ベージュのパンプス
草太の目の前で、綺麗なふくらはぎが規則正しく動いている。
きっとタイツの中は、程よい筋肉のラインが片方ずつに現れて見えていただろう。
残念ながら、今は冬だ。そして、いくら階段を登っている最中とはいえ、あまり凝視するのも良くない。
男の性として、ついつい美しい目の前の「おみ足」を眺めていたけれど、そろそろ視線を外そう。
そう、考えた時、肌色のタイツの先にあるハイヒールが何かに躓いた。
おみ足の持ち主と草太は、十段ほど離れていた。けれども、思わず仰け反ってしまった。なにしろ躓いたのとは反対側の足が、後ろ側へ、馬が暴れるかのように振られたからだ。
ラッキースケベなことは期待しなかった。考えもしなかった。
ただ、危ない、蹴られると思っただけだ。
スカートの中身に興味がないなんてことはないが、咄嗟にそこまで考えるほど、草太は頭が良くない。
そして、前のめりになって転んでしまった女性は、その場に蹲ってしまった。
したたかに脛や膝を打ち付けたようだ。
蹴るように振られた足の先からはハイヒールも飛んでいった。
地下道の、近道側だったので辺りには誰もいない。
深夜に近い時間、ここで女性を見捨てるほど草太は人間が悪いわけでもない。
ただ、恐怖だった。
親切に声を掛けて、それが女性に嫌がられたりはしないだろうかと。
それを考えると、もう苦しい。
でも、ううっと呻いている女性が可哀想なことに変わりなく、草太はそろそろっと不審者のように近付いた。
「あ、あの、大丈夫ですか」
大丈夫じゃない。どう見ても大丈夫じゃないに決まってる。でも、咄嗟に声に出たのがこれだから、仕方ないじゃないか。草太は女性と話すのは得意でないし、これでも一生懸命なんだ。どうか、叫ばないでほしいと願いながら、草太はおろおろと続けた。
「き、救急車を、呼びましょうか?」
そこまでじゃないと思う。でも、普通、転んだだけでこんなに呻いて動けなくなるものか。
草太には分からない。
とにかく、早く何とか返事をしてほしいと願うばかりだ。
「あの……」
「すっ、すみませ、ん」
女性の声に、草太の心臓はドッと跳ねた。返事が来た。しかも、怯えてるのでも怒ってるのでもない。
すみませんと、言われた。
草太は逸る気持ちを抑えて、小さく問いかけた。
「あの、どう、すれば良いですか?」
「いえ、大丈夫、です。すみません……」
これは、どう判断すれば良いのだろう。
恥ずかしいから見るな離れろと思っているのか。あるいは、草太を怖がっていて、早くどこかへ行けと思っているのか。
でも、こんな誰も通らないようなところへ、女性を一人残していくのは人道的でない気がする。
「あ、えっと、とりあえず靴を、持ってきます、ね」
飛んでいった靴を、数段駆け下りて取りに行き、戻ってきた。
女性はまだ転んだ時の格好だ。
かろうじてスカートで隠れているが、裾は乱れていた。太腿がチラリと見え、その際どさにドキドキする。
その時、気の回らない草太はようやくハッと気付いた。
タイツが破れていて、素足が見えている。彼女の手も震えていた。きっと寒いし、恥ずかしいはずだ。
草太は急いでコートを脱いで、掛けてあげようとして、一瞬立ち止まった。
怖がられないように、ゆっくりしなければと気付いたのだ。
「あ、あの、立てるまでの間、寒いでしょうから、その、これを」
「え?」
スカートの上に、投げるように渡した。
女性は驚いて、それからようやくのように草太の顔を見た。
草太は恥ずかしかったし、女性に不審者と思われるのが怖くて俯いてしまった。だから、どんな表情だったのかは知らない。
変なものを見る目だったら、立ち直れないだろう。
だから、目を合わさない方がいいのだ。
「……あの、ありがとう、ございます。すみません」
「いえ。えっと、あの、本当に救急車は?」
「あ、大丈夫です。かなり、痛みは収まってきました。でもちょっと挫いたかもしれなくて」
「えっ」
「少し、時間を掛けて立ち上がってみます。ただ、その――」
声が小さくなっていったので、草太はつい女性を見てしまった。
すると、女性の耳が赤くなっていることに気付いた。
寒い?
