第4章~埋もれた真実~
「やぁルノ。ここにいたんだ」
名前を呼ばれ、ルノは呼んできた主の方を見る。
「・・・ネア」
「何?どうしたの?」
ネアと呼ばれた女はそう言いながら屋上の縁に座る我の横にしゃがんだ。
ここは例の廃病院の屋上。日が傾いてかなり肌寒い。それをわかっていながらルノはここにいて、ネアも話を聞く姿勢を見せた。
「奏太は、大丈夫なのか?」
「あー、やっぱり気になる?そうだね、結論から言うと治療は成功したよ。細かくひびの入った骨。伸びた筋に裂けた腱。視力の失った右目も回復したし、おまけに精神に纏った呪いも解いた。あとは、『パラシティカリー』の魔性生物もいたから回収して処分したよ」
相当無茶をしたということが奏太の傷からよく伝わった。そして、何とも言えない罪悪感を覚えた。
「して?治療は、ということは他に何か問題があったのか?」
「それがね。無茶に無茶を重ねたからか、それとも本調子じゃない体で魔力を使いすぎたからなのかはわからないけど、かなり衰弱しちゃってる。今は死んだように眠ってはいるけど、あいつを殺すわけにゃあいかない。ってなわけで、現在うちの治療班が頑張っているよ。だから安心していい。あいつは死なないし、死なせないから。ね?だから、顔を揚げなよ」
安心しろと言われ、安心することはできる。けど、一度抱いてしまった罪悪感は簡単には消えてくれない。
奏太が弱ってしまったのはどう考えても我のせいじゃ。黙って家を出て行ったから。そのせいで無茶をさせてしまった。
「それは違うよ。君は黙って家を出なくちゃいけない事情があったし、何よりもその原因を作ったのはあたしだ。責任なんて何も感じなくていいよ」
「じゃあなぜこんなことをしたんじゃ?いい加減教えてくれてもいいじゃろ。ネア・タジェント」
ネア・タジェント。青髪の天使族。一時は神の秘書官を務め、トリア直属の先輩であり師であるという。ただしそれは自称であり、奏太の方はそう思っていないだとか。
「そう殺気を出すんじゃないよ。じゃあ、そうだね。一から説明しよっか」
ネアはそう言うと指をパチンと鳴らした。すると、いつの間にか普段ネアがいる豪華な部屋へと移動していた。
「うん。やっぱり室内は暖かいしいいね。って、どうしたのさ。顔が強張ってるよ?あ、もしかしてあいつがここに来るのを恐れているの?それなら安心していいよ。この部屋にはあたしの許可なく入ることはできないからさ」
ネアは相手の心を読むことに大変長けているらしく、こちらが何かを言う前に話が淡々と進んでしまう。口を開かなくていいのはいくらか楽ではあるが、ずっと見られているようで妙に落ち着かない。
「えーっと、始めるよ?まずは、あたしが人間界にいる理由だね。君は、希向一新隊ってわかる?」
首を傾げた。聞いたことがあるような、ないような。確か、どっかの軍だったような気がする。
「そう。それがわかっているのなら充分。あたしは軍人として空間の結合に関する情報を集めているんだ。直接敵陣に乗り込むっていう無茶までしてね」
「我をここに呼んだのは?」
「無論、君の安全を確保するためさ。君は空間の結合のためには欠かせない存在。だから、捕まってもらうわけにはいかない。けどね、普通に生活していればあまりにも危険が大きすぎる。そう考えてあえて君をここに呼んだんだ。敵さんにとっても探している対象がこんなに近くにいるなんて考えないだろうからね」
そういうものなのだろうか。
「そういうものなんだよ」
にこっと笑うその顔がどうにも胡散臭い。
奏太が夜中にどこかへ行ってしまってからしばらくして、この女が枕元に現れた。と言っても実体ではなくて幻影。幻影のネアは我に学校にある扉の開け方を伝え、通路を進むように指示してきた。
最初はためらったが、奏太のためと言われてはどうにも断ることも出来なかった。その時にも胡散臭い笑顔を浮かべていたのをはっきりと覚えている。
学校に行き、魔力を通した土を扉に当てることで重そうな扉はひとりでに開いた。そこから通路を進むと魔力で掘られたとみられる採掘場があり、ネアはそこにいた。
その時のネアは「ついてこい」とだけ言うと、どんどん通路を進み始めた。途中、数々の研究者とすれ違ったが、そのたびにネアは新しい仲間だと紹介していた。
何の研究をしていたのかは、わからなかった。
そして、今いるこの部屋に来た。そこで少しだけこの身に受けた呪いを解かれた。そのせいで、体は成長し、自分のものじゃないかのような嫌悪感に襲われ、奏太には見られたくないと思った。
「どうして我にかかった呪いを中途半端に解いたんじゃ?」
「中途半端にしか解けなかった。・・・って言うと初めから解くなって話になるんだけど、本当は全部解くつもりだったんだよ。君の体には大きな力が秘められている。それをうまいこと扱えるようになれば、危険が迫ってもある程度は自分で対処できるようになる。そう思ったんだけど、あまりにも呪いが複雑でね。あたしにもすべて解くことはできなかった」
「戻してくれるか?」
「いいのかい?解かれ方は中途半端ではあるけど、君の普段の体よりも魔力の質もいいはずだけど」
しかし我は無言でうなずいた。
意思が変わらないのだろうと悟ったネアは口早に何かを呟いた。すると、我の足元に黒い魔法陣が出現し、黒い光が体を包み込んだ。
一瞬の浮遊感と倦怠感の後、我の体は高校生のような体から幼女へと戻っていた。
「あいつには、夢を見ていたんだって説明しようか」
どこか呆れながらそんな助言をしてくる。それは名案だ。もしも奏太にさっきと体違くね?的なことを聞かれたらそうやって答えよう。
「さて、次の話だ」
少しだけ緩んでいた顔を引き締めてネアは目的の続きを話す。
「あたしはあくまでも軍人。空間の結合を止めなくちゃいけない。が、この施設は既に結合が済んでいた。まぁ、あれは人間の夢を元にアーウェルサの素材で作ったものなんだけどね」
難しい話はよく分からない。
「あれはただの夢の世界だった。だから変えることが出来た。つまり、夢が終らせれば世界も消える。そうすることが出来たのはあの夢を見ていた人だけ。だから、夢霧つむぎがここに来るように誘導した。って話はもうしたっけ?」
確か我の幻影を作って誘導すると言い、幻影を作るためにはその人を良く知らなくちゃいけないからと触診してきたあの時のことか。
「いや、悪気はなかった」
胸や尻を触って頬を緩ませていた奴が今更何を言おうともう遅いのだが、思い出すのも癪ではあるので何も言わない。
「次の話」
「はいはい。話はこれで終わりね。あたしは過程がどうであれあの馬鹿弟子を保護することに成功した。これも君と同じ理由ではあるけど、あいつは顔がばれていたからあたしの管理下に置くことにした。これで安全は約束されたというわけだ」
だから安心していいのだと改めて遠回しに言われた。
「なぜこんなことをしたのかっていう最初の質問に答えるのなら、君とあいつの安全を確保する必要があったから、かな。ま、あいつは何度も死にかけたみたいだけど、あの程度じゃ死なない。そんなやわな鍛え方はしていないからね」
にししと笑ったネアは不意に表情を曇らせて背を向けた。
「エスト、メチ、ディーテ、ナデシコ。・・・あたしは君たちを絶対に許さない」
その呟きは、ルノの耳には入っていなかった。そのくらい小さな呟きだった。
黒谷絵美は目を覚ます。
窓がない白い壁に囲まれたあまり広くはない部屋にベッドは4つ。そのうち3つは埋まり、そのうちの1つで眠っていた。
ここは、病室?
