第10話

「清・・・」


ばりりと凍りついた瞼をこじ開け、天を仰いだ。


その瞳に、太い氷柱となった竿が映る。


青山は虚ろな意識の中で、氷柱にしがみついた。


これに掴まり、よじ登れば井戸の外に出られる、今度こそ助かる。


氷柱に巻きつけた腕を上へと伸ばす。


体重を片足から氷柱に移す。


その瞬間、ばちゃっと大きな音とともに足元の戸板が回転した。


「うわっ!」


戸板の回転に巻き込まれて井戸の底に引きずり込まれるのを、どうさばいたのか、青山にはわからない。


そして今、足元には首のないお菊がいた。


お菊の体が青山の足の間に、ぐっしょりと濡れてぷかぷかと揺れていた。


首がないのに、お菊が嗤っているのが青山にはわかった。


そうか、お菊の霊は俺を許さぬか―。


斬られる瞬間のお菊の目の色が青山の中で蘇った。


「私をお斬り捨て下さい」


ひどく冷たい目であった。


嫌な男に自分を娶せようとする父の手先。


皿を割って困らせる位ではまだあきたらぬ憎い男。


そんな氷の刃を黒目に宿していた。


自分を斬ればその後、青山がどうなるか、お菊が知らなかったはずはない。


自分のために父親に殺される若い旗本男子、そんな人身御供をお菊は最後に欲した。


あの伊万里の皿もわざと庭石めがけて落として割ったか。


氷柱にとり縋る青山の腕から力が抜けた。


どうにか井戸から這い上がったとして、丹波守からお菊の行方を追及されて、生きて青山家を守ってゆけるとは思えなかった。


ここで氷の眠りにつき、我が身を重石に井戸の底にお菊と共に沈む、それ以外に青山が家を守る道はない。


折角お主が命を投げ出してくれたのに、俺はもう助からない。


すまぬな、清―。


青山はもう一度だけ皿を数える清の声が聞きたいと思った。


清は皿の数を一枚、二枚と数えることで、「自分が借り物の大事な皿を割った」と周りに訴え、井戸の中で凍える青山が絶望しないよう励ましていてくれた。


だがもう青山の体には、冷たい氷柱に帯と褌のない雪まみれのはだけた着物姿で掴まり登り上がる力は、微塵も残っていなかった。


青山はゆるゆると氷柱から離れると戸板に伏せ、お菊の体を抱いた。


「…?」


お菊の体がでこぼことしている。


捨てて三日、井戸の中で腐り始めたか?―


薄目を開け、お菊の体を確かめた青山の口からふはっと力のない笑いが漏れた。


お菊の首の切り口には丸々と肥えた黒鯉が大きな口を寄せ、ぱくぱくと咀嚼していた。


井戸に落ちる数日前、青山は清に


「鯉を腐らぬようにせよ」


と命じた。


清は知恵を絞り、鯉を活き飼いし永らえさせることにして、中庭の井戸の縛めを解き、蓋を開け、このうまそうな肥えた黒鯉を放り込んだのだ。


お菊の着物に溶けた麩がはりついていた。


律儀にも清は毎日、鯉に餌を与えていたようだ。


清に井戸の蓋を開けさせたのは俺だったか。


それでは清を恨むわけにはゆかぬな。


青山は最後に笑って、瞼を閉じた。

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