シカゴにピアノの調律師は何人いるか?

 上々の首尾で新聞部の協力を取り付けたぼくは、足取りも軽く委員会室に戻ろうとした。やっと今藤さんの役に立てているような気がしてきたのだ。今までは、彼女の後ろについていって雑用をこなすだけだったから。

 今でもお使いをこなしているだけなのは確かなのだが、それでも一人で交渉ごとを任されたことはうれしかった。単純なのである。

 でも、新聞部の部室が存在する部室棟から生徒会室のある校舎に戻る渡り廊下で、たまたま、ふと下を見下ろしたときだった。……あれは、芦屋さんと今藤さん? ふたりが、焼却炉のかげで話し込んでいる。

 そっと廊下の窓を開けて、階下の声を盗み聞きしようとする。「……、だから、今回の選挙ではほとんど……と浜野さんの一騎打ちと言ってもいいでしょう……そこで……なのは、浜野さんの政策等に過度に引きずられない……」

 聞いたときには、一体何を話してるのか分らなかった。でも、よくその内容を咀嚼すれば……風に運ばれてくる細切れの声は、明らかに今藤さんによる芦屋さんへのアドヴァイス、ぼくにはそう聞こえた。

「浜野さんは、戦略がそもそも現状打破の一点で……得票数を獲得するために、あなたのその、生徒にうけるような語法にすりよってくるかもしれない、けど、選挙にはクローニングという戦略投票の手段があって……そうすることで、あなたの票の一部は浜野さんに流れる。もちろん、中村くんは対立候補足り得ないけど……今現在のあなたの支持者層である、体育会系――それも男子――からの票を浮動させないためには……」

 何かに気付いたかのように言葉を途中で切り上げる今藤さん。ぼくは、気付かれたかと思って、思わず窓の下に体を隠してしまう。

 待てよ、なんでぼくが隠れてるんだ? 隠れるべきなのは、今藤さんの方じゃないのか?

 頭が芯から冷えていくような感じがした。「ちょっと用事」って、これのことだったの?

 また体を起こして、ふたりのそのあとを確認する勇気がでずに、ぼくはそのまま渡り廊下の壁に背をもたれると、すぐに立ち上がって、その場から去った。

 いつもの今藤さんにも負けず劣らずの早歩きで生徒会室に帰りながら、ぼくの頭の中は今までにないほど多くの物事をいっぺんに考えていた。……というよりも、何度も同じところで思考が堂々めぐりしていただけかもしれないが。

 ぼくらは、一緒になって中村さんの選挙活動を応援してたはずじゃないのか? でも、だったら彼女がさっき焼却炉の陰で芦屋さんに語っていた内容は? あれは、中村さんに与える類のアドヴァイスと似て――というよりも、それよりもっと詳細ですら――いて、つまり、今藤さんは芦屋さんに当選してほしいってこと?

 じゃあ、ぼくといっしょに放送部に行ったり、新聞部に行ったりしたのは? 校門の閉まるギリギリまで残って書類を書いたり印刷したり、そのあともマクドナルドでコーヒーだけをすすりながら普段授業で使ってるノートにそのままアイディアを書き殴ったのは?

 もちろん彼女が裏切った――実際にこの言葉を使うと抵抗感があるけど――かどうかはまだ分らないんだけど……。

 いつの間にか生徒会室奥の即席選挙管理委員会ブースにたどり着いていて、通り過ぎるときにあいさつすらしなかったのが不自然だったのか、総務の子がちょっとこちらのほうを見てくる。それで我に返ったぼくは、へらへらした笑みを浮かべると、パソコンを立ち上げて、作業をするふりをした。首を捻りながらも席に戻って、放っておいてくれた。

 意味のない文字列を打ち込みながら内心頭を抱えていると、今藤さんの姿がふいに頭上に現れた。自然に挨拶するべきなのか、それともさっきの会話の意味について訊くべきか、問いただすべきか、迷ってるうちに不自然な硬直を今藤さんに見抜かれたらしい。

