29話:合議

 ほんの1ヶ月前には、まさかここに来るだなんて全く思っていなかった。首都に非常に近く、規模も国内最大であるその空港に降り立った時、ただの床に足を踏み入れただけなのに、本田の足に痛みを伴う大きな衝撃が走った。大学では、今頃前夜祭に備えて浮かれている頃だろう。


「ねえねえ、観光の日程ってないの?」

「そんなもんない」

「ホテルの近くだと、教会があるらしいよ。歴史もあるし、中にも入れるって。ねえ、聞いてる?」

「だから、そんな時間はない」

 白い吐息の本田がバッサリ切り捨てる。千弘は頬を膨らませた。別に可愛くない。

「学祭に合わせた超のつくハードスケジュールだぞ。千弘の潜入は今日だし、溝口の潜入は明日だし、明後日の朝には帰る」

「わかってるけどさ……」


「これで国崎さんが来てくれたら最高だよね」

 溝口は手を首に当てて温めながら幻想する。千弘も鹿島も、溝口の言葉に賛同してくれた。特別美人とは言えなくても、ハーフらしい顔立ちのハーフではなくても、本田から彼女の話を聞くだけで、クールビューティーな女性に感じてしまうのである。


「国崎さんって、冷たい環境にこそ映えるというか、母国にこそ映えるというか」

「わかる。ちょっと厚着して、もこもこの格好で立っていてほしい」

「まあしょうがないのは確かなんだけど、国崎さん来てほしかったなぁ」

 千弘が天を仰いで嘆いた。お前は彼女持ちだからこの会話に参加するな、と溝口は威嚇するが、そんなものは神経の図太い千弘には通らない。


「来るよ。今日じゃないけど」

 国崎に全く興味のない本田は、平然として言った。

「え、来るの?」

「そりゃそうだろ。国崎さんの紹介が無かったら、スヴェンソンに会えないじゃん」

「確かにそうだけどさ……」

 本田は、簡単な連想もできないバカめと心の中で思っているだろうが、発想が雑草のように生えてくる本田とは違うのだ。


「とりあえずホテルに行こう。ここじゃ寒すぎるだろ」

 11月上旬になると、北極圏に近いエリアでは、まだ昼だと思える時間でも、もう空が暗くなる。ただでさえ緯度が高く気温が低い中、空港の前で何をするでもなく話している日本人男子大学生の集団は非常に目立っていた。


 なんとかタクシーを捕まえ、身振り手振りと溝口の英語を用いて、ADLERから指定されたホテルに向かう。

「ホームページを見たら、すごく綺麗なホテルだった」

「マジで? ADLER太っ腹じゃん」

「じゃあ、4人1室とかなんじゃないの」

「いや、2部屋あるはずだから、2人ずつだよ」

「すごいじゃん」

 部屋の内装を見ながら、本田たちは盛り上がっている。助手席に取り残され、会話に混ざれない溝口は、ミラー越しに見える後ろの3人組から修学旅行を連想した。


 案の定、チェックインその他もろもろは、英語のできる溝口が行うことになった。千弘も英語が得意なはずなのに、特に役目はない。貧乏くじを引いたのは溝口だ。

「1606と1607号室」

「結構な上層階じゃん。それ、1番安い部屋でしょ?」

 わざわざ事前に部屋の値段を調べ、頭に叩き込んでいた千弘が驚いた。なんて性格の悪いことをするのかと溝口は眉をひそめるが、軽く言われて止める千弘ではない。


「安い部屋って言っても、高級ホテルだぞ」

「わかってる。部屋には期待してる」

 そうは言っても、ガラス張りのエレベーターから景色を眺めるボンボンの千弘にとっては、並のランクのホテルなのだろう。

「16階って、思ったより高いね」

「高いところあまり得意じゃないんだけど」

「申し訳ないんだけど、溝口が会談するエグゼクティブルームは40階だよ」

 溝口は目を剥く。今の2倍以上の高さに、エレベーターとはいえ登らなければならないのか。だいたい、ガラス張りのエレベーターなど、溝口のような人間にケンカを売る設備でしかない。


