6−3
先輩に取り憑いた淀みは、人を操り人を殺す、そういう類のものなのだろう。
もちろん、殺しはせずに多少の危害を加えるだけの場合もあるのかもしれないが、今はそれを確かめることはできない。
これまで見聞きした淀み絡みの事件を思うと、完全に他人をコントロールするというよりは、行動の対象を挿げ替える、敵意を増幅させるといった形の、潜在意識への干渉と考えるのが適切かもしれない。
梶田さんと外山の二人については、操られた人間と殺された人間、それがたまたま一致していただけだと解釈できる。
耐性のない人間が淀みの干渉を受けると、知覚を乱され、時には記憶が曖昧になる。
先輩のストーカーだった男は淀みの干渉を受けて操られ、先輩の両親が寝静まった頃を見計らって家に火を付けたのだ。
「一週間くらい、酷い折檻が続いていた。機嫌が悪かったのか、今となっては本当の理由を知るすべはないけど、多分、そんなところだろう。もしかしたらあいつに襲われかけたことを話したせいかもしれないな。まぁ、あの人たちが何を考えているのかわかったことなんて一度もないけどね。あの日、私は自宅に帰らずにマンガ喫茶で夜を明かすつもりだったんだ。身体中が痛くて仕方なかった。外側だけじゃなく、内側も。そんな状態では家にいるだけで耐えきれないほど辛かった。だから、夜中にこっそり抜け出してきたんだ。バレたら次の日にもっと酷いことをされるとわかっていても、そうせざるを得なかった。少しの時間でもいいから、あの人たちから離れた場所にいたかったんだ」
先輩の独白は淡々と行われていく。
自身の感情すらも、単なる事実として並び立てられていく。
「そしたら、あいつが私のいたブースまでやってきた。その何日か前だったかな、そいつに襲われかけた時、私は反撃を食らわせていた。近くにあった石でさ、思いっきり顔を殴ったんだよ。マンガ喫茶のブースで小さくうずくまる私を見て、あいつは笑っていた。顔の半分を包帯で覆われながら、ニヤニヤと。だから、私はすぐさま助けを呼ぼうとしたんだ。だけどそしたら声が全然出なくてね、代わりに思いっきり血を吐いた。思いっきり殴られたせいかそれともストレスのせいなのかはわからないけど、胃か食道がやられてたんだろう。それを見て好機と思ったんだろうな。あいつは私の口を手で塞ぐと、全体重をかけてのしかかってきた。今度ばかりはダメかと思ったよ。元々華奢な身体なうえ、その時は身体中が痛くて全然力が入らなかった。そんな状況じゃ、男の力に逆らうことなんてできなかった」
俺はただ、それを黙って聞くことしかできない。
「その時に頭に浮かんだのは、そいつに対する怒りじゃなくて、あの人たちに対する恨みつらみだった。正直、そいつのことは単なる障害物としか考えていなかったんだと思う。だからこそ、そんなものに自分の人生がめちゃくちゃにされてしまう、その原因を作ったあの人たちが、恨めしくて仕方なかったんだ。あいつは遠慮なしに口と鼻を塞ぐもんだから呼吸もできなくて、意識は朦朧としていた。そしたらさ、頭の中で大きな爆発が起きたような衝撃があった。ずっとずっと抱えてた爆弾にとうとう火がつけられた、そんな感じだったかな。馬鹿みたいに大きな耳鳴りがしたと思ったら、視界が真っ黒になって意識が飛んだ」
それが、淀みの力が行使された瞬間だったのだろう。
「気付いた時には今回みたいに病院のベッドの上だった。時間になっても出てこない私を不審に思ってブースにやってきた店員が、意識を失って倒れていた私を見つけたんだってさ。そして、目覚めてすぐに伝えられたんだ。あいつが私の家に火を付けて、あの人たちが、二人とも焼け死んだってことを」
長い沈黙が流れる。
何を口にすればいいのか、全くわからない。
先輩は、語り終えてからずっと俯いたままだった。
「まぁ、根拠はなくても薄々感じてはいたんだよ。自分があの人たちを殺したんだろうなってことは」
「……どういうことですか」
「あの人たちが死んだってことを伝えられた時、真っ先に感じたのは達成感だったんだ。なんでそんな感情が湧いたのかその時はわからなかったけど、君から淀みのことを聞いて理解できた。無意識下では、自分に憑いた淀みが何を為したのか気付いていたんだな」
それは、ありえない話ではない。
極稀にではあるが、自身に取り憑いた淀みを自在に操ることができる人間も存在していると聞く。そもそも、淀み自体が人間の強い意思に反応するものである。
ゆえに、淀みのもたらす結果の意味するところを取り憑かれている本人が感じ取れたとしても、何ら不思議なことではないのだ。
「商店街で君を突き飛ばした時も、助けたいという気持ちの裏で、あの男のことを消したい、殺したいと思ってしまったんだろうね」
そんなセリフを先輩はあっさりと口にした。
「あの女については言うまでもないな。殺されたくなかった。だから、殺すしかなかったんだ」
先輩の、自嘲気味の微笑み。
「ねぇ、凪島くん」
改まった調子で先輩が口を開く。
「はい」
「私はこれからどうなるんだい?」
「……多分、特調会の本部から連絡があると思います。淀みの罹患者として正式に登録する手続きをするよう、近々要請がくるんじゃないかと」
「ふむ。どこかの施設に入れられるとか、そういうことは?」
「多分、ないと、思います。けど、正直、わかりません」
そんなことにはならないと願いたいが、あまり確実なことは言えない。むしろ、先輩の淀みが孕む危険性を考えればかなり厳しい監視の下に置かれることになる可能性の方が高いかもしれない。
「なんだか煮え切らないね」
そう言って先輩は軽く笑う。
なぜ、笑えるのだろう。
