コンドルの舞うところ、あるいは集団意思決定

 そして、次の水曜日の六限、また全校生徒を体育館に集めての全校集会で、開票結果と、当選者が決まる。

 ぼくは、またもや今藤さんとともに舞台袖で待機していた。今回は開票ということでぼくたち選挙管理委員会が前に立って説明をしなければいけない。ちょっと気が重い。

 投票は朝のホームルームでなされた。ホームルーム担任によって配られた投票用紙に記入したら、それをまた担任教師が回収する。実は、投票、開票のプロセスには我々選挙管理委員会は一切関与しない。

 今までのシステムだと、信任投票だけだったので、生徒総会で「信任する人は拍手をお願いします」とやるだけでまぁ大体場の雰囲気も手伝ってほぼ一〇〇パーセントの信任率を誇ったのだが、いかんせん今回のような厳正さの求められる決選投票ともなると、生徒会による開票は不信感が高い。おまけに、今藤さんの策によって散々煽られに煽られまくった今の構図で生徒会による開票など行ったら、票操作だ、と一蹴されて終わってしまうだろう。

 そのため、無作為抽出で選ばれた学生にお願いして開票してもらうようなことも考えたのだが……結局は、音楽科と美術科の暇な教員が六限までの間に開票してくださることになった。

 しかし、その開票結果が今だに届かない。作業が遅れているようなのだ。たかが千枚の投票用紙の集計でそんなに手間を取ることがあるだろうか、と思わなくもないけど。

 つまり、ぼくらですらまだ開票結果と当選者を知らないのだ。不安な思いで、開票結果の到着を待つ。

「……間に合うんですか」

「わたしに訊かないでよ……。でも、投票結果さえわかれば口頭で読み上げてもいいわけだから……」

 それはそうなんだけど。まだ当選者が決まっていない状況に、控えとして座っている三人の候補者にも心なしか落ち着きがない。「おい……ほんとうに大丈夫なのか?」

 芦屋さんに詰め寄られる。「もうちょっとだけ待ってください……」そう言って、席から腰を浮かせかけた芦屋さんを着席させる。

 いい加減に間に合わないぞ、誰もがそう確信した時に、美術科の仙崎先生があわてて舞台袖に走りこんできて、USBメモリを手渡した。今藤さんは礼も言わずにそれを受け取ると、すぐにMacbookに差した。

「吉川、とりあえず候補者の三人を舞台にお出しして。それで、もう開会しちゃっていいから。てきとうにあいさつしてるうちに、こっちも準備が整うはず」

 む、むちゃな。それでも逆らわずにお三方を連れて、舞台上に出る。珍しいことに、それだけで生徒たちの私語はやんだ。

「えー……。本日は皆さんお集まりいただき、ありがとうございます。ここ二週間の激しい選挙戦は記憶に新しいと思いますが……それでは、当選者の発表と、新委員長の任命式を行いたいと思います」

 ここで、舞台袖の今藤さんに目をやる。手で、もうちょっとだけ引き延ばして、との合図が出たので、まだ何か喋らなくてはいけない。「……本選挙は実に十二年ぶりに対立候補が出馬し、信任投票ではなく……」

 いい加減なことをしゃべりながらちらちら横目で何度も見ると、ようやっと今藤さんがOKサインを出した。「……では、投票結果を発表しましょう」

 Macbookを抱えて舞台中央の演説壇に上がる今藤さん。彼女がマイクの調整をする間に、配線を済ませておく。この辺の連携はもう手慣れたものだ。

「さて。みなさんお待たせしました」

 すでに演壇に固定されているマイクを握りしめて、今藤さんがよく通る声で宣言する。ざわ、と聴衆がどよめいた。

「今回の投票は、総投票数一〇三八票、うち無効票が二七票……つまり有効投票が一〇一一票ですね」ここで、今藤さんが数分で作ったスライドショーが舞台奥の幕に映写される。「……では、さっそく、各候補者の得票数を発表します」