「……吉川、どうしたの?」

 ここで、怖気づかないで訊いていればよかったのかもしれない。けど、往々にしてあることで、言葉は喉の奥で引っ掛かって取れなかった。「……や、なんでもないです」

 ふーん、そう? と少し疑わしげながらも、今藤さんは大人しく席に着く。

 少し乱れた動悸を抑えながら、Macbookの後ろに隠れた今藤さんの顔色をうかがおうとする。その表情にはやはり一抹の後ろめたさも感じられなくて、さっきの情景はぼくの見間違いだったんじゃないか……それとも、全く見当はずれなことを考えてるんだけなんじゃないか、みたいに思えてくる。

 そうだ、ひょっとしたら、単に選挙システムの解説をするついでにちょっとアドヴァイスを求められただけかもしれない。せっかく決めたばかりのルールだ、真っ先に候補者に教えてあげるのが義務だと思ったのかも……。自分でも不自然だとすぐにわかるような推論は、でもぼくにとって心地よいものだった。

「うーん、よく考えたら、選挙細則も決めたからもう今日は仕事ないし、いっしょに帰る? 明後日からは新聞部のほうがインタビュー記事とか出してくるし対応が忙しくなるけど」

「……そうしますか。あ、新聞部のほうで、討論の記事も作ってくれるそうです」

「ほんと? よかった。ありがとね」

 裏表なくすなおに感謝されると、居心地が悪くなる。でも穏やかな笑みはやっぱり凄味を感じさせて、ひょっとして、討論の内容すらこのひとは左右する気なんじゃないだろうか、なんてね……。

 いつものようにさっさと荷物をまとめてすでに鞄を肩からかけている今藤さんを、ぼくは慌てて追った。


 端的に言って、水曜日に出た報頴新聞は過去最高の部数が出たらしい。

 ぼくも、朝に校門のところで少ない部員を総動員して選挙増大号を配る新聞部部員から一部を受け取って、そのままの足で委員会室に向かった。

 行儀悪いし危ないと知ってるけども、歩きながら記事に目を通す。表裏二ページではあるものの、その内容は薄くないようだ。

 芦屋さんの大きく撮られた写真が大きく海頴新聞のロゴの横に置かれ、その横から彼の選挙に対する意気込み、マニフェストといったものがひとしきり語られる。

 体育会系の部活動に対する学校側からの支援を増やす、といった基本の方針は変わっておらず、ちょっとした文化系サークルへのフォローが増えたくらい。財源については考えがないのか、口を濁しているのか……。海頴高校は名前のかっこよさの割に公立校なので、ご多分にもれず常に財政難に悩まされている。そのため、部活動に割けるお金というのは厳密に決まっていて、生徒会活動をしているとだいたいどこまでかっていうのは手触りとしてわかるんだけど、その辺の現実とのすり合わせはやっぱりつつきどころになりそうだ。ただ、もちろん生徒会が争う相手は学校だけとは限らなくて、生徒会主導で全体育会系サークルを指揮すれば保護者の側に圧力をかけられるんだろうけど……今まで存在しなかった、〝部費〟を導入するつもりなのかもしれない。

 ほかにも、文化祭一日延長、後夜祭とキャンプファイヤー、そこでのフォークダンスの実施、他校との交流会など、思春期の子供たちをくすぐるような政策が続く。

 芦屋さんの爽やかな笑みに見つめられながら表面を読み終わり、裏返したところで生徒会室に着いていたようだ。最近、毎日のように通っているせいかほとんど無意識のうちにたどり着けるようになった。

「あ、吉川、おはよう。もう読んだ?」

 当然のように先に来ている今藤さん。顔の横でひらひらと報頴新聞を振っている。いくら朝早かろうとしっかりセットされている三つ編みに、毎日飽きずに感動してしまってちょっとの間目が吸い寄せられてしまうし、そのためぼくの朝の挨拶はほとんどの場合、今藤さんではなく彼女の三つ編みに対してなされている。

