30話:偽装

 やはり、パーティー主催国のCIOとあって、スヴェンソンは忙しく客と話している。日本支社の社員群の端で紅茶を飲みながら、スヴェンソンの動向を見る。客がひと段落したところで、たまたま重役と出会った、物知らずな日本人社員を装って近づいていく。


「こんにちは。日本支社の大野おおのわたるです」

 自然な笑顔で、全くの偽名を名乗ってみせた。ここはADLER主催のパーティー、当然出席者の身分が保障された場だと信じて疑わないスヴェンソンは、名前を名乗って右手を差し出してきた。千弘、もとい大野は、その右手をとる。軽く挨拶と自己紹介をして名刺を出した。


「なんとお呼びすれば?」

 スヴェンソンはネイティブではないはずだが、かなり聞き取りやすい発音だった。

「海外の支社の方には、ワタルと呼ぶようにお願いしています」


 これは後から調べられたとき、日本支社が社外の人間をパーティー会場に入れたことが判明するのを避けるための策だった。偶然、日本支社には「わたる」という名前の社員が10名いる。そして大野は2名、小野は3名。非常にややこしい状態だ。


 もちろん、これは時間稼ぎでしかない。検索をかけたときに時折ヒットする名前を使うことで、大野渉が実在しないことがバレるまでの時間が確保できるという算段だ。


 この小細工が果たして通るかどうかはわからないが、全くやらないよりはマシだと千弘は信じている。おまじないのようなものだ。うまくいきますように、と祈る思いで千弘は自分の偽名を見つめる。


「スヴェンソンさん、CIOなんですか。お会いできて光栄です」

 名刺を受け取った千弘、いや大野は、大げさに驚いてみせ、スヴェンソンを褒め称えた。出世欲が深く、その役職であるというだけで褒めちぎられたスヴェンソンはまんざらでもなさそうだ。


「本日はこのようなパーティーに招待していただきありがとうございます。すごくいい国ですよね。僕も、転勤するなら御社にしてくれと上司に言っておきます」

「それはそれは。弊社からも日本に転勤した者がいますが、素晴らしい環境だと言っていますよ」

 よくわからない褒めあいで互いを探り合う。この儀式も、一見よくわからないように見えても、きっと必要なものなのだ。と、互いに思っている。


 世間話が続き、そろそろ例の話題でも出すか、どのように持って行こうかと千弘が思案し始めた頃である。

「そういえば、日本支社は、プロジェクトfixerの提案者でしたね」

 スヴェンソンの側から、ずいぶん攻めた話題を持ち出してきて千弘は驚いた。だが、よく考えたら、これはADLERの全世界の支社が協力したことで成功したプロジェクトである。スヴェンソンが知っているのは当然だし、このタイミングで日本支社の話をしようと思ったらこの話題になるのは自然なことだった。


「私も、ネットショックについては絶望視していましたから、日本支社からプロジェクトの話を聞いたときには、非常に驚きましたよ」

 ここは本心だろう。スヴェンソンが発言の通り、非常に驚いたからこそ、第2次ネットショックを、プロジェクトfixerに絡めようと考えたのではないか、と千弘は邪推する。


「ええ。IPアドレスを変換した暗号が持ち込まれたんです。弊社は運が良かった」

「存じております。『ENIGMA』でしょう?」

 そこまで知っているということは、本田の姉や本田の顔も知っているだろう。やはり、本田を表舞台に出さなくて良かった。


 向こうが話題を提供してくれたおかげで、かなり簡単に本題に入れそうだ。そろそろ、スヴェンソンに餌を撒こうか。千弘は唇を舐めた。

「おかげさまで、本社がつけているもトップになりまして」

「順位ですか……?」

「本社CEO候補の順位ですよ」

 知らないのかとばかりに、顔をきょとんとさせる。


「そんなの、本社がつけてるんですか?」

「え?」

 わざと間抜けな声で尋ね返す。

「だって、御社のCEOはかなり上位ですよ。知らないわけが……」


「そんな順位、初めて知りました」

 スヴェンソンは自然な笑顔だった。純粋に、初耳の不思議な情報を得たことによる笑顔なのか、裏で何か策略を練っている笑顔なのかは千弘にはわからない。

「あっ……」

 はっとしたように千弘は目を伏せた。口元を押さえるなんて不自然なことはしない。たったそれだけの動作でも、必ずスヴェンソンは食いつく。

 日本支社の末端の人間が知っていることを、他国支社のCIOが知らないはずがない。明らかに外に出してはならない情報だ。スヴェンソンも、そんな情報が急に入ってきたら真偽を疑うだろう。だが、この信用できるパーティーの中の話ならば。


「いえ、あくまで噂というか、僕が聞いただけなんですけど」

 千弘は白々しく笑う。スヴェンソンの表情は大して変わらないが、目つきがわずかに鋭くなったことに、千弘は気がついている。

「確実な情報ではありませんので、お忘れください。あはは」

 下手くそに笑えたのは、千弘の演技力の賜物である。もしここに本田たちがいたら、きっと感服しただろうに。


 千弘は、そこからうまく別の話題に誘導する。しばらく話したところで、スヴェンソンの後ろから新たに彼と話したがっている人間が現れた。うまく彼にスヴェンソンの応対を任せて、自分はこの場から逃げなければならない。


 スヴェンソンと別れた千弘は、トイレを探すフリをしながら、そっと会場を後にした。パーティーホールに流れるクラシック曲も聞こえなくなり、廊下を曲がってエレベーターを待つ。その合間に携帯電話を取り出した。

 

 緊急用携帯電話が鳴った。目の前でずっと待機していた鹿島が、携帯をワンコールで取る。隣のベッドの上では、本田と溝口が作戦会議に忙しくしている。

「溝口が演じる林宇航リンユーハンは、28歳の香港人だ」

 すさまじい設定だが、溝口が驚かないあたり、前もって聞かされていたのだろう。

「それで、リンは香港ADLERの有望な若手社員っていう設定だったっけ? なんでそんなに設定モリモリにするのかな。僕は俳優じゃない」

「CIOとサシで話せる若手社員って相当優秀でしょ。国崎さんを思い出せ」

 国崎レベルの有能な社員を演じろ、ということか。無茶な話である。

「ほら、ちゃんと名刺も用意したから」


 演じる内容が高度すぎる。鹿島にはとても無理だ。肩をすくめながら、携帯電話の通話ボタンを押す。

「鹿島ですけど」

「俊一郎? 僕だよ」

 上ずっていたが、その声は確かに千弘だ。

「どうした」

「褒めて。成功した」

 鹿島はぐっと拳を握る。

「おめでとう」


「じゃあ僕は部屋に戻るよ」

 ちょうどエレベーターが来たチャイムが鳴って、千弘は電話を切った。

「どうしたって?」

 作戦会議を中断し、不安そうに本田が尋ねてきた。

「千弘が成功したって」

 本田と溝口の顔がぱっと輝く。


「すごいな」

「スヴェンソンと話をしてきたわけだろ? しかも例の内容を吹き込んで」

「もっと褒めて」

 ドアが開くと同時に、千弘のよく通る声がする。

「かなり首尾よくいったから。本ちゃん、詳細はどう? 聞きたくない?」

「聞きたくないわけないだろ。……ごめん溝口、千弘の話を聞いてから打ち合わせの続きをしよう」

「次はヒロだよ。頑張ってきてね」

「うん……」


 作戦の成功に高揚している千弘が、投げキッスをよこしてきた。別に可愛くない、と言いたいところなのだが、今回ばかりは千弘にやられた。溝口は、避けきれなかった投げキッスが、心の奥で緊張に変わるのを感じた。

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