「まあ、目をつぶったらいいし、ボタンの前に立ってたら大丈夫だと思うから」

 簡単に言ってくれる。溝口は冷や汗をかきながらエレベーターを降りた。


「早速だけど、今日は夜から千弘が潜入しなきゃいけないから、打ち合わせしよう」

 部屋に着いた途端、本田がソファに座ってパソコンを広げた。溝口たちは、まだ荷物すら開いていない。

「そんなに急がなきゃいけない?」

「うん」

 不満そうに千弘は言ったが、本田にばっさり斬られて、渋々といった様子で向かいのソファに腰掛けた。

「知ってると思うけど、超ハードスケジュールだからな。今が午後2時、パーティーが始まるのが午後7時。ここを午後6時に出なけりゃならないから、実質あと4時間だ。くつろぐ時間はないよ」


「でも、話の内容は、僕が行くパーティについて、だけでしょ? 僕が知ってたらそれでいいじゃない。だいたいの話は飛行機の中で聞いたんだから、打ち合わせなんかいらないよ。本ちゃん、ちょっと慎重すぎ」

「でもさあ……」

 あまりにも口答えがすぎるからか、本田は少し千弘にむっとした表情だった。自分の思い通りに計画を進めたがるのが本田なのだから流されておけばいいのに、と思っても、わざわざ忠告する鹿島ではない。


「あ、でも話す内容のこと、ちゃんと聞いてなかったよ。そこだけ教えてよ」

 本田がため息をついた。

「順位が付けられているというガセネタを流すこと。あとはアドリブでお願い」

「アドリブ?」

「だって、スヴェンソンが何を言うかなんて、俺たちにはわからないし」

 千弘は苦い顔だ。鹿島ほど適応力がないとは言わないが、千弘は台本を丸暗記してその通りやる方が得意である。


「ねえ、千弘ってパーティーとか経験ないの? ボンボンだろ」

「ないよ。僕をなんだと思ってるの?」

 いくら千弘でも、経験があるパーティーなど、親戚の結婚式くらいのものだ。

「でも、今回はとりあえずパーティー慣れしているということになってもらう」 

「わかってるよ」

 千弘は頷いた。だが、実際には慣れていないから、アドリブに困るのである。

「でも、パーティーにはリクルートスーツで行くんでしょ? よくわからないや」

「千弘のお気に入りの高級なやつは、溝口に着てもらわないといけないから、我慢してくれよ」


 ボンボンで名の通る千弘は、入学祝いに、1着で10万円弱のスーツを買ってもらったという。お前の入学祝いは車と自転車じゃなかったのか、と思わないでもない。この男、一体入学祝いがいくつあるんだろう。

 その千弘が快く貸してくれたボンボンスーツは、明日溝口がスヴェンソンと会う際に使われる。溝口の方が数センチ背が高いのだが、サイズの方は問題ないと言える範囲内だった。


「ヒロがあのスーツ着るんだったら、本当は高級時計なんかもしたほうがいいんだろうけど、どうしてるの?」

 さすがの千弘も、高級腕時計は持っていないらしい。もっとも、2桁万円に乗るかという金額の時計を高級と言わなければ。


「時計は無し。何持ってても怪しまれそうだし、変に話題にされても大変だから」

「無い方が怪しまれたりしないかな?」

「じゃあもう目覚まし時計でも持つ?」

 本田は面倒になると、持ち前の発想力でめちゃくちゃな案を出してくる。

「……わかった。もう全部本ちゃんの言うとおりにするから、好き放題言わないで。ごめんってば。ね、ちゃんと1対1で打ち合わせしようよ」


 千弘が白旗を上げる。本田がにっこり微笑んで、千弘をソファに引きずっていった。非常に濃密でとてつもなく複雑な打ち合わせを端から聞いていて、溝口はこんな打ち合わせを本田とサシでやらなければならないなんて、きっと地獄だろうなと眉をしかめた。数時間後、自分がその憂き目に遭うとも知らずに。

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