第3章~因縁の夢の中~
あやしい。
思わずそう言いそうになり鈴野莉佐は慌てて口を塞ぐ。
視線の30メートルほど先。茶髪の男と高校生らしき金髪の女の子が人気の少ない路地へと入っていく。
莉佐は考える。追うべきか否か。
本当ならカナの契約種であるルノちゃんを探さなくちゃいけないし、そもそも、その路地に入ろうとしたらその男女が入って行ったのだ。
よし何も見なかったことにして、ルノちゃんを探すという正当な理由を盾に、様子を見ることにしよう。うんそうしよう。
そう決め、いつもと変わらない足取りで、人が二人並べば塞がれてしまうほどに狭い通路へと歩く。
一組の男女はまだそこにいた。同じ壁に横に並んで何かを話しているようだった。その様は、やはりどことなく怪しく見えた。
と、男の方が莉佐の存在に気付き、あっと驚いたような表情を見せた。この時、莉佐も同じ顔をしていただろう。
どこかで見たことがある。お互いにそんな顔をしていた。
直接会うのはこれが初めてだが、その存在を、その顔を莉佐は写真で見たことがあった。名前は、確か、
「孝光さん?どうかしましたか?」
そうだ。孝光だ。東孝光。福島県のコントラクター。
「招かねざる客、かな」
女の子に答えて孝光は苦笑を浮かべる。
「鈴野莉佐さん。・・・そうだよね?」
身元はばれているようだ。そもそも隠すような身分でもないけど。
「初めまして。東孝光さん。あなたの予想通り、鈴野莉佐です」
「・・・生憎、僕はもうコントラクターじゃないし、すでに下僕へと成り果てた人間だ。ゲームを進行したいというのなら他を当たってくれ」
「それは莉佐も同じですよ」
言いながら左手の甲にある下僕の証を見せる。
「黒い三又の槍。ということは、君も奏太に殺されたのか」
正確にはルノちゃんが殺してくれたのだが、そんな細かいことはこの際どうでもいい。黙って頷く。
「と、いうことは。君もワーペル様を探している。ってところかな?」
ルノちゃんのことをワーペル様と呼ぶ人を初めて見た気がするが、これもこの際どうでもいい。黙って頷く。
「僕らも同じなんだ。どうだい?協力しないか?」
「構いませんよ。人手は多い方がいいでしょうから」
初対面ではあるが目的は同じ。少なくとも敵ではない。
「理解が早くて助かる。・・・絵美もこのくらいものわかりがよければ」
後半はよく聞き取れなかったが、女の子に鋭い眼光で睨まれているのを見ると、たいしたことではないのだろう。
「ちょうど作戦会議をしていたところなんだ。だから、ちょっとこっちに来てくれる?」
作戦会議ということは、女の子の方も元コントラクターだったりするのだろうかと考え、孝光とは反対の壁によりかかる。
女の子を見た。
背は高くなく細身。胸は大きくこそないが顔立ちは良い。男に好かれそうだな。女の子に対する第一印象はそれだった。が、女の子のある部分をみてその考えを取り消す。
「絵美、自己紹介して」
孝光に促され女の子は渋々といった感じで口を開く。
「黒谷絵美です。札幌潮ノ宮学園の一年です。よろしくお願いします」
「絵美ちゃん・・・ね。あの違ったらごめんだけど、あなたって人じゃないの?」
「えぇ、そうですよ」
さらっと肯定された。そして、莉佐も驚きはしなかった。
なにせ、絵美の手には莉佐にもあるような下僕の証がなかった。そうなると考えうる可能性は二つ。一つは、コントラクターに殺されていない純粋な人間であること。もう一つは人間じゃないということ。
元コントラクターと共に行動し、証がないということは後者の可能性が高いだろうとあらかじめ推測していたため「やっぱり」という反応だけで終わった。
ここで「人間です」と答えられたのならもちろん謝り倒すつもりだった。
「思っていたより勘がいいようですね。私は雷獣族雷鳥種。真の名をエミリー・ドガットルートといいます。が、絵美でいいです」
なんかさらっと毒を吐かれたような気がしたが気にせず、孝光の言葉に耳を貸す。
「この子は僕の契約種の妹なんだ。彼女は奏太に殺されてしまってもういないけど、それでも人間界に残って僕の面倒を見てくれるいい子なんだよ」
「余計なことは言わなくていいです。このクソヒキニートゲーマークズ野郎」
「ボロクソ言わないでよ。今は引き籠っていないし、『クソ』と『クズ野郎』は余計。あと、ゲーマーは誉め言葉だありがとう」
ニートだけ否定していないのは触れるべきだろうか。というか、いろいろと突っ込みたいことだらけだ。
「ほら、無駄話はそれくらいにして始めますよ」
収拾がつかなくなりそうなところを絵美が何とか話題を転換させる。が、莉佐はそれに待ったをかける。
「一つだけ絵美ちゃんに聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
「無駄じゃなく答えられる範囲ならどうぞ」
答えてくれるかはわからないが、きっと無駄じゃない。
「カナの、奏太に姉を殺された。そう聞いたけど、絵美ちゃんは何か思うところはないの?」
返答によってはこのまま放っておくことも出来ない重要なことだ。もしもカナに何かしら負の感情を抱いているとして、殺したいとか思っているのなら、それはルノちゃんを先に見つけることで簡単に達成できてしまう。
「そうですね。憎いですよ。恨めしいですよ」
言葉に、力を感じなかった。
「けど、その思いを実行に移そうとは思いません。お姉ちゃんが、望みはしないでしょうから」
「そっか。安心したよ」
負の感情がある限り疑いが晴れることはないが、それでも、一緒に行動する間だけはその言葉を信じることにした。
「さて、始めましょうか」
絵美の仕切りでお互いの現状を報告する。
カナからルノちゃんの捜索依頼メッセージが来たのは今から4時間前の午前8時頃。
莉佐はそれが届いてから30分後に捜索を開始。孝光はメッセージが来た時は寝ていたらしいが、絵美がそれを見て9時30分頃に札幌へ着いた。そして捜索を開始。しかし、お互いに手がかり1つ掴めていない。
「人探し系のクエストは聞き込みを中心に進んでいくものなんだけど、どの時間に失踪したのかもわからないし、目撃情報が一切ないんだよね」
「ゲームと一緒にしてほしくはないですけど、聞き込みをしたんですか?」
莉佐にはそうしようという考えもなかったのに。
「びっくりですよね。ニートのくせに」
「ニートは関係ないからね?」
「莉佐も莉佐でカナに失踪時間を聞こうと思ったんですけど」
「繋がらないんだよね」
小さく頷く。
どれだけ電話をかけても、電波が届かない、電源が入っていないという機械音性が響くばかり。メッセージを送ってもみたが既読もつかないという始末。
手がかりはなく、足取りもつかめない。何処をどう探せばいいのかもさっぱりだ。
「一見すると詰みゲーっぽいんだけど、唯一、奏太の居場所だけは端末を見ればわかる」
言いながら孝光は、ゲーム用に貰った、莉佐とは色違いの端末の画面を見せる。
マップ上でカナがどこかの建物にいると、マーカーで表示されている。
「けど、これって信用できませんよね」
「その通り。縦軸と横軸しかないから高さがわからない。このマーカーのところに向かったところで地上なのか空中なのか。はたまた地下なのかもわからない」
「空中ならまだしも地下にいるとなればいろいろと問題がありますからね。なので、一旦先輩を探すことを諦めます」
それが妥当なのだろうが、探すための手がかりを得ることが出来ない。結局詰みゲーではないか。
心当たりのある場所といえばすでにカナが行っただろうし、何かが得られるとも考えにくい。
ふと、空を見上げた。雲はなく秋の澄んだ青空が少しだけ見える。太陽も出ているが、高い建物に挟まれているため日は入らず、かなり肌寒い。日向は日陰よりも暖かいが、10月の北海道となれば寒さも厳しくなってきている。
ぶるっと体が震えた。同じ空の下にルノちゃんはいるはずだ。寒い思いはしていないだろうか。凍えてはいないだろうか。
そんなことを考えて視線を戻す。
孝光と目が合った。
にこやかな笑みが浮かべられていたが、それが作り笑いであることはすぐにわかった。
「何かありましたか?」
「いや、物憂いにふけっている顔が美しくて、ついね」
それが心からの言葉ではないということもすぐにわかった。なんだよ、ついって。童顔に対する挑戦だろうか。
「いつもにまして気持ち悪いですね」
絵美の容赦ない一言が孝光へと突き刺さる。が、孝光は意にも介さず青い空を見上げて頭を掻いた。
「自分が思っているよりもはるかに、僕は焦っているようなんだ。あの子らとは1日分の時間も関わってはいないけど、それでも、世界ランク52位のこの僕に勝った子だ」
何その微妙に反応しにくい順位。戸惑う莉佐に構わずなおも孝光は続ける。
「ワーペル様がいなくなった。奏太には彼女がいなくても勝つことが出来るかもしれない。けど、万が一にもワーペル様が殺されるようなことがあれば、確実に奏太は壊れてしまうだろう。それだけは何としてでも避けなくてはいけない事態。それを頭で理解しているのに。何もできていないのがために、焦っている」
孝光は重々しくため息をついて莉佐の方を見た。
「ねぇ莉佐さん。僕らはどうすればいいんだろうね」
どうすればいいのか。そんなのルノちゃんを見つける。その努力をする。違う。孝光が求めている答えはこんな簡単に導けるようなことじゃない。
見つけるためにどうすればいいのか。手がかりも足取りもなし。心当たりのある存在もない。ノーヒントでどこにいるかもわからないルノちゃんを探す。それがいかに無茶で無謀なことであるのか、容易に察しがついた。
その時。地面が大きく揺れた。
「お、地震かな?」
「またですか。今日2回目ですよ?」
孝光と莉佐が感嘆の声を上げるなか絵美が、
「・・・先輩の魔力」
そう呟いたのを聞き逃しはしなかった。
「絵美ちゃん。それってどういう」
「すいません孝光さん。端末を貸してください」
絵美は孝光に有無を言わせず、端末をひったくるように奪って操作を始める。
「場所は、あっちの山。それもかなり深いところ」
ぶつぶつと呟かれる言葉に耳を傾ける。
「確かあの山には、アーウェルサの住民が作ったアレがあるはずで」
「あの、絵美ちゃん?」
声をかけるが反応はない。
「こうなれば絵美は結論を導くまで何を言っても無駄だよ」
過去にもこのようなことがあったのだろう。孝光の顔が期待の色に染まっていた。
孝光の説明通り絵美には何を話しかけても反応はなかった。それどころか、呟きがどんどん大きくなっていき、やがて晴れた顔でこちらを見た。
「その顔は、何かわかったようだね」
「えぇ。おかげさまで」
端末を孝光へと返して絵美は話始めた。
「結論から話しますと、ルノはここからほど近い山にある廃病院にいると思われます」
莉佐が一時を過ごした山小屋がある山と連なっている別の山を絵美は示した。
「根拠は?」
「そうですね。どこから話しましょう。・・・お2人はこの街の地下に大規模な採掘場があるのをご存知ですか?」
2人そろって首を横に振る。
「そりゃそうですよね。人間には知る由もないことです。簡単に説明しますと、魔晶石と呼ばれる魔力が凝縮されてできた結晶。それを採る場所があるのです」
「続けて?」
言葉を切った絵美に、孝光が理解したと先を促す。
「札幌潮ノ宮学園とその採掘場は繋がっています。これは、以前私が在学中、ひそかに調べていました。そして、先輩のマーカーは病院。採掘場、そして学校を一直線に結んだ途中に位置しています」
「じゃあ、カナは廃病院に向かっているの?」
「その可能性が高いという話です。もしかしたら、違うかもしれませんけど」
違うかもしれないと言っている割には自信たっぷりだった。それに、これは大きな進歩だ。何処に進めばいいのか、道を作ってくれた。
「莉佐さん」
「はい。行きましょう」
「お二方。私につかまってください」