「おはようございます。……先の演説とあまり変わりのない内容だとは思いますけど」

 と言って、先ほど裏返した面に目を落とすと、「ええーっ!?」

「ひとりで大騒ぎしてなによ……。そう、まさか裏面ほとんど使って浜野さんへの論陣を敷くとはね……」

 そこには、浜野さんが立会演説時に述べた内容に対する全面的な批判が載せられていた。曰く、批難のための批難であり、当選後のビジョンが明確ではない。

 ある意味強権的な――全く活かせていないのだが――現在の生徒会システムを変えられること、また、その見直しを迫るような風潮が出来てしまうことは、アクティブな動きを迫られるであろう芦屋さんの生徒会長としての働きに邪魔となるだろうから、対立するのも当然なのだが……。

 しかし、ここまでの対立は、今藤さんによって煽られたものなのではないか? おとといに聞いてしまった会話によれば、票田を芦屋さんと浜野さんが二分しているなら、むしろ対立候補を突き放すことで芦屋さんが最初から持っている支持者数の単純なアドバンテージを活かせる、とのことだったが。

 ここまで対立姿勢を取られた以上、浜野さんもどう論駁していくのか……今日のお昼にインタビューを受けるとのことだが、もちろん今頃これを手にして……怒るんだろうか、それとも闘志を燃やすんだろうか。

「さてさて、これがどう働くかな~」

 しかし、これだけの事態になぜか嬉しそうな今藤さん。この煽り立て方はもはや新聞部の手によるものというより、芦屋さんの素の発言によるものだし、否応なく全校生徒が選挙に関心を持つようになるだろうけど……。この記事の中では中村さんのことが、ほとんど触れられていない。もともと芦屋さんのインタビュー号なのだから当然なのだが、この号の中で浜野さんが芦屋さんとほとんど変わらない存在感を放っているのに対して、中村さんは名前すら出ていない。

「そうね、そこは心配なんだけど……」

 と、いいながら、今藤さんは嬉々として大きなメモ用紙を持ってくる。手招きしながら、「吉川、こっちおいで」

「なんですか?」

 四隅にサンリオのキャラクタが描かれた可愛らしいメモ帳をフリーハンドでマス目に区切って行く今藤さん。メモを覗き込むと、候補者の名前と、一、二、三と順位が書かれている。

「ここらでちょっと、今の各候補者の支持者数をフェルミ推定してみようじゃないの」

 不思議な言葉に首を捻ると、朝シャン派なんだろうか、今藤さんの髪から得も言われぬ匂いがして、ぼくは気づかれない程度に飛びずさったんだけど、ところでフェルミ推定ってなに?

 勉強が足らん、と指を振りながら、今藤さんは新しいメモ用紙にどんどん数字を書きつけていく。

「こんなの聞いたことない? 『シカゴにピアノの調律師は何人いるか?』」

 へ? シカゴに? 調律師? 突拍子もない単語の取り合わせに、たじろぐ。

「いや……知らないですけど」

「知らない、じゃなくて、それを推定するのがフェルミ推定のやり方なの」

 メモ帳に数値を書き付けながら、ぶつぶつと「シカゴの人口を三百万とする……一世帯あたり平均して三人の人間が住んでいるとする……ある世帯は十パーセントの確率でピアノを所有しているとする……ピアノは一年に一度の調律を必要とするとする……調律師は一日に三台のピアノを調律できるとする……調律師は年間二五〇日働くとする……さて」

 メモ帳から顔をあげて、ぼくの方を見る。「やり方はわかった?」

「なるほど、つまり、蓋然性の高い仮定を積み重ねてそこからもっともらしい数値を導き出すやり方のことですか……答えは一三〇人?」

「そういうこと。オーダーだけ合ってればいい、くらいの考え方だから、今回みたいな微妙な票数の違いに左右されるようなものの予想には役に立たないかもしれないけど」

 とりあえず、と今藤さん。あらかじめ用意しておいた資料をもとに、数字をどんどん書いていく。

「海頴高校の全校生徒は一〇六八人。そのうち男子生徒が五四〇人、女子生徒が五二八人。体育会系の部活動に入っている子は五七三人、文化系部活動に入ってる子は五四五人。帰宅部の数はわからないわね……。まあ、部活動に入ってる子のうち、体育会系と文化系の両方を掛け持ちしてる子……この場合は共通部分ね、それは半分づつ振り分けることにしましょう」

 そうすると、といって筆算を始める今藤さん。先回りして答えを出してしまう。

「体育会系が五四八、文化系が五二〇ですね」

「あら。暗算が得意なこと」

 (573+545-1068)/2 をそれぞれから引いただけだ。ぼくは肩をすくめる。

「じゃあ、それで……あ、そうだ、体育会系、文化系のそれぞれの男女比率を求めないといけないのね。うーん……誤差がかなり出そうだけど、それぞれ六対四、四対六としましょうか」

 かなりいい加減だけど、スピードが大事。とかなんとかいいながらどんどん推定の段階が先に進んでいく。

「それと、先に我らが中村くんの得票数を概算しましょうか。まず、各学年の生徒委員の数は?」

「一年生で二十四人、二年生で十六人、三年生が十七人ですね。……あんまり熱心に来てないひともいますけど」

「まぁ、その人たちからはさすがに票が得られるとしましょう。生徒委員会内で根回しするくらいは許されるだろうし。これでまずは五十七人。……ほかに、絶対彼に投票してくれそうな人とか知らない?」

 ぼくは首を振る。「……残念ながら。どうでしょう、彼の友人もいるでしょうし、十人くらいはプラスしてもいいんじゃないですかね……」

「うーん、……いいか。じゃあ、六十七。それで、肝心の芦屋くんと姪美の得票数だけど……」

 今藤さんがここで眉間を抑える。

「どうしましょうかね……。この選挙が体育会系対文化系、の構図になりつつあるのはわかるよね?」

 ええ、そりゃあまぁ。黙ってうなずく。

「よし、体育会系は、野球部をはじめとして統率力が高いでしょうから、八割の可能性で芦屋君を支持、文化系はそこまででもないとして、七割五分が姪美を支持する、とする。……そうすると、今何票づつ?」

「先ほどの、生徒会メンバー……全員文化系と仮定しますけど、それを抜いて計算すると芦屋さんが四三八、浜野さんが三四〇人です」

「じゃあ、残りの意思が固まってない浮動票は体育会系が一一〇、文化系で一一三人。この人たちは、つまり誰に票を投ずるか決めかねてる人たちね。体育会系男子、女子、文化系男子、女子の順に、六六、四四、四五、六八」

「あの、そろそろいい加減さが増してきた気がするんですが……」

「いいのいいの、どうせこんなのお遊びなんだから……。この子たちは、そうね……確かにもう誤差の範囲だから、三分の一で各候補に投票するとしましょう。ほんとうは、男の子と女の子で芦屋くんと姪美のどっちを好むかとか考えたかったけど。……そういや、男の子からみて、やっぱり姪美ってかわいいの?」