ズキズキと痛む頭をおさえながらあたりを見渡す。
優衣とつむぎが別々のベッドで眠っていた。自分が着ているのは質素な患者服。ダメだ、いまいち状況が理解できない。
とりあえずこの部屋から出ようとベッドから降りたが、困ったことに扉が見当たらない。隔離された部屋ということだろうか。これまたなんて厄介な。
なんて頭を悩ませていると、突然目の前に人影が現れた。青い髪の、それなりに背が高い人物。
見覚えがある。と、いうか完全によく知っている人物だった。・・・どうしてこの人がここにいるんだろうか。
「どうしてここにいるんだろう。って顔をしているね。エミリー第一武官」
「心を読まないでください。で?どうしてネア総団長がこっちの世界に?向こうで情報を整理し、指示を出す役目があったはずでは?」
ネア・タジェント。希向一新隊を取り仕切る一番偉い人だ。
「エミリー・ドガットルート第一武官。この度はお姉さまの件、深くお悔やみ申し上げます」
うわぁ、いつになく丁寧で気持ち悪い。
「いや、あたしだって性に合わなくてもこのくらいはするよ?あたしを何だと思ってたのよ」
「かなり変わった天使族」
「上司に対して本当に失礼ね。ま、いいや。質問に答えよう。あたしがここにいるのはそりゃ軍の一番上だからね。現場で見た方がいいこともあるわけ。ここはあたしらにとっては敵陣ではあるけど、住めば都ってね。君らの安全はあたしが保障するよ」
なははと気が抜けたように笑っているが、実際この上司には信頼も信用もできる。
「さて、エミリー第一武官。起きて早々悪いけど、働いてもらうよ」
ネアは指をパチンと鳴らし、こっそり仕組んでいたテレポートの魔法陣を発動する。
その場所はふかふかの絨毯が敷かれ、高そうなソファと机。大きな作業机といすのセット。シャンデリア。とても見覚えがある部屋だった。
「ここ、アーウェルサじゃないですよね?」
「もちろん。人間界だよ。内装は向こうのものと同じにしているけどね」
住めば都だなんて言ってはいたけど、この人の場合、都を自ら作り出している。そりゃ住みやすいに決まっている。
「まぁまぁディスらないでよ」
「ディスってないです。呆れただけです」
「どっちでも変わんないよ」
そう言いながら机の影から紙袋を取り出し、それを差し出してくる。
「その中に入っているものに着替えてくれるかな」
中に入っていたものを見て驚愕する。それは軍服でもなければ敵が来ているようなものでもなかった。最近女子高生の間ではやっているカジュアルな普通の私服だった。
「あの、意図がわからないんですけど」
「着替えてみれば分かるよ」
納得はいかなかったが、ずっと患者服でいるよりはましだろう。女しかいないこの場では何かを気にする必要もないので、着ていたぺらぺらの布を脱ぎ捨てさっさと着替えを済ます。が、特別変わったこともなく、この服装には疑問を覚えるばかりだった。
「うん。よく似合っているよ」
ネアが幸せそうな恍惚とした表情をうかべ親指を立てる。なるほどね。
「私欲を満たすために私を使わないでくれませんか?」
「私欲じゃないよ!断じてね!ちゃんと必要なことさ」
やっぱり納得がいかないが口にはしない。どうせうまいこと誤魔化されてしまうだろう。ある程度の付き合いでそのくらいは分かる。
「エミリー第一武官。君に聞きたいことがある」
改まった口調。さっきまでの浮かれていた表情はどこかに消え、これが大事な話であることを察し姿勢を正す。が、この妙に可愛らしい私服のせいでいまいち決まらない。
「何でしょうか?」
それでも何とか背筋を伸ばしてネアに尋ねる。
「君は、君はどうして。・・・胸が小さいんだ?」
「は?」
は?いや、いきなり何聞いてきちゃってんのこの人。しかもなんで少しだけ残念そうな表情を浮かべてんの?一から十までが意味不明だった。
「いや、ほら、精霊である君たちは決められた一つの動物に加えて人型になることが出来るじゃん?」
じゃん?って友達か!?軍を取り仕切る人にはもう少しちゃんとしていて欲しいものだが、あくまでも上司からの質問。答えないわけにはいかない。
「えぇ人型なら一度決めたものに自由に変化することが出来ますね。それが何か?」
「じゃあさ、どうして胸を大きくしないの?胸の大きさは女性のステータスでしょ?」
本当に何言ってんだこの人。ちょっとめんどくさいんだけど。
「貧乳だってステータスです。それに、邪魔じゃないですか。体にそんな脂肪の塊をつけて、何がいいんでしょうかね」
「それはあたしに対する批判でいいのかな?」
「ご想像にお任せします」
ネアの胸は確かに大きい。けど別に批判しようとかそう言うわけじゃなくて、本来人間の体を持たない私には理解しがたいというだけだ。
「そろそろ真面目に話をしましょうよ」
あたしはいつだって真面目だ。なんてぼやきながらネアは数枚の紙きれを卓上に置いた。
「これが空間の結合に関わる資料。関わっているやつらだとか、内部調査で分かったことだとかがまとめられているから目を通しておいて」
「了解」
敬礼して書類を受け取る。
「後は自由に過ごしていーよ。この施設でも君はあたしの管理下にある。情報収集は控えて欲しいけど、それ以外なら何をしてくれても構わないよ」
おとなしくしていろ。つまりはそう言うことだ。
「しばらくしたら大きな指示を出す。・・・んじゃ、帰ってよし!」
軽い口調で言われ、貰った書類を手に、取り付けられていた扉からこの場を後にした。
そこは、全面が真っ白な壁で囲まれた病室のような部屋。自分が寝ていたベッドに腰掛け貰った書類に目を通していく。
貰った書類は全部で3枚。そのうちの一枚はこの施設の見取り図で、この施設の広さと、この部屋とネアの部屋が施設そのものから隔離されていることを確認する。
この部屋への出入りには魔力が必須。この部屋にいる他の二人は自力で出ることが出来ないということになる。この部屋のことが敵に知られていないのなら安全だと言えるだろう。
入るにしても特定の場所で魔力を使う。もちろん出るときも同じ。軍や研究者の施設ではよく見られる仕掛けだ。
見取り図はこれくらいにして空間の結合に関わる資料とやらに目を通し、読み上げる。
他の二人はまだ寝ていたが、気にしていられない。情報を頭に叩き込むには耳から入れる方が多少効率いい。
『空間の結合について。
首謀者は空間の神、ミノ・ディーテ(以下ディーテ)。現在のアーウェルサの神、エスト・テリッサ(以下エスト)。事の発端は17年前。吸血鬼イラタゴ・ムジナ(以下ムジナ)がディーテによるマインドコントロールにより、空間を180度回転させたことに始まる』
17年前。先輩がこちらの世界に来ることとなった出来事。そこから、計画は始まっていた。
あの事件は当然身をもって経験している。世界が実際に180度ひっくり返るという世界全体の事件。
あの時の自分は何をしていただろうと考え、特筆すべき思い出はないな、と続きを読む。
『意図的に人間界へと送られたアーク・トリア(以下トリア)は、アーウェルサでの記憶を消去、より人間に近い体になるように施術された。また、神の護衛を務めていたレイト・ヌミレオ(以下レイト)もまた、トリアの保護、監視の命を受け人間界に降り立った』
ここで計画の始まりについてはいったん終了。
『人間の他種族化について。
空間の結合に行うにあたり、脆弱な人間も魔力を扱えるようにならなくてはならない。この計画も結合計画と同時に開始されたとされ、首謀者は魔神族の科学者ゾイル・テイヌ(以下ゾイル)。ゾイルは人間界の地下に魔晶石があることに目を杖、密かに人間を捕獲し、人間界にもアーウェルサにもいなく、且つ魔性生物でもない、人間ベースの新たな種族を生み出そうとしていた』
「それが、あの地下にいた生物の正体・・・」
先輩がどうにかしてしまった水色の怪物。それなりに鍛えていたはずなのに、何もできず、あれを思い出すと今でも身震いする。
いかんいかん。恐れちゃダメだ。続きを読もう。
『ワーペル・ルノ(以下ルノ)について。
悪魔族であるルノの体には成長を抑える呪いがかかっている。これは、成長と共に魔力の質が良くなるのを防ぐためと考えられる。世界を滅ぼしかねない強大な力が宿っているとされ、その力を空間の結合に利用しようとディーテは考えている
トリアについて。
彼の類まれな魔力の質が結合にはかかせない』
うわぁ。先輩の記述少なッ!先輩に関しては知りたいことだらけだというのに、この文面だけだとそもそも空間の結合でのキーマンでもなさそうに見える。ネアが意図的にそう見せているのか、他に意図があって記述を少なくしているのか。今はまだわからない。
ここからしばらくは人物紹介が進む。
アーウェルサの神、エストについて。
空間の神、ディーテについて。
時の神、メチについて。
人間界、日本担当の神、ナデシコについて。
と、これは読み上げず黙々と眺めていると聞き覚えのある名とない名が一名ずつ記載されていた。
「元・妖精族の女王、元・アーウェルサの神フロール・セミル。すべてを喰らう神、フィル・ディザオス・・・?」
セミルの方は聞き覚えがある。幼いながらも妖精族を束ねる女王となり世界の神の座を手にした。そして、過去最大の戦争、聖魔大戦が起こる原因を作ったとされている。大戦後には消息不明となり、どこかでひっそりと息を引き取った。そう噂されていたが、その事実はなかった。
『アーウェルサの元・神。妖精族女王フロール・セミル(以下セミル)について。
聖魔大戦終了後に消息を絶ったセミルは計画が始まった同年、エストの手により発見され人間界へと送り込まれた。体は新たなものを与えられ、アーウェルサにまつわる記憶はすべて消去。しかし4年前に起きた事件やゲームと称した空間の結合の開始により当時の力を取り戻してきている』
ここまで読んでふぅっと息を吐いた。
セミルもまた先輩と同じく結合のために必要な存在。ここにザビロでも来れば聖魔大戦に関わった面々が揃うことになるが、あれとこれとは関係ない。それに、ザビロはもう死んでいるのだから空間の結合に彼は無関係だ。
さて、考えるのはもう少し後にして、次の無名の神についてだ。
『すべてを喰らう神、フィル・ディザオス(以下フィル)について。
種族、性別不明。アーウェルサでフィルを知る者はルノ、ムジナ、ディーテ、エスト等、ごく少数の魔族と神民だけである。尚、フィルは現在トリアの体に宿っている。様々な魔力を扱う姿が報告され、伝承にある、すべての魔力を扱い、意のままに他種族を殺した伝説の魔神であるという説もある』
ここで一つ合点が行った。
数週間前。スライムと戦った時のことだ。あの時に先輩が見せた無双状態。明らかに先輩が使えない魔力まで扱い戦っていたあの姿。あれが伝説の魔神だというのなら納得できる。
「フィルという方もまた、空間の結合には欠かせないのでしょうね。ここに書いてあるということは」
誰にともなくそう呟き最後の文面を読み上げる。
『トリア、ルノ、セミル、フィル。彼女彼らの人間界での死が空間の結合に必要。強大な力を持った彼女彼らの肉体が機能を失えば秘められた強大な力が放出され、人間界で人間にも認知できるアーウェルサへの門を開くことが可能になると考えている』
長い長い調査報告書を読み終え、白いベッドに背中を預ける。
壁と同じ真っ白な天井が目に入った。照明らしきものは見当たらず、天井自身が光っているようだった。
なんて、普段は気にならないことが気になってしまう。今は他に考えるべきことがあるのに。
空間の結合。その計画は分かった。
ディーテとエストが人間界を舞台に始め、強大な力を持った異世界民を殺す。それには数多くの存在が関わっているうえ、存在しうる3つの世界を股にかけている。これほどまでに大きな事件は長い歴史を持つアーウェルサにもない。成功すればもちろんのこと、失敗しても歴史の1ページに刻まれることになるだろう。
どうしてこんなにも大きな事件になってしまったのか。アーウェルサの神を止められなかったから?先輩がこちらの世界に送られたから?ううん、違う。たとえ先輩が人間界に送られようと、人間界の神ならばそれを止めることが出来たはずだ。
こちらの世界の神は一人じゃない。人間界全体を統べる神が一人いて、日本をはじめとして、各国各地域で数人の神が存在する。
・・・もしも人間界の神達が結合を良しとしているとすれば。けど、そんなはずはない。日本はともかく、他の国のコントラクターは各地域の神達に殺されたのだと、各地にいる仲間から報告を受けている。
ここで疑問になるのは、ナデシコ。彼女が神であることに違いはない。だから当然、空間の結合を止める立場にある。それなのに、この紙きれには、
『空間を結合するためにアーウェルサの住民を受け入れ、採掘場や研究室の作成を許可した。彼女は神であるため捕まえるのは極めて困難』
と、完全に敵として見ている。それがどうにも引っかかる。
あの人に会ったのはたった一度きり。あの地下で有益な情報をくれたあの時だけだ。
その別れ際、彼女は空間の結合を止めに行くと言っていた。あれは嘘だったというのだろうか。だとすれば、わざわざ私の前に現れて情報を与えたのは何で・・・?