いや、違う。
草太もよく、耳を赤くする。
これは、恥ずかしいのだ。
「立ち上がる時に、変な、格好になりそうで。つまり、その――」
「あっ、あ、すみません! 僕、邪魔ですね!」
「いえ。あの、親切にしてもらって、なのに、ごめんなさい!」
二人して、大声で謝って。
不意に草太はおかしくなった。
それは彼女もだったようだ。
彼女は、ふふっと小さく笑うと、その後すぐに「あーもうー」と声を上げて笑った。
「ええと、年甲斐もなく階段で転んで、照れてしまいました。あの、良ければ助けてもらえますか?」
彼女は突然、ハキハキと喋り始めた。
その滑らかな話し方は、彼女の格好にも似合っていると草太は思った。
最初に後ろ姿を見た時、ピンと伸びた格好良い背筋や、ツンと伸びるふくらはぎの線。きっとこの人は仕事のできる人なのだろうと想像していた。
草太は、そんな彼女に助けてほしいと頼まれたのだ。
なんだか嬉しくなって、はいっ!と声を上げていた。
草太は三十六歳の、冴えないオッサンだという自覚はある。
頭は良くないが、仕事は真面目にコツコツとやってきたつもりだ。
小さな工房の細工師をやっていたが、不況の煽りで倒産してしまった。その後は工場を渡り歩いて暮らしていた。
一人で暮らしていくのがやっとの給料だし、草太の見た目は冴えないオッサン。
朝から晩まで働いているから、太陽にも当たらない。真っ白い肌の小太りのオッサンだ。
彼女のような、立派なキャリアウーマンと知り合う機会なんて一生ないはずだった。
この手助けが、唯一の思い出になりそう。そんなことを考えながら手を貸した。
一応、差し出す前にはハンカチで何度も手を拭いた。彼女は、首を傾げていたので、草太の気持ちは分からなかっただろう。
とりあえず、靴は両方とも脱ぐというので、横に退けてあげる。
それから、コートの手の部分をくくって取れないようにし、立ち上がることにした。スカートを押さえながら立ち上がることは困難と、判断したようだった。
草太は手を差し出しただけ。
さすがに体に触れる勇気はなかったし、セクハラだと言われたら泣いてしまう自信がある。彼女も、支えてくれとは言わなかったから、これ幸いと腰の引けた状態で手を貸した。草太の、白くて丸い手を。
「すみません、じゃあちょっと、お手を拝借して――」
「は、はい」
「うっ、よっ、ととと……」
彼女は痛みのためか、立ち上がる途中からギュウッと目を瞑った。眉間に皺が寄って、よくよく見ると、もしかしたら同年代の人かもしれないと草太に思わせた。
草太と同年代でキャリアウーマンだったら、すごいのだろうなあと夢想する。
でも、知らない世界のことだからか、モヤモヤとした想像で終わってしまった。
それに、彼女も立ち上がってしまった。
「ふうっ……ああ、痛い。結構、きてるかも」
「だ、大丈夫ですか? 病院に行った方が――」
「そうですね、これは行った方がいいかも。あ、すみません。助けていただいて」
「い、いえ」
「コートも、クリーニングしてお返しします、ってこのままじゃお寒いですよね」
「あ、いえ、それはその」
差し上げると言っても、彼女はこんなもの要らないだろう。
それに、父親から贈られたコートだから、やっぱり帰してもらいたい。でもクリーニングしてもらうということは、また会うということだ。
草太は、それはいけないと思った。
このご時世だ。変に狙っていると思われるのは怖い。冴えないオッサンがコートを貸したからと、ストーカーのようになるなんて……。
妄想が続いたところで、彼女が困ったような笑顔で草太を見た。
「お帰りまで、どれぐらい時間がかかりますか?」
草太に話しているのだと気付くまでに2秒。
その間、草太は、目まぐるしく考えた。今までにないほど、考えた。
草太はこの時ほど、賢ければ良かったと思ったことはない。
「あ、あの、歩いて10分ほどのっ、アパートに、だから、コートは別に!」
「……では、明日の夕方にお届けします。クリーニングの特急便を使えば、その頃には終わってると思いますから。大変申し訳ありませんが、ご住所とお名前をお教えくださいませんか?」
そんな……。草太の顔は悲壮だったに違いない。
