第7話
「七ま~い、八ま~い、九ま~い」
その時、皿を数える声に混じって、人が庭を走る足音が、微かに井戸の中に響いた。
足音の幾つかが井戸の傍で止まる。
頼む、気付いてくれ―。
青山は足踏みながら、桶に竿を当てた。
桶に積もった雪が、どさっと青山に落ちかかる。
井戸の外にいる者は、そこを通るのに松の枝が邪魔だったようで、広げた傘を井戸に立て掛けた。
途端にその傘が井戸端の話し声を拾って、井戸の中へと落とした。
「先刻、お菊様付きのお女中から聞いたのだが、お菊様の荷物は一つ残らず屋敷から
なくなっていたそうだ」
「お菊様がいなくなって、もう一昼夜経つが、やはりお菊様は縁談嫌さにお逃げに
なったか。
そうさよな、相手が六十過ぎの翁では無理もあるまい。
それよりも我らが殿の行方が心配よ。
昨日からお姿をお見かけしないが、まさかお菊様と駆け落ちなどではあるまいな」
「うちの殿がそのようなことをするわけがない。
きっとお菊様の出奔を知って馬で追っておられるのだ。
厩に殿の馬がないのが何よりの証拠。
我らもお菊様を探しに行かねば。
すでに女子衆は全て町へ探しにゆかせた。
あとは屋敷の男総出で街道を行くばかりか。
なに、か細い女の足、街道に出てもそうは遠くに行けまい。
何としても青山の家名にかけてお菊様を連れ戻さねばならん」
その強い語調はどうやら帯刀のものらしい。
帯刀の胸中に渦巻く丹波守への恐れが、男総出という思い切った采配に出ていた。
「おお、井戸の桶が鳴っておるな。
風が強まってきたな。
一刻も早く行かねば」
二人は、桶の鳴る音にせかされるように駈け出した。
傘が井戸から取り去られ、あとには積もった雪が全ての音を奪いさる無音となった。
その無音の中、青山は混乱した。
お菊は二日前に死んでいるはずだ。
しかし帯刀たちはお菊が消えて一昼夜と言った。
奴らはお菊の幽霊でも見たのか―。
だが、そんなことよりも…。青山は揺れる戸板の上で、がくりと首を折った。
実は屋敷から消えたお菊の荷物は、青山が着物から印籠、懐刀まで一切を風呂敷で包み、重石として戸板に括り付けて沈めてしまったのだ。
お菊の体と戸板が浮いてきたということは、重石は外れて井戸の底だ。
そして馬を繋ぐ綱を切り、厩の戸を開けたのも青山だ。
お菊が家宝の皿一枚と共に、この屋敷から出奔したように見せかけたつもりだった。
だが、それが裏目となった。
家の者はほとんどがお菊を探しに屋敷から出てしまい、あとに残ったのは、雪の軒先に肌襦袢一枚で、縛られ吊るされた瀕死の下女一人きりである。
「九ま~い、九ま~い、九ま~い、ああっ、一枚足りな~い…」
下女の声はまだ続いている。
もう寒さに狂ってしまっているのか。
なぜ、皿を数えるのか。女というものはわからぬ―。
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