 突然の毛色の違う質問に思わずのけぞってしまう。「え、いや、その、雑誌とかに出られそうだな……とは思いますけど」

 この答えはあまりお気に召さないようだ。今藤さんは自分の三つ編みを人差し指でくるくるともてあそぶ。

「そうじゃなくて、主観的に、ってことよ。恋人にしたいタイプの顔? それとも遠くから見てたいタイプの顔?」

 ううう。選挙関係なくないか。姪美さまのお顔……? ちょっと明るめのセミショートに、きれいな卵形の輪郭、しみひとつない肌、ちょっとだけかしいだ首。

「……遠くから見てたいタイプですけど、ちょっと隙のあるところがひょっとして、って思わせるようなところがあって、そこが人気なんじゃないですか」

 思わず真剣に考えてしまった。よくわからないけど、この答えもあまりお気に召さない気がする。「ふう……ん。へぇ、そういう……なるほど……」

「あの、今のはあくまで周囲の印象に対するぼくの印象であって」

「いえ、大丈夫……つまりはケインズの美人投票ってことよね……ナッシュ均衡の中には一見常識に反するようなものも当然……」

 ぶつぶつと意味のわからない独り言を言うようになった今藤さんの目の前で手を振る。「それで、三分の一でしたよね? そうすると、最終的に芦屋さんが五一二、浜野さんが四一四、中村さんが一四二票獲得することになります。合計一〇六八人、ぴったりです」

 目を覚ますように言ってやると、今藤さんも手計算で検算する。うなずいているので、あっているのだろう。

 って、全然だめじゃん! やっぱり、芦屋さんと浜野さんに票を完全に持っていかれてる。

「うーん、やっぱりまぁそんなもんか……」

 狼狽はすっかり治まって一転冷静に、唇をちょっととがらせながらちょっときびしいかも、と今藤さん。たしかに、予想していた各候補者の得票数っていうのはこのくらいだ。もうちょっとだけ、芦屋さんと浜野さんは均衡するんじゃないか、とも思うが。体育会系のバカ男子たちはころっと見た目に騙される可能性がある。

「でもこれ、ちょっときびしいどころじゃないんじゃ……あ」

 ここで始業の鐘が鳴った。どうやら、予鈴にも気づかずこんな計算をしていたらしい。慌ただしくそれぞれのホームルーム教室に帰る中で、彼女がこの悲惨な状況のどこから勝機を見出しているのかは訊きだせなかった。


 その日のお昼、さっそく放送で芦屋さんのインタビュー記事をもとにした校内放送が流れた。それを訊いてざわつく教室内。朝のうちに報頴新聞を受け取っていた生徒がそれを机に出し、持っていない生徒がその周りを囲む、そんな情景が見られた。

「芦屋先輩、姪美さまを敵に回したりしたら殺されるんじゃないのか」

「いや、芦屋先輩も信者がいっぱいいるから大丈夫じゃない?」

「姪美さま、最近ちょっとピリピリしすぎじゃない?」

「あのひと、前から危ないとは思ってたけどついに、って感じよねー」

「でも芦屋さんもなあ。言ってることは立派だけど……」

「あの人、実際副主将時代からかなりやり手だったみたいだし、生徒会長になったらそれはそれですごいのかも?」

「それを言ったら姪美さまも吹奏楽部は実質あの人が運営してるって話だけど」

 二代前の総理大臣の名前すら言えないような現代っ子のクラスメイト達が口かまびすしく校内政治について語ってるところを見て、今藤さんの策は成功してるのかな、とちょっと満足する。……やっぱり、ちょっと芦屋さんの方が優勢なのかな。

 ぼくが生徒会に入ってることを誰かに思い出されたら、誰かに質問されて面倒だな。そう思って、ぼくは新聞部のほうに行くことにした。今、浜野さんのインタビューをやっているはずである。今から行けばちょうど終わるころに着く? かな? 適当な算段である。

 案の定、ぼくが新聞部室(そういえば、彼らは部室のことを社室と呼称しているらしい)にたどり着いたとき、扉を開けて浜野さんが出てきた。

「……。確か、選管の」

 はい、お世話になっておりますと如才のない言葉が勝手に口を突いて出てくる。ぼくは有名人を前に緊張するタイプではないが、自然に振る舞える性質でもないのだ。浜野さんに対して奇妙な角度で立ち尽くしてしまったぼくをくすっと笑って、浜野さんの方から真正面に来てくださった。今朝、生意気にも「ひょっとして、って思わせるようなところがあって」なんて言ったのが後悔されるような、花のごときかんばせに目を覆いたくなる。