これは一人で抱えていい問題ではない。そう判断し、ネアに進言することにする。
ベッドから起き上がり、少しだけびっくりした。優衣とつむぎが起きていた。起きていたが、それぞれのベッドの上で動かない。
「えーっと、おはようございます?」
時刻は午後7時。なんだかおかしいような気もするが、彼女らが起きた時の挨拶としては間違っていない。
「絵美ちゃん、ここは?」
つむぎが目をこすりながら尋ねてくる。
「例の廃病院ですよ」
「・・・お兄ちゃんは?」
今度は不安気に優衣が尋ねてくる。
「現在は治療の真っ最中だそうです。安心していいですよ」
実際に見たわけではないが、ネアがそう言っていたのだからまず間違いはない。
「とりあえず、お二人はここにいてください。今はここよりも安全な場所もないので」
そもそも人間であるこの二人が、この部屋から出られるはずもないが、万が一ということもある。
二人が無言でうなずいたのを確認し、私もうなずく。
「では、私はちょっと用事があるので失礼します」
そう言い、何の変哲もない壁に魔力で扉を形成し部屋から出た。
出たところは見覚えのない通路だった。
隠し部屋を隠すための仕掛けとして、出口は毎回変わると言うものがある。そのことをすっかり忘れていた。手元にあるのはナデシコについての記載がある紙一枚だけ。肝心なマップはあの部屋に置きっぱなしだ。取りに行こうにもあの部屋の入口の場所がわからない。というかここ何処よ。
薄暗い廊下。両側には等間隔に扉が並び、笑い声や奇声が響いている。先輩と一緒にいた時も通らなかったところだろう。本当に迷子だ。
こうなったら仕方ない。魔力を展開して空間を把握しよう。とため息をついたその直後。
「おい、嬢ちゃん」
背後から男の低い声がした。
振り向くと、白衣に身を包み、身長は2m越え、目つきが悪い男が煙草を吹かして立っていた。頭には山羊のような角も生えている。
「あ?なんだ。アーク・トリアの連れか。こんなところで何をしている?」
男は目の前に立つ者の正体がわかり、だいぶ不機嫌そうにそう言って煙を吐いた。
「ちょっと道に迷いました」
嘘はついていない。
「ちょっと道に迷って普通こんなところに来るかよ。悪いことは言わない。さっさとどこかに行きな。ここは女に飢えた男性研究者たちの寮だ」
そうは言われても目的地までの場所がわからない。だから、不用意に動くことも出来ないのだ。
それを察したのか男は舌打ちをする。
「行きたい場所を言え。案内してやる」
その声はやはり不機嫌そうだったが、厚意に甘えることにする。
「ネアに会いたいんですけど」
「よりにもよってあいつのところかよ。・・・いいぜ、ついてきな」
くるりと男は背を向けて歩き出す。その背中を追いかけ、その背中に向かって問いかける。
「あなたは誰ですか?」
この男から感じ取れる魔力は黒く禍々しく強大だ。そこらへんにいる普通の住民ではないと推測できる。
「・・・イヌ」
「え?」
あまりにボソッと言うので聞き取れなかった。・・・犬?
「ゾイル。ゾイル・テイヌだ」
ゾイル、テイヌ・・・。あ。
「あなたが、人間を他の種族にしようと研究しているあのゾイル!?」
「そのゾイルだ。さすがに、軍もそこの調べはついてるか」
「どういうことですか?」
あくまでも私は何も知らないように見せて聞く。舌打ちされた。
「お前、あの希向一新隊だろ?それに、ネアも」
おい団長。身元ばれてますけど!?
「軍に所属している者が近くにいるとわかっていて、あなたは研究を続けているんですか?」
「まぁな。何か害のあるようなことをされているわけでもない。いくつか研究資料を持っていかれたが、コピーはいくらだってある」
「許されないとわかっていながら、続けるのですか?」
「当然だ」
ゾイルは足を止め、なおも続ける。
「俺は根っからの探求者なんだよ。己の探求心が満たされるまで続けるつもりだ」
その声に不機嫌さは残っていたが、ただ純粋に研究が好きであるということは伝わった。それでも、していることはお互いの世界で許されることではない。
「お嬢ちゃんが感じているのは、怒り。どうする?俺を殺すか?」
相手は魔神族。心も感情を筒抜けだ。
「戸惑いに怖れ。ま、いいか」
ゾイルはこちらの返答を待つことなく再び歩き始めた。
「今の嬢ちゃんじゃ俺は止めらんない。嬢ちゃんが軍人である以上、お互いに敵同士ではあるが、一つだけ言っておく。俺の研究は俺だけのもんだ。ディーテはそれを利用しようとしているのであって仲間じゃない」
「それって」
「どういうことなのかは、これからネアと話し合ってみろ。さて、ついたぞ」
ついたぞと言われたそこは、ただの十字の通路だった。仕掛けらしい仕掛けは特に見当たらない。
「ネアがいつものところにいれば向こうがテレポーターを起動してくれるはずだ。いないときもたまにあるから、そうだな、5分経って何も起きなきゃ諦めな」
じゃあな、と片手を挙げゾイルは真正面の通路へと姿を消した。
魔神族を除く魔族は誠実だと聞くが、ゾイルを見ていると一概には言えないのだろう。彼は己に素直なだけ。そのことを他のことにしてほしいと思わなくもない。
なんて考えている間に、ネアがいる無駄に豪華な部屋へと景色が変わっていた。
「エミリー第一武官。何かあった?」
大きな机の前に座るネアがつまらなさそうな顔でそう言った。
「申し訳ありません。読んでいて不審なところがあったので」
「あー、そーゆー真面目な話ね。それってあの子らが聞いていても大丈夫?」
あの子ら?ネアが指をさす背後へと目をむけがっくりと肩を落とした。そこにはどういうわけか優衣とつむぎがソファに座っていた。
「何でここにいるんですか」
「君が置いて行ったマップを見たらしいよ」
そんな馬鹿な。マップそのものがアーウェルサの言語で書かれているし、あの部屋から出るには魔力が必要で。
「本当、あの子らにはあたしも驚かされるよ。つむぎは例の実験の影響かアーウェルサの言語が読めるみたいだし。優衣はコントラクターという人間が魔力を扱える状態だったからか、今でも魔力が扱えるようだし」
そんなことがありえてしまったのか。なんとも常識と人間離れした人たちだ。驚きを通り越して、呆れた。
「それで?話は聞かれてもいいの?それとも、二人きりで秘密裏に話す?」
「二人きり」のあたりで不敵な笑みを浮かべたネアに、得体の知れない恐怖を感じ、二人きりになるとこの身が危険だと判断する。
「いや、君。それどういうことよ」
「何でもないです。別にここで話してもいい内容ですので話しますよ」
「はいはい。どーぞ」
興味なさそうにしていたネアは、私とナデシコと会った時のこと。そこから感じたこと。それらを踏まえて記載されていることに対し引っかかる点。そのすべてを話している間、ネアの表情は一切変わらなかった。話していることをわかっていているからなのか、あえて表情を隠しているのか。わからなかった。
そして、話し終えた時のネアの反応は、
「ふーん」
それだけだった。
「本当にナデシコは敵なんでしょうか」
「さぁ、どうだろうね。けどね、彼女は任務なしのアーウェルサの住民を受け入れ、さらには施設の建築まで許可している。その結果として、多くの生き物の生命が奪われた」
「それは、そうですけど」
「敵であるかは別として、野放しにはできない存在。だからあたしらはナデシコを追わなくちゃいけない。わかるよね?」
反論はできなかった。たとえ敵じゃなかったとしても、空間を結合する助けになったことに変わりはない。だから、軍人である私は追わなくちゃいけない。
「すみません。お時間を取らせました。失礼します」
自分の浅はかさを知った。軍人としては追う。だが、個人としては。そこがわからなくなった。少しだけ頭を冷やそうと、この部屋を後にした。
「ほんと、あの子は賢いよ」
ネアは誰にともなくそう呟いたあと、ソファに座っていた二人へと歩み寄る。
少しだけ話をしようと思ったのだが、この部屋の入り口にエミリーがゾイルに連れられてやってきた。直属の可愛い部下を放置というわけにもいかないので招き入れた。
彼女はナデシコが本当の悪ではないことに気付いてしまった。
そう。ナデシコは空間の結合を止めるために今もなお動いている。それでも遡って考えれば、現状を作り出し、可愛くない弟子を追い込んだ起因はナデシコにある。だからあたしは、ナデシコを許さない。
「・・・ネアお姉ちゃん?」
か細い声に反応してみると、黒髪の女の子がこちらの顔を覗き込んでいた。
お姉ちゃん、か。懐かしい響き。かつてはそう呼んで慕ってくれた子もいたっけ。
「・・・大丈夫?」
「大丈夫、問題ないよ。と、そうだ優衣。君に聞きたいことがあるんだけど、ちょっとお姉ちゃんの質問に答えてもらってもいい?」
返答はなく、首を傾げて困っているようだった。そこに、怯えはない。
「難しいことは聞かないよ。君の見た夢について知りたいだけだから」
「・・・夢?」
オウム返しで尋ねられた。
「夢」
頷いて答える。
神谷優衣という女の子は、アーウェルサに関わる夢を度々見ている。ついさっき眠っていた時にですら見ていたはずだ。あの部屋の監視を任せた部下からそう報告を受けている。
「・・・あんまり、覚えてない」
「うーん、そっか。まぁ、夢なんてそんなものだよね」
けどね、優衣。君にはしっかりと思い出してもらう。それが、次につながるから。ちょっと辛いかもしれないけど、耐えてね。
「『黒い怪物』」
「・・・え?」
驚く優衣に構わず続ける
「『花畑』『舞』『無邪気に笑う子供』『赤い森』『白髪の少女』『コンクリートのジャングル』」
「・・・何、これ」
優衣が苦痛に顔を歪ませた。
「『血に塗れた羽』『黄金色の蝶』『忍び寄る光』『暖かい雪』」
「・・・あぁ」
優衣が小さな体を捩り、呻き、苦しむ。見ていて辛いものだが、次で、終わ。
「ちょっと待ったぁ!」
じっと動かずにこの異様な光景を傍観していたもう一人の人間、つむぎが優衣に駆け寄り、あたしを睨んだ。
「ごめん、つむぎ。これは必要なことなの」
「そんなのあなたの勝手。許すわけには」
そんな制止の声は聴いていられない。
「『妖精族』『女王』『フロール・セミル』」
言い終わった直後。優衣の苦しみの声は消え、部屋は不気味なほどの静寂に包まれる。
そして、その静寂を破ったのは優衣だった。
「・・・ゆ、きちゃん」
ポロポロと大粒の涙を流しかすれた声でそう言った。