 彼女が手に持つレーザーポインターのボタンを押すと、スライドがひとつ進む。

   一位 二位 三位

芦屋 462  103  446

中村 111  824  76

浜野 438  84  489


 どっ、と野太い声で聴衆が湧いた。

 スクリーンに大きく映し出されたのは、芦屋さんが四六二票、浜野さんが四三八票という結果。――芦屋さんの勝ち、だ。

 無力感に目の前が真っ暗になる。数字の上でこうも明らかにされると――完敗ではないか。

 芦屋さんが歓びに思わず席から立ち上がろうとする。のを、手でさえぎって今藤さんが言った。思わず、ぞっとするような冷たい微笑を浮かべて。


「――ごらんになれば明らかなように、本投票における勝者は現副委員長の中村文彦となりました」


 全会場が凍りついた。もっとも早くに硬直から回復した浜野さんが、思わず壇上の今藤さんに詰め寄る。「どういうわけで……」

 それを無視して今藤さんは続ける。

「みなさん、この表の一番左を見て今芦屋さんの勝利を確信なされたかと思いますが――。よく思い出していただきたいのです。平成二十五年度海頴高校生徒会選挙実施細則を」

 あっけにとられた聴衆をおいてけぼりに、今藤さんはレーザーポインターのボタンを一つ押す。実施細則の第三条『投票方法について』第四条『選考方法について』が大きく映し出された。

「第三条、投票方法について。一。有権者たる生徒は第一候補から第三候補までその選好順序に基づいて順位付けをし、それに基づき、数字の番号を投票用紙に記載されている、既定のマス目に記すこととする。二。その際、連続しない番号を用いてもよいが、同番号、または空白をひとつでも用いたものはすべて無効票とする」

 ……わざと分りづらく書いてるんじゃないか、というくらいの悪文だが、つまりは三人の候補者に一から三位までのランキングを作れ、そして同順二位や、単独一位を認めない、ということである。ぼくがそのために作った投票用紙だ。

 生徒が納得できているか、理解できているかに関わらず強引に今藤さんは議論を進める。

「第四条、選考方法。当選挙においての勝者を以下のようにさだめることとする。一。W候補よりV候補を好む投票者の数をd[V, W]で表すとする。d[V, W] > d[W, V]であるとき、VはWに対して〝良い〟とみなす。二、三候補者間で総当たりの一騎打ちを行い、もっとも良いとみなされる回数の多いもの――分りやすく言えば、任意のXについてd[V, X] > d[X, V]が成り立つものをこの投票全体の勝者とする」

 事ここに至って、生徒たちは完全に理解を放棄した。

「そして、循環が起こった場合にはシュルツ方式を取ることとする。これは、今回は関係ないから置いておきます」

 さて、とここで一息つく今藤さん。「今の説明じゃさすがに分らないでしょうから、今回の投票結果を用いて具体的に計算してみましょう」

 さすがにスライドでは解説を作りきれなかったのだろう、マイクを持ってスクリーンの横まで行き、レーザーポインタを使って解説を始める今藤さん。

「……そもそも、この表が誤解を招く原因だったかもしれませんね。申し訳ありませんが、われわれとしてもつい先ほど開票に協力してくださった教員の方からデータをそのまま受け取っただけなので。

 さて、必要なのは各候補が何位で何表得票したか、ということを表すこの表のようなものではありませんね。絶対順位よりも、選好順序が重要視されるのです。……便宜上、芦屋さんをA、中村さんをN、浜野さんをHとおいて話を進めていきましょう。

 A、N、Hの三つを並び替える選好順序としては……つまり、投票者の考えうるすべての投票パターンということですが……3! = 6通りありますね。ANH、AHN、NAH、NHA、HAN、HNAの六通り。もちろん、好まれている順です。さて、これらの六通りの数は、上記の表からもちろん求められますね。変数が六つに方程式が九つ、猿でも解けるような方程式です。えーっと……吉川、それぞれのパターンで何票づつ?」

