第9話

お菊に抱いた欲情の記憶は、微塵も青山の体を温めはしなかった。


すでに全身に雪が重く積もっている。


この一昼夜の間、眠らずにいたが、もう青山には凍りつく瞼を開けていることはできなかった。


いよいよ立ったまま凍え死ぬという時に胸をよぎったのは、昔、川端で見た土左衛門の姿だった。



死体を検める同心が胴巻きの中の銭を一枚、二枚と数えていた。


土左衛門が上がる前後には、やけに川で鯉が獲れる。鯉は腐臭に寄せられるのだ。


そういえば井戸に落ちる前に食べた膳にも鯉があった。


そう思った瞬間、しくっと甘く口中をはねる鯉の味が青山を貫いた。


井戸に落ちてから初めて感じる狂おしい空腹だった。


俺はまだ生きている。


まだ生きているぞ!! 誰か―。


声にならない声が体の中を衝く。


だが、誰も応えてはくれない。



つい先程まで微かに響いていた下女の声は、いつの間にか止んでいた。


褌と帯で出来た氷の竿は、今にも膝が折れ力尽きそうな青山の横で、井戸水に刺さり立っていた。


次々と降りしきる雪がまといつき、少しずつ少しずつ太さを増していた。


だが、上下しっかりと貼りついた瞼に遮られ、青山はその雪の竿に気が付かない。


凍てつき痺れる頭に、微かに光が瞬いた。


そうだ、下女の名は「清」と言ったか―。


先日の鯉が載った膳を下げに来たのが、この下女だった。


鯉の煮つけがあまりに美味く、


「これは、また十日続けてでも食べたいものだな」


と青山は声をかけた。


「恐れながら…いくら冬でも二日で腐ってしまいます」


どうやら清は、あまり利口ではないらしい。


冗談を額面通りに受け取る清の真面目な口ぶりが可笑しくなって、青山は


「そうか。


 ならば、そちの知恵で腐らぬようにせよ」


と命じて下がらせた。


半ば冷たい眠りに落ちかけながら、清の思い出に青山は薄く笑った。


が、そこで頭に炎が灯った。ハと気づく。


清が皿の数を数え出したのは、自分がこの井戸に落ちてからのことだと。


それまでは縛り上げられ鞭打たれ苛まれ、


「私が皿を割りました」


という言葉以外、清は口にしなかった。


打たれて割ける皮膚の痛みにも怯まず、清は顔を上げ、目を怒らせ竹を振るう青山を見つめていた。


その時は、何と強情なと怒りを募らせた。


だが、もしかしたらあの時も今も清は青山をかばい、救おうとしてくれていたのか。


激しい雪鳴りが青山の頭上で女の細い声に変わった。


「お慕いしております。青山家もその主であるあなた様も」


まさかと耳を疑う。


だが、それは紛れもなく清の声色だった。


「私を殺して、皿を割った罪を私に着せて下さい。


 そうしてあなた様と青山家はどうかどうか生き延びて…」


声は温かな雪のように青山の全身に降り注ぐ。


昨夜、竹を振るいながら


「こやつまで殺したくない」―


そう懊悩する青山の姿を、清はその命の最後の喜びに、我が目に焼き付けようと見つめていたのだ。


思い返せば、清は最初から十枚目の皿が割れていることを知っていた。


空の桐の箱だけを見たなら、「盗まれた」、或いは「どこかで使われている」と考える方が自然だ。


だが、清は自分から「私が割りました」と言った。


清はきっと、三日前のお菊と自分の庭先でのやりとりから斬り殺すところまで見ていたに違いない。


大名家に輿入れの決まっていたお菊を斬ったと知れれば、青山の腹一つでは済まない。


青山家にも重い罪が科せられる。


清は使用人として、自分が皿を割ったと名乗り出ることで、家と青山を守ろうとしたのか。


お菊が死んだあと、一日の間、床に臥せるお菊になりすまして帯刀らを欺いたのも、清だったのだ。


雪鳴りの中、どれだけ耳を澄ませても、清の声は、もう聞こえない。


寒さに耐えかね、青山より先に絶命したのだ。


先程青山に聞こえたあの声は生きている者の声ではなかった。


やるせない怒りがわいた。


そして、頑丈に蓋をしたはずの井戸が開いてさえいなければ俺はここにはいなかった―。


生への執着が、井戸を開けた何者かにやるせない恨みを抱かせた。


おのれ、誰が、一体…。

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