「お疲れ、優衣。君はよく頑張ったよ」
頭を撫でながら優しく声をかける。
「全部思い出した気分はどう?」
「・・・わかんない。けど、行かなきゃ」
優衣が立ち上がりどこかに行こうとしたのを、立ち上がる前につむぎが止めた。
「ちょっと待って。どう言うことなの?」
優衣の手を取ったままあたしの顔を見る。
「優衣は、かつての君のように同じ夢を毎日見ていたんだ。ただし、君とは違い目を覚ましては忘れ、眠れば同じものを見る。そんな風にね。それを思い出してもらったんだ」
「どうして?」
「その夢はかつての君が見ていたものと違って、第三者の手によって強制的に見せられていたものだったんだ。その第三者を知るためには、優衣が夢そのものを思い出す必要があったってわけ」
「・・・それが、由樹ちゃん?」
「またの名を、フロール・セミル。あたしたちが保護すべき対象よ」
よかった。これで空間の結合を止めることが出来る。けど、おかしいな。あたしの推測だと姉の方だと思ったんだけど。
「優衣、由樹がどこにいるのか、思い当たる節はない?」
今すぐにでも彼女を保護しなくてはならない。けど、あたしには彼女がどこにいるのかわからない。ただ、優衣ならなんとなくでも知っているような気がした。本当に間でしかない。
そして、優衣は期待を裏切らなかった。
「・・・もうちょっとで来る、よ」
その言葉通り、それからちょっとしてからこの部屋に通じるテレポートの魔法陣を仕込んだ例の十字路に、頭を冷やすと出て行った第一武官と、その肩にとても小さな生き物が乗っているのを確認した。
何もない部屋の中心に二人が現れ、肩に乗っていた一人はふわりと舞い上がって姿を変えた。
姿を変えたそれは、優衣のもとに駆け寄り、優しく抱きしめた。
「・・・由樹ちゃ」
「優衣ちゃん!風邪は治ったの!?」
「・・・え?あ、うん」
こうなることも、こう聞かれることも優衣には予想外だったのだろう。優衣は目を見開き、それでも友人の体を抱きしめ返した。
「・・・この二人、このまま結婚しないかな」
「何を言っているんですか、団長」
「げ、エミリー」
「げ、じゃないですよ。・・・あの子が、妖精族の女王、だったんですね」
その言葉に抑揚はなかったが、驚いていないというわけでもないようだ。エミリーの内面からは戸惑いが感じられる。
そりゃそうだ。あたしがマークしていたのは天城由樹の姉である天城由香の方だ。あたしだって驚いている。
「ねぇ、セミルさん」
「『さん』呼びはやめませんか?今の私、ただの妖精族ですから。名前だって『セミル・フォーグル』。『フロール』の名は聖魔大戦が終わった後、別の子に女王を引き継いでなくなったから」
満面の笑みを浮かべて言う彼女には感情と言うものがなく、事実をただ淡々と述べているだけであった。
「じゃあ、セミル。君のお姉さんは、何者?」
「実際にお姉ちゃんですよ。名前は『メルス・フォーグル』。とっても強いんです!」
自慢の姉なのだろう。今度の笑みには楽しそうで、何処か誇らしげでもあった。
「そのメルスは、どこに?」
その問いに、セミルの顔はきゅっと引き締まった。これは、不安と申し訳なさが織り交ざったうしろ向きな感情。何かあったなと察する。
「お姉ちゃんは今、私の代わりに知床半島に行っています」
「知床?なんでまたそんなとこに?」
「私の命を狙う者を、この街から離れさせるためです。リーネちゃんの助言もあって」
「待って、誰?」
リーネちゃん?今まで調べていて一切浮上してこなかった名だ。少なくとも、敵ではないように思えるが、その正体は。
「あ、えっと。すいません。ナデシコちゃんの本名なんです。勝手に口走っておいて悪いんですけど、聞かなかったことにしてくれませんか?本名をあまり知られたくないみたいなので」
律儀にそうする義理はないが、誰にだって隠したいことはある。聞かなかったことにはできない。が、その名は極力思い出さないようにする。
「オーケー。わかった。・・・で?君はナデシコと仲がいいの?」
「昔お世話になったんですよ。敵か味方か。それを疑っているようですが、彼女は間違いなく私たちの仲間です。今は、人間界のいたるところに発生した暗黒界の一部を消すために動いてくれているはずだから」
嘘をついている様子はなかった。じゃあナデシコは一旦放置することにしよう。こちらに害がないのならそれでいい。
ナデシコが今になって動き始めたのは人間界が危機に瀕しているとようやく気付いたからだろう。ならば、こちらも為すべきことを成す必要がある。そのためにも、
「セミル、いくつか聞きたいことがある」
「えぇ、わかっていますとも。ただ、話すには人が足りないようです。・・・トリアのところまで案内してくれますか?」
セミルはふわりと笑って頼んでくる。断る理由はなく、トリアの存在は必要だと思う。それは、いいのだが、
「そろそろ優衣が苦しそうだよ?」
「あ」
ずっと抱きしめられていた優衣が、いつの間にか力が込められたセミルの腕の中で苦しそうにしていた。
どうしてこうなった。
深くて暗い森の中。大きな戦斧で襲い掛かってくる植物を切り裂きながら土井タケルはそんなことを考える。
俺はエストから一人の妖精を殺すことを命じられた。それを知ったナデシコによると、その妖精は知床半島にいるのだという。
事実。この島には妖精がいた。俺のよく知る人物が、妖精族としてそこにいた。
「どうしました?動きが鈍くなってきていますよ?マスター」
ここから少し離れた木の上で、女の子がケタケタと笑いながら言ってくる。
よく知る声で、よく知る人物のはずなのに、そこにいるのは全く知らない別の誰かのようだった。なら、攻撃できるはずだ。それなのに、いまだかすり傷一つつけることだってできていない。
「まだ迷っているんですか?いい加減吹っ切れてください。じゃなきゃ、心地よく殺しあえないでしょ?」
そうだ、迷うな。これは、殺し合いだ。戦いだ。迷いは隙を生み、動きに支障が出る。・・・んなことは分かってんだよ。
右足を軸にして一回転。周囲から伸びた蔓を全て切り裂いて、地面を強く蹴る。爆発音に似た音を後方に残し体は一直線に妖精へと向かう。
「許せ、由香ちゃん。『シジッドグランド』」
複数の巨石が妖精族、天城由香を封じ込め、その石の塊ごと手にしていた戦斧でたたき切る。
その衝撃に大気は震え、大地が揺れた。木の上で休んでいた鳥たちは鳴きながら一斉に飛びあがり、木の根元にいた動物たちも大きな足音をたてて、静かだった森は急に騒がしくなる。
蔓による攻撃も、あいつの気配も消えた。
「任務達成、か」
感傷に浸っている暇はない。急いで奏太のところに戻ってこのことを、いや、言えない。言えば、俺は死ぬこととなるのだから。
「そんな心配しなくても大丈夫です。あなたは、ここで死ぬんです」
ゾワッと背筋に悪寒が走った。
耳元でした声。驚いてそちらを見ようとしたが、それよりも先に体に大きな衝撃を受けた。それにより、不可逆的に跳ねた体は、背中を巨木に打ち付けたことで止まった。
何が起こったのか理解できなかった。一つ分かったことがあるとすれば、由香はまだ死んでいないということ。
「良い攻撃でしたよ。けど、ここは森の中。妖精族のホームのようなものです」
また耳元で声がした。かと思えばまた別の木に体が打ち付けられていた。
妖精族とは植物の宿る精霊である。ゆえに、植物の体に入り込み、その中を自由に移動することも出来る。木と木がどこかで接触していれば、木から木へと誰にもばれずに移動することだって可能だ。
俺の体は絶え間なく木に叩きつけられ、人間である体は遂に動くことが出来なくなった。
(クソが、これだけは使いたくなかった)
体に残った魔力で発動することは可能。ただし、人間には戻れない。
「・・・『リフテット・リミッター』」
体が暖かい光に包まれ、体が本来の形を作っていく。
ゴーレム族。アースゴーレム種。レイト・ヌミレオ。背丈は3mを超えた土でできた頑丈な体。
(ヲワラセル)
「えぇ、終わらせますよ」
由香はもう。人間の姿をしていなかった。蝶のように美しい羽を生やし、体長15cmほどの本来の姿で、数m前方に浮いていた。
倒すべき相手がかなり小さくなってしまったが、だからと言って迷う必要は、もうない。
手にしていた戦斧と足に魔力を込め、妖精の方に弾丸のごとき速さで一直線に突っ込む。
「正直なまでに直線。学習能力がないようですね」
妖精は動かない。避けられる自信があるのだろうが、その油断が命取りだ。
妖精のもとにたどり着くその前に手にしていた魔力が込められた戦斧を地面に叩きつける。すると、地面は轟音を立てて二つに割れた。
「何をしているんですか?宙にいる私には・・・ッ!?」
空中にいれば地割れなど何の意味もなさない。必要なのは、それによって生じた小石や土のかけら。
「『エザフォステノス』」
さっきよりも密度の高い土と石の混ざった物体で空中にいる小さな体を閉じ込める。空中にいるが故に他の植物に逃げることは叶わず、ちょっとの衝撃でも壊れることはない。
「カナタニハ、ヨロシク、ツタエテオク」
が、何かがおかしい。
奴の魔力がさっきまでとは比にならないほど高まっている。早くこの戦斧を振らないと取り返しのつかないことになる。なのに、腕が動かない。
「あなたがここに来た時点で、あなたが死ぬことは決定事項だったんですよ」
何の前触れもなく妖精を囲んでいたものは砂となって散った。
「どうです?そろそろ効いてきたころではないですか?神経をマヒさせる毒がね」
なるほど、そう言うことか。体がまるで石になったかのように、いや、それは元々ではあるが、ピクリとも動かすことが出来ない。
「ゴーレム族は体に心臓ではなく核を持つようですね。もちろん。そこにも細工は済んでいます。私が指を鳴らせば、あなたが死ぬように、ね」
あぁ、そうかよ。じゃあ、さっさと殺してくれ。
死を前にして恐怖はなかった。一刻も早くこの悪夢から逃れたかった。神の命は達成できず。奏太とももう会うことはない。それなのに、悲しみもない。感情を持たないのが、作られた存在であるゴーレム族の特徴。
「その前に、あなたには知るべき事実があります」
妖精は目の前に移動しいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「私は、フロール・セミルではありません」
・・・は?
