第2章:インターネットの破滅
6話:破滅
溝口は昔から幽霊や怪談の類が全く怖くない。霊感が全くないというのは、その理由のうちでもある。当然、予言や予知夢、あるいは根拠のない前兆というのも全く信じていない。この度の災害も、やってきたのは唐突だった。前兆はない、と溝口は思っている。
今朝の台所は戦場だった。夏休み明け早々ながら、本田と鹿島は試験期間、千弘に補講が入り、珍しく全員が1限に出席するためである。もともと台所というものは複数人が同時に料理を作るための場所ではない。だから同時に4人も詰め込まれ、朝食を大急ぎで作り始めたら台所はどうなるか。答えは明白である。
朝はバナナしか食べない溝口は、冷蔵庫からバナナを2本ちぎれば朝食の準備は完了だが、それ以外はパンをトーストしたり米をチンしたりと猛烈な忙しさだ。四人しかいないシェアハウスなのに、電子レンジに列ができている。
「ネットが止まったらしい」
電子レンジの列に並ぶ鹿島が、立ったままバナナをかじる溝口に話しかけてきた。鹿島が話しかけてくる、というのは珍しい。喋るということ自体珍しい。
「どういうこと?」
「朝からずっと、どのサイトにも繋がらない」
「あ、ほんとだ」
千弘がスプーンと口はしっかり動かしながら、器用にスマホを触る。
「ここのWi-Fi死んだの?」
一応、大家一家のWi-Fiを借りるという形で、ここにも若干貧弱とはいえ、Wi-Fiの環境は整っている。凄まじい設備を誇る本田はそれでは足りないらしく、わざわざ自分でポケットWi-Fiその他を契約しているようだが。
前にも一度、このシェアハウスのWi-Fiの調子がおかしくなったことはあった。
「ここのWi-Fiだけじゃないよ。世界中のWi-Fiが死んでるらしい」
「嘘だぁ」
バナナの皮をゴミ箱に捨てて部屋に戻ろうとした時、箸で目玉焼きの目玉を潰している本田が声をかけてきた。
「本当だよ。Wi-Fiだけじゃなくて、モバイル通信の方も通じないからね」
「それヤバくない?」
つまり、スマホもパソコンも全く通信ができない、ということだ。
「ヤバいよ」
まったくヤバくなさそうな声で本田は答える。
「ちょっと溝口、スマホ貸してよ」
「え、なんで?」
心底嫌そうな顔をして溝口が拒否したのに、逆に本田の方が驚かされる。
「……いや、繋がらないのを見せようと思って」
「やだよ、他人にスマホを触られるくらいなら、スマホを潰した方がマシ」
溝口が優しいとか優しくないとかの問題ではない。スマホの中身を見られたら恥で死ぬからだった。溝口の場合、何か事故に巻き込まれたら、逃げ出すよりも遺書を残すよりもまずはスマホを壊す、これだけは絶対だ。
「じゃあ俺の部屋のテレビ見てこいよ。どの番組もその話題しかしてないから」
「テレビ東京も?」
「テレビ東京も」
「……大事件じゃん」
そういう判断方法か、と本田は苦笑した。
なんだかんだ本田の部屋にテレビを見に行く溝口の他に2人も付いてきて、全員が本田のテレビを覗き込む羽目になっていた。
「何を言ってるんだか、さっぱりわかんないな」
千弘がぼやく。どこの番組も、ただ被害内容を並べるだけで、専門家を呼ぶこともなく、混乱を拭いきれないまま番組を進めていた。
「インターネットが突然止まったせいで電話回線もパンクしてるから、専門家なんかまるで呼べないんだよ」
「じゃあ連絡手段ないじゃん」
「SMSは生きてるらしいけどね。その次に有効なのは郵便か
本田の冗談に笑う人間は誰もいない。食い入るようにテレビの画面を眺めている。
「本当に世界中でインターネットが死んでるんだ……」
「それに乗じて株価も大変なことになりそう」
「大変、で済んだらいいけどな」
株価が大幅に下がるのは確実となっている企業の株を持っている人間にとって、ネットに繋げないゆえに、証券取引所が取引を開始する午前9時になるまで何もすることができないというのは地獄であろう。為替相場も、どうなるかはわからないが荒れるに違いない。築きあげてきた自分の資産が泡と消えていくのが予告されるだなんて、想像するだけで胸が痛い。
「本ちゃんなら、番組内容が全部わかったりするんでしょ?」
「無理だよ。俺からは調べたりできないもん」
本田は千弘をぶった切る。
「これだけ大規模なら、通信障害というのは考えにくいとは思うけど。大規模サイバーテロかな」