 どうせ訊かれるだろうと思っていたので、先に暗算しておいた。

「ANH、AHN、NAH、NHA、HAN、HNAの順に、四二一、四一、六八、四三、三十五、四〇三票です」

 今藤さんは一応ちゃちゃっと検算する。「……正しいようですね。うちの吉川は、暗算が得意なんです。みなさんも自由に検算なさっていただいてけっこうです」

 実際に検算するようなそぶりを見せる生徒はほとんどいなかったが、それでも一分ほど待った。この一分間の間に、やっと理解の追い付いてきた生徒が多いみたいで、なるほど、と手を打っている子も結構いる。

「……よろしいでしょうか? では、一騎打ちの計算に移って行きましょう。考えられる一騎打ちの組は、3C2 = 3 通り。まずは、A対Nを考えてみましょう。AがNよりも好まれているパターンは、この中だと、ANH、AHN、HANの三種類。この三種類のパターンの得票数の合計は?」

「四二一足す四一足す三五で四九七」

「そう……有効票数が一〇一一でしたから、ここから四九八を引けば、五一四。五一四と四九八では前者の方が大きいですから、d[N, A] > d[A, N]が成り立ちました。AとNでは、Nの方が〝良い〟候補者です」

 同じように、と今度は過程を省いて告げる今藤さん。「N対Hでは、五三二対四七九で、Nの方が〝良い〟。……もう計算する必要はないんですが、一応やっておきましょう。H対Aでは、四八一対五三〇で、Aの方が〝良い〟」

 ここで、ようやく全校生徒にも、三人の候補者にも、今藤さんの意図が伝わったようだ。

「……わかりますか? N……つまり、中村さんは、ほかの二人の候補者のどちらよりも、投票者に好かれているのです」

 あまりに直観に反する――しかし、疑いようのない事実がそこにはあった。中村さんは他の二人の候補者より好まれている……いや、この表現は正確ではない。他の二人の候補者に比べて、

「こうした投票方法のことをコンドルセ方式といい、コンドルセ方式において選抜される彼のようなことを、コンドルセ勝者といいます」

 この数字の上でのマジックに全投票者が首を捻った。が、しばらく考えるうちに、その妥当性に……そして、あまりに巧妙な罠に気付かされたのだ。

「き、詭弁だ。そんなものはパラドックスじゃないか」

 遅まきながら理解した芦屋さんが声を上げる。マイクを使ってもいないのに体育館全体に響き渡るような声で。

「いえ、これが民主主義です。……それに、この選挙方式については学校からの認可も受け、その上できちんとした公示がなされたはずです。……まあ、いいでしょう。時間も余っていますし、解説いたします。

 さて、一名のみの当選者を選出する単記非移譲式投票を用いた単純多数決には、そもそも欠点が多いのです」

 あ、これは、とまた複雑になり過ぎた解説を恥じ入る今藤さん。

「……つまり、投票者はひとりの候補者の名前を投票用紙に書き、そしてその票は一度投票されたら動かすことが出来ず、もっとも得票数の多かったひとりが当選するという、いちばんふつうの投票様式のことですね。

 欠点といいますのは、なによりもまず挙げられるのが、死票の多さ。今回の選挙でたとえば単純多数決を取った場合はむろん芦屋さんが当選したでしょう。しかし、中村さんや浜野さんを一位に推した、残りの五四九人は? 彼らの投票は、無駄になってしまいます。

 たしかに、国会議員などを選ぶ場合には多数の選挙区があるために、こういった問題点というのは全国的な観点からすれば薄れていきます……が、今回の生徒会長選挙というのは、なんといっても、我々にとって唯一の争点なわけで、ということは、むしろ大統領選に近いものがあるといえましょう」