「私の真名は、メルス・フォーグル。冥途の土産に持ち帰ってください」
メルス・・・フォーグル。向こうの世界で何度も耳にしたことがある有名な名前。腕のいい、妖精族の殺し屋。
パチン。
メルス・フォーグルは己の任務を達成するために指を鳴らし、間もなくして俺の意識は深い闇へと消え去った。
レイト・ヌミレオ。土でできた体を持つアースゴーレムだったものの中心あたりから一凛の花が咲き、鈍い音をたてて崩れた。もう動くことはない土の塊。
「奏太には、よろしく伝えておきます」
妖精の目から涙が一滴、頬を伝って土の塊に落ちた。
ここはどこだ?
知らない顔が俺の顔を見ていた。白衣を身に纏った、いかつい顔の男。・・・医者?
「残念。しがない科学者だ」
煙草の煙を吐きながら男は低い声で言った。
科学者。じゃあここは研究所か何かか。勢いよく起き上がり、その瞬間に生じた全身を走る激痛に顔を歪ませる。
「あまり無理すんな。体の傷も、その身に受けた呪いも、パラシティカリーの魔性生物も、すべて治療した。今お前が受けたのは、心の痛みだ」
心の痛み?なんだコイツ。いかつい顔してポエマーか?
「精神に相当の負荷をかけていたようでな。それが一時の眠りについたことで反動が来た。それが心の痛みだ。わかったな?」
鬼のような形相で睨まれる。おぉー、怖い怖い。
「ったく、何一つ怖れてやいない。よくもまあこんな状況で楽しもうと思えるもんだ」
「楽しもうだなんて思っちゃいねぇさ。問題は山積み。どうしてあいつに避けられたのかもわからねぇ」
あいつの、ルノのあの時の反応は、意図して再会したからというわけじゃあないだろう。恐らくネアは俺がいることを知らせずにあの部屋に呼んだのだろう。
「さて、と。俺はもう行くぜ。じゃあな、助かった」
寝かせられていたベッドから降り、男の横を通り過ぎる。
「待ちな。お前は、俺を止めねぇのか?」
「・・・何のことだ?」
足を止め、互いに背を向けたまま話を続ける。
「とぼけるな。賢い英雄さんには俺がこの施設で何をしているのか、わかっているんだろ?」
「そうだな」
嘘はつかない。
「二つの病院を使って人体実験を繰り返しているろくでなしだ。お前を殺せばディーテの計画も頓挫することになるだろうし、殺るならはえー方がいいんだろうな」
「じゃ、殺るか?」
「その気もねぇくせして何言ってんだよ。今は目の前の問題にだけ集中したいんだ。お前を止めるのは後からだって出来る」
お互いがお互いの心を読んで言葉を交わす。俺は向こうが今まで何をしていて、これから何をしようとしているのかを知りながらも、止める気はない。それをしている時間すら今は惜しいのだ。
「天才と馬鹿は紙一重。お前は典型的なその例だな」
「俺は別に天才じゃない。ただの馬鹿さ」
「お前をそうさせているのは、愛。愛は人を狂わせる。なんて科学的な根拠はねぇが」
「科学で証明できないものだって事実として存在するさ。気持ちなんて決まった形を持たないんだからな」
俺は、ルノが愛おしくてしょうがなかった。今すぐ抱きしめたかったし、独占欲も少しだけあった。
もちろん、天使族の姫、エルのことも好きだ。その気持ちに変わりはない。
ここで勘違いしてはいけないのは、ルノに向ける愛情とエルに向ける愛情は全くの別物であるということだ。恋愛によるものとそうでないもの。区別はつけにくいが、俺の中ではすっかり割り切っている。
「それじゃあルノに合わせることはできないね」
突然目の前の扉が開き、青色の髪の女が部屋に入ってきた。その後ろには妙に可愛らしい服を着た絵美と、なぜか由樹の姿もあった。
「よう、バカ弟子」
「誰がバカ弟子だ。俺はあんたのことを師だと思ったことは一度もねぇよ、ネア」
「だろうね」
と、ネアは笑う。
ちょうどいい時に現れてくれたものだ。おかげで探しに行く手間が省けた。・・・ってのは良いとして。
「なんで由樹がここにいるんだ?」
それが気がかりだった。
由樹は俺の問いに、まず笑顔を浮かべて答えた。次に、ネアの前に出て俺を見上げ、もう一度笑顔を見せた。
「久しぶり。トリア・タジェルク」
俺はこの時、ただただ驚いていた。普段は『アーク・トリア』と名乗っているが、それは本名じゃない。
俺がまだ新米の兵士だったころ、成績が一番上でとある称号をもらった。それが、『アーク』の名。
俺の真名は今由樹が口にした『トリア・タジェルク』。名乗るには長いためアーク・トリアと普段は名乗り、真名を知る者は同期の奴らと、称号をもらってからはごく少数しかいない。
「まさか、お前。セミルか?」
妖精族の女王であり神でもあった彼女には俺の素性は話していた。あと他に知る人物は、多分こちらの世界にはいない。いわゆる消去法での回答の答えを黙って待つ。
しばらくの沈黙を破り、由樹は言う。
「だーいせーいかい!」
そして、姿が15cmほどの妖精へと変化する。
「本当に、久しぶり」
蝶のように美しい羽を使い、俺の顔の前まで羽ばたき、穏やかな笑みを浮かべる。
昔の、女王としてではなく、一人の妖精として振る舞っていた彼女と何一つ変わらない笑みだった。
ここで、一つ確認したいことがあった。
「お前がセミルってことは、由香がメルスか?」
「ご名答」
セミルの実の姉にしてとんでもない戦闘狂。セミルと何ら変わらない背丈でありながら、手合わせをしたときにいつも死にかけていたのは俺だった。ちなみに、メルスが裏の仕事屋であることを知ったのは王城に仕えてからだった。
「メルスは今どこに?」
「お姉ちゃんは、ちょっと裏の仕事を」
「あー、おっけ。なんとなく把握したよ」
セミルがここにいるってことは空間の結合に関わるからということだろう。女王でありながら神であった彼女の力が何らかの形で必要。命が狙われればメルスは動く。
「さてさて、感動の再開はそれくらいにして、少し話をしようか。トリアもあたしに聞きたいことがあるだろうし、セミルも話したいことがあるだろうからね。と言うか、そのためにバカ弟子を起こしに来たんだけど」
「誰がバカ弟子だ。何度も言うが」
「何度も聞いたし、わかってるよ」
ダメだ。絶対にわかっていない。そう思わされるほどに軽い口調だった。が、反論はしない。弟子であることを認めたわけではなく、今は余計なことはいい、とネアに目で制された。
「ゾイル、この部屋を借りてもいいかい?」
俺の後ろに立ち、何本目かわからない煙草に火を点けているゾイルと呼ばれた男は、不機嫌そうに顔を歪めた。
「あぁ?いつものお前の部屋に行けばいいだろ」
「エミリーに聞いけど、君にあたしらの正体がばれている以上、こそこそ話す必要もないってもんだ。それに、この施設の所長として、君にも聞いてほしいんだ」
この施設の所長。へぇ、こんなに柄が悪そうなのに。じゃあやっぱりこいつは何としてでも止めなくちゃいけない相手だったのか。
ゾイルの表情は依然として変わらない。しかし、渋々と言った感じでそれを承諾した。
この部屋にあった四人掛けの椅子とテーブルに俺と絵美が隣同士に座り、その向かいにゾイルとネアが座る。一際小さなセミルは俺の頭の上に座ることにしたようだ。少々くすぐったいが、文句を言うほどでもないので放っておく。
「そんじゃあ、セミルからいこうか。トリアはその後ね」
「おう」
「それじゃあ、お言葉に甘えて話させてもらいますね」
セミルは今一度俺の頭の上で姿勢を正し、話を始めた。
私が仕組んだことで始まった聖魔大戦は、魔族の勝利に終わりました。これは、数ある文献に記されている通り事実です。
その戦争で最後まで戦っていたのが、当時の悪魔王ザビロと、当時『アーク』の称号を得ていた新兵トリア。
トリアはザビロが引き連れていた軍勢をあっという間に殲滅しザビロとの一騎打ちに望みます。本来の実力差ならば、決着はすぐにつくはずでした。しかし、どういうわけか二人は互角でした。
これにザビロは驚きました。当時、ザビロの横に並ぶ実力者はおらず、それが天敵である神民に、さらには若い兵士に存在していたのです。ザビロは求めていた詠唱術のことも忘れ、魔族本来の闘争本能が働きました。
結果、二人は気力を使い果たし引き分けました。ですが、その時の二人は笑っていたのです。
久々に楽しい戦いだった。とザビロは言い、世界は広いな。とトリアは言いました。そして、二人はお互いの力を認めて笑いあったのです。
そんな二人に私は近づき、ザビロから戦争を起こした本当の理由を聞きました。
曰く、そうする必要があった。と言います。私たち妖精が予兆として未来を感じ取るのと同じように、悪魔の王である彼も、戦争がいつか近いうちに、必ず起きるというのを感じていた、と。
妖精族と言う種族は、個人差はあれど嘘を見抜くことには長けていたので、その言葉は真実であると確信しました。
この時私は思いました。誠実である魔族。彼も例外ではなく、私が撒いた種を拾いあげただけだということ。真に戦争を起こしたくて起こしたというわけでもなかったのです。
あくまでも戦争が起きたのは私のせいということになっていましたから、ザビロに非はありません。そんな誠実さを見込み、次の神にザビロを指名しました。被害状況から魔族の勝利は火を見るよりも明らかでしたので、私が己の命を守るために神にした。そう考える方も少なくなかったでしょう。
さて、すっかり神ではなくなった私は、トリアを治療し、故郷へと向かう彼を見送ったのち、守られていた大勢の妖精族を引き連れて無人島へと移動しました。戦争が行われていた地は、植物が生きられないほどに死んでいましたからね。