「でも俺、そろそろ大学行かなきゃ」
本田が立ち上がって容赦なくテレビを消す。そのリモコンに千弘がすがりついた。
「今日休講じゃないの?」
テレビでも、史上最悪のサイバーテロなどと大騒ぎしていて、どの局でも元々放送予定だった番組など、1局を除いて放送していない。その1局も、もうすぐ特番を組み始めるだろう。
「わからないけど、こんなことで休講にする大学じゃないだろ。今日は試験だぞ。鹿島なんかもう家出てる」
「嘘だ」
探したが、本当に鹿島の姿はない。存在感がないから気づかなかった。
「本当だって。靴ないもん」
本田は準備を終えてもう靴を履き、まさに家を出ようとしている。溝口も、テレビを見ながら準備をしていたが、今日ばかりは大学をサボりたい気持ちにさいなまれていた。
「ヒロは1限、大学行くの?」
千弘が渋々といった様子でリュックサックを背負う。
「あと2回くらい欠席できるし、サボると思う」
「僕も休みたい」
千弘は靴まで履いておきながら玄関口に座り込んでいる。そろそろ尻を上げて家を出なければ、信号の状況によっては出席が危ぶまれる時間帯だ。
「千弘は出席あるの?」
「そりゃあるよ。天下の法学部だよ」
実際は、出席があるのに何度も欠席を繰り返して、もう後がないから出ないわけにはいかないといったところに違いない。試験前に補講が入るほどスケジュールが詰まっている授業でも、千弘なら平気で休んできたのだろう。そういうことなら、さっさと大学に行けばいいのに。
千弘がのそのそと立ち上がって玄関の扉を重苦しく開けようとしたとき、その扉は外側に吸い込まれるように大きく開いた。千弘がぱっと仰け反るのと同時に、誰かが家の中に入ろうとしてぶつかりかける。額が互いに触れ合わんとした瞬間に向こうの動きが突然にピタリと止まった。
「しゅ、俊一郎……」
「今日休講だって」
扉を開けたのは鹿島だった。
「休講?」
「全科目全日休講。試験も延期。理由は知らないけど」
鹿島はそう言って、汗まみれの手で千弘を押しのけながら冷房の効いた自室に戻った。
「最高じゃん」
千弘は、二の腕に飛んだ汗を拭き拭き、小躍りしながら部屋に戻る。それと入れ替わるかのように、休講通知を見た本田も戻ってきた。
「聞いた? 休講だって」
「鹿島から聞いた」
「そうなんだ。テレビの続きが気になってたからラッキー」
試験が消えてラッキー、ではないのが本田らしい。余裕なのか、はたまたやる気がないのか。
「あ、テレビの続き見せて」
本田も部屋に戻ろうとしたのを止め、溝口は頼み込む。しかし、本田はやらなきゃいけないことがあるからと首を横に振った。しょうがないか、と思って帰ろうとしたら、腕を掴まれる。ふと、引っ越してきた初日を思い出した。
「ちょっと溝口は来て。テレビは録画してるから、後で見よう」
溝口は、事情もわからず頷くばかりである。
「みんな呼んできて。あと、金を持てるだけ持ってきてって言ってほしい」
「なんで?」
「あと、千弘の車も出してほしい」
「なんで?」
「人手がいる」
結局、尋ねてもあまり要領を得ない答えしか返ってこなかった。訊けば訊くほど本田が焦った様子で返事をするので、溝口は諦めて千弘と鹿島を玄関に呼び集めた。
「どうしたの」
車の鍵を本田に渡しながら千弘が尋ねる。
「食料を買い占めるんだよ」
「じゃあそう言ってよ……」
本田は言ったつもりでいたようだ。千弘から受け取った鍵は、今度は鹿島に渡る。溝口も千弘も納得はしているが、焦って買い占める必要はないと内心思っている。
「何言ってるんだよ。今どき、日本の流通で、ネットに全く依存しない流通なんかあるか?」
「いや……」
「この先数日、全国の流通という流通が止まるのは確実だよ」
「本当に?」
本田の言っていることは正しい。だが、あまりにも突然で現実味がない以上、実際に流通が潰れたとは思えないのである。
「本当だよ。絶対。だから、なんだかんだ集まってるんだろ」
助手席でシートベルトを締めながら本田が自信満々に返す。その通りだった。食料を買い占める必要がある、だからこんなに慌てて自動車に乗り、おとなしくシートベルトをして発進を待っているのである。
「行くんだよね?」
答えを聞かずに鹿島はアクセルを踏んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます