28話:潜入
結局、出発日の2日前という危機的状況ではあったが、パスポートを受け取ることはできた。渡航の準備もそれなりに進めなければならず、忙しい中ではあったが、苦い顔をしながらも、皆安定して計画を進めている。
「例の上司というのは、ルーカス=スヴェンソン。某国支社の最高情報責任者、いわゆるCIOだね。イギリスの超有名大学の工学部を出て、大学で研究をしていた。その後、ADLERの開発部に引き抜かれた。開発部からここまで昇進するのは、国崎さん曰く初めてなんだそうだ。出世頭も出世頭で、昨年末に昇進したらしい」
重役だからか、ホームページに写真が載っていた。髭を生やした、溝口の父親くらいの年齢の男性だった。工学部を出て開発部に入ったということは、きっと機械に強いのだろう。本田と鹿島の同様の雰囲気があると言われればある。だが違うのは、人を何人殺したのか、と問いたくなる、睨むような冷徹なその目だった。
「そんなのよく調べたね」
溝口が感嘆する。英語があんなに苦手なのに、日本では全く無名の人間の情報を集めた本田は、おそらくかなり頑張ったのだろう。えらいえらい。
「全部、wikipediaを翻訳にかけたのを戻しただけでしょ」
千弘にトリックをばらされ、溝口に呆れたような目で見られた本田の得意顔は、刹那に溶けて消え、すぐさま赤面に変わる。
「他に何か情報ないの?」
鹿島に聞かれ、本田は慌てて手元を指でなぞる。汚名返上といきたいのだろう。しかし、そううまくいくものではない。
「なんだかんだ、あまり情報はないんだよね。身長185cmとか」
「ごついね。とって食われそう」
千弘は、か弱い人間を演じてみせる。が、腹の中に毒を蓄える以上、この中で最も美味しくない人間であることには間違いないだろうということは、千弘以外の人間は皆思っているところである。
「他は? 何か情報はないの?」
「さっきので終わり」
「もう終わり?」
千弘は不満げに溝口の灰皿の縁を指でなぞっているが、ないものはない。
「有名人じゃないし、限界だよ。あとは大体の出身地くらいじゃない?」
「出身地と言っても、どうせ首都でしょ」
本田は気まずそうに頷く。
「それで、僕らはどうすればいいの」
「潜入は2人」
本田は溝口にピースサインを返す。
「溝口と千弘だ」
「潜入ってどういうこと?」
「会って、直接メモリを奪いかえすんだよ。それには、スヴェンソンの会社に潜入しなきゃ」
溝口は、スパイ映画を思い浮かべる。天井に張り付き、変装のマスクをかぶり、怪しげな機械をポケットに忍ばせ、手をかざしたら空中に地図がボワンと現れ、高いところからバンジージャンプしたりなんかするのだろう。そんなことができるわけがない。ふざけるんじゃない。
「ふざけてるのはお前だよ」
本田に呆れたように言われ、溝口は首をかしげる。自分の方が一般的な気がするのは気のせいではないと思いたい。聞いてみると、千弘は溝口派で鹿島は本田派だった。五分五分だ。
「とにかく、映画はやりません。俺は、取引と見せかけて、スヴェンソンがメモリを出すのが最も良いと考える方に持って行きたいんだ」
「そんなのできる?」
いくらうまく誘導したとしても、メモリを出す段階になって、はっと気づくかもしれない。少なくとも、何かしら思うところはあるだろう。かといって、口が上手いというだけで、メモリを出す以外の選択肢を全て潰すというのは不可能だ。
「俺がなんとか考えるよ。3つくらいプランを作っておいて、スヴェンソンの出方を見て考える。もしダメなら今回の取引は失敗、おとなしく日本に帰る」
鹿島も千弘も真面目な顔で頷いていた。
「わかった。作戦はわかったけど、僕だけ役職おかしくなかった?」
「いや、正しいけど」
本田は再度メモを覗き込み、指をさして確認したが訂正はしない。
「なんで僕が潜入担当なの?」
「だって溝口以外いないもん」
「本田が当事者なんだから本田が行けよ!」
「俺は『ENIGMA』の開発者だから顔が割れてる。無理だ」
もっともだ。溝口は、他に噛み付くネタがないか必死に考える。
「でも、僕じゃなくても良くない?」
「溝口は英語が話せるだろ。本領発揮してこいよ」
本田は無責任に溝口の背中を叩く。全く、溝口が必死こいて勉強している英語をなんだと思っているのだろうか。
「千弘は? 千弘だって、それなりに話せるじゃん」
