第4話 1957年
ざっざっと音を立てて、竹ぼうきでチタさんが、私のうちの庭を掃いている。
映画か何かのシーンのように、朝日を浴びたチタさんはすがすがしい顔をしている。
「おはよう、坊ちゃん」
でも、チタさんは、昨日も一昨日も、今夜も明後日も、近所のどこかの家で、男女のことをして、眠って、それから毎朝、私のうちにやってきている。
私がそれを知ったのは、いつだったか。
小学校4年生くらいだったのだろうか。
自分の家、旅館の大浴場に浸かっていた時に、入ってきた大人たちの話で、私はそれを知った。
横山さんというお爺さんが入ってきて、私の横に沈んだと思ったら、そのしわしわの鳥ガラのような体が
「おお、ナギさん。
昨日、ついにチタさんが俺んちに来たよ」
という言葉を響かせた。
洗い場で体を洗っていたナギさんという50くらいの太ったおじさんが
「あー、ついに来たか。
よかったなあ。
なるべく長くいてくれるといいけどな。
こればっかりはチタさん次第だからな。
で、どうだったあ?」
「どうもこうもねえよ。
ありゃあ、×××がよくて、×××が××」
何を言っているか、私はよくわからなかったが、そういうことなんだなということは、横山の爺さんの膨らんだ鼻の穴の大きさでわかった。
二人は、私にはよくわからない言葉を、やりとりしていた。
「だっはははは!」
ナギさんが風呂桶を抱えたまま、いきなり笑い出した。
「横山さんも好きだなあ。
ああ、そういや、奥さんはどしたの?」
横山さんは、照れたように言った。
「昨日から、実家に帰ってるわ」
「あー、それがいいかもなあ」
私は頭が混乱した。
それから、いろいろな近所の話を総合してみると、チタさんは誰にでもついていき、どこの家にでもいき、お金は一切とらず、求められれば、体を与えているということがわかった。
数日、その家にいるかと思えば、一日で出ていったり、滞在期間は本当にチタさんの気分次第だった。
私はチタさんが恐ろしかった。
うちは旅館だ。部屋ならいくらでも余っている。
従業員用の住み込み部屋だってあるのだ。
私の親も佳代さんも、ちゃんとお給料を払ってる。
家を借りるくらいのお金はある。
チタさんくらい綺麗で頭がよかったら、結婚だっていくらでもできるはずだ。
どうして、あんなお爺さんや太ったおじさんにまで、惜しげもなく、体を与えてしまえるのかわからなかった。
住むところがないから、泊まり歩いているんじゃなくて、チタさんは、自分の意志でそうしているのだ。
妊娠や性病になるのが怖くないのだろうか?
いや、チタさんの本当の恐ろしさを実感したのは、
「昨日、チタさんが家に来たよ」
を女性の口からも聞いた時だ。
戦争未亡人の明子さんというその人は、惚けたような顔で私の母にこう囁いたのだ。
「死んだ亭主なんかより、チタさんの方がずっといい…」
勉強を教えてもらっているとき、チタさんに聞いてみたことがある。
「チタさんは男の人と女の人、どっちが好きなの?」
「ん?
別にどっちも。好きでも嫌いでもない」
それは本当に、どうでもいいという口ぶりだった。
チタさんは、いわゆる淫乱というもので、そういうことが好きでたまらない人なのかと思っていたら、そうでもないらしい。
お腹が減ったから、ごはんを食べる。
そういう生理的な欲求で、男女のことをするという熱すらなかった。
呼吸するように、チタさんは、近所の家を泊まり歩き、性別を問わず、アレをした。
もし、私が無邪気に
「その辺の野良犬や牛とでも、チタさん、できる?」
と言ったなら
「ああ、そうだね。
じゃあ、してみようか」
と言い出しそうな、そんな怖さがあった。
もし、そこら辺の田んぼのトラクターに意志があって、
「よう、チタさん。俺と一発、どうだい?」
などと言われたら、
「ああ、いいよ」
と頷いて、平然と裸でトラクターにまたがるような人、それがチタさんだった。
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