第8話 1957年

チタさんと約束した、その翌日。


俺は一人、旅館の女風呂に入って、チタさんを待っていた。


父さんや母さんに知られたら、恐ろしいことになるのはわかっていたが、俺はどうしても、チタさんの秘密が知りたかった。



チタさんは謎がいっぱいだった。


チタさんは、どこからやってきたのか?


どうして、あんなことをするのか?


両親の話では、終戦直後に、この村にひょっこりやってきたのだと言う。


そしてそのまま、うちと「永野・坂田家」に、通いのお手伝いさんとして来るようになり、そのまま、村にいついてしまったという。


チタさんというのは、苗字なのか名前なのか、母親に聞いてみたが、


「絶対に本名じゃないだろうけど、戸籍もないし、わからないわ」


と返ってきた。


当時は、そういう時代だった。


戦争で南の島に行かされて、頭に2発、銃弾を受けたキュウドウさんも、終戦後に頭に弾を入れたまんまで、戦争に行く前の記憶もあやふやで、ふらふらと村にやってきて、永野佳代さんの家に居ついてしまった人だ。


チタさんやキュウドウさんだけじゃない、そういう人が、周りにはいっぱいいた。


朝鮮から連れてこられて、終戦後、そのまま日本で暮らし始めた人だとか、広島から来た戦争孤児だとか。



私はざぶっと音立てて、一人きりの湯船に潜った。


湯船のお湯越しに、浴場のタイル絵を見上げる。


青い富士山。


こうやって、お湯の中から富士山を見ていると、自分が海の中にいるような気分になってきた。


私は目をつぶって、体をお湯に浮かせた。


どこにも寄る辺がなく、漂って、どこかに流れつくのを待つ、ヤシの実になりきって。



子どもの無邪気さを装って、私は何度もチタさんに聞いたものだ。


「チタさんはどこから来たの?」


チタさんは、嬉しそうに笑った。


「ん、わたしはね、海から来たのさ」


人魚姫でもあるまいし、子どもだましだと思ったが、


「ちゃんと本当のこと、言えよ」


と私が怒って、何度、しつこく尋ねても


チタさんはにこにこして「海から来たのさ」としか答えなかった。


と、その時、ガラッとガラス戸が開いて、急に人が入ってきた。


「チタさんだ」


そう思った私は、チタさんの裸を見る勇気がなかった。


心臓がどくどく鳴った。


湯船の海が、私の心臓の音に合わせて波のように揺らめいた。


チタさんを驚かせて笑わせてやろうと、私は湯船の底に潜り込んだ。


やがて、ひたひたと、誰かが濡れたタイルを近づいてくる足音がした。


「わぁー、ひろーい」


ん! チタさんの声じゃない。


でも、どこかで聞き覚えのある声だ。


「ほんと、広いわねえー」


大人の女の人の声だ、でもチタさんじゃない。


その声が続ける。


「ほんとにいいですかあ、ただで入らせてもらって」


「ええ、全然かまいませんよ。


 マルヨの旦那さんと奥さんからちゃんと許可をもらってますから」


これはチタさんの声だ!


「よかったわね、エナ」


私は、心臓が飛び出すかと思った。


エナって、もしかして、同じクラスのエナかよ!


大人しくて、かわいくて、みんなから人気のあるあのエナかと。


驚いた私はお湯をうっかり飲んでしまい、思いっきりむせて、ぶはっと音立てて、風呂の湯から飛び出した。


そこには、かけ湯しようと湯船のすぐそばにきていた、真裸のエナがいて、目を丸くして、私の裸を見ていた。


そのあとのことは、あまり覚えていない。


人間、あまりにも驚くと思考が停止して、記憶もなくなってしまうものらしい。


エナのお母さんが、


「自分の家のお風呂なんだから、女湯に入ったって、いいわよねえ」


とわけのわからない助け船を出してくれ、私はほうほうの体で、女風呂から逃げ出した・・・ような気がする。

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