6−4


空が紫混じった橙に染まり、漂う空気は冷え始めていた。

病院にほど近い喫茶店のテラス席。

蹴り飛ばされた後の混乱の中、俺は前後不覚のまま遥先輩にこの場所まで引きずられてきたのであった。


店内から、コーヒーカップを二つ手にした遥先輩が戻ってくる。

「ブラックのホットでいいよね?」

「え、あぁ、はい」

遥先輩が向かいに座り、ずず、とコーヒーを飲み始める。

「もっと砂糖入れればよかった」

うぇ、と舌を出して大げさなリアクションをする。そういえば、遥先輩は甘党だったっけ。


「あの、遥先輩」

「なに?」

「えっと、色々と聞きたいことがあるんですけど」

とりあえず喫茶店でコーヒーを飲むことになったらしいが、それ以外のことが何も分からない状態だ。

「いいよ。順番に、一つずつね」

遥先輩はそう言ってから、コーヒーを一口啜る。

「まずは何?」

「なんで蹴ったんですか」

「辛気臭い顔してたから」

あんまりだ。

「靴の跡、全然取れないんですけど」

「思いっきり蹴飛ばしたからね。洗濯すれば落ちるんじゃない?」

にべもない。


「で、次の質問は?」

「なんでここに」

「神野町?病院?」

「どっちかというと、病院ですかね」

水川先輩が入院しているという情報を、どこから得たのだろうか。

「手当たり次第にこの辺りの病院巡ってたの」

まさかの力技だった。

「そもそも水川先輩が入院しているなんてこと、どこで知ったんですか」

ニュースでは先輩の名前は出なかったはずだ。

「言っとくけど、私が心配してたのは考だよ」

「え?」

「ニュースで少しやってたでしょ。女が一人、他人の部屋で自殺したって事件」

「えぇ」

「死んだのが外山だったから、考に何かあったんじゃないかって思ったんだよ」

水川先輩や俺の名前は公にならなかったが、そういえば外山の名前だけは流れていた。死んだ人、だからだろうか。

「ねぇ考、ケータイ、今どうしてるの?」

「あ」

そういえば警察に預けたっきり、受け取りに行くのを忘れていた。

仕事用には逆村さんから別のスマホを支給されていて支障がなかったので、完全に頭から抜けていた。


「何通メールしても返ってこないし、何度電話しても不通だしで、私がどれだけ心配したか、ねぇ、わかる?」

感情の混ざらない淡々とした物言いゆえ、余計に心に突き刺さる。

「申し開きもございません……」

「考の住所聞いてなかったから家に行くこともできなくてさ。だから、もしかしてと思って神野町近辺の病院に聞いて回ってたの、凪島考って男が入院してないか、って」

どうやらかなり苦労をかけてしまったらしい。

しかし、ふと、疑問が湧いた。

「あれ?でも、遥先輩、もしかしなくても俺が逆村探偵事務所で働いてること、知ってますよね?病院なんか行かずに事務所に来ればよかったんじゃ……」

俺がそう言うと、遥先輩の顔が途端にしかめっ面になった。

「……たの」

ぼそ、と呟かれたが、よく聞き取れない?

「はい?」

「うっかりしてたの、気が動転してたから」

俯きながら、恥ずかしそうな表情でそう口にした。

どうやら遥先輩でもそういうことがあるらしい。なんとも言えない気持ちである。

「で、結局どこにも君は入院してなかったわけだけど、もしかしたら看護師さんが教えてくれないだけでこっそり入院してるんじゃないかと思って、全部の部屋を見て回ったの。そしたらさ、あの病院に一縷が入院してて、びっくり」

遥先輩が指差しながらそう言う。

大袈裟なアクションにどこか妙な気持ちが湧いてきたが、正体がわからないので放っておくことにした。

とにもかくにも行動が無茶苦茶だ。


「それじゃぁ水川先輩に会ったんですか。さっき話してた時はそんなこと一言もいってませんでしたけど」

「ううん、会ってないよ。私が気付いた時はまだ面会謝絶状態だったし、今日来た時にはもう考がいたし」

俺が水川先輩の部屋から出てから病院の入り口に辿り着くまで、ものの数分も経っていない。先輩は入り口の外にいたわけだから、その間に水川先輩と会うことは無理だろう。

そんなことを考えていたら、ふと、気がついた。

「……あの、もしかして」

「うん。ずっと部屋のすぐ外にいた。扉の隙間からこっそり覗いてたの」

「話はどこから……」

「りんごがどうのこうのって辺りかな?」

ほぼ最初っからじゃないか。

「それじゃぁ淀みのことも……」

「うん、聞いてた」

「あの、そのことについてはなるべく口外しないようにしてもらえると……」

「いいよ、大丈夫。そもそもなんとなく知ってたことだし、あまり吹聴して回るようなことじゃないってのもわかってるから」

「あ、そうだったんですか」

意外だった。淀みに纏わる話をしたことがないのは当たり前だが、遥先輩の性格なら淀みのことを知ったら嬉々として俺にその話をしてくるような気がしていたからだ。

「まー、色々調べれば誰だってなんとなくは気付くんじゃない?裏付けがなけりゃ単なる突拍子も無いオカルトだって投げ捨てちゃうだろうけど、私の場合、君から少し話を聞いてたからね」

