第12話 1969年

チタさんは、1974年のマリーナより、もっと前に、村と自分の体を使って、実験をしていたのかもしれない。


愛や人の理性というものが、どれだけもろいものか、その美しい体を、無抵抗な物体にすることで、証明しようとしていたのかもしれない。



チタさんの手紙を持って、私は村に帰った。


けれどチタさんは、すでに亡くなった後だった。


その最期は、ひどい苦しみようで、かつての美貌も見る影もないほどだったという。


加奈さんの家で、チタさんは亡くなった。


「遺言は?」


私が、加奈さんに尋ねると


「幸せだった」


と返ってきた。


え?


私は耳を疑った。


加奈さんはもう一度、言った。


「死ぬ前に、『幸せだった』と言ったの、チタさん。」



それから、私はチタさんがどこから来たか、やっと知ることができたのだ。


加奈さんは言った。


昔、キュウドウさんから聞いた話と、死ぬ前にチタさんから聞いた話から、

たぶん、そうじゃないかと思うのー。と



ユーゴズラビアの民族浄化の時、来る日も来る日も上官が叫んだ言葉、


「女を性的容器とだけみなせ」。


あれと同じような言葉が、かつてこの日本でも何度も何度も、何人もの何百人もの女性を蹂躙した。



キュウドウさんは、太平洋戦争で出兵した。


南の島マニラで、2発の鉄砲を食らうまでは、満州や国内の兵屯地にいたという。


その頃、日本軍性奴隷制、いわゆる「従軍慰安婦」を上官に命令され、買いに行けと言われた。


いやだと抵抗したキュウドウさんは、


「兵たるもの、そんなたるんだことを言うな。


 女の顔に風呂敷をかぶせて、性的容器と思えばいいんだ」


と殴られたという。


さらに、


「元気づけにヒロポンを打ってやるから行け」


と上官に言われて、キュウドウさんは逃げ出した。


翌日、兵舎に帰ってきて、キュウドウさんは上官にボコボコに殴られたという。


性格的にキュウドウさんは、どうにもそういうことが苦手で、そういうところに仲間に連れていかれても、何もしないで、時間いっぱいまで話をして帰ってきたそうだ。



上官に殴られても、従軍慰安婦にそういうことをしなかったキュウドウさん。


なんだか、とてもキュウドウさんらしかった。



加奈さんは言った。


「たぶん、はっきりとは言わなかったけど、チタさんは従軍慰安婦として

 キュウドウさんに出会ったんじゃないのかしら。


 死ぬ前に話してくれたの。


 キュウドウさんから『愛知県の知多半島の生まれなんだ』と、聞いた

 から、チタという名前にしたんですって。


 でも私は、キュウドウさんから、そんな話は聞いたことないから、頭に鉄砲

 の弾が入って、記憶が飛んでしまう前のことでしょうね」


「わたしは、海から来たのさ」


チタさんは私にそう言った。


チタさんは、嘘なんて言ってなかった。


チタさんは、確かに国境という海からやって来たのだ。


どんな人も苦も無く、受け入れていたチタさん。


あれだけ、荒んだ性生活だったのに、妊娠しなかったチタさん。


加奈さんは言った。


「たぶん、あまりにひどいことがあって、終戦の時にはもうチタさんは妊娠

 できない体になっていたんでしょうね」



私は、わかるような気もしたが、やっぱりチタさんがわからなかった。


「でも!


 何も家も持たないで、あんな生活しなくても。


 やっと解放されたんだから、幸せになればいいじゃないですか」



佳世さんが泣くような顔で言った。


「忘れられなかったから、チタさんは、この日本に、この村に来たのが

 わからないの?」


そこで、ようやく私は気が付いた。


「忘れられなかったのは、従軍慰安婦としての地獄じゃなく、キュウドウさん

 のやさしさか…」


日本語がうまくて、頭がよくて、都会的だった、チタさん。


それは全部、全部、この日本で普通の人として生きてくために、彼女が必死で身につけたものだったんだろう。


私は加奈さんを見た。


「でも、キュウドウさんの方は、頭に弾を受けて、記憶がいろいろなくなって

 いて、チタさんのことは覚えていなかった」


そして、何よりキュウドウさんは、加奈さんを愛していて、加奈さんと暮らしていた。


キュウドウさんと暮らすことは叶わなかったチタさんは、通いのお手伝い、村の慰安婦という形でしか、キュウドウさんのそばにいられなかった。


「キュウドウさんに、自分のことを思い出してほしかったんだね」


こんなのって、おかしい。



チタさんを思い出して泣きそうになった私に加奈さんが言った。


「泣いちゃだめよ、私も絶対に泣かない」


え?


「チタさんはね、私がキュウドウさんより先に死ぬのを待っていたの。


 そうすれば、床に臥せりがちなキュウドウさんと、ずっと一緒に過ごせる

 から。


 でも、自分の方が乳がんになって、先に…。


 この村にはチタさんのせいで、離婚した夫婦や、一家離散した家がたくさん

 ある。


 きっと、女の人たちの恨みがね、癌になって、チタさんのお乳に憑りついたのよ」


私は、加奈さんの顔を見て、それから、仏壇の前に敷かれた布団を見た。


見覚えがある。


これはチタさんが一昨日、亡くなった布団で、キュウドウさんが死ぬまで、この家でずっと使っていた布団だ。


「でも、加奈さんは乳がんになった、余命の短いチタさんを引き取ったじゃない

 ですか?

 

 キュウドウさんの布団を、チタさんにあげたじゃないですか」


と言いかけて、やめた。


「チタさんは、今、どこに?」


加奈さんは、さばさばした口調で言った。


「キュウドウさんの載った新聞記事と一緒に、火葬場で灰にしちゃった。


 さすがに永野の墓にも、キュウドウさんのお墓に入れたくなくって、

 困ってるの。」



そう言われて、私は気が付いた。


ああ、それが、チタさんが東京の私に手紙を書いた理由か。


「いいものを用意して待ってる」


と手紙には書いてあった。


いいものは、チタさんの遺灰だ。


チタさんにからかわれたお風呂事件を思い出して、最後までチタさんらしいな、と私は笑った。



「引き取ります」


私がそう言うと、加奈さんがホッとしたような顔をした。


「どこかの海に、私が散骨してきますよ」


加奈さんは頷いた。


「そうしてちょうだい」

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