そう言った絵美の背中にはいつの間にか電撃を纏った翼が生えていた。
本当に人間じゃなかったんだ。いや、別に疑っていたわけじゃないんだけど、改めて目で見てそう実感したってだけで。
なんて、誰に向けてでもない言い訳を心の中でしながら絵美の手を握った。
その瞬間。唐突に浮遊感が訪れ反射的に目を瞑る。それからすぐあと、目を開けるよりも先に地面へとゆっくりと降りたのを肌で感じた。
「到着です」
見渡すと、そこはまだうっすらと葉が残っている森の中だった。真正面には巨大な建物があった。
「ここが廃病院か。なんだかいかにもって雰囲気があるね」
「孝光さんってホラー系ダメでしたっけ?」
「ゲームなら大丈夫。けど、リアルはちょっとね。って、絵美さん?背中押すのをやめてくれないかな。先頭は嫌だよ?」
「まったく。情けないですねこのニートは。莉佐さんは、ホラーとか大丈夫ですか?」
「うん。平気だよ」
「おぉ頼もしい」という、情けない男の声を聞き流して一旦深呼吸する。
冷たく乾燥した空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
そして、枯葉の絨毯が敷かれた地面をゆっくりと進み、ガラスの破片が散らばる玄関をくぐる。
視界に映る惨状は実にひどいものだった。薄暗く、椅子や書類が散らばり、外の枯葉や木の枝が入り込み、言うまでもなく汚い。長居をしたくなるような場所じゃない。
「絵美ちゃん。まずはどこに行くの?」
「とりあえず地下に向かいましょうか。先輩がどこに向かっているにしろ、地下にいるのはほぼ間違いないので」
話しながら地下へと続く階段を見つける。電気はなく日の光も入ってこないため真っ暗だ。
「『サンダーライト』」
絵美が魔力を発動して光り輝く小さな球を出現させた。これによりくらい階段は照らされ視界を確保できるようになった。
「さ、行きましょうか」
「うん」
絵美を先頭に階段を下りる。
白い息を吐きながら誰も一言も発さず最下層と思われる地下3階で閉じていた扉を絵美がゆっくりと開けた。
そこは絵美が照らしても先が見えないほどに広くて暗い空間だった。
机が等間隔に並べられ、見たことのない機械類や、見たところでよくわからない書類が置かれ、壁際の棚には理科室で見るような試験管やビーカーなどの実験器具がきれいに並べられている。
「不自然だね」
孝光がつぶやいた。この部屋のおかしな部分に気付いたようだ。もちろん、莉佐も気づいている。この部屋は明らかに不自然なのだ。
「廃病院だというのに汚れが驚くほど少ない。まるで」
「最近まで使われていた。孝光さんはそう言いたいんですね?」
絵美が面白いものを見たという顔で孝光の言葉を遮って続けた。
「その推測。大当たりですよ。つい最近。いや、ついさっきまでこの部屋は使われていたようです」
「どうしてそんなことがわかるんだい?」
絵美は孝光の問いには答えずに棚にあったビーカーの1つを指した。
「濡れている・・・?」
「他にも数本の試験管と、いくつかの薬品も使われていますね。本当に微かですけど薬品特有の刺激臭がします」
莉佐の鼻では土臭い匂いしか嗅ぎ取れなかったが、異世界民である彼女と人間では嗅覚に差があっても仕方のないことだろう。
「どこの誰がここを使っていたんだろうね。ついさっきまでいたんなら僕らとすれ違っていてもおかしくないのに」
「孝光さんはアホですか?入ってきた方とは反対側にドアがありますし、誰がここを使っていたのかなんて、そこにある紙を見れば一目瞭然でしょ」
そう言われて莉佐と孝光は近くにあった紙を手に取り目を通す。が、通すまでもなかった。何も読めない。読めないのではない。読むものなのかすら怪しい。
「絵美、これは?」
同じく困惑した様子の孝光が絵美に尋ねる。
「アーウェルサの言語ですよ。孝光さんが持っている物にはどこかの誰かのおつかいリストが。莉佐さんのものには、人間の他種族化について。それから、」
「ちょっと待って!」
あまりにもあっさりと絵美は流そうとしたが、流してはいけないとても重要そうなことが書かれていることを莉佐はしかと耳にした。
「人間の、他種族化って言った?」
言いながら紙を持つ手が震えた。
「えぇ、言いましたよ。その紙に書かれているのは、人間の子供を妖精族へと変えるために行われた実験の手順と、その結果が簡潔に書かれています。・・・知りたいですか?その内容を」
「知りたい」そう言おうとしてギリギリで踏みとどまった。知りたいという気持ちがないわけじゃない。それと同じくらい知りたくないという気持ちもあった。
人間が人間じゃなくなるその過程を。笑い話では済まされるような易しい話じゃない。世の中知らない方が幸せということもあると思うのだ。けど、それでも。
「莉佐さん?」
「教えて、くれるかな。その実験について」
知ることで前に進めることも、世の中にはあるはずだ。つらい現実から目を背けるのは確実に後悔することになる。
「はい、わかりました」
絵美は深呼吸する。異世界民である彼女がそうする必要があるほどの内容が、そこには書かれているのだろう。
「まず、人間の子供をどこからか捕獲。『ベジテーション』の魔力を付与した魔晶石を体内へ注入。―失敗。廃棄処分。書いてあることをざっと簡単に読み上げるとこんな感じですかね」
莉佐も孝光も声を発することが出来なかった。
失敗したから廃棄処分。その方法までは分からないし、それだけは知りたくもないが、この実験をした者たちは人間を何とも思っていないのかと、怒りにも似た感情が沸きあがってくる。
情報を整理するのにたっぷりと時間を使い、乾いた唇を湿らせてから口を開く。
「どうして」声がかすれていたため言い直して「どうして、そんなことを?」
「それは私にもわかりかねません。考えられるのは、空間の結合。でしょうか」
「空間の、結合?」
どこかで聞いた覚えがあった。
「そうですね。説明しましょうか。世界には少なくとも3つの空間が存在しています。1つはここ、人間界。1つは私の故郷であり、人間にとっての死後の世界、アーウェルサ。そして、その2つの世界の狭間の空間、暗黒世界とよばれるもの」
指を一本ずつ立てて絵美は3つの世界の名を挙げた。
「この3つの世界とは本来、自由に行き来が出来ないものです。アーウェルサで特別な命を受けたものだけが人間界に入ることを許されるのです」
カナと、バイト先のカフェのマスターはちゃんとした任務があったなぁと再認識する。
「任務がなければこちらの世界に来ることはできない。だから、人間界でアーウェルサが関わったゲームが始まるのもおかしな話ではありますが、神という存在はほとんどのルールに縛られません。たくさんの任務なしのアーウェルサの住民を空間の結合への第一歩として送りました。あくまでも、ゲームと称して」
「じゃあ空間の結合をしようとしているのって」
「人間好きの神お2人ですよ。初めは空間の神、ミノ・ディーテだけでしたが、現在の神エスト・テリッサもそれに協力をしているようです。恐らく、エストの幼馴染という時の神、メチ・エクルディもまた関与していると思われます」
名前のでた3人のうち2人は顔も知っていた。1人は名前だけ知っていた。カナの話をルノちゃんを通して聞いた時にその名前と、空間の結合というワードがあった。
「先輩。堀井奏太。つまるところアーク・トリアもまた、空間の結合に関わる重要な存在らしく、ミノ・ディーテに命を狙われています。そして、ルノもまた同じです。これは、その2人に自身でも気づいていな強大な力が秘められているから。そう囁かれています」
強大な力を持つゆえに命を狙われている。そういえば、ルノちゃんの体にも成長できないような呪いがかかっていると聞いた覚えがある。
「特に、現在失踪中のルノは既に敵の手中にあるのかもしれません」
「じゃあ、早く進まなきゃ」
「えぇ。その通りです。行きましょうか」
「待った!」
今まで黙って話を聞いていた孝光が大きな声を出して先に行こうとしたのを止めた。
「なんだ、いたんですか」
「いたよ?はじめからいたよ?」
「とっくに逃げたのかと」
「莉佐さんまで?あのね、僕は別に恐怖で動けなくなるほどやわじゃ」
「で、なんですか?」
孝光は絵美に言葉を遮られ、扱いひどいなぁとぼやきながらもすぐに真顔で絵美の方を見た。
「僕が聞きたいのは一つだけ。絵美、君は一体何者なんだ?」
絵美の眉がピクリと動いた。
「私は私でそれ以外の何者でもありませんよ」
「そんな当たり前のことを聞いているんじゃない」
「じゃあどういうことですか?」
全くもって同感だ。莉佐にはどうして孝光が突然そんなことを聞き始めたのか。その意図が全くもってわからなかった。
「あのね、人間である僕に神様の事情なんて知りえないことだ。それでもはっきりとわかることがある。・・・詳しすぎやしないかい?神様たちの事情にさ」
莉佐は首を傾げ、絵美の表情は依然として変わらない。
「ゲームの始まりの裏事情なんて公にできるようなことでもないだろう?なら、ごく一部にしかそんな情報は出回っていないと考えられる。ただの推測だけどね」
孝光はそう言ってニヤリと笑った。
そして莉佐もようやく気付く。空間の結合だったりカナやルノちゃんすら知らないような力があったりなんて、どこから得られるというのだろう。もしかしたら向こうの世界には情報屋なるものがいるのかもしれない。それでも、孝光の言うように詳しすぎる気がしなくもない。
「それに、君は自分で言っていたじゃないか。任務がないとこちらの世界にはこられないと。それに、君は誰かの契約種というわけでもないんだろう?」
そうだ。絵美自身が言っていたことだ。任務がなければこられない。孝光が言うことが事実なら、契約種じゃない絵美がこちらの世界に来ているということは、何かしらの任務を受けているということになる。
答えを求めて絵美の方を見た。
絵美の表情に変化はない。だからこそ、それが逆に怪しく見えた。動揺している感じもなく、表情が顔に張り付いてしまったかのように動かない。それも長くはなかった。
「ニートのくせに、勘がいいですね」
どこか諦めたかのようにため息とともに吐き出した。
「時間があるわけでもありませんし、少しだけ、簡単に私の話をしましょう」
右手を胸に当てた絵美は真顔で言う。
「私は、希向一新隊に所属する軍人です」
「きこーいっしんたい?」
もちろん聞き覚えなんてなかった。
「向こうの世界には様々な軍隊があるのです。その中の1つに私が所属している。ただそれだけの話です」
そう言うと絵美はくるりと背を向け、首だけでこちらを見た。
「続きは移動しながら話しましょう。ゆっくりもしていられないので」
こちらが返答するのも待たず入ってきた方とは反対側の扉に向かう絵美に、莉佐と孝光はお互いに困惑したままついていき、実験室を後にした。
部屋から出るとそこは鉄で囲まれたかのような通路だった。あまり見かけない材質だ。
生き物を感知すると電気がつく仕組みなのか照明には困らない。
「さて、私が所属する希向一新隊とは、アーウェルサと人間界。この2つの世界両方に関わる問題を解決するために結成された部隊のことです。滅多なことでは動かず、普段は軍人ではなく普通の住民として過ごしていますが、問題が起これば随時招集がかかります」
ここまではいいですか?と、一旦言葉が切られすぐに説明が再開される。
「私の姉である、アルガイル・ドガットルートも私と同じく希向一新隊に所属しています。姉はゲームの参加者としてゲームの事情を内側から探る命を受けていましたが、運悪く契約した人間が一切働かず、情報を集めるよりも先に、私の観察対象である堀井奏太に殺されました」
孝光は申し訳なさそうに目を伏せていたが、ふと何かを思いついたのか口を開いた。
「君は、いや、君らはゲームの本当の参加者ではなかったってこと?」