大学時代のあの事件では遥先輩にも相談していて、事の顛末は概ね伝えてあったのだ。

淀みに関する情報はなるべく取り除いていたつもりだったが、話のディテールに欠けているものを補完してみようとすれば、いずれは辿り着けてしまうものだったのかもしれない。


ふと、遥先輩の表情が曇る。

「色々あったんだな、って思ったよ」

「……水川先輩、ですか」

「うん。高校の頃から少し違和感はあったんだけど、一縷、自分のことについて話したがらないタイプだったから私としてもあまり突っ込んだこと聞けなくてさ」

遥先輩は、孤立しがちな水川先輩と関わりを持つ、数少ない友人のうちの一人だった。

「でも、いざ知っちゃうと、あれだね、なんかきつい。もう昔のことだって頭ではわかってはいるんだけど、やりきれないっていうか、やり場のない怒りが湧いてきちゃうっていうか」

そんな情緒的なセリフを遥先輩が口にするのは珍しい。

遥先輩も、その独特な立ち振る舞いと言動で周囲から少し浮いていた。タイプは異なれど、水川先輩とはどこか共感できる部分があったのだろう。

「一縷があんな風になっちゃうなんてね」


あんな風。

空っぽの瞳、空っぽの声。

虚空に放り投げられた先輩の言葉が耳の奥に漂い続けている。


「死にたくないから生きてるだけ、か」

どうしようもないほどに残酷な宣言だった。

今までに作り上げられてきた水川一縷という存在を全て否定する、救いのない言葉だった。

「一縷が自分で言っていたように、それが彼女の本当の姿だったのかもしれないね」

遥先輩の声のトーンは、少し下げられていた。


「ねぇ、考」

普段よりもゆったりとした口調で、遥先輩は言葉を発す。

「そんなこと、本気で思ってるの?」


「……え?」

「私たちが一緒に過ごしてきたあの時間が全部偽物だったなんて、本当にそう思ってるの?」

淡々と、言葉は紡がれていく。


「私たちはさ、それなりの時間を一縷と一緒に過ごしてきた。一縷の生き方は親に強制されたものだったのかもしれない。それ以外の振る舞い方を許されない、窮屈な人生だったのかもしれない。でもね、私と一緒にいた一縷は間違いなく一縷自身だ。君と一緒にいた一縷も、本物の一縷だ。そこにいたのは他の誰でもない、水川一縷という人間なんだよ」

遥先輩は、じっと俺の目を見つめて離さない。

「親に作られた人格であっても、それこそが水川一縷なんだ。そして、私たちが手を取ったのは彼女で、彼女は私たちの手を取った。それは、決して消える事のない事実だ」

沈黙が流れる。

俺の思考はバラバラなまま、少しもまとまらない。

「一縷はあんなことを言ってたけどさ、そんなの、本心なわけないじゃん。今までの自分の人生を全否定するなんて、そんなこと、簡単にできるわけないじゃん」

どんな言葉を返せばいいのか、全くわからない。


「ねぇ、考」

遥先輩の放つ言葉は、ずっと俺に向けられている。

「私はさ、君の他人に対する距離の取り方がすごく心地よいと思ってる。干渉し過ぎない、詮索し過ぎない、でも、全くの無関心じゃない、ちゃんと受け入れてくれる。そんなところが、私は好きだよ」

同じセリフを、かつて、一度聞いている。

「でもさ、君はちょっと他人を尊重し過ぎだと思う。人の言葉を、そのまま受け入れ過ぎちゃってる。みんながみんな、私みたいに思ったことをそのまま口にするようなタイプじゃないんだ。言いたいことも言わないまま、自分を押しつぶしてその場を取り繕うだけの言葉を吐く人なんて、いっぱいいるんだよ」

「尊重、し過ぎですか」

「他人の心に踏み込もうとしない。私にとっては君の長所だけど、他の人から見れば短所だよ。君は一縷の言葉を真に受け過ぎだ。あんなのが、一縷の本心なわけがないじゃない」

「……どうしてそんなことがわかるんですか?」

俺の問いかけを受けて、遥先輩はしばらく黙ってしまった。


「……言いたくない」

「え?」

返ってきたのは思わぬ答えだった。

「女の勘、って言ったら信じるの?」

「遥先輩がそんなことを言うなんて信じられないです」

「なら聞かないで。とにかく私にはわかるの、わかっちゃったの。一縷が君に心配かけまいと下手な嘘をついてるんだってことが」

水川先輩が?