 水を得た魚のように悠々と語る今藤さん。身振り手振りを交えてなされる会話の端々で揺れる三つ編みをぼくはぼーっと眺める。

「今回のような、芦屋さんと浜野さんのような水と油の候補がいる選挙で、単純多数決を取った場合、どちらが勝利しようとも、残ったほうの反発感情は根強いものとなるでしょう。ですからこの投票で言えば、たとえ自らの選んだ候補が当選せずとも、ことには票が役立った、と言えるわけです」

 つまり、芦屋さんを一位、中村さんを二位、浜野さんを三位で投票した人が居たとしたら……芦屋さんが当選せずとも、浜野さんが当選することを防げた、という意味で意味のある投票だった、ということになるのだ。

 芦屋さんは、その端正な顔をゆがめて舌打ちをする。完全に策にはめられたことをようやく悟ったようだ。

 話し疲れちゃった。マイクをスタンドに戻して、ぼくの耳元で囁く。

「……そろそろ、主役の中村さんにマイクを代りましょう」

 ぼくがそう言って、彼を演説壇に呼び寄せる。さすがにこの異様な空気の元でマイクを握るのは嫌らしい。ぼくも彼の立場だったら嫌がったことだろう。

「えーっと……。自分でも、勝機のない戦いだと思っていたばかりに、いまも実感がない、というのが正直なところです」

 今藤さんが口をゆがめる。当選後の初スピーチなんだから、もっと気の利いたことをいえ、と言いたいのだろう。

「ですが、今回の選挙は皆さんにとっても、そしてなにより我々にとっていい経験だったと思います。現状の生徒会の問題点が洗い出されたのがまずひとつ、そして、普段から我々の暮らすこの海頴を良くしていかないといけない、という意識がふたつ目。これまでの生徒会ももちろんそういった意識を持ってきたつもりではありました。が、それが不十分であることを知り……また、皆さんの方からも積極的に我々の方に発信していくことで、まだまだこの学校をよりよい場所にしていくことができることをはっきりと知ることが出来たのが一番の収穫であったように思えます」

 だがしかし意外としっかりしたスピーチをする中村さん。芦屋派の運動会系男子たちも、浜野派の文化系部員たちも、この最大多数にとっての次善であるところの中村さんを受け入れる準備ができはじめたようだ。

「これからの生徒会はこの選挙を受けて生まれ変わります。生徒会活動に対する評価機関というのは確かに必要でしょう。進学校という名前にかまけて、学校生活の楽しみが薄れているのも芦屋さんのご指摘通り。しかし、それらは我々生徒会が主導して改革していくのではありません。みなさまの意見を、我々がまとめるかたちで行われなくてはならないのです」

 深々とお辞儀をする中村さんに、最初は控えめに、そして次第に大きな拍手が送られた。


「あー、あー、あー!」

 片づけを終えて、生徒会室に帰るなり、大きな声でわめく今藤さん。勝利を祝おうと待ち構えていた生徒会の役員たちがぎょっとする。「すいません、このひと、緊張が一気にほどけるとこうなっちゃうんです」自分で弁明を入れながらも、そんなやつがいるか、という気分になってくる。

 今藤さんの肩を抱えて奥のパーティションに入り、彼女を席に座らせる。「お疲れ様でした……。ほら、全部終わったんですよ」

「うう……死ぬかと思った……」

「死ぬわけないじゃないですか、やったんですよ、勝ったんですよ」

 そういうと、今藤さんは机の横に立つぼくを見上げる。げ、ちょっと泣いてないかこの人。「ほんとに? ほんとに勝った?」

「自分で宣言したんじゃないですか……。めちゃくちゃかっこよかったですよあのときの今藤さん」

 とにかく褒め倒すと、次第に今藤さんは落ち着いてくる。「そっか……よかった、うん……終わった……」

 それにしても、とぼくはこの二週間の今藤さんの悪魔的手腕を思い出す。

 ふたりの人気候補と争い、その両方に勝つための方法。コンドルセ方式でも、たいていは単純多数決でも勝つような候補者が勝利することができるのだが、今回のような、二人の超人気候補と、ひとりの泡沫候補という形では、その二人を真っ向から対立させることによって、なぜか勝ちを収めることができる。