「姉はともかくとして、孝光さんがさっき言ったように、私は誰かの契約種ですらありません。姉と同時にこちらの世界に来たものの、基本的には実地調査。孝光さんが『北海道が欲しい』と言い出した時には、素性を知らないふりをしてアーク・トリア、ワーペル・ルノの監視も始めることになったんですよ」
最初に先輩と会った時は誰だか気付かないという失態を犯しこそしましたけどね。と、苦笑を浮かべた絵美は足を止めて振り向いた。
それに伴い莉佐と孝光も足を止め、通路に響いていた足音が止んだ。
新しい情報が出るわ出るわで頭が追い付かない。軽い頭痛と眩暈がするが、それを口にはしない。それに絵美が気づいていたわけでもないだろう。それならなぜ、絵美はこのタイミングで足を止めたのか。それを聞こうとして絵美を見る。
絵美は、孝光を見ていた。いや、違う。孝光よりもその先を見据えていた。何の変哲もない今まさに通った通路だけが莉佐の目には映る。
「絵美ちゃん?」
莉佐の呼びかけにも応じず、口を一文字に結んだ絵美は虚空を見つめながら孝光の横を通り過ぎ、さらに2、3歩行ったところで再度足を止めた。
「あなた、誰ですか?」
「え?」
莉佐の目に映るのは何もない空間に話しかけた絵美の姿。だが、絵美の目には何かが映っているのだろう。何かを聞いているのだろうということを理解した。
「はぁ、神様でしたか。地上に降りてきてまで何か用ですか?」
「アーウェルサの民の排除?残念ですが、私はちゃんとした任務を受けているのでその対象には入りませんよ」
「アーク・トリアもワーペル・ルノもこの先にいる?それは大変有益な情報をありがとうございます」
「え?今なんて?」
「数多くの人間が生きたままアーウェルサに行っている?それはいったいどういう、あっ!」
激しい独り言の末、絵美は何かを考えるように黙り込んでしまった。
この激しい独り言の内容から、神様がいて有益な情報を絵美に与えていたということは分かった。ただ、その神様の姿も声も、莉佐にも孝光にも認識できなかった。
「おい、絵美?」
「え、あぁ、すいません」
孝光に呼ばれて絵美はハッとしてこちらを振り向いた。その顔は、明らかに動揺していた。
「何があったのかをお話ししますと。今ここに、ナデシコという日本を担当する人間界の神がいました。その方の話によると、私の予想通り、探している2人はこの先にいるようです」
よかったと安心したが、絵美から動揺の色は消えない。
「問題はここからです。どうやら、空間の結合がすでに始まっているようです。ナデシコさんは他の場所に行くから、ここを進んで2人を保護。空間の結合が始まっているところをどうにかして欲しい。去り際にそう言われました」
「そう、なんだ」
空間の結合はもう始まっている。
頭では空間の結合そのものについて理解しているつもりでいた。そうじゃなかった。人間である自分には、空間の結合の問題がよくわかっていなかった。だから、返事もどこか気の抜けたようなものになってしまう。
「結合を目論んでいる方々は気づいていないようですが、そんなことをすればたちまち、人間界は滅びます」
絵美が気を遣って説明してくれたが、これもまた規模が大きい。
「完全に理解しろとは言いません。ただ、そういったことが起こるかもしれないと、頭の片隅にでもしまっておいてください」
無言でうなずいた。
「さて、早く先に進みましょうか。空間の結合が始まっているとしても、あの2人は必要になりますから」
そう言って意味深長に笑った絵美を先頭に、代り映えのしない一本道をしばらく進むとどこかの部屋へとつながった。
「ここも、研究室のようだね」
部屋を見渡した孝光がぽつりとこぼす。
先ほどの実験室とあまり構造が変わらない部屋。違うところは、1つの壁がガラス張りで、その奥に複数のカプセルが並んでいるということ。
「ッ!?」
それを見て思わず悲鳴がでかかった。なんとか両手で声を抑えることはできたものの、腰が抜けてしまいその場に座り込んでしまう。
「莉佐さん?」
孝光の呼びかけには応じず、言葉が発せられないままガラス奥のカプセルを指差す。
2人はそれにつられて目をやり、なにも言えずポカンと口をわなわなと震わせた。
カプセルの中は謎の液体で満たされていた。さらにその中には、全裸の人間の男が苦しそうにもがいていた。
「早く、助けなきゃ」
絵美が雷を纏った剣を右手に持ち、ガラスの壁をぶち破り、カプセルを破壊した。
鼻を刺す薬品特有の匂いに顔をしかめながら、孝光の手も借りて何とか絵美の下へ駆け寄る。
他のカプセルには生物はおらず、このカプセルだけ使われていたようだった。
絵美は呆然とした表情でカプセルから解放された人間を見ていた。その人間は、カプセル内では激しく動き回っていたのにもかかわらず、ピクリとも動かなかった。それに、人間にはないものがその男の背中から生えていた。
「何?この羽。まるで、蝶のような」
「これが、人間の他種族化、ということなんでしょう」
「これは、成功しているのか?」
「どうでしょう。魔力の感じが人間であり妖精。中途半端な状態です。一先ず、ここから」
絵美がそう言いかけている時だった。絵美の右手がはるか後方。ガラス壁の反対にある実験室に跳んだ。服がズタボロに引き裂かれ、露わになった肌には無数の傷が刻まれていた。
「あ・・・うぁ・・・あぁ」
何かの攻撃は止まらない。絵美の体が勢いよく実験室の方へと跳び壁と激突。さらに床に叩きつけられ、その床には蜘蛛の巣上にひびが入り崩落。絵美はボロボロになり為す術もなく地下へと落ちて行った。
「絵美!」
孝光が慌てて壊れた床の方へ駆けるが、絵美を襲った何かが進行方向に立ち塞がった。
「なんだい、君は」
人間のように2本の足で立ち、腕が2本、指は5本。口と鼻は1つで、目は2つ。髪はなく肌の色は、水色。背中には蝶のような羽。これがさっき解放した人型の何かだと気づくのに数秒の時間を要した。
「君が、絵美をやったのか?」
孝光の声には焦りも恐れも感じられない。ただ、膝が小刻みに震えているのが一目でわかった。
「東さん、逃げて!」
それを言うよりも、莉佐の足元が崩落した方が一足早かった。
「え?」
落下していると頭で理解した時には既に別の部屋の床が見えていた。焦げ臭いにおいが鼻をかすめる。
下僕となった人間は死なないらしい。それでも、怖いものは怖い。ぎゅっと目を瞑り一瞬の浮遊感に身を委ねる。
感じた衝撃は、想像よりも優しいものだった。明らかに床に叩きつけられたような感じではない。そして、暖かかった。
目をゆっくりと開けた。
鳥のように白い翼が視界を埋め尽くしていた。隣には傷だらけだったはずの絵美が、少しだけ満足そうに横たわっていた。
「大丈夫か?」
翼の向こうからよく知る優しい男の声がした。
「もしかして、カナ?」
「もしかしなくてもそうだ」
翼がゆっくりと開かれて地面に降ろされた。
いつの間に上昇していたのか、そこは落ちる前にいた実験室だった。孝光の姿はあるが水色の怪物の姿はない。そして、さっきまでいなかったはずの優衣ちゃんもいる。
カナの体には、さっきまで莉佐と絵美を包んでいた翼はなかった。
「ここにも研究室があったのか。ってことは、ここで作った改造人間を下に保管なり廃棄なりしていた。それが、俺が殺した子供たち。一応辻褄は合うか」
そう言ったカナがどんな表情をしていたのか、背中越しではわからなかったけど、どことなく悔しそうな響きがあった。
「で、お前らはどうしてここにいるんだ?いや、理由の検討はついている。どうやってここまで行きついた?」
驚いたように、どこか咎めるようにカナは目の前に立つ絵美に聞く。
「希向一新隊。軍人として、あなたを野放しにすることはできないのですよ」
絵美がカナを見据えて、挑戦的な目で言った。
一方、答えを聞いたカナに動揺の色はない。ゆっくりと呼吸を繰り返して静かに言葉を返す。
「絵美。莉佐と孝光を連れて、ここから退け」
「は?」
「どうしてかわからない。って顔をしているな。わからないならヒントをやろう」
カナが不敵に笑っているのが見えた。
「1つ」人差し指を立てる「この施設が行っていること」
「2つ」中指を立てる「つい最近まで使われた形跡があるということ」
この施設がしていることは人体実験。つい最近まで使われていたということは、人間である自分たちにも危険がある。カナが言いたいのはつまりそう言うことだろう。
「全員、わかったようだな。絵美はこの2人を連れて安全なところに行った後、豆本精神病院に来てくれ」
「豆本?」
「お前らが来た方とは逆の通路、つまりこの先にあるはずの、小さな廃れた病院だ」
莉佐たちがここまで来るのに最初に入ったのは大きな総合病院だった。豆本が何処にあるのかはわからないけど、そう遠くないところにあるのなら、
「莉佐、変な気を起こすなよ?」
心を読まれたようだ。
「これ以上、誰にも犠牲になってほしくはないんだ。わかってくれ」
それは、出会ってから始めて聞く小さな悲壮の叫びだった。
「うん。わかったよ。莉佐は新しくルノちゃんの服を作って待っているから」
それくらいしかできないし、その程度のことしかしてあげることが出来ない。
「あぁ、そうしてくれ。それじゃあ絵美」
「はい。行きますよ、莉佐さん、孝光さん・・・孝光さん?」
絵美が呼ぶが孝光に反応はない。聞き取れない言葉を呟き呆然と立ちすくんでいる。
「孝光さん!?なんでこんなにも魔力が高まって」
「やられたか」
やられた?それはつまり。部屋に緊張が走った。
「絵美、離れろ。『トリスプレイト』」
カナの手の平から光が放たれ孝光の体を包み込んだ。
孝光は声を発さずにもがき、苦しみ、体をよじり、やがて先ほど絵美を襲った水色の怪物が出てきた。
「寄生の魔力『パラシティカリー』の力をもった人ベースの魔生成物か。中途半端に妖精族にしようとして失敗したってとこか」
言いながら、カナは水色の怪物に近づいていく。どこからどう見ても水色の怪物は友好的ではない。確実に危険だ。それでもカナは近づく。
「生憎、俺はお前を元に戻せるような術を持っていない。だから、入りな」
なんと自らの手を怪物に差し出し、あっというまに水色の怪物はカナの体に吸い込まれるように、いや、実際に吸い込まれて消えた。
「さて、絵美。2人を」
「いやいやいやいや。何さらっとなかったかのように話を進めようとしているんですか。先輩は大丈夫なんですか?」
絵美ちゃんナイス。それを聞かないわけにはいかない。
「『パラシティカリー』の魔力の対処法。軍人たるお前にならわかると思うが、一応説明すると、かかるとわかっていればいくらでも対策はできる。強く意思を保っていればかかりにくいし、こっちの方が持つ魔力は強大。つーわけで、打ち消した」
「打ち消したって。本当に無茶苦茶しますね、あなたって人は」
「まぁな」
「そこどや顔するところじゃないですから!」
言いながら気絶している孝光の襟を絵美は引きずる。
「では、私たちはそろそろ行きますけど、優衣は良いんですか?」
カナの横に寄り添う小さな存在。今だ一度たりともこちらを見てくれないとてもかわいい女の子。
そうだ、これ以上犠牲を出したくないというのなら一緒に連れて行くべきだろう。そのついでに仲良くなろう。
しかし、そんな願望は叶わない。
「優衣は大丈夫だ。俺じゃない奴に、天使族の加護を受けたらしいんだ」
「と、いうとナデシコですか?」
絵美の言葉にカナは頷いた。
莉佐には見えなかった神様が優衣ちゃんにいい効果のバフをかけた。多分そう言う話だ。
それに、カナが大丈夫と言っているのだから大丈夫なのだろう。彼にはそう思わせてくれる何かがある。
「そうですか。では最後に、そのナデシコ曰く、ルノはこの先にいる。とのことです」
「あぁ、そうだろうな」
まるで知っているかのような口ぶりだった。カナもそこまで行きついていたのか。まぁ、そりゃそうか。知っていても不思議じゃない。
「それでは後程」
