第3話 1974年

パシャッ


マリーナに対して最初に動いたのは、カメラを持っている人々だった。


一度、誰かのカメラのシャッター音が切られたのを合図に、あとは堰をきったように彼らはカメラのレンズを覗き込み、夢中でシャッターを押し始めた。


間断なくたかれるフラッシュにも、パシャパシャパシャパシャと会場に響くシャッター音にも、マリーナは動じずに、舞台の上に立っていた。


「右手を上げて、体を横向きにしてくれないか」


誰かの声がした。


マリーナは、すぐにそのポーズをとった。


腕を上げて体が横向きになると、マリーナの豊かな乳房の大きさと充実感が空気を伝わって、はっきりと観客の目に映った。


「目を閉じて、顔を伏せてくれ」


マリーナは、従順にそうした。


きっとこの時の彼女に羞恥などなかったろう。


けれど、目を閉じ、顔を伏せた、ただその仕草だけでマリーナが何かに屈服させられたような、可憐で弱い花のように、観客の目には映った。



会場には、男だけではなく、女性も同じくらいの数がいた。


彼女たちは、目の前にいるマリーナをどう扱っていいかわからないようだった。


ただ、何が起こるのだろうという好奇心だけを、どの女もみな一様にその目に滲ませていた。



数十分が過ぎた。


緊張は喉を乾かせる。


ボーイからワインを受け取って一息にあおった観客が、グラスをボーイに返すと、マリーナに歩み寄った。


トトトトトッ


彼はグラスを取ると、水を注いだ。


彼の手の中のグラスには、マリーナの体が揺れて写りこんでいた。


「あなたも喉が渇いたでしょう。


 私が水を飲ませてあげましょう」


彼はそう言うと、マリーナの唇にグラスを押し当てた。


男の手で、グラスが斜めに持ち上げられる。


マリーナは、ほほ笑んだような口元でそのグラスの傾きを受け止め、白い喉を揺らせて、水を飲んだ。


「ごくり」


とマリーナが水を飲む音と、観客が唾を飲む音が会場の中で、同調した。


それはとても優しい時間だった。


そして、私の背後から、若い男がにゅっと飛び出してきた。


どうやら彼は、マリーナのパフォーマンスに賞賛したいと願ったようだった。


彼はテーブルの上のバラの花に手を伸ばし、それをマリーナに捧げた。


マリーナは、にっこりと微笑み、バラを受け取った。


その微笑みが、会場の空気を一変させた。


会場にいる者みなが、温かな気持ちで一体になり、すべての物質がマリーナを愛しているようだった。


「キスしてもいいだろうか」


その独り言を言った男性は、静かにマリーナに近づき、彼女の手の中のバラに手をやると、その花弁に優しく触れた。


そして、その手をマリーナの首に回して、彼女の白い頬に口づけた。


パシャパシャパシャ…。


いっせいにシャッターが切られた。



男の唇を頬で受けたマリーナは、とてもとても美しかった。


会場の空気は、とても穏やかで温かく、私たちは、マリーナの精神世界の中にいるようだった。


それは羊水に包まれているように温かく、年齢も職業も思考も人間性も自我も、すべてを手放したくなるような不思議な空間だった。


その中に取り込まれた私たちは、テーブルの上に並べられたワインやナイフ、弾の入った拳銃と同じように、マリーナの求める芸術の小道具に過ぎなかった。



数時間が過ぎた。


その温かな空間を切り裂いたのは、一丁のハサミだった。

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