5話:純情
久しぶりにサークルの活動もバイトもなく家に帰ったら、千弘と目が合った。
「よう」
昼間に会っているから、何と声をかけていいものか迷う。しかし、今回ばかりは珍しく千弘が駆け寄ってきた。
狭い廊下で部屋の扉は全て閉まっている。誰も周りにいないのは明白なのに、千弘はやけに周囲を確認して溝口に囁く。
「ねぇ溝口、本ちゃんの部屋見た?」
「見てないけど、なんで?」
ゴシップの好きな千弘には悪いが、溝口には他人の部屋など興味のかけらもない。第一、扉を閉めてしまえば、見ようと思っても見られないじゃないか。
「廊下で見たんだよ」
「何を?」
千弘はすぐ騒ぐから、溝口もおいそれと信じることはない。これだけ騒いでおいて、原因が虫かそれに準ずるものであれば、なにかボンボンセレクトの美味しいアイスでもおごってもらおう。
「女だよ」
千弘は、少し背伸びして溝口の耳元に口を寄せて囁いた。
「は?」
「本ちゃんが女を連れ込んでるんだよ、めちゃくちゃかわいい女の子」
ここで溝口の処理機能はぷっちんと間抜けな音を立てて落ちた。
「…………」
「…………」
「嘘だぁ」
「ほんとだって」
「よりによって本田が?」
「よりによって本ちゃんが」
とはいえ、彼女持ちの千弘を除けば、残りは女と話せない工学部生の典型例とも言うべき鹿島と、大学とバイトと飲みサーの往復で忙しい溝口である。この中で最も女を連れ込むのに適しているのは本田であり、ありえないことではない。
「本ちゃんは中身が男子校出身そのものだし 、女だけは有り得ないと思っていたんだけどなぁ」
本人がいない所でボロクソである。
「まあ、いっぺんドアの隙間から見てみなよ。すっごくかわいいから」
美人の彼女を持ち、面食いを公言する千弘が言うなら間違いないだろう。
本田の部屋のドアの蝶番付近からそっと室内を覗く。ドアに触れて音がするのを恐れてよく見えなかったが、本田本人とは全く釣り合わない美人であるのは確かだ。
「どうしよう」
放っておけばいいだけなのに、その選択肢だけは溝口にも千弘にもない。
「本人に問いただす?」
「鹿島でも呼ぼうか」
「でも俊一郎は絶対にこういうの興味ないよ」
千弘の言う通りだ。こういうのどころか、鹿島は万物に興味が無い。呼んだところで来ないか、暇を持て余したように、そこらへんで座っているだけだろう。要するに役立たずだ。だいたい、奴に恋愛感情があるかどうかさえ怪しい。
「僕の部屋の壁に耳を当てて、本ちゃんの部屋の音を聞こう。おもちゃ屋で買ってきた聴診器がある」
「……なんで持ってるの?」
「看護学科の友達ならモノホン持ってるかもしれないけど、借りに行こうか?」
「いや、だからなんで持ってるの?」
千弘はその質問だけには答えようとしない。さらに、ほとんど手元を見ることすらせずに耳に入れ、早速壁の音を聞こうとしているあたり、使い方も完全に心得ているようだ。今までにも盗聴の前科があるのだろう。千弘は商社を志望しているらしいが、探偵かスパイこそが天職なんじゃないかと思う。
「聞こえる?」
神妙な顔で聴診器を耳に当てる千弘に尋ねてみる。ただ壁に耳を当てているだけの溝口の方は、何も聞こえない。
「何としても証拠をつかまないと」
千弘は必死だ。噂によると、その具体的な出どころは鹿島なのだが、千弘は自分の周囲にいい具合の男女を見たら仲人の真似事をするのが常らしい。自分の恋愛にだけ熱中しておけばいいのに、周りを巻き込むというところが悪質である。
「何にも聞こえないの?」
「ううん、相手の女の声は聞こえるんだけど、単なる会話っぽい感じで……」
「楽しそうだな」
ドアノブを回す音と同時に低い声がした。振り向かなくてもわかる。本田だ。溝口は部屋のドアの鍵を閉め忘れていたことに気がついた。恐る恐る振り向くと、やはり本田だ。
「俺の部屋に向いた壁に聴診器と耳を当てて、一体何を聞こうとしてたのかな?」
子供相手にするような物言いで、顔も別段怖いというわけではなく笑顔なのだが、ただ笑うのとは違う。
「女を連れ込んでるって思ったんでしょ」
御察しの通りですとばかりに、溝口は恭しく頭をさげる。
「あれはね、俺の姉ちゃん」
本田の声は呆れきっていた。
「…………」
千弘の方を見たら、向こうもこちらを見ていて目があった。いつの間にか千弘は正座している。溝口も千弘に感化され、隣で正座をしながらうなだれた。
「だって、全然似てないし、あんな可愛い女の子が、まさか本ちゃんのお姉ちゃんなんて思わないし……」
言い訳をした千弘は拳骨を受けていた。童顔の千弘だけを見ると、小学生が叱られているかのようだ。
その後、鹿島にこの話をしたら笑い転げられた。奴の笑顔を始めて見れたのが収穫だと思うことにしよう。
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