莉佐は絵美に連れられてこの場を後にした。
結局最後の最後まで優衣ちゃんはこちらを見向きもしなかった。
通路の奥に消えた3つの影を視線だけで見送り、その姿が完全に見えなくなったところで堀井奏太は床に片膝をつけた。
「・・・大丈夫?」
「あぁ、なんとか、な」
心配そうに顔を覗き込んでくる優衣の頭を撫でて安心させるようにそう答える。
『殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス』
いまだに頭の中でよくわからない声が響くことがあるが、別に問題はない。
―気絶した奴がよく言う。
元々中にいるあいつの声が響く。
(黙ってろ。お前まで現れると収拾がつかなくなる)
―わかったわかった。ただ、一つ忠告する。さっさとその呪いを解き、『パラシティカリー』も外に出せ。じゃなきゃ、その身が持たなくなる。
そんなことは分かっている。が、呪いは何とかなる。『パラシティカリー』もしばらくは自由に動くことが出来ない。言うのなら、檻に閉じ込めてあるようなものだ。
「因縁の夢の中。そこに、ルノがいるって話だったな?」
「・・・ナデシコが、そう言ってた」
「ん、了解」
膝に喝を入れて立ち上がり辺りを見渡す。
ここに魔晶石はなさそうだ。この下に保管して、使う時だけ上に持ってきていたのか。それとも魔晶石を使っていなかったか。何にせよ、胸糞悪い。
優衣の手を取り、先に続く通路を進む。この真下にさっきまで俺たちがいた通路があり、どっちの道を進んでも結局は同じ場所にたどり着く。
魔力による空間把握能力により、ついさっき知ったことだ。
気絶していた時間はそう長くはなかったという。優衣曰く、5分かそこら。
目を覚まし、先に進もうとしたところで、誰かが別の通路からこちらに向かってくるのを察知した。
なんとなく。ただなんとなく嫌な予感がして、耳に魔力を通すことで聴力を上げると、近づいてきているのは絵美で、その絵美は軍人であること。空間の結合がすでに始まっているということ。その他、今まで知らなかった衝撃的な事実を遠くにいながらして耳にした。
それから、俺が爆発した研究室まで戻り、そこにあった残骸を確認していると、突然天井が崩落した。それに紛れて右腕がなく、全身が傷だらけの金髪少女が降ってきた。
手の届かない距離ではあったが、慌てて翼を生やして優しく包み込んで治療。
「あ・・・なたは?」
絵美は一瞬だけ俺のことをわかっていないようだったが、
「あまりこっちを見ないでください。変態」
そんな悪意が全く込められていない言葉が飛んできた。
確かに着ている物がズタボロで、ある意味目を引くような姿ではあったけど作られた体には興味ねえよなんて思っていると、今度は莉佐が降ってきた。それも翼を広げてキャッチして上に移動。
じっとして動かない孝光を不審に思ったが、先ほど聞き取ることが出来なかったことを聞きだした。
孝光に寄生した魔性生物が襲い掛かってきた。
魔力の感じからこいつも元人間だと感じ取った俺は、一旦自分の中で飼うことにした。
絵美に説明したように打ち消したわけではない。
さて、目的地は豆本精神病院。通路の先にある螺旋階段。そこを上ると病院のどこかに繋がっている。これもさっき知ったことだ。
『殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス』
頭に響く声。
これは呪いだ。殺された者が死ぬとき、殺した者にかかるようにされた精神を蝕むための呪い。
うん。やっぱりこの程度のものなら問題ない。頭に声が響くのも数分に一度。これがもっと悪質なものならずっと響いているだろうし、行動に何かしらの制限がかかっていたとも考えられる。
天使族たる俺には呪いを解くことも出来る。だが、呪いを解くことは複雑なパズルを解くことに等しい。それなりに時間がかかるし、そんな時間すら惜しい。それに、わかったこともある。呪いを使うことが出来るのは魔族のみ。よって、この施設、研究をしているものの中に魔族がいる。
視線の先に螺旋階段が見えてきた。
この上にある病院こそが、ナデシコの言う『因縁の夢の中』なのだと思う。
患者に希望と夢を与える。夢のような時を入院患者に過ごさせる。治療法やそもそもの病院のシステムが一風変わっていた小さな病院。
ポケットから学校の図書室で見つけた新聞記事を取り出す。
書かれている内容は『豆本、入院患者で人体実験!?』という見出しで始まり、人間を他の動物の臓器やら細胞と組み合わせていた。と言うもの。それが逃げ出してきた入院患者から発覚し、2年前に廃業となった。ということ。
まったく、あの場所でそんなことがあったとはな。3年前の俺は知らなかっただろう。3年前の俺が知れば心底驚くだろう。この身のすぐ近くに危険があったなんて。
豆本精神病院。4年前のあの事件をきっかけに俺が入院した病院。
まさかこんな形で再度訪れることになるとはな。自然と新聞記事を握る手に力が込められた。
螺旋階段を一段ずつ上っていき、扉が見えた。さぁ、行こ『殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス』空気読めよこの野郎。
不思議そうな顔で優衣がこちらを見ていたが気にせず、扉に手をかけた。
3年前。春。
北海道は暦上で春という区切りが来ても雪が残る。
とある病室の一角で、まだ雪の残る春の景色を窓から眺めながら一組の男女が何やら話をしている。
―今日で、退院なの?
茶髪の女の子が窓から目を離さずに問う。年は恐らく中学生。
「記憶は戻らなかったけど、生きるために最低限必要なことは身についたからね」
同じく茶髪の男の子が窓から目を離さずに答える。こちらも年は中学生程。男の子のその言葉にはどこか諦めたかのような響きがある。
―寂しいな。君が来た時から一緒にいたのに。先にいなくなっちゃうなんてさ。
女の子の目には薄っすらと涙が溜まっている。そのことに、男の子はまだ気づいていない。
「大丈夫。生きていれば、きっとまた会える」
窓の外は静かな森だ。まだ葉はなく寂しい枯れ木。その枝の上を見たことのない小鳥が器用に歩いている。
―ねぇ、君に1つだけ頼み事をしたいんだけど、いいかな?
ここで男の子は窓から目を離して女の子に視線を向け、初めて女の子が泣いていることに気付いた。
「できる限りのことなら」
なぜ泣いているのか。男の子は不思議に思いながらもそう口にした。
―難しいことじゃないよ。3日後、私のお見舞いに来て欲しいんだ。
3日後?3日後というと何かあっただろうか。確認しようにもこの部屋には日付を知ることが出来るものが何もなかった。
「お見舞いになら毎日だって来るさ」
そう言ったが、女の子は首を横に振った。
―ダメ。3日後にだけ来て欲しいの。明日も明後日も来ちゃだめ。4日後なんてもってのほかだよ。3日後に来ることを約束して欲しいの。
頼み事が約束へと変わった。女の子からの約束は断らない方が得。この女の子が以前そう言っていたことを男の子は覚えていた。
「わかった。3日後。必ずお見舞いに来るよ」
男の子は女の子の目を見て言った。
女の子は男の子の目を見て大粒の涙を流していた。けれどもその顔はありがとう、と笑っていた。
涙を流すのは悲しい時だけ。そう思っていた男の子には、どうして女の子が笑いながら泣いているのか。その意味が分からなかった。
それから間もなくして。親戚の迎えが来た男の子は退院し、約束を胸に秘めたまま病院を後にした。
そして、女の子もまた男の子が退院したその日に、病室から忽然と姿を消したという。
それから3日後。
男の子は約束通り女の子のお見舞いに来た。
かつてその男の子と女の子しかいなかったその病室は、男の子が退院した後から誰も入院せず、そこにいるはずの女の子も姿もなく。ものの見事にもぬけの殻だった。
どこかに行っているのだろうか。いや、あの女の子は自由に動くことを禁じられていた。半年以上の付き合いで、どの時間にどこへ行くのかも大方わかっている。だから、必ずいる時間も知っている。今がその時だ。なのに、女の子の姿はどこにもいない。
いつもそこにいたベッドも使われた形跡がなく、それどころか、ここ最近人が出入りしていた感じもない。この部屋は、不自然だと思うほどにきれいすぎた。
女の子の身に何かあったのではないかという思いに駆られて男の子は行動を始める。
備え付けの木の棚を、心の中で失礼しますと呟いてから開けていく。5つあった引き出しのうち、4つはからだった。1つには白い封筒が入っていた。宛名は、拙い字で『約束を守ってくれた君へ』と書かれている。
頭の中が真っ白になった男の子は無我夢中で封を破り中にあった文面へと目を通す。
『君がこの手紙を読んでいるということは、約束を守ってくれたってことだよね。私は嬉しいよ。
君がこの病室に来たのは、よく晴れた夏の日だったね。物の名前と自分自身の名前以外のことはすっかり忘れた、記憶喪失であることには驚いたけど、それでも思い出そうとして、苦しんで、前に進もうとしている姿は、とても素敵だった。
それからついこの間までの半年以上。君と過ごした時はかけがえのないものだった。他愛のない会話をする日々が、今まで一人ぼっちだった私にはとても輝いていた。本当に、ありがとう。
私は、これを書いている3日後。つまり君がこれを読んでいる頃には、ここにいないでしょう。だって、君がこれを読んでいるその時に私がいるのならこの置手紙の意味なんてないからね。
私の命は、もう長くないの。明日と明後日は治療に専念して、3日後には元気な姿を君に見せたい。君と一緒に、外をお散歩したいんだ。
命は長くないけど、私がこの場にいなくても、間違っても『死んだ』なんて思わないで。生きていれば、生きていると思っていれば。私たちはまた会うことが出来るから。
今まで本当にありがとう。また会う日まで。―堀井奏太という男の子に恋をしていた女の子より』
男の子は、幼き日の堀井奏太は大粒の涙を手紙に落として泣いた。自分もまた女の子に恋をしていたのだと気づき、今はない喪失感に暮れて泣いた。
けど、文面通り『死んだ』とは思わないようにした。
「生きていれば、きっとまた会える」自分で言ったことだ。
男の子は手紙を封筒に戻しながら窓の外を見た。
葉のない寂しい枯れ木が、風に吹かれて揺れていた。
葉のない木に、色鮮やかな葉が芽生えた。
「・・・そんなことも、あったな」
現実へと戻ってきた俺は、割れた窓の外を見てぽつりとこぼす。
「・・・あれは、本当にあったこと?」
「あぁ、俺が3年前の春。実際に経験したことだ。なんで、忘れちまっていたんだろうな」
隣に立つ優衣に答えてくるりと部屋を見渡す。
汚い。
床にはガラス片が散らばり、木の棚は腐食し、ベッドやカーテンはカビだらけ。とりあえず、他の場所に行こう。ずっとこの場所にいてもしょうがないし、俺らに術をかけてきたどっかの誰かを殴らなきゃ気が済まない。
螺旋階段を上り、扉に手をかけた。そして1歩踏み出したところまではよかったものの、そこで『マインドコントロール』による過去映写の術をかけられた。
前に天使族の姫、エルを失うところを見せられた時と同じだが、あの時と違い、実際にその出来事があった場所に移動させられていた。
面倒な術者がこのあたりに潜んでいるのは間違いない。
ルノを探すついでにそいつも探す必要がある。
入院していたころの記憶を頼りに薄暗い廊下を進み、ボロボロで使うのにはかなり勇気のいる階段をなんの躊躇いもなく下り、玄関へと向かう。
そこには金髪の先客がいた。
「絵美、意外と早かったな」
こちらに気付いた絵美は足早に近づいて来る。先ほどとは服装が変わっていた。明らかに動きやすさを重視した、アーウェルサの服だ。
「そうでもないですよ。先輩と別れから1時間は経過しています」