「こちらこそお世話になってます。ところで、もしかして、あなたたち芦屋くんに入れ知恵でもしたの?」

 飛びあがらなかったのを褒めてほしい。「い、いや、私はそういった事実を把握してはおりませんが」

 ふうん? と浜野さん。突然、挨拶とほとんど変わらない口調で訊いてくるもんだから、どの程度確信をもって質問されているのか……。「じゃあ、あれだけの反論は、芦屋くんが自分で用意したってことなのかな。それならまあ、いいんだけど」

 たぶん今藤さんの入れ知恵です、とも言えず、曖昧に笑う。「……それと、おたくの瑠依だけど、少なくともわたしにはアドヴァイスをしてくれたわ」

「はぁ?」

 あくまで何でもないような顔でとんでもないことを言う浜野さんに、礼儀も忘れて大声をあげてしまった。今藤さんが、浜野さんにアドヴァイス?

「こうなったら、もう妥協は許されない……、芦屋くんと真っ向から対立する姿勢を取らないと、自らの票田すら怪しくなる、そんな内容の方針と、具体的な芦屋くんの論の、ウィークポイントを、ね」

 とつとつと語ったあと、もしかして、きみは聞いてないの? と浜野さん。

「ええ、ぼくは……その、今初めて知りました。……同じクラスだから、アドヴァイスしてくれたんであって、選管とは、関係ないのかも、しれませんしね」

 口に出しながらまとまった考えをそのまま伝える。「そういうことかしらね。これであなたも把握してるようだったら選管からの、なにかの罠かとも思ったんだけど。そうでもないのかしら……?」

 でも、今更、瑠依がわたしに味方するはずあるかしら? と小声で付け足す。

「まあ、でも」

 浜野さんは両手を顔の前で合わせて宣言する。「なんにせよ、芦屋くんにも、中村くんにも、今の生徒会にも負けるつもりはないから。絶対に、ね」

 その突然の気迫に圧倒されていると、さすがに浜野さんも気まずくなったのか、「わたしばっかり好き勝手に話しちゃってごめんね、どうしちゃったんだろ」と言いながら、手を振り振り去っていってしまわれた。

 ……いや、しかし、そんなことよりも、今藤さんが浜野さんにもアドヴァイスを? どういうわけだ?

 そのとき、ガチャとドアの開く音がして、新聞部室から荒木さんが出てきた。「……なんだか、話し込んでたみたいだけど」

 その好奇心に輝いた目を見て疑いはしたものの、盗み聞きしてたんですか、とは聞けず。「ええ、ちょっとだけ」

「インタビューでちょっと気が立ってたみたいだからね……。誰かと話してスッキリしたかったのかも」

「気が立ってた……? 怒らせたんですか?」

「いや、怒らせたっていうか……。インタビューするどころか、猛烈な勢いで芦屋と生徒会の批判をし続けてたから。あれ、記事にするの大変だなあ……」

 頭を抱える荒木さん。「そんなに、ですか?」

「ああ……、なんでも、うちの学校の生徒会で昔、大問題があって、それが学校のほうにも、どこにも知らされずに葬り去られたとか。ソースがあいまいで、そのまま記事にするわけにいかないんだけど、どうもイジメ関係らしくてね……」

 俺も、聞いててあんまり心地いい話じゃなかったな。荒木さんはそう言いながら頭をかきむしる。「事実なら、確かにおいしいネタではあるんだけどな……って、お前は生徒会側の人間だったな、すまん」

「いや、それはいいんですけど。……イジメ?」

 うなる荒木さん。「と、断定できるわけじゃないんだけど。記事にするつもりもないし、できれば伏せといてくれ」

「それは、ぼくらとしてもあんまりおおっぴらにしたい話じゃないですけど……」

 予鈴が鳴って、会話を中断された。

「そういえば、なんでこっちの方来たの? 用事かなんかだったか?」

「先に浜野さんのインタビュー内容を把握しておきたかっただけですけど……まあ大体わかったのでいいです」

「それならいいが。これ、中村のインタビュー記事作りづらくなるなぁ……」

「そうですね……」

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