第3章:本田の秘密

13話:焼肉

 話し合いの場に、肉を焼く音と周囲の客の会話、果ては酔っ払いの騒ぎ声でうるさい焼肉店を選んだのは間違っていたような気がしないでもないが、溝口の金で焼き肉を美味そうに摘む面々を見ると、一応納得はできる。散々迷った挙句、どちらかというと静かな禁煙席を選んだのは間違いではなかった、と溝口は思った。


「どの話からする? 俺の姉ちゃんの話か、ADLERアドラーfixerフィクサーの話でもするか、もしくはネットショックの目的か」

 箸を持ちながら、本田は指を折って数えてみせる。始めに調子に乗って注文しすぎたせいで大量に運ばれてきた肉を順調に焼きながら、そんなに話題があるのかと溝口は感嘆していた。


「全部聞きたい。理解できるかどうかは別として」

 鹿島の呟きは本田以外の総意である。

「まず本ちゃんのお姉ちゃんの話から聞きたいな。それでいいよね?」

 先刻、その話をしようとしていた千弘が手を挙げる。

「どれでもいい」

「どうでもいい」

 何やら怪しいのが混じっているが、全員賛成として話は進む。

 

「なんで本田の姉ちゃんはテレビに出てるの?」

「テレビ局に聞けよ」

「いや、なんでテレビに出てるのかはわかる」

 やはり、本田は言いたいというわけではないのか、言葉を濁してくる。しかし、溝口は本田の苦笑に誤魔化されはしなかった。

「コメンテーターだろ。じゃなくて、なんで本田の姉ちゃんが、有名人を差し置いてコメンテーターとして番組に選ばれたかだよ」

「姉ちゃんが、プロジェクトfixerの根幹になった暗号ソフトの開発者代理人だからでしょ」


「あのねえ本ちゃん、往生際が悪いよ。ほらスポンサーからも言ってやって」

 さりげなくスポンサー扱いされて思わず溝口の箸が止まるが、千弘の真摯な目線に負けて本田を口説きにかかる。

「おい本田、こっちはお前の口に肉を入れるためにお金払ってるんじゃないぞ」


 古い刑事ドラマのセリフのようであることに気づいて溝口は赤面したが、本田はそのことには全く気付かず、むしろその言葉が刺さっているようにさえ見える。それに、こんなことを言ってしまっては、今回の会計が自分になると認めてしまっているようなものだ。


「本ちゃんのお姉ちゃんはADLERの人なの?」

「ADLERじゃないよ」

「じゃあ変じゃない? fixerを成功させたのはADLERなんだから、ADLERが暗号ソフトの開発者と繋がってることはあっても、本ちゃんのお姉ちゃんが繋がってるのはおかしいでしょ」

「『ENIGMAエニグマ』だよ」

 本田が何やらつぶやく。

「エニグマ? それは昔の暗号だろ」

 肉を口に詰めながら、千弘が尋ねた。

「違うよ。暗号解読ソフトの名前だよ。アルファベットの大文字で『ENIGMA』、このソフトをもとにして、ADLERがプロジェクトfixerを開始したんだ」

 なんでそんなことを本田が知っているんだ、と溝口は疑問に思うのみだったが、千弘の方は何やら合点がいったように微笑んだ。


「有り得るとしたら、そのお姉ちゃんが個人的に開発者と繋がっていたってこと」

 千弘は飲み放題のソフトドリンクを一気にあおって微笑む。


「そうだよ」

 本田は諦めきったような口調でそう答えた。

「俺が『ENIGMA』を開発したんだ」


 薄々わかっていたはずなのに、いざ本人から告白されると、何か背筋をぞわりとさせるものが生まれたような気がした。このテーブルの周りの空気だけが唐突に落ち込み、遠くのテーブルでビールをこぼして店員を呼ぶ声が随分大きく聞こえる。


「そんなすごいソフト、世界中の技術者の誰よりも先に、どうして本田が作ることができたの?」

「運が良かったからだよ」

 運が良かった、で済む話ではないのは、鹿島も溝口も千弘もわかっている。


 第2次世界大戦中の本家エニグマの方では、総当たりで暗号文を解くことで暗号が解明された。つまり、宝くじを買い占めて当たりが出るのを待つというやり方に近い。それを、宝くじをほんの少し買っただけの本田が大当たりするだなんて有り得ない。年末ジャンボですら格が違う。


 もちろん、本田はその一言で済ませるわけではなかった。たとえ一言で済ませようとしたとしても、周りが許さなかっただろう。具体的には、着々と溝口のおごりになっている肉が許さないだろう。


「『ENIGMA』は、ネットショックを受けて作ったソフトじゃない。2年前に俺が趣味で作った暗号化ソフトなんだ。凝った作りだったとは思うけど、完全に趣味だったんだよ」

 そこで本田は息をつぐ。拾うものがおらず炭と化す小さな肉片を見つめながら、溝口たちには決して目を合わせずに話し始めた。


「よくあるだろ? どんなに瀕死で重い病状だったとしても自分のパソコンのハードディスクを破壊するまでは死ねない、という笑い話だよ。誰だって自分のパソコンの中を見られたくはない。俺だってそうだ。だから、その中身を全部暗号化してしまうソフトを作ろうと思ったんだ」

「それが『ENIGMA』だったのか」

 本田は頷く。溝口は息を飲んだ。完全に黒焦げになった肉片を鉄板の隅に寄せ、少し迷ったが新しい肉を何枚か鉄板に乗せる。それは、溝口にとって現実逃避に近い行動だった。


「それ、どういうソフトなの」

 鹿島は、事態を理解するための質問というよりは、ハードディスクを破壊する必要のないソフト、という内容に惹かれて尋ねたようだった。

「単純に言えば、パソコン内の全てのファイルを暗号化しておいて、ファイルを起動するたびに暗号を解除、そしてファイルを閉じるともう一度暗号化するソフトだよ」

 そのソフトの内容を聞く限り、いっぱしの大学生が組めるソフトには思えないが、あの大量のパソコンを持つ本田には組めてしまったということなのだろう。


「別に、そのソフトを高く売ったりするつもりはなかったんだ。ただ、SNSに載せたりなんかして、友達とかに褒めてもらって承認要求を満たすだけの、壮大なネタのつもりだった。もちろん、プログラムを組むのには苦労したし、ファイルを起動するたびに膨大なデータを短時間で処理できるような工夫は、俺の中では傑作だったと思うよ、俺の中ではね。でも、このソフトは『大学生が作る中ではかなり高めのレベル』のものでしかないんだ。プロが作るレベルよりは遥かに低い」


 そう言った本田が急に小柄に見えた。元から小柄だが、接していると不思議と小柄には見えない。だが今は違う。溝口は以前に見た本田の学生証の写真を思い出した。本田は証明写真には真顔で写っていた。


「ネットショックを起こしたサイバーテロリストたちは、俺の『ENIGMA』を使ったんだよ」

「インターネットには無数の暗号ソフトが出回ってたと思うけど。その中から本田のが選ばれたの?」

 溝口はそれこそ宝くじに当たるようじゃないかと思っている。


「いや、テロリストが求める条件に当てはまるソフトは多くはないよ。海外からでも容易にヒットして、作成者は足のつきにくいアマチュアプログラマ、暗号自体はかなり複雑、そして何より処理が早いソフトという条件が少なくとも必要になる。俺のソフトの場合、ファイルを開くたびに暗号を解除しなきゃならないから、解除の処理速度だけは相当苦労して高めたから、テロリストが求めるレベルには十分だと思う」

 

 IPアドレスというものは長い数字の羅列である。単なる換字式の暗号であれば、ひとつでも暗号化する前後のIPアドレスが漏れ出せば簡単に解けてしまう。今回、偶然にも暗号化前と暗号化後のIPアドレスが見つかったように。だから、さらに複雑化した暗号、それこそ、本家20世紀のエニグマではだめで、さらに進化した21世紀のエニグマが必要になってくる。


 21世紀のエニグマ、それは20世紀のエニグマと同様、世界を支配する暗号だった。

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