誰もいない、大きな森以外には何もない無人島で再度集落を形成させた私は。女王の座を女王にふさわしい別の子に授け、姉メルスと共にこっそりと天使族の住む島、エンジェリングへと向かいました。
神民に聖魔大戦の真実を伝える必要があったのです。神民はすべての兵を失い、魔族に対する反感も強かったのです。世界に本当の平和をもたらすために、エンジェリングにある小さな森を住処とし、寿命がないことをいいことに真実をひっそりと伝え続けていました。
それから月日は流れ、ほんの数百年前。私は当時天使族の城に仕えていたという女兵士に出会いました。それが、今のナデシコちゃんです。
今とは違い血気盛んだった彼女は、私が伝えていた聖魔大戦の真実を知りながらも魔族に対しては強い反感を持ち、ただ純粋に強くなりたいと思っている子でした。
それに対して私は、自分の身分を明かし再度大戦について説きました。
すると、彼女の態度は一変しました。強くなりたいとは願ったものの、魔族に対する反感はすっかり消え失せていました。そこで私は提案します。『アーク・トリアに剣を習ってみるのはどうか?』と。
彼女とはそれきりの関係でしたが、エストとディーテによる策略で人間界に強制送還された私とお姉ちゃんを、人間へと変え目を欺く手伝いをしてくれたのが、人間界の神になっていたナデシコちゃんです。もちろん、人間に変えられていましたから妖精だったことは、すっかり忘れていました。
そして4年前。お姉ちゃんが事件に巻き込まれたことをきっかけに、思い出し始めたのです。
堀井奏太というお姉ちゃんの幼馴染がアーク・トリアと同一人物だということすぐにわかりましたが、誰の目があるかもわからず、正体を話すことはできませんでした。
そこで、私は考え、実行しました。
純粋な心を持った優衣ちゃんを利用し、妖精が登場する夢を見せ、私たちの存在を身近に感じてもらおうと。
優衣ちゃんは夢を明確に思い出すことにより、私の正体を知り、それを感知し、私もこうして皆様の前に参上しました。
語れらた聖魔大戦の本当の真実とこれまでの過程に一同は息を飲み、とあるものは煙草の吸殻をテーブルに落とした。
―今の話に嘘偽りはない。我は聖魔大戦で貴様の体を使いザビロと戦った。
と言う内なる存在。戦った張本人が言うのなら間違いないだろう。
よくよく思い出してみると、思い当たる節がいくつかあった。
聖魔大戦についてまとめられている文献の多くは、当事者抜きには語ることが出来ない事ばかりだ。天使族唯一の生き残りとしての俺の経験も参考にされているが、ザビロとの戦闘が始まってからの記憶がないため、神の継承については別の誰かが話していたということになるが、それがセミルだというのなら納得がいく。
それから、ナデシコについて。
彼女が俺のところに来た時、俺は既に神の秘書官。いわゆる神職に就いていた。そんな俺から剣を学ぶには、国や地域から申請を受け、訓練として俺がその場所に赴くくらいしか方法がなかった。何回かボランティアで気まぐれに教えたやつもいたが、それもあくまでも隠密に。教えた人数も多くない。神職は休みがほとんどないブラックな職だったのだ。
そんな滅多にない休みの日に彼女は俺を見つけ、さらには襲い掛かってきた。それが人気のない森の中だったからよかったものの、あれが人通りの多い街中だったなら、彼女は今頃神にはなっていない。
俺があの時、森の中に入ったのはただの気まぐれによるものだった。しかし、その気まぐれがセミルによって引き起こされたものだったのかもしれない、と今なら思う。俺とナデシコの出会いはセミルにより仕組まれたものだった。
「いろいろと苦労したんじゃねぇのか?俺に言ってくれればよかったのに」
頭の上にいるセミルに向かってそう言った。
「苦労はしていませんでしたよ。私たちは妖精らしく生きていましたから」
「妖精らしくって、あぁ、いたずらか」
妖精族は、人間界の数ある伝承に書かれている通り大のいたずら好き。クッキーの枚数が一枚減っていたり、雑貨をどこかに隠してみたり、そんな小さないたずらが大好きな種族という認識で間違いない。
「それに、言えなかったんですよ。いくら真実を伝えたとしても、私のことをよく思っていない方達はたくさんいました。あなたは気にしないでしょうけど、言えば私たちのことを心配する。それを、私の心が許しはしなかったのです」
信頼されていたが、されていたが故に話してくれなかった。そう考えると少しだけ悔しかった。
「まぁトリアよ。そう悲観するんじゃないよ。今思えば、それは正しい選択だったとは思わないかい?」
ネアがこちらの心を見透かし、穏やかな笑みを浮かべて言ってきた。
「君らが一緒にいることをエストが知っていたら、計画はもっと早くに動き出していたかもしれないでしょ?そうなったら対処しきれていなかったかもしれなかった」
あくまでも「かもしれない」という推測でしかないが、今はその「かもしれない」でいくらか心が軽くなった。
「さて、セミルからまだ話したいことはある?」
「ないです。全部話しましたので」
頭上にいる見えない小さな生き物は嬉々としてそう言うのだった。
それを確認したネアは重々しく頷き、次に俺の方を見た。
「次はトリアの番だ。聞きたいこと、いろいろあるでしょ?」
そう言えばそうだった。セミルの話に集中しすぎて危うく忘れるところだった。というか、半分くらい忘れていた。
頭上から「む?」と少しだけ怒ったような声が聞こえたのは、聞こえなかったことにする。
「ネア、なんでお前がこっちの世界に来ているんだ?お前、エンジェリングにおける軍の最高責任者だろ」
「え?」
絵美が驚いた様子でネアの顔をまじまじと見た。
「なんだい?エミリー」
「いや、え?最高責任者?」
そう。そのはずなのだ。
ネア・タジェント。青い髪を持つ天使族の女だ。俺の前任の秘書官であり、自分に足りない剣技を習うために、何度か手合わせしただけで師匠面してくる。実力はあるが、俺が一切敬意を抱かない、自称先輩の後輩である。後輩ということは年下であるため、聖魔大戦時は兵士として認められず、参加はしていない。俺と同じく『アーク』の称号を得たのはその後の話だ。
実力があるがために、過去3代にわたって神の秘書官を務めることとなった。そして、エストが秘書官に俺を任命し、手持ち無沙汰となったネアは、その実力からエンジェリングの軍を統べる最高責任者になった。・・・はずなのだが。
「楽しくなくてやめた」
なんて、簡単に言ってのけたのである。って、いや。
「お前、マジか」
「あぁ、大マジ。っても、今は希向一新隊の団長をやっているんだけどね」
「何がしたいんだよ」
呆れた。うんざりした。
「だって最高責任者なんてさぁ、つまんない会議に参加して、基本的には部屋に引き籠って書類整理。やってられるかっての」
「秘書官だって似たようなもんだろ」
「あれはあれだ」
さっぱりわかんねぇ。
「秘書官はさぁ、まだやりがいってもんがあったわけよ。ある程度の自由はきいたし、収入もいい。あの職場は実に楽しかったよ」
否定はしない。聞く限りだと最高責任者も秘書官も仕事に大きな差はない。そして、どちらとも大変であるということも容易に想像がつく。それでも、狭いところを管理する軍とは違い、アーウェルサ全体を見ることが出来る秘書官という職は楽しいのである。
「で?どうして退屈から逃れるためにやめた軍人へと再就職したんだ?」
「第一に、こういう時にしか出番がないだろう?第二に、自由な時間が多いだろう?第三に、秘書官だったからお金はあった。働く必要もそんなになかったんだよ。それから」
「もういい」
なんだか聞いているとこちらが情けなくなってきた。かつての実力者がここまで堕落していたとは。年長者としてなんて言ってやればいいのだろうか。
「失礼ね!」
心の声に反応するなよ。周りがついていけないから。
案の定、俺以外の奴らはネアが突然大声を上げたことに驚いていた。そのことにネアは不服そうに頬を膨らませ黙った。
「希向一新隊ってことは、絵美の上司に当たるってわけか。じゃあ、割と本気に動いているのか」
「先輩は私たちが遊んでいるように見えていたんですか?」
「お前はともかく、ネアはあり得る」
「本当に失礼な弟子だなぁ」
だから弟子じゃないっての。
「あたしらだって空間の結合を止めるためにいろいろと動いてるんですぅ!」
「へーへー、そのことに関しては後で全部教えてくれ」
空間の結合を止めることがお互いの世界にとって優先すべきことなのだろうが、俺の中ではそうじゃない。もっと大事なことがある。
「ルノはどこにいる?」
今更だが、この部屋はとても静かだった。
外部からの音を遮断しているのか、そもそもが静かなのかはわからないが、外部からの音はなかった。
そして、この部屋は学校の保健室のような内装をしている。椅子とテーブルが置かれ、ベッドが3つ。それらはカーテンで中が見えないようになっている。他には、水道や冷蔵庫。治療器具が入った金属製の棚のみ。そのすべてが自ら音を発することはなかった。
そんな環境にいたからこそ、質問を投げかけた時、カサッというわずかに布が擦れる音を聞き取ることが出来た。
俺はセミルを頭から降ろし、カーテンが閉じている一つのベッドへと近寄った。
音が聞こえたのは、3つ並んだベッドの真ん中だった。
おもむろにカーテンを開け放つ。が、そこには何もいない。布団に何かがくるまっているというわけでもないが、そこには何かがいたような痕跡があった。
(まるで子猫だな)
苦笑を浮かべて屈みこみ、ベッドの下を覗き込んだ。
