6−2

まずは俺から、先輩を襲った女、つまり外山ゆかりについて説明することにした。

大学時代に起きた事件も含め、これまでの経緯を全て詳らかに先輩へと伝える。

こんな事態になってしまった以上、一切の隠し事をするべきではない、そう判断したのだ。


「……なるほど。ということは、ある意味君のせいで私が襲われたということだね」

「すみません、巻き込んでしまって」

「あ、そんな落ち込まないで。今のは冗談だ。君が悔いる必要はないよ」

「いえ……どう考えても俺のせいでしょう」

先輩が、ふぅ、と大きく息を吐いた。

「君が彼女をこの町に呼び込んだ。その彼女が君といる私を目撃して手を出してきた。それは確かだ。だけど、その選択をしたのは彼女自身だ。君が扇動したわけじゃない。君が責任を感じる必要は、ない」

その言葉は冷静で、シンプルだった。


「ただ、一つだけ確認したいことがある」

先輩の目が、俺をじっと見据える。

「君に迷惑をかけてしまったあの日の夜、突然部屋に入って来た彼女に襲われて、私は抵抗する間も無く身包みを剥がされ、拘束された。悲鳴を上げる隙もなかった。彼女はきっと、こういうことに手馴れていたんだろうな。そして私は一晩中、彼女から拷問に等しい仕打ちを受けながら、君のことについて質問責めにされていた。まともに答えられるような質問なんてほとんどなかったけどね。何度も蹴り飛ばされて、そもそも答える余裕すらなかったんだ。彼女にとってそれは、私の命を摘み取るまでの単なる儀式のようなものだったんじゃないかと思う。その時が来たらどうあっても殺されるであろうことは、夜が明ける前には気付いていた。だから。だからこそなんだ」

言葉を紡ぐ先輩の瞳から、光が消えている。


「最後の記憶は、彼女が私を見下ろしながら包丁を振り上げている姿だ。朦朧とした意識の中で、それが見えた。だが、気付いた時にはこの病室だった。目覚めた時にはすぐ側に医者がいて、少し経ったら刑事がやってきた。くらくらとした頭で刑事たちの質問に答えながら、徐々に現状を認識していったんだ。色々とわからないことだらけだったけど、その中でもひときわ大きな疑問が一つあった」

先輩の表情が微かに歪む。

無意識の抵抗、それが顔に表れてしまったかのような、苦い表情。

数瞬の間を置いて、先輩は再び口を開いた。


「何故、彼女が死んで、私が生きているんだ?」

それは必然の問いかけだった。

俺が答えようと口を開きかけたその時、先輩は手でそれを制し、自身の言葉を続ける。

「警察の人たちからは、彼女が自分で自分の首を切り裂いたのだと聞いた。捜査の結果がそれならそうなんだろう。疑う理由はない。実際に彼女が死んで、私が生きているからだ。私が君に聞きたいのは、そのことじゃない」

先輩の表情が、これまで見たことのないものに変わった。

それを見て、気持ちのざわつきが何倍にも膨れ上がる。

別におかしな表情をしているわけじゃない。

ただ、先輩がそんな表情を顔に浮かべたところを俺が見たことがなかったというだけの話だ。

先輩は、今にも俺に縋りついてきそうな、追い詰められて助けを請う子供のような表情をしていた。


「教えてくれ。君は、あの時何が起きたのか、彼女が死んで私が生きている理由、それを知っているんじゃないか?私の身に一体何が起きたのか、君はわかっているんじゃないのか?」


それはもはや、確認ではなく懇願とでもいうべき言葉だった。

縋り付くような先輩の視線が、俺の胸を抉っていく。

責任を感じる必要はないと先輩は言っていた。

だが、やはり俺にはそうすることはできない。

もっと早く、淀みのことを先輩に伝えていれば。

梶田さんが凶行に及んだ時、逆村さんたちに包み隠さず話していれば。

そうしていたら、こんなことにはならなかったかもしれないのだ。

外山ゆかりが死んでしまったことに対する責任ではない。

水川一縷。

彼女に、先輩に、またも人を死に至らしめるという業を背負わせてしまったことに対する責任だ。

先輩に取り憑いた淀みがどんな類のものなのか、その正確なところはわからない。

ただ、少なくとも、先輩の命に危害を加えようとした場合にその相手が逆に死に至る、そういう構図になっている。

それだけならば、因果応報。

つまるところ先輩に取り憑いた淀みは単なる鏡でしかなく、死に至った人たちはその行動の通り、自分で自分を殺したに過ぎない。

そう捉えることでやり過ごすこともできたのだ。


だが、そうではないと、俺の直感が告げていた。

あの時目にした光景が、先輩と一緒に過ごしてきた過去の風景が、それらすべてが頭の中で繋がっていき、一つの結論に達しようとしていた。

「先輩。その質問に答える前に、いくつか確認したいことがあります」

そんなことをせずに、これまで積み上げてきた仮説をそのまま伝えればよかったのかもしれない。

そうすれば、もしかしたら先輩をこれ以上苦しめずに済んだかもしれない。

だけどそれは、先輩がずっとずっと抱えてきた苦しみを無視し、踏みにじる行為に等しい、そう思えてならなかったのだ。


「まずは一つ目です。あの日、先輩が倒れた日、同じようなことが以前にもあったって言ってましたよね?」

「そうだね。そう言ったと思う」

「それは、先輩の家が放火された時、ですか?」

「……あぁ」

「わかりました」

たったこれだけの質問でほぼ答えは出てしまったが、確証に至るためにはもう一つだけ確認しておきたいことがあった。

そしてそれは、どうしようもない過去をこの場に引きずり出すことになってしまうこともわかっていた。


「それじゃぁ二つ目です」

「あぁ」

それでも、俺は立ち止まることができなかった。

「あの日、俺は倒れている先輩の身体を、見ました」

先輩の表情が凍りつき、それからすぐ、全てを悟ったかのような表情に変貌した。

諦め。ただそれだけが張り付いた顔。

「先輩の、全身を、見てしまったんです」

「そうか、それもそうだな。なにしろ私はその時何も着ていない、裸の状態だったんだから」

血に塗れ、所々に痣の浮き出た青白い肌。

それだけならば、どれだけよかったか。


「教えてください。先輩の身体を覆う大量の傷は、傷跡は、一体誰に、いつ、付けられたものなんですか」


裂傷。

火傷。

打撲。

先輩の首から下は、それらの傷跡で覆われていた。

どうすればこんな形になるのか理解できない跡もあった。

初めは、外山による拷問の跡だと思っていた。

だけど、それにしては傷跡が古過ぎたのだ。

傷つけられては治り、また傷つけられては治る。それを繰り返したと思しき歪な跡が、あまりにも多かった。

たった一晩で作れるものではない。それがわかってしまった。


青白い肌は少し不健康だけど、そこから漂う儚さが却って先輩の美しさを強調している。

体育に参加しないのは、身体が弱いから。

常に冬服で過ごしているのも、少し過剰なくらいの道徳心に由来する身を縛る行為。

当時はそう思っていた。

だけど、それらは全て、自分の肌を隠すため。

自分の身に起きていることを、誰にも気付かせないため。


「君は、もうわかってるんだな」

諦念の込められた静かな声。

「……どっち、ですか」

聞くまでもないことだ。

ただ、少しでもいいから希望に縋りたかった。

しかし、それは容易く打ち砕かれる。

「どっちとも、だよ」

わかっていたことだった。

一緒に暮らしていて、自分の子供があれだけの傷を負っていることに気が付かない親がいるとは思えない。

「……そうか。そういう、ことか」

沈黙の後、先輩は天井を仰ぎながら言葉を漏らす。

俺の考えと同じところに先輩自身も辿り着いたのだろう。

淀みのことを知らなくとも、俺が言わんとすることの意味はわかってしまう。

「先輩、さっきの質問に対する答えです」

覚悟を決め、俯いていた顔を上げる。自分ではどんな表情をしているのかわからない。ぐるぐると頭を渦巻くこれがどんな感情なのか、理解できなくなっていた。

「いや、いい。もう、わかった」

俺の口から告げるべきなのかどうか、その判断もできなかった。

「私が殺したいと思った人間が死んでいる。そういうことだね?」

「……はい。そう、だと、思います」

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