言われて改めて時間を確認する。午後3時。自分が思っているよりも早く時間が経過している。
朝から何も食べていないということを今更思い出し、盛大にお腹が鳴った。その横で優衣も小さくお腹を鳴らし、顔を赤らめていた。
「まったくあなた方は。探すのに夢中になって食べていなっかったのでしょ」
図星であるため何も言い返せない。
「と、思って、これを買ってきました。どうぞ召し上がってください」
絵美は呆れながらもひとつの紙袋を差し出してきた。
この重さと匂いは、
「ハンバーガーか?」
「はい。モクドナルトのハンバーガーです」
世界中にある有名ハンバーガー店のハンバーガーを差し入れてくれるとは。しかもビックバーガーだ。ボリュームもある。
こんな汚いところで食べるのもなんなので、一度外に出て、座っても壊れなさそうなぼろいベンチに腰掛けて包み紙を破ると、パンとその間にある具材へとかぶりついた。
トマト、レタス、ハンバーグにチーズ。空腹という調味料のアクセントでうまいものがさらにうまい。俺はもちろんのこと、普段は小食の優衣もあっという間に完食した。
「腹が減っては何とやらです。って、先輩?どうかしましたか?」
「いや、お前っていいやつだな」
「いきなりどうしたんですか?」
うん。どうしたんだろう。なぜか絵美の顔を見たらぱっと思い浮かび、そのまま口にしてしまった。多分、疲れているせいだ。
「ぶっちゃけ、お前が俺にこんなことをする義理はないし、こんなことをされる資格も、俺にはないと思ってさ」
立ち上がり、ごみはポケットに。病院へ戻ろうと歩き出して会話を切り上げる。今の頭では、何を言い出すかもわからない。
「お姉ちゃんのことをまだ気にしているというのなら、もう忘れてください。軍人が常に死と隣り合わせであるということは、兵長であったあなたにはよくわかっているでしょう?」
あぁ、よくわかっているさ。それと、大切な人を失う辛さもな。
絵美は何事もないように振る舞っているが、心にはぽっかりと大きな穴が開いたままだ。その穴を俺に埋めることはできない。
なんて、今は考えている場合じゃない。ルノはここにいるはずだ。目の前の問題にだけ集中しろ、俺。
病院の中へと戻り、ロビーから散らかった廊下を足早に抜け、地下へと続く階段を下りる。
「また地下ですか?」
「こういう時のお決まりだろ?人目につきにくいし、何よりも、地下通路がどこでどう繋がっているのかをまだ目にしていないんだよ」
絵美が不思議そうにしていたが、相手の術にかかったとわざわざ説明するのもめんどくさい。
『殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス・・・』
頭に響く声も気にせず最下層まで降り、魔力を静かに展開する。
迷路に入っても迷うことがない空間把握能力。
この最下層には、小さな部屋がたくさん。中部屋が6つ。大きい部屋が3つ。その他、部屋と呼ぶにはあまりにも狭い空間が5つ。
魔力が発せられているのは大きい部屋1つ、小さな部屋1つ、その他2つ。
「とりあえず近場から潰していくか」
「そうしますか」
俺と同じく何かを感じ取った絵美は緊張しているのか顔を少しだけ強張らせ、先ゆく俺の後ろを黙ってついてくる。
最初に開けた部屋は、何処にでもあるようなごく普通のロッカールームだった。そのすべては破損し、中が見えている。そこで見つけたのは小さな魔晶石のかけら。他には特に何もなかった。
次の場所は部屋ではなく掃除用具入れだった。ほこりっぽい部屋の片隅にあったのは木箱に入った指輪型の魔道具。
「これは」
「へー、なつかしいな」
俺と絵美はその魔道具を見て感嘆の声を上げるが、優衣だけが首を傾げる。
「これは『バキューム』の魔力が込められていてな、一言で表すなら、掃除機だ」
その説明にさらに首を傾げた優衣を前に、左手の指に装着して魔力を通す。すると、指輪に向かって風が吹き、周囲にあったほこりが指輪に吸い込まれて消えた。そして、魔力を通すのをやめた。風も止む。
「魔力を調整することで吸引力も変わる、日常生活においてはかなり便利な代物だ」
「これがここにあるってことは」
「ま、そういうことだろうな」
この場所も、向こうの世界とは無関係じゃないということが決定的に明らかになった。
指輪は一旦絵美へと預けて次へと向かう。
次の部屋は、金属製の棚が並ぶ倉庫だった。部屋中から魔力が発せられていて、長時間いると具合が悪くなりそうだ。
ガラスでバリの棚の中にあったのは、これもまた魔道具だった。さっきの掃除機とは違い、
「ご禁制のものばっかりじゃないですか!」
違法物には敏感な軍人が声を荒げた。
「時間停止に人格略奪。うわ、力を奪うやつまであるな」
国ひとつが丸々潰れかねないほど小さな兵器たちがこの部屋に保管されているようだった。
「どうしましょうか」
「このまま放置しておくわけにもいかねぇからな。お前が持って帰って上に報告してくれ」
「了解しました」
そう言って絵美は懐から麻袋のようなものを取り出し、魔道具を片っ端から入れていく。それなのに袋は一向に膨らむことがない。
「便利なもんもってんなぁ」
思わず言葉がこぼれた。
「本当に便利ですよねぇ。青い狸型ロボットにでもなった気分です」
いや、お前が言っているそれは猫型だぞ?
「先輩!」
呼ばれて反射的にそちらを見る。と、同時に何かが飛んできた。それもまた反射的にキャッチして眺める。
「ご禁制ではなくちゃんとした魔道具ですよ。差し上げます」
「差し上げますってお前なぁ、お前のじゃないだろ」
「そう言いながらつけないでくださいよ」
「まぁ、もらったし」
耳にかけて目に装着するタイプの魔道具。
目に映った生物の持つ力を数値化する、某アクションマンガのスカウター的なものだ。
人間の基準は分からないが、一般的なアーウェルサの住民は数値50。最低限の魔力は25。
俺が前に測った時は1万と少し。一般的にはかなり高い部類だが、もっと上は周りにいた。
で、目の前にいる絵美の数値は7000と少し。軍人の平均よりもやや上くらいだ。
ここでふと気になって人間の優衣を見る。
数値はギリギリ500に届かないくらい。魔力の値が一般的なアーウェルサの住民よりも高いが、人間もそのくらいの力は持っているということか。
「問題なく使えるな。これは良いものをもらった」
「でしょ?」
薄い胸を張ってどや顔するな。お前のじゃないんだから。けどまぁ、みつけたのこいつなので感謝だけは伝えることにする。
「ありがとな」
「私のじゃないんですけどね」
皮肉っぽく笑ってそう言ってきた。そこは素直に受け取ってくれよ。可愛くない奴だ。
絵美の魔道具回収が終わるのを待ってから最後の大部屋へと向かう。発せられている魔力が一番強大かつ凶悪な魔力。
天使族である俺と、ナデシコの加護を受けている優衣はいいとして、素の状態である絵美にはかなり危険な地帯だと言えるだろう。
「『汝に祝福を。天使の加護があらんことを』」
白い光が絵美を包み込み、吸い込まれるようにして消えた。
「お、体が軽くなりました。ありがとうございます」
「別に、無茶はしてくれるなよ?」
「せっかく人が素直に感謝を述べているんですから、素直に受け取ってくださいよ」
お前が言うか!
まったく。こいつを見ていると鏡写しで自分を見ているかのようで調子が狂う。なんとなく考え方が似ているんだよな俺たち。それを口にすれば絶対嫌がるだろうけど。
ふぅーっと息を吐き、閉じた両開きの扉の前に立つ。
他の扉とは変わりないはずなのに、内側から発せられた魔力の影響かとてもまがまがしく見える。先入観というやつは本当に恐ろしい。
「よし。行く」
「行きますか」
俺の言葉を遮って絵美が一歩先に扉を開けた。ったく、本当に調子が狂う。
絵美によって開けられた扉の先は、緑色の照明が激しく点滅していて、正面の壁一面が鏡になっている以外は何もない空虚な空間。いや部屋の隅にカメラがあるな。それも起動中っぽい。それよりも問題は、やはりこの鏡だ。
「ったく、こいつぁ」
「厄介なものが登場しましたね」
俺と絵美は揃って苦笑を浮かべ、困惑している優衣を背中に隠れるように促す。
この鏡に長時間映るという行為はあまりよろしくない。
「さてさて、どう言ったタイプでしょうかね」
「コピーか、真実を見せるか。壊そうとすると力が奪われる系かもしれねぇな」
打つ手はあるが、あまりにもリスクが大きすぎて実行に移しにくい。
「先輩」
呼ばれた。
「こんなところにご禁制の魔道具があるんですが」
絵美が手にしているのは先ほど回収したと思われる、手榴弾の形をした魔道具。それが何かをすぐに理解した俺は、ニヤリと口元を歪ませている絵美に言う。
「間違っても。そのピンを抜いて鏡に投げつけたりするなよ?」
同じように口元を歪ませる。
「えぇ。わかっていますとも」
「いやいや絵美さん。ピンを抜きながら言うなよ」
「わぁどうしましょう。もう投げるしかないですよね?ね?」
「そうだな。手元にあっても危ないもんな」
お互いに口元を歪ませたまま、絵美は手にしていた手榴弾を鏡に向かって投げつけた。
「『ブースト』」
俺はそれを魔力で加速させる。
そして、鏡に着弾した手榴弾は青白い光を放ち、鏡を消し去った。
「これは敵さんに感謝ですね」
「・・・魔力を消し去る魔道具、ねぇ。これが世に出ていたらえらいことになっていただろうな」
「でしょうね。けど、カメラの向こう側にいる方々は驚いているでしょうね」
絵美もカメラの存在には気づいていたようだ。そりゃ敵も驚くだろうさ。自分たちが作ったもので罠を破られるんだからな。にしても、ここにきて大掛かりな罠。今まで警備という警備がいなかった理由はこれか。
「ま、あんな棒読みの演技には驚かずにはいられないだろうな」
「何か言いましたか?」
いいえ何も。そう答える暇はなかった。
鏡があった場所の奥。2つの影がこちらにゆっくりと近づいてきていた。
「絵美。どうやら少しだけ遅かったみたいだぞ?」
「あはは。そのようですね」
乾いた笑いをもらしながら絵美は右手に雷の纏った剣を出現させる。
すると、2つの影のうちの1つが同じように剣を出現させた。
「お前さん、どっちを担当する?」
剣を持った方の影が証明に照らされ、金髪の姿が明らかになる。
「私が先輩に勝てるとでも思っていますか?」
「え、無理だろ」
剣を持った金髪の影。絵美の姿をした敵の数値は横にいる絵美と全く同じ。もう一つの影、俺と同じ姿をした敵の数値は1万3000と少し。数値だけがすべてではないが、勝算はかなり低い。
魔力によって作られた鏡。呼び名はそのままで魔鏡。これも一種の魔道具だが、そのほとんどの存在は認められていない。すなわちご禁制。作り方によってできることは違うが、今回のものに関していえば、映った者と同じ姿、能力を持つコピーを作り出すものだ。
これが、精神操作を行うものや、真実の姿を見せるものだったら壊しても影響はなかっただろうが、あのコントじみた茶番をしていた短期間のうちにコピーが完成していた。つまり、敵の方が一枚上手だったということになる。これは一本取られた。けど、取られた分は当然取り返す。
「どんな相手よりも強敵な気もするが」
「自分が相手ですからね」
首を回して軽く準備運動する。ゴキゴキとすごい音がなったが気にする余裕はない。
さて、戦闘開始。と行く前に、優衣に少しだけ耳打ちをする。簡単な作戦会議。とだけ言っておこう。
俺の耳打ちに優衣が大きく頷いたのを確認し、外部からの衝撃を無効にする強度な結界を周りに張っておく。
既に絵美の方は戦闘を始め、雷が飛び交っている。優衣に当たりでもしたら大変だ。そのための結界。それも長くは持たないだろうし、さっさとケリをつける必要が『殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス・・・』ある。・・・いい加減慣れた。
―気は抜くなよ?