何故か草太は、彼女が草太をストーカーとして訴えるところまで、走馬灯のように想像してしまったのだ。
だって、どうしても、彼女が親切に対してお礼をしようとしているなんて都合の良いことを考えられなかった。
「いっ、いりません! と、とにかく、病院に!」
「あ、はい」
「たたた、タクシーを。そうだタクシーだ! 救急車じゃなくてタクシーですねっ!」
「え、ええ、そうですね。タクシーだったら」
「よっ、呼んできます! すぐ、すぐです。階段上がってすぐ、裏通りですけどっ、タクシーが抜け道でっ、いつも危なくて!」
「……ええ、わたしもそれを狙って、ここを通るので。では、タクシーを呼び止めていただけますか? わたしは、ゆっくり上っていきます」
彼女の顔がどこか唖然としたものから、やがて笑みに変わるのを、草太は横目に眺めた。でも最後まで見ていられず、慌てて走って駆け上っていた。
心臓が爆発するのではないかというほどドッドッと音を立てる胸や肺を、草太は静かにしろと怒鳴りつけたい気分だった。
落ち着いて、早くタクシーを呼び止めたい。
それがまた、こんな時に限ってタクシーは通らないのだ。
いつもはガンガン走っているのに。
彼女が来て、立っていられなくなったらどうするのだ。
早くしろと内心で悪態をついていたら、ようやくタクシーが見えた。
草太は目の前に走り出るようにしてタクシーを止め、怒鳴られながらも、必死の形相で訴えた。
運転手は、草太の剣幕に驚いて、ハザードランプを付けてくれたのだった。
待っててくれと何度も頼んで、草太はまた階段を駆け下りた。
彼女は十数段しか上がっていなかった。
「あ、あの、タクシーが」
「もう停めてくれたんですか? ありがとうございます。でも、もう少し、かかりそうなんです」
「……にっ、荷物を持ちます」
彼女はタイツのまま階段を上っていた。挫いた足でハイヒールが履けるはずなかったのだ。
そして、仕事鞄らしいものを片手に抱えながら、必死で上ってきていた。
草太は本当に気が回らない自分を呪った。
それから、ものすごく考えて――彼女が階段二段分上ったぐらいの時間――、それからしゃがんだ。
「え?」
「あの、嫌でしょうけど、痛いのより、マシかなと思って」
「……背負ってくれるんですか?」
「は、はい。僕みたいなの、嫌なのは分かります。で、でも、痛いでしょうからっ」
少しの間、無言が続いた。
草太はやってしまった、と思った。
覆水盆に返らず。
草太は考えて、なかったことにしようと立ち上がりかけた。
しかし、その肩に、柔らかいものが触れた。
「あの、わたし結構重いんですけど、大丈夫でしょうか」
彼女の手だった。
草太はかーっとなるのを感じながら、大丈夫、今ならフルマラソンだって走れるはずだと思った。
「こっ、こんなデブですがっ、あなたみたいな細い人ぐらい、運べます!!」
「そ、そう……」
「火事場のバカ力です!」
それはない、と思った。
思ったけれど、草太はもうヤケクソになっていた。
そして彼女もまた、ヤケクソだったのだろう。
クスと笑う声がしたものの、その後にはすぐ、草太の背中に体を預けていた。
絶対落とすものかと、思った。
万が一を考えて、前のめりに立ち上がったが、大丈夫だった。
何が重いのだろう。
そうか、彼女は謙遜したのだ。
草太はますます、彼女の「できる」部分に触れて、尊敬した。
さっきからハキハキと話し、上手く話せない草太にもキレたりしないのだ。こういう人は仕事ができる。
もしかしたら、後でいろいろ言うのかもしれない。
でも、目の前で言われないのなら、草太はそれで良かった。
あからさまに態度に表す人も多い中、草太を変な目で見ないのも嬉しかった。
良いことをしたと思えるのも、嬉しかった。
草太は、階段を上ってタクシーへ彼女を乗せるまでの間、もっと続けば良いのにと悪いことを考えた。
あっという間のことだった。
忘れないように、靴も取りに戻って渡した。
それから、何度も聞かれた住所は、最後まで言わなかった。
このまま別れた方が、良い。
だって、もう一度会ってしまったら、草太は彼女を好きになってしまう。