「僕、TOEICは溝口の半分くらいだから」
溝口が指をさした先からさりげなく逃げた千弘は、いけしゃあしゃあと嘘をつく。
「千弘も潜入担当だから、千弘に代わってもらおうとしても意味ないよ」
本田のアシストに、千弘はこちらを見てにやりと笑う。可愛くないやつだ。
「嘘つけ! そんなに点数変わらんだろ!」
「とりあえず溝口が潜入担当なのは確定だから」
「じゃあ鹿島……鹿島はどう?」
「俺なんかを交渉担当に回したら、成功する作戦も成功しなくなるだろうが」
鹿島の低い声の自虐を聞くと、反論らしい反論はとても思いつかなかった。
「な、溝口、わかっただろ。せっかく適任なんだから頼むよ」
「わかった。僕は何をしたらいいの?」
溝口は、しぶしぶといった様子で頷いた。目がぱっと輝いた本田は、チャンスとばかりに溝口に畳み掛ける。
「ビジネスマンになって、スヴェンソンと直接話し合ってほしいんだ」
「は?」
「若手社員の設定だから、多少英語が下手でも大丈夫だよ。しかも、何を言えばいいかはこっちで決めるし。向こうもネイティブではないから平気だって」
本田は、溝口のハードルを下がるべく、必死にフォローをするが、それでほだされる溝口ではない。さっき頷いたのを既に後悔し始めている。
「そもそも、スヴェンソンとそんな簡単に会える? 相手はCIOでしょ」
「国崎さんに紹介してもらうんだ」
「国崎さんに?」
「日本ADLERは今回の計画に協力すると国崎さんに聞いたときに、ついでに教えてもらったんだよ。ちょうどいいパーティーがあって、溝口はそこで国崎さんと接触したことにする。国崎さんは、昔はスヴェンソンの部下だったんだから、紹介してくれと頼むことは不自然じゃない」
「でも、それだけだと不安じゃない? いくら国崎さんの紹介でも、ぽっと出の僕らを警戒されたりなんかして、スヴェンソンに会えなかったら、全部パーだよ」
「そのパーティーで布石を敷くんだよ。重要なのは、僕らがパーティーで蒔く種と、国崎さんからの紹介は無関係だと向こうに思わせることだ。別のルートから同時に入ってきた情報は、より信用されやすい」
よくわからないが、溝口をぽっと出にしないための作戦だということだろう。
「布石を敷くって、どうやって?」
「それは千弘にやってもらう」
「だから僕がサブの潜入担当だったわけだね」
納得がいったというように千弘は頷く。
「学祭の初日にあたる日なんだけど、運良くちょうどその日に、ADLER支社同士が親交を深めるための簡単なパーティーがあるんだ」
「パーティーねぇ」
溝口の脳裏には誕生日パーティーしか出てこない。むしろ害になるその想像を、溝口は完全に振り払う。
「日本人は数人だけど出席する。国崎さんも、参加社員兼通訳として出席する。そこに、千弘をうまく混ぜてもらう」
「あ、日本ADLERもそこはやってくれるんだ」
「そこで、スヴェンソンと接触して、うまく情報を漏らすんだ」
「情報を漏らす?」
溝口は首を傾げた。
「そう。情報を教えちゃだめだ。新人社員である千弘が、ミスをして漏らしてしまった情報というのが大事なんだよ」
「それ、英語でやるんだよね?」
千弘が顎に手を当て、有名な像のように考え込んでいる。
「まあ、難しいけど、なんとかやってみる」
「頼むよ。最悪、情報が伝えられなくても構わないから」
「やれるだけやるよ」
「その翌日、今度は溝口がスヴェンソンと取引する番だ。今度は、ビジネスマンになってうまくスヴェンソンを口説き落としてメモリを奪わないといけない」
そう言われて、急に溝口は気温が下がったように感じた。あまりにも千弘の仕事内容と違いすぎる。
「大丈夫、どんな内容を話せばいいかは、俺が全部伝えるから」
「でもなぁ……」
「溝口は、ビジネスマンの演技をして、俺のシナリオ通りに話せばいい。セリフはそのとき伝えるから、覚えたりなんかする必要はない」
「でも……」
「大丈夫。溝口なら。飲み会で培った対人スキルは伊達じゃない」
聞けば聞くほど、本田の話は荒唐無稽に思える。溝口は、本田の計画に乗ったことを早くも後悔していた。しかし、その一方で、心の奥底に何か沸き立つものを感じるのも確かだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます