第6章:対決

31話:密談

 前日から緊張しすぎたせいか、溝口が目を覚ましたのは、まだ日も出ない時間だった。といっても、緯度が高い地域の初冬なので日の出は遅く、時計を見ると朝の7時を過ぎた頃だった。本田の方を見ると、奴は枕を足元にたずさえ、ぐっすりと眠りこけていた。溝口は音を立てずにベッドから降り、顔を洗って服を着替える。千弘のスーツのサイズが溝口に合うということは、出発前に着ているからわかっている。でも、予行演習をするつもりで、つい袖に手を通してしまう。


 頭の中で、スヴェンソンは難しい顔をしている。自分はこの男を英語で説き伏せ、メモリを出させなければならないのだ。できるか、できないか。できなくてもいいと本田は言っていたが、ここまで準備して、できないという結果にはしたくない。

 プライドが許さなかった。


 本田は溝口が起きた1時間近くあとになって、のっそり起きだしてきた。溝口は、本田の顔を丸洗いして、準備を終えていた千弘と鹿島を呼び出し、朝食ブッフェをかきこみ、慌てて部屋に戻る。落ち着かなかった。何かやるべきことはないかと考え、はやる気持ちを抑えるのを繰り返している。


「溝口」

 とうとう爪を噛み始めた溝口の肩を、本田が優しく叩いた。溝口が振り向くと、本田が煙草を差し出していた。

「お前、喫煙者だろ」

 固まってしまった溝口が受け取らずにいると、本田はフィルムを剥き、小さなテーブルに備えられた灰皿のマッチも差し出した。


「なんで知ってるの?」

 大家には喫煙していることを言っていたが、今時喫煙者は肩身がせまいことはわかっていたから、本田たちには知られないように吸っていたつもりだった。最近は、アルバイトも変え、ストレスが軽減されたことから、禁煙を目指しているところだ。


「溝口の部屋に灰皿があるだろ」

「見られてたんだ……」

 見られないようにタイミングを見計らい、かなり苦労して吸っていたのに知られていたとは。思わず肩から力が抜ける。


「最近、禁煙気味なのは知ってるけど、今日だけは吸ってもいいんじゃない?」

 溝口は迷いながらも結局は受け取った。まだ空気の暖まっていないベランダに出て、煙草を1本口にくわえ、マッチに火をつける。懐かしい味がした。気分がほぐれていく。

「せっかく禁煙がうまいこといってたのになぁ」

「もし辞められなさそうなら、日本でいい禁煙外来を紹介するから」

 風に揺れるカーテンの向こう側で、本田が片手を挙げて謝るのがちらりと見えた。


「ごめんな、溝口」

 本田の声がする。煙草はもう半分になっている。早いものだ。

「どうして謝るの」

「こんな役目を押し付けちゃったから」

「今更だな。ほんと、えらい役を引いちゃったもんだ」

 ベランダで大きく息を吐き、溝口は苦笑した。


「でも、今更やめるというわけにはいかないから、やるよ」

 とはいえ、スヴェンソンと会うのを想像すると足が震えるので、できるだけ考えないようにしている。

「溝口は、どうして俺の計画に参加してくれたんだ」

「なんでだろうな」

 溝口は、昇って間もない日の光に目を細めながら考える。


「本田が立てた計画だったら、信用できると思った」

「俺の計画?」

「うん。あと、1度やってみたいと思ったんだよね。旅行先でバンジージャンプをしてみないかと言われたら、後悔するとわかってても、やってみたくなるだろ」

 煙草はもう短くなっていた。ベランダの柵に乗せた灰皿で溝口は煙草の火を消し、服をはたいて室内に戻った。暖房が効いていて暖かい。


「ありがとう」

 屋外の空気が入ってきて寒くなった分、暖房を強めていると、本田が溝口の背後からそう言った。

「それは、うまくいってから言ってよ」

 溝口は、しわが寄るからと、ずっと椅子にかけていた千弘のジャケットを着た。昨日から、本田と鹿島がなんども確かめた鞄の中身を、溝口は再度確かめる。自分のスマートフォンが1台入っている。溝口は、そのスマートフォンを取り出して本田に電話をかけた。電話はすぐにつながったが、通話はせずにそのまま鞄に戻した。


 そろそろ時間だと本田に言われ、溝口はエレベーターに暗い顔で乗り、取引場所となるエグゼクティブルームに向かった。カードキーで部屋を開けると、そこには、すでに国崎がいた。

「国崎です」

 彼女はすぐこちらに歩いてきて、右手を差し出してきた。溝口は、国崎から出された右手を握り返した。変態扱いされるからおおっぴらには言えないが、柔らかい。

「溝口です」

 一瞬しか話していないし覚えていないか、と思ったが、国崎はその時の話を始める。溝口のことを覚えているらしい。すごい記憶力だ。


「でも、今日は林宇航リンユーハンさんですよね」

 国崎は微笑んだ。普段の無表情さはクールさが際立つのだが、微笑んでいた方がよほどいい。

「はい。中国語は、你好ニーハオしか話せませんけど」

「大丈夫だと思います。この国には、中国系の方がそれなりにいるとはいえ、スヴェンソンは全く中国語ができないので。日本語と中国語の区別なんかつきません。香港と上海のどちらが北かを知ってるかどうかも怪しいくらいですよ」

 それは溝口も怪しい。


 香港支社を出してこようと言い出したのは、当然ながら本田である。初めて聞いたときには耳を疑ったものだ。見た目ではわからないし、香港とか言っておけばそれらしいだろう、という偏見で選ばれた地域である。当然、香港支社は本田に利用されていることなど知らない。


 この計画は、国崎に聞かせたときも彼女は随分驚いた。香港とのコネクションのない彼女に話を持ち込むという設定のため、不自然ではないだろうか、というのがポイントだったが、うまくやってくれた。


「実は、私には重すぎる役職だったんじゃないかな、ってまだ思っているんです」

 ドアの方を向いて、国崎が不安そうに呟いた。

「大丈夫だとは思うんですが、こんな計画になるとは思いもしませんでしたから、自信がないんです」

 本田の無駄な発想力の餌食になってしまった彼女に、溝口は少し同情する。 


「僕の方がよっぽど危なっかしいですよ。商談なんか、ドラマでしか見たことがないんですよ。ビジネスマンなんか演じられません」

「大丈夫です。世の中には色んな方がいます。当然、商談のやり方も様々です。英語にさえ問題なければ、うまくいくと思いますよ」

「ありがとうございます」

 溝口は心から頭を下げた。そろそろ、スヴェンソンが来てもおかしくない時間になっている。いくら重役といえど、この取引に重役出勤ということはあるまい。


 テーブルに置かれた時計を見つめ続けるほど、緊張が高まる。だが、他のものに目をやるとさらに緊張が高まってしまう。演技の経験もない溝口が、演技する相手の想像もつかないままに、絶対にバレてはいけない大芝居を打たなければならないのである。当然手のひらには汗が滲み、ジャケットなどとても着ていられない。しかし、やらなければならない。スーツのズボンで手の汗をぬぐい、じっとドアを凝視する。


 ノックが聞こえた瞬間、また緊張が走る。ゆっくりドアを開けて、入ってきたのはスヴェンソンだった。写真通りの気難しそうな顔だ。いきなり溝口の足が震えだした。だが、まずは立ち上がらなければ始まらない。

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