別の声が頭に響いた。
(俺を相手に気を抜けるわけがないだろ)
静かに敵の下へと歩き、5mほどの距離のところで対峙する。
「さぁ、はじめよう」「か」と続くはずの言葉を自分の足音でかき消し、5mの距離を1歩で詰める。
体重を乗せたパンチを自分の形をした敵の顔面めがけて振りかざす。しかし、ゆらりと体を傾けられて拳は空を裂き、かわりに敵の拳が眼前に迫ってきていた。それは右足を軸に体を回して回避。その勢いを利用して左足のローキックを脇腹にいれ、壁まで吹き飛ばした。
ゴンと、痛そうと思わせる音がしたが、奴にも壁にも傷一つなかった。
頑丈な建物だ。ちょっとやそっとじゃ壊れそうもない。
「『クリエイトウェポン タイプ:アタッカー』」
魔力で両刃の長剣を作り出し、さらに魔力を通す。青白かった刀身は赤く変色し、やがて燃え盛る刃へと変化した。
『ブレイズ』の魔力。ルノと契約して得た炎の魔力。多分その影響で本来の自分の魔力であるはずの『ホーリーブライト』や『ブリリアント』を扱うよりも、扱いやすかった。
何もかもが自分の思い通りに行く。忘れていた初心のこと。
今更ながら俺のコントラクターとしての能力が『火を自由自在に操ることが出来る』ことだったことを思い出す。だからこれは、魔力どうこうの話ではない。魔力の扱い方を知っていようと知らなかろうと、自由自在に操れたのだ。それが、本来のコントラクターとしての強みだったはずだ。
初心忘れるべからず。その初心を、俺はすっかり忘れてしまっていた。いい機会だ。あいつには少しだけ練習台になってもらおうか。
ちらと俺と同じ姿をした明確な敵を見る。
同じように剣―ただし燃え盛っていない―を手にこちらへ一直線に向かってくる。正直な、いつも俺が最初にすること。突っ込むか遠距離から魔力を放つか。
ただ突っ込むのではない。直前で動きを変える。
さすがは俺のコピーだ。俺が想像したとおりに動いてくれる。
剣が縦に振り下ろされ、防御の行動を見せた途端に太刀筋が横に変えられる。こちらはそれを読んで剣を縦に構えて防御。剣を持っていない方の手から光の魔力によるレーザー砲が飛んでくるが、体を右に傾けて回避。瞬時に炎の槍を後方に数本出現させて頭をめがけて動かす。それに気づいた敵は大きく跳躍し一旦退避。
それにより距離が開いたのをいいことに、投げナイフを模した火の短剣を出現させて放つ。
一方で敵は光の壁を張った。魔力を反射する結界術の類だろう。確かに遠距離から避けにくい攻撃が来た場合の対処法としては間違っていない。ただ、甘いな。
俺が操る火はいくらでも形も軌道も変えることが出来る。火の短剣は結界に当たる前に敵を囲むようにして散開。もしも俺が向こうの立場なら。
「やっぱりそう来るか」
結界を張ったまま短剣の包囲網を突破。次の攻撃の準備に入る。そして、次の攻撃は、後ろからだ。
小さな火の玉を出現させ、それを通して前を向きながら後方を確認。植物のツタが静かに俺を狙っていた。
『ベジテーション』の魔力。ってことは内なる存在までもコピーしているということか。
追い込めば、絶望へと落とせばこちらが不利になることは間違いない。内なる存在の戦闘スタイルはまだ知らない。ただ、魔力の扱いに長けているということだけは分かる。
と、なるとだ。即死クラスのダメージを、喰らえば即死だと理解する間もないくらい一瞬で与えなくてはならない。めんどくせぇ。
―変わるか?
(黙ってろ)
『殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス・・・』
黙ってろ。
このわずかな時間。俺の集中が静かに乱れた。投げナイフの形状に落ち着きがなくなり、後方確認のためにだした小さな火の玉も消えた。
そして、この時を待っていたと言わんばかりに躍りかかってきたツタは、ギリギリ急所を避けたが、肺のあたりを貫通。しまったと感じ取った時、時間がスローモーションに流れた。
覇気の感じられない顔の男、俺のコピーが立っていた。ただし、その目には殺意が宿っている。さらに、手には白く輝く剣。
ゆっくりと剣が振られた。最初は喉仏を切るために真横に。次に右肩辺りから左の脇腹にかけて斜めに。右足がはるか後方に跳んだ。バランスを崩し、左膝がつぶれた。最後は、視界が狭くなった。
時間の流れが元に戻る。
切られたところから血が噴き出た。喉仏が切られて声を出すことも願わない。右目は潰されて視界がくらむ。足は使い物にならず立てない。
体感時間およそ10秒。実際は1秒にも満たない速さでそれらは実行された。本当に体感時間通りだったのならば、コントラクターの性質で失った右足はともかく他の傷は回復していた。
一瞬で行われたからこそ、俺はピンチに陥っている。
さすがは俺のコピーだ。俺が見せた隙なんて瞬き程度の一瞬だったというのに。そこを衝いて瀕死にする。いやぁ、やられたやられた。けどさ。
「甘いんだよ」
俺がただのコントラクターならもうこの世には存在していなかっただろう。だけど、俺の体はコントラクターの性質を持ちながらも、慈愛と癒しの天使族としての性質も持つ。再生力は異常なまでに高まっているのだ。
切り傷は癒え、失った右足と右目の視力はひとまず傷が広がらないように傷口が塞がっている。
そして、片膝をついた状態から初期動作もなしに奴の後方へと移動。と、同時に燃え盛る炎の刃で首を切断した。
ボトっと、何かが落ちる音が後方でした。
俺を殺すには細かく傷を刻んだところで無意味だ。絶望を感じさせないために即死である必要がある。この二つを解決するには首をはねるのが一番早い。いくら俺でも、それは死ぬ。だから、後ろで動いている首のないあいつは、もう俺のコピーじゃない。
「いくら俺のコピーといえども、知力だけはコピーできなかったようだな」
首が切断されたコピーの体は魔力を感知して再度俺に襲い掛かろうとしていた。
しかし、俺はそちらを見ることなく待つ。終わる、その時を。
どこからか斬撃が飛んできて俺の真横をかすめた。その斬撃は俺の横をかすめる前に、後ろにいたやつの体を切り裂いていた。コピーの体は空気に溶けるようにして消え去った。
次いで、タッタッタと小さな足音が聞こえた。
「・・・お兄ちゃん。大丈夫?」
アーウェルサの万能包丁。バッティを手にした優衣が左側からこちらの顔を覗き込み、ぎょっとして表情を浮かべる。
「正直、大丈夫じゃねぇな」
優衣に正直に答えて辺りを見渡す。お、あった。俺の足。
片足跳びで自分の足を拾い、魔力で治療して元通りにする。新しく足を生やすより魔力の消費を何倍も節約することができる。
失った視力を戻すのはさすがにちょいと厳しい。視覚、嗅覚、聴覚、味覚は体の特定の器官からしか感じることが出来ない。ただそれだけの理由だが、治療はかなり困難で魔力の消費も半端じゃない。少々距離感が掴みにくいだけで支障はないので取り急ぎ治療の必要もない。ただ一つだけ残念なことがあるとすれば、せっかく絵美から貰った魔道具が粉々に壊れてしまったことくらいだ。
「ふぅ」
小さく息を吐いた。
つむぎと遊動園に行ってから睡眠はなく、そろそろ本格的にぶっ倒れそうだ。あぁ、そうだ。もしつかれて倒れたら中にいるこいつに変わってもらおうかな。
―いや、ちょっと待て。
珍しく威厳のかけらもない突っ込みが返ってきた。
―体を共にしているのだから、貴様に倒れられると我も動けん。
ま、そりゃそうだよね。冗談に対してマジになってくるとは思いもしなかったけど。
少し離れたところでは、周囲に電撃を放ちながら絵美と絵美が戦っていた。どっちの絵美が俺の知る本当の絵美なのかはぱっと見では判別できない。
一方の絵美が右に動けばもう一方の右に絵美も動く。剣を振るえば同じように振るわれ、同じように回避する。つーことは、動き出しが少し遅い方が偽物か。
戦いの基礎を身に着けているだろう絵美が、あんな効率の悪い戦い方をするとは考えにくい。
「・・・一緒に戦わないの?」
「どっちが本物で、どっちが偽物なのかなんて予想はできても確証はないからな。あ、さっきはありがとな。助かった」
「・・・私は、ただ頼まれたことをしただけ」
そんな素気ないことを言われてそっぽを向かれてしまった。・・・反抗期だろうか。ありえない話ではない。けど、『俺がピンチになったら助けてくれ』という頼みを実行してくれたのだ。いいとしよう。
絵美と絵美は未だに均衡を保っていた。お互いに同じ動きをしているのだから無理もない。
戦闘における効率は悪いが、相手と同じ動きをして追い詰める方法がないわけでもない。相手を疲弊させることを目的にするはずだが、互いの身体能力が同じという状況であればほとんど意味を為さないだろう。これは、自分が相手よりも身体も精神も勝っていると確信がなければ使うことが出来ないのだから。
しかし均衡は突然崩れた。
先に攻撃していた方の動きが急に機敏に、そして変則的になった。縦に振るわれていた剣は太刀筋を横に変え、発射された魔力弾は分裂し、相手の弾を相殺するとともに相手本体にダメージを与える。
均衡が崩れてから戦闘の終了まではあっという間だった。
真似をしていた方が変則的な動きに対応できず、重心がぶれた。隙だらけになったところを加速した絵美に真っ二つに切り裂かれ、空気中に溶けるようにして消え去った。
「まったく。同じ動きをしようと、知力の差ですね」
なんて、俺と似たようなことを言って近づいてきた。
「ありゃ、先輩ボロボロですね」
「お前もな」
絵美の体はいたるところが切り裂かれて血が滲んでいた。
「先輩の方が重症です。その右目、見えていないんでしょう?」
「そうだな。けど、支障はない。『キュアー』」
いいながら魔力で絵美の傷を癒す。
「べつによかったのに。あの程度の傷はかすり傷ですから」
出たよ。軍人特有のどんなに大きな傷でもかすり傷だと言い張っちゃう謎現象。
「さて、と。先に進みましょうか」
「おう。そうだな」
優衣の手を取り、鏡の奥にあった扉の先に進む。
その空間は、色とりどりの花が咲き乱れ、逆流して昇る滝があるよくわからない空間だった。なのに、どことなく見覚えがあるような気がしたのは、きっと気のせいだ。そして、その中心にあるのは、遊動園で見たものと同じ、暗黒世界の一部。
「ここはすでに、空間の結合が終っていたようですね」
絵美が同じものを見て悔しそうに言う。
空は真っ黒。そこに吸い込まれるように水は流れ、咲き乱れる花の種が時折そこから落ちてきては、地面に触れた途端に蕾となり花を咲かせる。
俺と絵美は困惑し、優衣は珍しいものを見たと、表情はあまり変わっていないが目が輝いていた。って、いや待て。
「空間の結合が終っているって、そう言ったのか?」
「はい。言いました」
ってことは、まさか。ダメだ。一旦冷静になって考えてみよう。
「空間の結合をするには俺かルノの力が必要だったよな?」
「はい。そうですよ」
と、いうことはだ。どんなに冷静に考えてところで一つの結論しか導くことが出来ない。体中から力が抜けて膝をついた。
「じゃあ、もうルノは」
「結論を急かないでください。ルノはまだここには来ていません」
「・・・どうして、そう言い切れる?」
「この空間はまだ不完全なんですよ」