「どうやってこんな戦略を思いついたんですか?」

 うえー、と気の抜けた返答をよこしてから、今藤さんは体を起こす。「あの二人の候補が出てすぐに、このままじゃ敗けるって確信したの。……上から順に、芦屋、浜野、飛んで中村、って具合にね」

「だから、まずは生徒全員に生徒会選挙をしつこいほどに周知して、学校全体の一大トピックに仕立て上げる。そこからあとは、二人の意見を対立させ、もとからあったふたりのファン層をそのまま選挙派閥に改造して、票が真逆の方向を向くようにする」

 今藤さんが芦屋さんと浜野さんの両方に肩入れしているように見えたのは、そういうわけだったのだ。

 今回の投票で重要だったのは、とにかく中村さんを二位に選んでくれる投票者を量産することだった。整理していただければわかると思うのだが、中村さんを二位に選んでいる投票者と、中村さんを一位に選んでいる投票者の合計数が有効票の半数を超えれば中村さんの勝ちが決まるのだ。先ほどの例でいえば、ANH、NAH、NHAの合計と、HNA、NAH、NHAの合計の二つともが五〇六票を超えていればよい。

 ふつうならば、この数値を達成するために、中村さんが一位であるような投票パターンを狙っていくのに対し、今藤さんが狙ったのは、芦屋さん、浜野さんが一位であるパターンで五〇六票中のほとんどを稼ぐ、というやり方だったのだ。

 もちろん、とんでもないリスクがある。芦屋さんと浜野さんのパワーバランスが崩れた場合にはすぐこの前提は崩れてしまうし、また、中村さんを三位にする投票者――これはつまり、芦屋支持でありながら浜野さんを二位に選ぶとか、その逆とか――が増えても、中村さんはすぐに最下位となっていただろう。

「一番怖いのは、てきとうな投票者が芦屋くんと浜野さんの両方の主張なんかどうでもいいと思って、なんかかっこいいから、かわいいから、って理由でこの二人を一、二位にして投票することだった。だから、彼らには申し訳ないんだけど……ほとんど喧嘩してもらうような形で、無理やりにでも対立構造を生み出さなきゃいけなかったの」

 ぐすん、鼻を鳴らして「申し訳ないと思ってはいるのよ」と言わずもがなな弁明を挟むところがかえって嘘くさい。

「たしかに、対立を煽っていく方式っていうのは、単純多数決方式の選挙では有効なことも多いの。……でも、コンドルセ方式の選挙では完全に愚策ね。コンドルセ方式では、もっとも大衆におもねった人間が勝つ」

 中村さんのキレのない演説はとにかく敵を作らないための、次善として選んでもらうための策だったのだ。

「でも、コンドルセ方式であることを隠してたのはあまりアンフェアじゃなかったですね」

「一応、校内中に掲示はしたじゃない。報頴でも取り扱ってもらったし」

 戦うときはまずルールの把握から、基本のキね。

「でも、それを言ったらこっちはルールを作れる立場にあったんだから、そもそもこちらに相当分がある勝負だったでしょう」

 偉そうにつぶやく今藤さんに冷や水を浴びせたくて、そういえど、今藤さんは気にした様子もない。

「どの道、この程度の罠に気づけないような人間が生徒会でやってけるわけないでしょ。彼らは勝ちたかったら、無邪気な理想論だとか、感情的な復讐心だとかを捨てて、無様なまでに民衆に媚びるしかなかったの」

 そうやって媚びるための機会はいっぱい与えたはずよ。選挙について……というか、人を罠にはめるという自分の得意分野の話になって、元気を取り戻した今藤さんがクールに言い捨てる。