暗い中で光る目と目が合った。手を指し伸ばしてみるが、
「ふしゃー!」と払いのけられる。・・・本当に猫かよ。
なぜか嫌がられながらも、逃げ場があるわけでもない。強引に、けれども優しく体を掴みベッドの外へと引きずり出す。
現れたのは俺のよく知る白髪の幼女だった。
もう抵抗することもやめ、どことなく気まずそうな表情で俺に抱きかかえられるルノの姿がそこにはあった。
「やっと、会えたな」
「・・・我が家を出てから一日も経っていないじゃろ。気持ち悪い」
目を合わせようとせず、そんな小さな呟きが鼓膜に突き刺さった。いつものツンデレか!?そうだよな!?まさかお前まで反抗期じゃないよな。と静かに動揺していると、ようやくルノは微笑んだ。
「冗談じゃよ、奏太」
そう言ったルノの体を俺は無言で優しく抱きしめた。
よかった。本当に良かった。札幌中を走り回って、色々な謎を解いて、時折死にかけながらも諦めなかったおかげで探し出すことが出来た。
その時の俺の顔は、大粒の涙で濡れていた。
ルノを膝の上に、頭にもわずかな質量を感じながらも話を再開する。すっかり涙は乾いている。
「ルノを探すという俺の目的は済んだ、んだけど、さっき会った時はもうちょっと成長していなかったか?」
「夢でも見ていたんじゃろ」
やっぱりそうなのだろうか。確かにあの時は心身ともに疲れ切っていたし、そうなのかなぁ、とは思っていた。
「トリア、他に聞きたいことは何かある?」
ネアの問いかけに首を横に振って答える。
聞きたいことの大半はもう知ってしまった。ルノがここに来るまでの経緯。希向一新隊が何をしていたのか。ルノを見つけ、心に余裕が生まれたことで、ここにいる奴らの心を読み大体把握した。
「それじゃあ、次はゾイルの番だね」
「んぁ?俺か?」
次は自分だと思ってもいなかったのだろう。煙草を咥えたまま素っ頓狂な声をあげた。
「俺から話すことなんて何もねぇぞ?」
「そうだね。君の研究資料のほとんどは手に入っているからね。君の番とはい言ったけど、君にはあたしの問いに答えてほしい」
ここでネアは一拍置き、静かに問いかけた。
「君、あたしらの仲間になる気はないかい?」
「はぁ?何言ってんだ?」
「本当ですよ」
問いかけられたゾイルだけではなく、なぜか絵美までもが驚いていた。
ソイルの研究は許されたものじゃないと、ここにいるゾイル以外は皆わかっている。それでも、ネアは俺と同じように、彼がただの好奇心で研究しているということをわかっていた。許されないことをしていたとしても、短期間でも力を借りたいというネアの申し出に、俺は異論がなかった。
「断る」と、ゾイル。
「じゃあ処罰ね」笑顔で告げるネア。
「はぁ?」わけがわからないと表情を固めるゾイル。
俺はその一連の流れを苦笑を浮かべて眺めた。断ったらそうなることは分かっていた。違法な研究をしていた者と、それを取り締まる者。
ゾイルは数秒経ってからそのことに気付き、頭を抱えた。
「それって、俺に拒否権なくねぇか?」
「あ、気づいちゃった?」
ニカッといたずらがばれた子供のような笑顔を浮かべるネア。ただし、その目は笑っていない。ゾイルがどんな反応をするのかを待つ、とんだ小悪党がそこにいた。
「そもそもさぁ、あたしが軍人だとわかっていたのにも関わらず、許されない研究をしていたでしょ?まずは処罰が先延ばしにされたことに感謝しなさいよ」
「お前が軍人じゃないふりをして研究してろっつうから続けていたんだろうが。お前にも当然処罰があるんだよなぁ?」
「何言ってんのさ。あたしは君の上司じゃない。あたしからの命令なんて聞く必要がなかったんだよ。君の真面目さが裏目に出たようだね」
ケケケと笑う魔族よりもよっぽど魔族らしい天使族。魔神族のゾイルよりもネアの方がよっぽど性根が腐っているようだ。ま、強く生きろよ、ゾイル。
「・・・何で俺はトリアに哀れみを抱かれているんだよ」
「バカ弟子を気にしちゃあいけない」
おいコラ。
「で、返答は?」
「やってやるよ。他に逃げ道もなさそうだしな」
渋々嫌々。煙草の煙を深く吐いてゾイルはそう言った。
こうして、すべてが終れば処罰を受けることが確定している、一時的な仲間が増えたのだった。
「さて、残る問題はただ一つ。フィル・ディザオス」
「先輩の中にいるという、無名の神ですね?」
軍人二人が俺の方を見て話しているが、なんだ無名の神って。俺ン中にいる奴って、やっぱりそんな大層な存在だったのか。
―違う。噂に尾ひれがついただけだ。
いつもよりもやや不機嫌そうな声が頭に響いた。
「トリア、フィルと話すことはできないかい?」
「心を読めないのか?俺の中にいるんだから」
「それが出来ていたらこんなこと頼まないよ」
ですよねぇ。
(つーわけだけど)
―嫌だ!
「断るってよ」
見事なまでに即決だった。
と、いうわけで。ネアが聞き、フィルが答えたものを俺が話すというめんどくさい体裁をとることとなった。
「まず、君はフィル・ディザオスで間違いないね?」
―もう隠す必要もない、か。そうだ。
「俺は違うけど中にいる奴はそうだ」
「君の正体は何者なんだい?性別、種族不明の無名の神。伝説の魔神族だなんて言われているけど」
―あながち間違いでもない。が、魔神族でもない。
「性別は男。間違いでもないけど魔神族でもないってよ。え、どういうことだ?」
―答えていないことまで勝手に答えるな!・・・我は貴様と似たようなものだ。我はただの兵士だった。それも、かなりの実力を持った、な。それゆえ、神に近いところまで上り詰め、最期には己自身でこの身を滅ぼした。
もっとわかりやすくいってくれよ。説明しにくいぜ全く。なんて考えていると、体の主導権が突然奪われた。
「我は魔神族ではなく、吸血鬼族だった」
俺の体で俺じゃない別の誰かが話している。同じ声帯を使っているがために、普段の俺の声とは変わらない。ゆえに、ここにいる俺以外の奴らは、フィル・ディザオス本人が話していることに気付いていないようだった。
(ったく、初めからそうしていろっての)
俺は呆れながらもない耳で話に耳を傾けた。
「我は吸血鬼族の中でも指折りの戦士だった。ありとあらゆる種族を吸収し、存在しうるほとんどの魔力を扱えるまでに至った。それゆえ、体は体の形を保つことが出来なくなった。・・・耐えられなくてな」
俺の体は悔しそうにため息をついて言った。
「それで、精神だけの存在となり、トリアの中に入ったのかい?」
俺の体は重々しく頷いた。
「魔力を持った精神だけの存在。体がなければ魔力を扱うことだってできない。誰にも認知されることもない。だが、我は体を欲し、何体もの同胞たちの体を奪っては戦闘に身を投じ続けた。かの聖魔大戦にも、魔族側として参加していた」
ふむ。なるほど。なんとなく事情は察せた。
「そこにこの体が現れた。天使族の若い兵がザビロと互角に渡り合っていた。それをひっそりと見ていた我は、この体が負けそうになった時、この体に入り込んだ。単純に手に入れることのできなかった神民の力が欲しかったのもあるが、こいつをここで殺すわけにはいかないという、衝動に駆られたのだ」
「そういえば、死のうと思って戦った。なんて話していたね」
そうだな。ネアにはその話はしてあったし、あの時は本当にそのつもりでいた。それを止めたのが、こいつ。
「我は体に入り込み、文字通り一心同体となって戦った。当初は困惑していたこの体の本当の持ち主も、我をすんなりと受け入れた。そして、戦いは引き分け、こいつはこのまま留まってくれていいと言った。それを聞いた我は、こいつを殺さないための存在になることを決め、こいつが我に依存しないよう、我が中にいるという記憶を消した」
突然、体の主導権が戻った。
―我が話すべきことは全部話したからな。
自由な奴だな。けど、こいつのことを、フィル・ディザオスのことを知ることが出来ただけ良しとしよう。ここからは俺のターンだ。
「と、言うわけらしい」
俺のターン終わり。
「はぁー、なるほどねぇ。こちらの調査によると、エスト、ディーテ、ムジナ、それから、ルノ。君もフィルのことを知っていると思うんだけど」
「ん?我は知らんぞ?」
不意に投げ掛けられた質問にルノは首を傾げてそう答えた。
「んー、そっか。こっちの調査違いだったようだ。書類を作り直さなきゃ」
おい軍人。しっかりしてくれよ。調査違いとか。冗談で済まされることじゃないだろ。
「まぁまぁ、とりあえず、情報提供ありがとね」
ネアは言いながらニヤリと笑った。その笑みを見て得体の知れな恐怖が体を這いずり回る。とても嫌な予感がする。
ネアは笑い顔を浮かべたまま、目を細める。
「君たちを。隔離するよ」
「はぁ?何言ってんだよ」
慌てて反論したが、ネアに張り付いた笑顔ははがれない。
「空間の結合をするためには、トリア、ルノ、セミル、フィル。この4人の人間界の死が必要。これだけ言えば賢い君ならわかるよね?」
ほう。俺を中心に集まっている4人か。
「もしもこの状況で襲われなんかしたら」
「とんでもないだろうねぇ」
ネアの声を別の声が引き継ぎ、同時に大きな笑い声が部屋中に響いた。それを耳にした俺はセミルをそっと服の裾にいれ、ルノを優しく抱きしめて後方に跳躍した。
俺が元いた場所は大きな剣が振りかざされ、椅子は跡形もなくなった。
もうすでに何度か目にした空間の神、ディーテによる攻撃。
「ふぃー、危なかった」
直接手を下せるってことは、近くにいるな。
「トリア!よく避けた!師匠として鼻が高いよ!」
「こんな時に何言ってんだよ!集中しろ!」
「わかっているさ。そもそも重要な四人が揃っているんだ。何も対策をしていないわけないでしょ」
ネアの言動は、初めからディーテをここに誘い込むつもりだった、と解釈することが出来る。俺たちが重要であるとわかっていながら餌として使った。腹立たしい。
「じゃ、ゾイル。よろしく」
「ッチ、この部屋を使った本当の理由はそれかよ」
ゾイルは苛立ちを露わにしながら近くにあったプラスチックのボトルを一つ、壁に向かって投げつけた。
ボトルは壁に当たり、その瞬間、部屋中が白い光に包まれた。そして、いつものように布面積が少ない服を着た紫髪の天使族、ディーテが姿を現す。
「この部屋は治療室。魔力は時として治療の妨げとなる。そのために魔力を消すためのものを、こんなところで使うことになるとはな」
愚痴を言うようにネタ晴らしをするゾイルの顔は不機嫌そのものだった。
「魔力を消す、だって?」
珍しくディーテの顔には困惑の色が現れていた。しかし、それも一瞬のこと。
「それはあんたらも同じことだろう?」
挑戦的な笑みでネアの方を睨みつけた。
「そうだね。同じさ。けど、充分。あたしはただ君と話がしたいんだよ、ディーテ」
ネアもまたディーテのことを睨みつけた。
2人の天使族の間には火花が激しく散っていた。
先に目を逸らしたのは、意外なことにディーテだった。
「残念だけど、あたしがあんたとする話なんてない」
言い終わるか否か。ディーテの体はまるで蜃気楼のように消えた。
「な!?幻術!?」
「いや、ちげぇ。幻術ならあの光が放たれた時に消えているさ」
この部屋の主はため息をつくようにして続けた。
「神の魔力までは抑えきれなかったみてぇだ」
それを聞いたネアは表情を青くし、指示を飛ばす。
「エミリー!ゾイル!トリアを守れ!」
「なんで俺まで」
「団長!魔力が!」
「くっ!これはあたしの失態か」
ネア、絵美、ゾイルの三人がそれぞれ複雑な思いも抱えながら俺を守るために近づいてくる。
「「「え?」」」
が、俺はその間を縫うようにして反対側の壁まで移動した。
「トリア!何遊んでるんだ!」
「遊んでねぇよ!」
俺はいたって大真面目。魔力が使えない奴らに囲まれても身を守ることはできない。自分の身は自分で守るさ。
「『ブレイズスノウ』」
俺は静かに能力を発動し、雪が深々と降るイメージで小さな球をたくさん出現させる。小さな火の玉は、俺を中心に散開し、無限に降り続ける。
「なんで魔力が?」
その疑問はごもっとも。だが、俺もわからない。
「コントラクターは常識に捉われないらしい」
他の魔力は封じられているが、ルノと契約したことで得た能力はその力を発揮させることが出来た。元は魔力であるはずなのに、謎である。
「そもそも魔力と言うものに常識なんてないからのぉ」
俺の腕に抱えられたルノが呑気に言った。この状況でもなんとかなると思っているのだろう。もちろんなんとかするさ。
「セミル、ディーテは?」
「ついさっきこの部屋から出て行きましたよ」
こちらも元は神。彼女も魔力を封じられていたわけじゃなかったようだ。それを聞いた俺は能力を消し、壁によりかかった。
とりあえず、この場は乗り切った。が、この場所が安全ではないことが判明した。この場所自体が敵の本拠地でもある。安全ではないと、初めからわかっていたはずだ。
「おいネア。もっとしっかり安全が確保できるところはないのか?」
「相手が空間の神である以上。もう安全と言える場所はどこにも」
「じゃあ、わたくしのところに来ますか?」
その場違いに美しい声がしたのはこの部屋の入り口からだった。背の低い黒髪で、白い巫女服に身を包んだ日本の神がそこにいた。
「ナデシコ!そうか、お前のところだったら」
「はい。無理な侵入はできませんし、この上なく安全だと思いますよ」
ナデシコ、神が住む場所なら、確実な安全を確保することが出来る。
「ネア、どうする?」
「・・・あたしは、君のことが嫌いだ。けど、今回は甘えさせてもらうよ」
「では急ぎましょう。準備が出来たら話しかけてください」
と、ゲームのシナリオを進めるときのようなことを言い残し、ナデシコは姿を消した。・・・どうやって話しかけろと。
それでも一同は一旦準備を整え、再度この部屋に集まることにした。
俺は特別準備する物もなかったため、絵美にセミルを預け、優衣とつむぎを連れてきて欲しいと頼んだ。
そして、今。俺はルノと共に廃病院の屋上にいた。
日は既に傾き終えていて、見上げれば秋の星々が。真正面には人為的な光の粒が幻想的に輝いていた。
崩れかけの屋上の縁に腰をおろし、ルノは俺の膝の上に座った。黙って同じ風景を眺め、静かな時間が通り過ぎる。
何かを話そうと思いここまで来たのだが、どうしてか気まずい空気が流れ、話を切り出しにくかった。
「ごめん」
先に沈黙を破ったのはルノ。
「気にすんな。お前が無事でよかった」
「けど、ボロボロになってまで探してくれたんじゃろ?」
「お前のためなら何ともないさ。そうだな、謝るなら莉佐と孝光にだな。あの二人、ただの人間なのに命がけでお前を探してくれていたからな」
「うむ。そうする」
ルノの体は外気と同じくらい冷たかった。そもそも悪魔であるルノの体温は元から高くない。だが、ルノは温もりを求めて俺の手を握った。
「月が、きれいじゃな」
一瞬だけ、その言葉にドキッとした。
ルノに日本文学を読ませたことは一度もなかった。だから、それが比喩的表現ではなく、思ったことを口にしただけなのだとわかっていた。それでも、
「月がきれいだ」
そう言わずにはいられなかった。
暖かくない儚げな小さな体を優しく抱きしめた。
「お前を、もう一人にはさせないから」
ルノの失踪はある意味で大きな事件だった。
始まりは、俺がルノを置いて出かけたから。もしもあの時にルノを連れて行けば、危険に晒すこともなかっただろう。俺はどんな時でもこいつの傍にいたいと、心から思った。
「先輩!他の皆は準備が済みましたよ!」
視界の下。病院の玄関からこちらを見上げて絵美が叫んでいた。
「わかった。すぐ行く」
片手を挙げてそう答え、それを確認した絵美は病院の中へと戻っていった。
俺もルノを抱いたまま地上に降りようとしたが、ふと気配を感じ、立ち上がって振り向いた。
闇夜の中で何かが光っていた。蛍ではない。けど、それによく似た何か。
その光は俺の目線の高さで止まり、よく目を凝らしてみれば、少しだけ土で汚れた妖精だった。
「メルス、久しぶり」
俺の幼馴染での人間であったはずの妖精。
「正確には昨日ぶり、でしょ?」
妖精は人間へと姿を変えてニヤリと笑った。
「お前らも面倒なことになってんのな。呼び名は、どうする?」
「この姿の時は由香でいいよ。私も奏太って呼ぶし」
そう言っている由香の顔は土汚れがついていることも相まって、とても疲れているように見えた。そういえば、「裏の仕事をしている」ってセミルが言っていたな。つまり、戦闘が終わってここに来たということか。
「相手は手強かったのか?」
「ううん。相手自体はそれほどの強さじゃなかった」
だろうな、と思う。今の状態がどれ程のものかは知らないが、かつてのメルスは数値1万越えの戦闘能力を持っていた。これは当時の俺を上回り、今のご時世でも1万越えはまずいない。よっぽどの相手、それこそ神でもない限り負けることはないだろう。
「相手は強くなかった。けど、その相手が問題だった。レイト・ヌミレオ。それが、私が殺した相手」
由香の目には薄っすらと涙が溜まっていた。
俺の頭には一人の男の顔が思い浮かぶ。人間として過ごしていた俺を幼いころから支えてくれた、軽薄でしっかり者のあいつの顔。
「な、んで?」
「エストから命を受けていたんだよ。ほら、これ」
由香はそう言って、タケさんがいつも使っていたスマホを、一通のメールを表示させて俺に見せた。
それを見た俺の怒りの矛先は、一人の幼馴染へと向けられることとなる。
「エスト。俺はお前を必ず止めるぞ。もう誰も、犠牲にはしない」
思うところはいろいろとあったが、くよくよしていても仕方がない。起きてしまった問題を解決することが、今の俺のすべきことだ。
「・・・行くか。みんな待ってる。由香も行くだろ?」
「妹を一人にさせるのは心細いからね」
由香はメルスへと姿を戻し、俺の右肩に乗った。そして俺はそのままみんなと合流した。
つむぎと優衣は寝ていて、それぞれネアとゾイルに背負われていた。ナデシコが、「人間には負担が大きいから」と眠らせたとのこと。
そういえば、全員準備すると言って散った割に、荷物が少ないのが気にかかる。それに関しては、絵美が説明してくれた。
「本当はたくさんの書類や薬品を持っていこうとしていたのですが、書類はともかく薬品は危険だからダメだと、ナデシコさんが」
これを聞いて視線を逸らすものが二人。もちろんネアとゾイルである。
特に、薬品を取り上げられたというゾイルは、この施設を破棄することにしたという。雇っていたアーウェルサの住民をアーウェルサに帰し、魔力でできたこの建物を消滅させるべく、核を壊す。とのこと。
「だから、行くなら急いだほうがいいぞ。核の横に置いた爆弾が後10秒もすれば爆発するぞ」
焦りが感じられないゾイルの一言で、俺たちは聖域へとあわただしく移動したのだった。
テレポートが起動してすぐ。札幌は大きな揺れに襲われることになる。これは、地下で起きたことであり、地下の採掘場、研究施設が消滅したことを、人間たちは知らない。
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