不完全?体にわずかに力が戻った。
「いくらアーウェルサが魔力で溢れた世界とは言え、水が逆流して昇るには、誰かがそうなるように維持する必要があります。なのに、ここの水は誰の手にも触れず自然に逆流しているのが感じ取れます。いわゆる、不完全で不安定な世界なんです。この不安定な世界を安定させ、世界を完全にするのには先輩かルノの力が必要となるわけです」
なるほど。まだ出来上がった世界ではないからルノはまだ来ていないということになるのか。
「だったらルノはどこにいる?お前がナデシコから聞いた助言だと、この病院にいて」
いいながら気づく。そうだ、俺も優衣を通してナデシコから助言を受けているんだった。そして、この空間。俺の中で、すべてが繋がった。
「因縁の夢の中、か」
「どういうことですか?」
「ここのことさ」
立ち上がりながらボソッと吐き捨てる。
「俺はある事件で記憶を失い、この病院に入院していた。その時、一緒の病室に同年代くらいの女の子がいたんだ」
それが、さっき俺と優衣が見た、俺の記憶の中でひっそりと生きていたあの子だ。ほとんどの時間をベッドの上で過ごしていた茶髪の女の子。
「その子が、先輩の言う因縁の夢の中とはどういう関係が?」
「よく話をしていたんだ」
当時のことを事細かに思い出す。
「あの子は、ここじゃない別の場所で、見慣れない花が咲いた滝が昇る不思議な場所に自分がいる光景と言うものをよく見る。そう話していたんだ。それを聞いてから、ごくまれに俺もその風景を夢で見るようになった。退院してからは一切見なくなったんだけどな」
そのせいで女の子のことも記憶から薄れていったのだろうと、今なら思う。
この世界のものではない変わった場所。純真無垢な少年少女にとってそれは、行ってみたいという夢を持つには充分だった。行けるはずもないのに、そんな場所があるはずもないのに。
「どうしてここに、あいつの夢の光景が出来上がってんだよ!」
目から何か熱いもの頬を伝って落ちた。それが涙であるとはしばらく気が付くことが出来なかった。
意味が分からない。わかりたくもない。理解できない。したくもない。それでも、聡明な頭脳は一つの結論を導いていた。
豆本精神病院。人体実験を行っていたことが判明し廃れた病院。その人体実験にアーウェルサが関わっていた。恐らく、それが判明するよりも前からアーウェルサと人間界を結びつけるようとしていた。人体実験に、あの女の子は使われた。あの子が見慣れない風景の夢を見ていたというのは大勢の看護師が知っていた。それを、空間の結合という形でうまいこと具現化したのがこの空間。水はどうかわからないが、ここに咲いている花々は人間界にはないものだ。
いうのなら、アーウェルサの素材を使って誕生した、あの子の夢の中だ。
「なぁ、絵美。この場所はどうする?」
「そうですね。放っておくわけにもいきませんし・・・って、あれ?」
絵美がどこか一点を見つめて動きを止める。つられて俺もそちらを見た。瞬間、血の気が引いた。
「誰か倒れていますね。警戒して」
絵美の言葉を最後まで聞かず、優衣から手を離して倒れている人物のもとに駆け寄った。
見覚えがあって、初めてみる顔だった。長い髪。そのうち半分ほどは茶色で、残りの半分はベージュ色だった。来ている物は、今朝方出て行ったあいつと同じものだった。
「なんで、お前がこんなところにいるんだよ。いや、そっか。そういうことか。じゃあ、ここにいるのも当然のことか」
あの子は、生きていたんだ。別の人間として。
肩を優しく叩く。すると、倒れていた人物は目を覚ました。
「ふあぁ・・・あ?あれ?君は?」
状況が理解できていないのだろう女の子は、あたりをきょろきょろと見まわし、何度か瞬きをした。
「なんだ、まだ夢の中か。うん、あの人とはもう二度と会えるわけが」
「勝手に自己完結するなよ。ここは現実世界だ」
そう言ってやると、まじまじと俺の顔を見て目を丸くする夢霧つむぎと顔が瓜二つの女の子。
「いやいや。私の知るあの人はもうちょっと幼かったよ?」
俺のことは誰なのか把握はできているようだった。ただ、記憶が少しだけなくなっているようだ。
「お前、自分の服装に見覚えは?」
「そういえば、ないね。病院服以外の服を着るのって何年ぶりだろう」
女の子は首を傾げ、それと一緒に揺れた髪先が視界に入り、またしても目をぱちくりさせる。
「あれ?いつの間に髪の毛を染めたんだろう。茶髪、気に入っていたのに」
元は茶色だったが、ベージュ色に変わった。それがいつなったのかを本人は知らない。
「お前、名前は?」
「あー、そういえば教えてなかったよね。てっきり知っているのかと思っていたよ。私は、夢霧つむぎ。本当に久しぶりだね、堀井奏太君」
俺の中に渦巻く感情は、言葉では説明しきれないほどに複雑なものだった。泣けばいいのか、笑えばいいのか、喜べばいいのかもわからなかった。
俺が入院していた時に仲が良かったあの子と、高校に入学してから関わった生徒会会計は、つまるところ同一人物だ。
俺が退院してから実験に使われたあの子の成れの果てが、俺がよく知るつむぎ。
「君は見違えるほど成長しているのに、私の体はほんの少ししか変わってないなぁ」
そりゃ成長期が男子よりも早く来る女子だからな。それに、当時から胸はあっただろ。なんてセクハラじみた発言が出来るわけもなく。
「まぁ、そうだな」
と適当に返しておく。
「先輩!」
優衣の手を取った絵美が、明らかに動揺してこちらに近づいてくる。
「・・・つむお姉ちゃん?」
優衣が呼んでも反応はなく、つむぎは突然現れた二人の姿に困惑し、同時に恐怖しているようだった。
「先輩。この人って」
「お前らの知らないつむぎだ。少々状況が厄介なんでな、少しだけ離れていてもらってもいいか?」
絵美は事情が複雑であること、俺の心中を察し優衣を連れて元居た位置へと戻る。
時を見計らいつむぎに声をかけようと考えをまとめていると、つむぎの方から話しかけてきた。
「あの子たちは、君の何?」
「何って聞かれてもな。後輩と妹だ」
嘘は言っていない。ちょこっとだけ詳細は違うけど。
「ふーん、そっか」
「1つ、聞いてもいいか?」
「君が退院してからのことだよね?」
「話が早くて助かる」
「でも、話せることは少ないよ。君が退院したその夜。私はどっかの誰かにどこかへ連れていかれたの」
何一つ要領は得なかったが、それが始まりであるということは理解した。
「連れていかれた時、お前は寝ていたのか?」
「ううん。起きていたよ。けど、気が付いた時には体中に機械がついていて、動くことが出来なかった。何かが流れてくるような感覚がして、気を失った。そして、ついさっき起こされた」
「周囲に人は?」
「いたと思うけど、暗がりで見えなかった」
そう言うと、つむぎは近くに咲いている花を手当たり次第に摘み始めた。
それを気にも留めずに情報を整理する。
話を聞く限りだと、入院時のつむぎは何かしらの施術を受けて俺が学校で知ったつむぎになった。話し方からすると元からあった人格に別のものを植え付けられた、もしくは、俺と似たような感じか。
ドッペルペジルニケート。ドッペルゲンガーが自分と瓜二つの存在であるのに対し、これは一つの体に複数の人格が存在する多重人格を表す言葉。
俺の場合はどこぞと知れぬ存在が入っているが、つむぎはどちらもつむぎ。同じ人間だが全く違う中身が入っている。
片方が出ている間、もう片方は眠っている状態になる。だから、今の状態のつむぎはどのような経緯でここまで来たのかも知らないのだろう。知っているのは今は眠っていると考えられる俺がよく知る方のつむぎ。情報を得るためにはこの人格をどうにかして入れ替えなくてはならないのだが、その方法が思いつかない。
「なぁ、つむぎ。お前って」
言っている最中に、つむぎはポンっと俺の頭に何かを乗せてきた。
「はい、花冠!よく似合っているよ」
にへぇと笑いこちらの顔を覗き込んでくる。マイペースなところは変わらないようだ。
「似合っているよと言われてもな。きっと、お前の方が似合うよ」
「えー、そうかな?」
「あぁ、間違いない」
途端につむぎの顔は赤くなった。何ともわかりやすいやつだ。
「で、お前に聞きたいことがあるんだけど」
「うーん、私から話せるようなことはもうないと思うよ?むしろ私が聞きたいくらい。ここが一体どこで、今はいつなの?」
どうやら俺は一つ勘違いをしていたらしい。さっき話を聞いた時は、やけに状況の呑み込みが早かったために、この状況に対して思うところは特にないのかと思わされていた。そんなわけはないと、少し考えればわかることだったというのに。
どんなに肝が据わっていようと、どんなに適応能力が高かろうと、目を覚ますとそこは夢で見た場所で、気づかぬうちに時が流れていたという状況では、取り乱さない方がおかしいのだ。なのに、つむぎはそう言った素振りは一切見せなかった。
それにしても、どうやってこの空間のことを説明する?異世界について。人間の住む世界が危機に瀕しているなど、簡単に説明できるようなことじゃないし、信じてもらえるとも考えにくい。それでも、簡単にはざっくりと説明する。
「今は俺が退院してから3年後の秋だ。で、この場所は俺らが入院していた病院だ」
何も嘘はついていない。ここは、元病院の地下にあるのだから。
「ふーん、そっか」
あまりにも淡白な返事だった。
「驚かねぇのか?」
「なんとなく、わかっていたよ」
わかっていた?そんな馬鹿な。いや、どうして俺が驚かされているんだよ。
「いまだに信じることはできないんだけど、私の中のつむぎが、そう言っているの」
私の中のつむぎ。それはつまり、
―今の我らのような感じなのだろうな。
(得意気に言うな。ややこしくなるから黙ってろ)
『殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス・・・』
・・・まだいたのかよ。
激しく響く脳内の音を何とか振り払い、現実の音を拾うことだけに集中する。
「頭の中に、私の知らない光景が流れ込んでくるの。声が聞こえるの。いろんな感情が伝わってくるの。君にひたむきに謝り続ける女の子のね」
目に映る女の子の姿は、いつか見た時と同じようにとても儚かった。
「そろそろ、私の夢のような時間は終わり」
「は?どういうことだよ」
しかしつむぎは俺の問いには答えない。
「久しぶりに会えてよかったよ。そして、これからも、この子のことをよろしくね」
つむぎは静かに俺の体へもたれかかるようにして倒れこんだ。その茶色い髪はベージュ色に侵食されてやがて一色になった。そして、彼女はもう一度目を覚ます。
慌てて俺の体から離れるように立ち上がった彼女は、どこか気まずそうにこちらをチラっと見ては視線を逸らす。
「あの、えっと。奏太君。その、」
「・・・なんでここにいるんだ?」
話すことがまとまりそうにないつむぎに優しく問いかける。こっちから話題を振ればいくらか話しやすいだろう。
「それはね!ルノちゃんを見たの。何回か、街中で見かけて、気づいたら豆本精神病院まで来ていたの」
「そっか」
なるほど。・・・じゃあルノは地上にいたということか?そうなると、葵の目撃証言と足跡はどういうことだ?