「ところで……この選挙方式だと、矛盾が起きることありますよね」

 お、と今藤さんが目を見開く。「気付いたんだ、すごいじゃん」

 どういうことかというと、たとえば一番簡略化した例で言うと、三人の男がうどん、そば、ラーメンでお昼を迷っていたとする。

 ここで、ある男はうどん、そば、ラーメンの順で、もう一人の男はそば、ラーメン、うどんの順で、残った一人がラーメン、そば、うどんの順で希望したとして、コンドルセ投票を行うと……やってみてほしい。循環してしまって、勝者が定まらないはずだ。

「その場合はさっきも言ったように、シュルツ形式という方法で勝者を決めるの。……相当煩雑な手順になるから詳しくは言わないけども。単純に言って、循環したら、ある候補者からほかの候補者への最強の〝道〟p[V, W]というものを定義して、任意のXについてp[V, X] ≧ p[X, V]が成り立つ候補を勝者とする、それだけのこと」

 え? 全くついていけなくなった。

「あの、何を言ってるかさっぱりわからないんですが……」

「わたしも最初にこの方式のことを聞いたときは理解できなかったわ。まあ、なんにせよ、勝者は一意に定まる」

 ふうん、そうなのか……。

「でも、これでわかったでしょ? きみがやった、姪美を脅しつけるようなやり方……。ある一人を犠牲にして、自分だけ利益を得ようとしても、たいていは上手くいかないものなの。世の中はパレート効率的じゃないからね」

 はい……反省してます。そういえば、あとで浜野さんには謝りに行かないと……。

「他者のためになることをすることこそが、直接自分の利益になる。そういうことを理解できるのがやっぱり人間として賢い生き方、ってもんでしょ」

 こちらを試すように首を傾けて見つめてくる今藤さんの言葉は、そしていつだって正しかった。

「人間の集団っていうのはね、常にその集団としての意思決定に問題を抱えるものなの。アローの不可能性定理……って知ってる?」

 いや、当然知らないですけど。

「えーっと……簡単に言っちゃうと、三つ以上の候補があるとき、二人以上の人間からなる社会は、どんな方法を使っても万人が満足する結果を、必ず導き出すことができるとは限らない、ってことなの」

 ぼくはその意味をよく考える……って、それじゃあ「投票に基づく民主主義なんてなりたたない、ってことじゃないですか」

 今藤さんは何度も首を縦に振った。

「その通り、その通りなのよ。たとえば、シュルツ方式なんかはさっきも言ったようにかなり民主的に見えるんだけど、実は、一貫性っていう条件を満たしていないの」

 一貫性の説明は省くけど。そういいながら、めちゃくちゃ説明したがっている風なので、あとで思う存分説明させてあげようと思う。

「だから、結局どうやっても誰かに不満は残る……そう割り切らないと、選挙なんてやってられないのよ。あんまり、考え過ぎないで、自分の得になることをやるしかないわね」

 ところで。そう言って今藤さんはまた三つ編みをいじりはじめた。もうぼくは彼女の話を半分も聴いていない。

「……この絶望的な定理については、あの不思議の国のアリスの作者、ルイス・キャロルも気づいていたって言うわ」

 今藤さんは肩をすくめる。

「そんなこと、言われるまでもなくみんな知ってるに決まってるのよね。だって、〝三つ以上の候補〟があるとき、〝二人以上の人間〟からなる社会は誰からも不満の出ないような集団意思決定をすることができない、って……。要は、水族館、動物園、映画館の三つの選択肢、それに男と女ってわけでしょ?」

 そりゃ、絶対にどっちかからは不満が出るでしょ。と嘆息する今藤さん。でも案の定その横顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいて。だからぼくは何でもないふうを装ってこう言ったのだ。

「ところで瑠依さん、不満が出るのは承知の上で」

「なあに」

「集団意思決定してみません?」

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コンドルは飛んで行く 田村らさ @Tamula_Rasa

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