「いっそ、その方が楽かもしれないのにな。新しい家を探すの面倒だし」
「でも、それは」
施設に入れられてしまえば、自由などなくなる。
牢獄だとまでは言わない。そこで生活を続けている人は今もいる。
だけど、その言い方は、執着を全て捨て去ってしまったようなその口ぶりは、あまりにも。
「別にいいんだよ。元々、何か目的を持って生きているわけじゃないんだ。ただ単に、死ぬ理由がないから生きているだけ。そんな人間なんだよ、私は」
先輩の口から吐き出されるのは、ただただ強い諦念だった。
「ずーっと、あの人たちの言うことに従って生きてきた。目的も目標も、全部あの人たちが用意したものだった。それ以外の選択肢はなかったし、そんなことを考える機会さえ与えられなかった。物心ついた時にはもうそんな感じでさ。最初っから、私はただの人形だったんだよ。あの人たちの大規模なおままごとの道具。思い通りに動かなければ叩かれて、彼らの望む姿を見せつけることでしか生きていけない大きな操り人形だ。それだけ聞けばかわいそうだって思うかもしれない。だけどね、突然二人ともいなくなって、思わぬ形で自由になって、その時気付いたんだ。そもそも、私自身の中身が空っぽなんだってことに」
そんなもの、どうしようもない。
だって、そうなるように強要されていたのだ。
そういう生き方しか許されない環境にあったのだ。
「高校時代は生徒会長なんかやって、大学に入ってからはいろんな研究室でバイトして、形だけは充実していたよ。だけど、自由になって改めて考えてみたら、どれも私のやりたいことじゃなかった。それじゃぁ本当に私のやりたいことってなんなんだろうって考えてみたら、なんにもなかった。なんにも、なかったんだよ。だから、大学は辞めた。不幸中の幸いであの人たちの残した遺産があったから、神野町で安いアパートを借りて、そこに住み始めた。それからも色々と模索はしてみたんだ。漫画とか小説とか読んでみたり、ちょっと仕事もしてみたり。だけど、どれも長続きはしなかった。没頭できるものは何もなかったんだ」
先輩の言葉は、俺の記憶をも侵食していく。
高校時代、先輩と共に過ごしてきた思い出が、黒く黒く塗りつぶされていく。
「いっそのこと死んでしまおうかと思ったこともあったんだけど、どうやら生きるのがいやってわけでもないみたいだった。首吊りもリスカもオーバードーズも、他にも何か試したかな、まぁ、全部失敗に終わったよ。とりあえず生きてはいたい、それだけはわかったんだ」
目の前で言葉を吐き出す女性が何者なのか、認識が曖昧になっていく。
「そういうことならさ、どこかの施設に収容されて生かされるっていうのもなかなか悪くない選択肢じゃないかって思うんだ。生き方を他人に決めてもらってのうのうと過ごしていく。次は誰かに暴力を振るわれることもないだろうし、意外と心地よいんじゃないかと思うんだ。どうかな?」
どうかな?
その問いかけに、何の意味があるんだ?
俺が答えたところで、何が変わるというんだ?
記憶の中の水川先輩。
それを構成していた要素は、はたして目の前の彼女の中にどれほど残っているのだろう。
視界がぼやけていく。
思考が霧散する。
出口のない迷路だった。
抜け出す方法は見つからない。
目の前にいる女性の顔には、作り物の微笑が張り付いている。
それを剥ぎ取る方法を知りたいのに、何もかもがわからない。
その内側には何も残っていないかもしれない、そんな恐怖が拭えない。
「君が思い詰める必要はないよ。これは私自身の話だし、別に嫌がってるわけでもないんだからさ」
返す言葉が出てこない。
「今日は話してくれてありがとう。おかげで、ずっと胸につっかえていたものが取れた気分だ」
朗らかな笑顔。
彼女のそんな表情を、俺は今までに見たことがない。
そもそもが、たった二年の付き合いだ。
その間で得られるものなんてたかが知れている。
結局、俺がかつて見ていた先輩は、歪な作り物に過ぎなかったのか。
気がつけば、日が暮れていた。
窓から西日が差し込んできて逆光になった先輩のシルエットが、何か不気味なものに見えてくる。
お互いに黙ったまま、どれだけの時間が過ぎていったのだろう。
「……そろそろ、帰ります」
どうしようもなくなった俺の口からこぼれ出たのは、そんな一言だった。
「あぁ、今日は来てくれてありがとう。さっきも言ったが、君は何も気にする必要はない。私は何も悲観していない。君には感謝しているんだ」
そんなセリフが頭を通り抜けていく。
「どうか、お大事に」
振り絞った形だけの言葉は、空気に溶けてすぐに消えてしまった。
*
部屋を出て、エントランスへと向かう。
足取りが重く、前に進めている感じがまるでしない。
それは、先輩に対してどうすることもできなかったという苦い感情がもたらす錯覚だ。頭ではそう思っていても、意識はずぶずぶと泥沼に沈んでいく。
ぼんやりとした頭のままトボトボと歩を進め、入り口の自動ドアを通り抜けた。
行きはバスを使ったけど、帰りは歩いていこうか。
今の頭じゃろくに考えこともできやしない。
少しでも冷やして、冷やして、冷やして、全部、忘れてしまいたかった。
そんなことを考え始めたその時だった。
左手側に人の気配。
そう思ったのも束の間、強い衝撃が訪れた。
「ぐぇっ」
情けない声を吐き出して、くの字に曲がった俺の身体が飛んでゆく。
訳が分からぬまま倒れ落ちる俺の視界に映ったのは、予想もしていなかった光景だった。
夕日を背にして右足を突き出した遥先輩が、そこにいた。
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