「ねぇ、奏太君」
今度は話すことがしっかりまとまったのだろう。若干もじもじしながらもつむぎは俺の目を見て話す。
「つむぎたちは、学校で会うよりも前から出会って、話していたんだね」
「さっきのやり取り、お前の方も知っていたか」
「うん。一緒になって聞いていたからね」
それから、つむぎは表情を暗くしてこんなことを訊ねてきた。
「つむぎは、普通の人間じゃないのかな」
普通の人間というワードに一瞬ドキッとさせられた。それも一瞬のことだ。つむぎが普通の人間なのかどうか。実際のところ、なんらかの施術では夢を抜かれただけ。髪色の変化はその影響だとして、新たな人格の誕生というのも珍しくはあるがありえない話ではない。だから、
「お前は、普通の人間だよ」
俺とは違ってな。ずっと普通の人間だと思っていた異世界民の俺とは違って、お前は今までもこれからも、普通の人間であることに違いない。
「奏太君がそう言ってくれるならこころ強いや」
にこっと笑ってそう言ったつむぎは立ち上がり、この空間の中心にある暗黒世界の一部をただじっと見つめた。
「あれ、放っておいちゃダメなもの、だよね?」
「あぁ、そうだけど。・・・お前、何かするつもりか?」
「何もしないよ?何もできないもん。けどね、何かできそうなんだよ。その何かがわからなくてすっごく困ってる」
まさか魔力でも覚醒したのかと思ったが、つむぎからはアレをどうにかできるほどの魔力は感じられない。だから、本人の言う通り何もできやしないし、出来るはずもない。なのに、だ。とても嫌な予感がした。
「この場所は、昔のつむぎが夢として見ていた場所。夢は覚めるものって相場は決まっているから永遠に続くことはない。たとえ、夢を現実にしても元は寝ていた時に見ていた限りある世界」
「つむぎ・・・?」
今までに見たことがないほどに険しい顔でつむぎはかなり重要そうな独り言を連続していく。
「・・・ならどっかに夢を進ませるものがあるはず。あの子の見ていた夢の登場人物は、つむぎと奏太君だけ」
「おーい」
呼んでも反応はなかった。ぶつぶつ吐き出される独り言は止まることを知らず、それがより一層俺の心を不安にかきたてた。
「つむ」
「奏太君!」
名を呼ぶ声は、そっちの名を呼ぶ声にかき消され、つむぎの顔はどこか満足気で、不安気だった。
「この夢を。この世界を終わらせるよ」
堂々と宣言したその声は俺だけではなく、この空間いっぱいに響き、少し離れたところで俺たちの様子を口も挟まず見ていた絵美の耳にも届いた。
「いや、何を言っているんですか?そんなことができたら苦労は」
「できるよ。つむぎと、奏太君になら」
はっきり言ってよくわからなかった。不安はどんどん増し、絵美の顔は驚愕に満ちていた。
「優衣ちゃんと、えーっと」
「絵美です」
「絵美ちゃんには悪いけど、今すぐこの空間から出てくれるかな」
「はぁ?あなたは何を言っているんですか?そもそも無力なあなたに何が出来るというんですか。先輩も黙っていないで何か言ってください」
確かに絵美のいうことは一理ある。魔力を持たない脆弱なつむぎにできることなんてたかが知れている。だが、俺の心は少しだけ捻くれているようだった。
「この空間は存在しちゃいけない。それを消す術がわずかにでもあるのなら。俺はそれに賭ける。そもそも、何も手がないのなら試すだけでも価値はある」
「とても正気の沙汰とは思えませんけど」
ああそうだろう。俺もそう思うよ。微塵の可能性も感じていないし。むしろ無理だと思っているし。不安しかないんだよ。
「先輩がそう言うのなら。何かあればすぐに駆け付けます」
それでも絵美は、俺に成果を期待してしまっている。
優衣と絵美がいなくなり、俺とつむぎだけが残されたこの空間。風はなく、水が流れる音すらしない。お互いが呼吸しているのがわずかに聞こえる程度の静けさだった。
「奏太君は、この空間のもととなった夢。その終わりは知ってる?」
「そういえば、知らないな」
この光景の夢は何度か目にしているし、何度も聞いていたはずなのに終わり方だけは聞いた覚えもなければ、どうやって目が覚めていたのかもうろ覚えだった。
「たぶん。奏太君は知らないよ。過去のつむぎは伝えていないから」
じゃあしょうがないことか。
「何回も確認するようだけど、この空間は夢の一部を切り取って形づけられている。だから、夢を進行させて終わりまで導いてあげる。そうすれば」
「この空間もなくなる。そのために、夢には登場しない2人をこの空間から追い出したのか」
なるほど、確かにそうすればこの空間を消すことができるのかもしれない。けど、まだわからない。この空間が本当に夢のように進行してくれるかはわからないのだ。
「うまくいくと思うか?」
「うん。いくよ。だって、あの子が先手を打ってくれたんだもん。そのおかげで夢は進み始める」
「え?」
言い終わった直後、俺たちの周囲に何の前触れもなく炎が現れた。
「この状況になるために必要だったのは、その頭の花の輪なんだよ」
言われて頭に手をやると、そこにはつむぎが作り、俺の頭に乗せた花冠があった。それを掴むと光に溶けるように消滅した。
「さて、この炎に飲み込まれるわけにはいかないわけなので」つむぎはとある一点を指差す「あの昇る滝まで行こうか」
つむぎに手を引かれ、滝の近くまで行ったところでまたしても風景が変わった。
水だったものがアーウェルサではよく見られる人間界の溶岩と似た存在である赤い液体へと変化した。
「さて、ここで問題でーす。この夢はハッピーエンドでしょうか。それともバッドエンドでしょうか」
こんな絶望的な状況でハッピーエンドなんてあってたまるかよ。もしこの夢がハッピーエンドならよっぽど自分に都合のいいように思い描いていたということになる。
迫る炎。後方には触れられない赤い液体という状況で、つむぎがのんびりとした口調で言う。
「じゃあ正解はっぴょー。正解はー・・・」
なかなか発表されない。と、思いきや不意に柔らかく温かいものが口元に触れた。・・・いや、え?
瞬間。世界が光に包まれ本来あるべき部屋の姿を取り戻した。
「答えはハッピーエンド。絶望体な状況で二人は死を決意。その前に二人は幸せなキスをして終了。ってね」
頬を赤らめてつむぎは言う。別に死を決意したわけでもなかったのになんとも緩く進行する夢だ。それに、
「欲に正直な夢だこった」
「あはは、ノーコメントで」
何はともあれ、夢の空間は消えた。まさか、暗黒世界の一部までもがこんなにも簡単に消えてしまうとは。夢を進行させるというのは神の魔力にも匹敵する力だったということか。遊動園にあるお化け屋敷で対処することを早々に諦めたことが悔やまれる。
「さて、と。ルノ探しの再開だな」
つむぎを連れてさっき絵美たちが出て行った扉に向かおうと振り返り、そのまま動きを止めた。いつの間にか30人ほどの集団に囲まれていた。
頭に角を生やした者。牙を持った者。大小さまざまな人型の人じゃないアーウェルサの住民たちがそこにはいた。
「悪魔族に吸血鬼族。魔族よりの妖魔族。魔神族まで」
要すると邪なる種族である魔族の集団に囲まれていたのだ。そいつらはみんな黒い白衣。白衣を黒く染めたような衣装に身を包み、一目で医者か科学者であることがわかる。医者にしろ科学者にしろこの場にいてもおかしくはないが、ここの施設の奴らであることは間違いない。
「そこまでだ。アーク・トリア」
集団の中から一際背の低い小鬼が姿を現した。背は低いが態度はでかいようで、ぎょろっとさせた目でこちらをにらみつけてくる。子供が見れば泣き出してしまいそうな顔面である。
「お前が責任者か何かか?」
「口を慎め。今どんな状況にいるのか」
「ワーペル・ルノを探しているんだけど、知らねぇか?」
「口を慎めと言ったはずだが。その程度のことなら答えよう」
あら。なんて口が軽いんだろう。さすがは低能でいたずら好きと知られる小鬼だ。
「現在こちらでも捜索中。が、捕らえるのはたやすいだろうな」
「そうか。情報提供感謝する。『ブリリアント―』」
「おっと、変な気は起こすなよ?こいつらが目に入るのだったらな」
小鬼のはるか後方。優衣と絵美が力なく大柄な魔族に担がれているのが見えた。
「あいつらの命が惜しくば」
だから何だというのだろうか。
「一つ忠告してやろう。・・・背後には気を付けろよ?」
は?という顔をしていたのも気にせず、優衣と絵美を担いでいた魔族をこっそり忍ばせていた炎の槍で貫く。
「『ブレイズウィップ』」
コントラクターとしての能力で荒れ狂う炎の鞭が魔族たちの体を焼き、引き裂き、なぎ倒し、立ち上がるものは誰一人としていなかった。
「さて、一旦離脱だな」
つむぎを背に乗せ、床で寝ていた優衣と絵美の体を両脇で抱えて部屋を飛び出し通路を進む。
「奏太君。あれ」
少し先の曲がり角を白い髪の何かは通った。もしかしなくても、あいつだろう。
「急ぐか」
脱兎のごとく通路を駆け、人影の見えた通路を進むがだれもいない。それからしばらくの間、当てもなく似たような通路を駆け巡り、とある十字路に差し掛かる。その瞬間だった。床から魔法陣が出現し体を包み込んだ。
(テレポーターか!?)
気づいたところで抗うことはできず、移動したところはふかふかの絨毯に暖炉。無駄に豪華なシャンデリア。大きな机といす。それとは別に小さなソファとガラスありのテーブル。今まで見てきた部屋とは様式が一切異なる部屋。
「おやおやぁ?とんだ来訪だねぇ」
こちらに背を向けて大きな椅子に腰かける女。
「お前、まさか。ディーテか」
「やぁ。数時間ぶり」
くるりと振り向いて見えたその顔は、今までに見たことのない顔だった。
「あんた。少し疲れすぎだ。少し休みな。体が壊れちまう」
「あ?妙に優しいじゃねぇか。今度は何を企んでいる?というか、ルノをどこにやった!」
こいつ、本当にあの時のディーテと同じか?やけに優しいし殺気が感じられないし。それでも、警戒を解くわけにはいかない。あいつは、他人の心を操ることに長けている。きっと、俺を陥れようとしているに違いないのだ。
「やれやれ。どんな状況でも警戒を緩めない。さすがだよ」
がらりと変わった声質。とても聞き覚えがある懐かしい声だった。姿かたちもディーテのものではない。青い髪の女。それは俺がよく知る女だった。
「ちょっと待て。なんであんたがこっちの世界にいるんだよ」
「あぁ、安心していいよ。君が愛してやまないルノはもうじきここに来るから」
こっちの話は無視か!って、今何と?
「だから、もうじきこの部屋にルノが来るって言ったの。あぁ、もちろんあたしがそうなるように仕組んだんだから、感謝しなさい?」
「あ」
女が言い終わるか否かのタイミングで、俺の後方から別の女の声がした。そこにいたのは、長い白髪、頭に小さな角を生やし、見た目は高校生くらいの美女だった。
俺は二度見し、何度も瞬きした。それでも、そこにいる人物の姿かたちは変わらない。・・・いやいや、まさかだろ。そんなはずはない。声をかけようにもうまく口にできない。
「おかえり、ルノ」
俺が何も言えないのに呆れたのか、椅子に座る女が声をかけた。
やっぱり。俺がずっと探していた。じんわりと胸の奥に何かが広がり、涙腺が緩んだ。
姿が違うのはこの際どうでもいい。生きていて、会えたことでもう満足だ。そして、触れたかった。手を伸ばし自分の下へ抱き寄せようとする。が、
「え?」
ルノは何かに怯えるかのようにして、この部屋から出て行ってしまった。
え、おい。どういうことだよ。
体から力が抜け膝から崩れた。さらに、蓄積された疲労がピークに達し、ふかふかの絨毯の上でそのまま気を失った。
同刻。とある森林にて。
「なんで、お前がここに?」
土井タケルは大きな木の幹に腰をおろしていた少女に向かって問いかける。
それに対して少女は楽しそうに笑って答える。
「答えはもう分かっているんでしょう?」
その通りだった。土井タケルは少女がここにいる答えを持ち合わせていた。彼がここにきて、彼女がそれを待っていたのだとわかっていた。わかっていながらも、それを頭で理解することが出来なかった。理解することを恐れていた。
「ねぇ?」
そんなはずはないと。自分に言い聞かせる。それでも、現実と言うものは非常に残酷だった。
「マスター?」
人間の姿をした少女が、ニヤリと口元を歪ませた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます