、もしそうなら言ってくれよ。こっちも事前対策ってのが必要なんだ」

 首を横に振った。

 呆れた顔をするリーダーに気付いて、あたしは声にした。

「死なない」

「……そうか。ま、先は長いな」

 リーダーは変な顔であたしを見た。

「うちの社長は訳あり社員を雇い入れるだけ雇い入れて、後は勝手にってタイプでな。俺もそうだったけど、まあ、お前もそうとうなもんだ。よく面接通ったな」

 面接はしていない。社長が拾ってくれたのだ。ここで働きなさい、と連れてこられた。

「ま、顔色も良くなってきた。なんとかなるだろ。這い上がるにゃ、まだ時間はかかる。でも、それは自分自身にしかできないことだ。自分なりに頑張れや」

 頷いて、それから声にも出した。

「うん」

「……返事がなあ。まあ、それも、そのうちな。とりあえず、これだけ聞いてくれ。いいか?」

 リーダーは膝を落として、あたしと目線を合わせた。

「世の中は不条理でできている。嫌なことや不幸なこともたくさんある。でもな、どこかで見ている人がいる。見てくれている。……時に間に合わないこともあるだろ。死んでから讃えられたって意味がねえって思う画家とかの話もあるし。でも、確かに『見ている』人はいる。それにな、誰が見てなくても、自分は見てんだよな。その心に恥じないように、生きてみろ。まずはそれからだ」

「うん」

 変なのって、思った。

 でも、頷くより先に言葉は出た。




 誰かが見てる。

 あたしの心も見ているらしい。

 その心に、自分に恥じないように、生きてみる。


 よく分からなかったけれど、最近覚えたことから、始めることにした。

 小さいあたしを助けたり、偽善でもいいからできることをしたり。

 上がいるなら上を見て、下がいるならどうして下なのかを考えた。


 そのうち、レジの人に「いつもありがとう」って言ってみよう。

 上とか下とか関係なく、なんとなく嬉しい気がするから。

 あたしも、ありがとうって言ってもらえるように、生きてみてもいいと思うから。


 相変わらず生きるのって大変だし辛いなって思うこともある。けど、なんとなく、まだもうちょっと生きててもいいんじゃないのかなって気もしてる。

 ただ、なんとなく――。


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