そんな目で見てしまうだろう。
その時、彼女が草太を見る目が、変わるのは見たくない。
草太は臆病だった。
自信もないし、そして大変な怖がりでもあった。
亡くなった父親は、草太のおとなしくて覇気のないところでも、可愛らしいよと言ってくれた。
おばあちゃん子で、小さい時からふくふくしていたが、そういうところも含めて認めてくれた。
母親はチャキチャキしていたから、よく怒っていたけれど、草太を嫌っていたわけではない。その証拠に、小学校で虐められたら、怒鳴り込んでくれた。
草太にとっては止めてほしいことだったし、恥ずかしいことだったけれど、母親が草太のためにしたことは分かっていたので我慢した。
元気いっぱいだった母親が死んだのは中学生の頃。
それ以来、父親と二人で暮らした。
おっとりした父親は、草太が社会人になって三年目に病気で亡くなった。
以来、草太は一人暮らしだ。
寂しいなあと思う。
でも、しようがない。
こういう生まれに付いたのだ。
その日も、一人でのんびりご飯を食べるつもりだった。
アパートから、近くのスーパーにお鍋の材料を買いに行こうとしていた。
コートがないから寒いな~なんて思っていたら、草太の前に彼女が現れた。
「ようやく見付けました」
「え」
「歩いて10分のアパート、探し回りましたよ」
「あ!」
「足が痛いので、大変でした」
「あっ、す、すみません!」
草太が謝ると、彼女は笑った。
「そこで謝っちゃダメですよ。あなたは悪くないのに。ところで、そろそろ夕飯時ですが」
「あ、はい」
「お腹が空いてしまったんですけど、このあたりで良いお店、知ってますか?」
彼女が行けそうなお店は、どこだろう。
駅前かな。でもそうなると、また歩く。足が痛む彼女では大変なはずだ。というか、タクシーで来たのだろうか。足は大丈夫なのか。
足元を見たら、スポーツシューズを穿いていた。そんな格好もどこか格好良い。
「歩くんですか? できれば近いところで、一緒に食べませんか」
「えっ、僕と食べるんですか?」
「……あ。……あの、もしかして、部屋でご家族が待っておられるとか?」
「いえ。僕は一人です。天涯孤独の身で、だから、ええと」
「でしたら、一緒に食べてくれませんか? わたしも、独り身で、一人のご飯は寂しいんです」
その時、草太は始めて、彼女をちゃんと見た。
彼女という人間を見たのだ。
独り身で寂しい――。
そうだ、彼女も、生身の人間なのだ。
いつも颯爽と歩く、キャリアウーマンの彼女。傷一つないハイヒールに、皺のないスーツ。ピンと伸びた背。常に美しくまとめられた髪の毛。
違う世界の人だと思っていた。
草太からすれば、違う世界の人間だった。
「お礼に奢らせてください、というのは建前で。どうでしょうか。あの、これでも結構、勇気を出してるんですけど……誰も信じてくれないんですが……」
小声になっていく彼女に、草太は被せるように返した。
「行きます! 行きましょう! 僕ももう、一人で寂しい食事は嫌だったんです!」
これが、どういうものかは分からない。
どういうものになるのか、彼女がどういうつもりかも、草太にはどうでも良かった。
ただ、今、草太と彼女には確かに共通項が生じたのだ。
食事をして、その後クリーニングされたコートを受け取って、どうなるかは草太と彼女次第。
お友達になれるかもしれない。
あるいは、もしかしたら――。
そんな想像をしてもいいのだと、草太はほんの少しだけ思ってみた。
これは誰にも言えないことだが。
草太は、あの日のハイヒールにちょっとだけ感謝している。
躓いてくれて、ありがとうと。
あの美しかったベージュのハイヒールは――パンプスと言うらしいが――、転んだ拍子にスエードが破れてしまって、使い物にならなくなったようだ。
でも、記念にと残されていた。
それを見るたび、草太は思う。
お前が躓いてくれたおかげで、今がある。ありがとうね、と。
毎朝出かける時に、こっそり柏手を打っていることを、彼女はたぶん知らないだろう。
草太は、そう、信じている。
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