俺に、心配をかけまいと?

「そんな、だって、俺はむしろ余計に水川先輩のことが」

「だから下手な嘘って言ったじゃん。一縷の弁が立つせいで、余計にややこしいことになっちゃってるんだよ」

だが、仮に水川先輩の言葉が嘘だったとして、何が変わるのだ。


「あのね、考」

「……なんですか」

「これは、一縷の友人としての君へのお願い」

改まった様子の遥先輩に、少し胸がざわついた。

「一縷を、なんとかして繋ぎ止めてほしい。このまま放っておいたらどこかに消えていっちゃいそうだから」

抽象的で、捉えどころのない「お願い」だった。

普段の遥先輩からは考えられない、ふわふわとした言葉。

だけど、だからだろうか、遥先輩の真剣な気持ちが素直に伝わってくるような、そんな感覚に襲われた。

「先輩をどうにかできるならどうにかしたいですよ。でも、どうすればいいかわからないんです。あんな風に、自分に対する執着すら捨て去ろうとしている人に、何を言えばいいかなんて、わからないんです」

今の気持ちを正直に吐き出した。

病室で先輩の言葉を浴びながら、ずっと燻らせていた思いでもある。

「多分、君なら簡単だよ。私じゃ無理だけど、君ならできる」

妙に自信ありげな口調だった。

「俺なら、ですか」

「うん。君もそろそろ、少しくらいは他人の心に足を踏み入れることを覚えてもいいんじゃない?たまにはわがままで他人を振り回すこと、してみてもいいと思う」

そう言う遥先輩の表情は、からっとした口調の割に、どこか影が差している。

「考」

「はい」

「さっきは一縷の友人としてって言ったけどさ」

「えぇ」

「私は、君が落ち込むところも見たくないんだ。後悔してほしくない。凹んで欲しくない。そういう私のわがままも、一縷をなんとかしてもらいたい理由の一つだよ」

遥先輩はズケズケと物を言う割に、自分の気持ちについてはあまり主張をしないタイプだった。だからこそ、今の言葉は新鮮で貴重なものだと感じられた。

「考がしたいようにすれば、それで大丈夫。遠慮なんかしないで気持ちを伝えれば、なんとかなるよ」

何のヒントにもならない、曖昧な助言だった。

でも、どこか確信めいたものがあることを俺は感じ取っていた。


遥先輩が、大きく深呼吸をしている。

吐き出された息が、微かに俺の腕を撫ぜていった。

「こっちに来るまでは君に一晩付き合ってもらうつもりだったんだけど、予定変更かな」

知らぬ間に立てられていた予定が勝手に変えられた。

「面会時間はもう終わっちゃったから、一縷に話が出来るのは明日になってからだね。どうするべきか一晩じっくり考えて、明日、実行に移すといいんじゃないかな。そうすればきっと、全部綺麗に収まるよ」

「そんな簡単にいくんですかね」

「不安なら、私を信用すればいい」

答えになっていない返事だった。だけど、遥先輩らしいセリフだ。

「さて、いい時間だし、私はもう帰る。明日、うまくいったら連絡して。もしもうまくいかなかったとしても、電話して。私は待ってるから」

「えぇ、わかりました」

流れがあまりにも強引すぎて、どういう経路で今の感情に至ったのか、自分でも全く理解できていない。だけど、気持ちは確実に楽になっていた。


カップに残ったコーヒーを一気に飲み干して、先輩が椅子から立ち上がる。

「あ、送って行きますよ」

そう言って立ち上がろうとした俺を、先輩が押しとどめた。

「今日はいい。少し考え事しながら歩きたい気分だから」

「あ、そうですか」

「コーヒー代は君への依頼料ってことで私の奢り。それじゃ、また明日」

そう言って先輩は立ち去るかと思いきや、立ち止まり、振り返り、ふわ、と顔が近づけられた。

遥先輩の髪の毛が、頰を擦る。

「一縷のこと、よろしく」

囁くようにそんな一言を残して顔が離される。

そして今度こそ遥先輩は去っていった。

相変わらず挙動が読めない人だ。


気持ちを落ち着かせようと、もう冷めてしまったコーヒーを口に含む。

微かな甘味が広がっていき、脳を刺激する。


これからどう動くべきなのか、そんな思考に没頭していく。

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