4−2

梶田さんが倒れ伏した後も混乱は止まない。

血溜まりはじりじりとタイルの目に沿って流れていく。

へたり込んだ水川先輩に肩を貸し、パニックになった人々を追うように俺たちも駅前広場の方へと向かっていく。

先輩の足はかなりたどたどしい。油断していると転びそうになる。

「先輩、歩くのしんどいですか」

ひゅぅ、と先輩の喉から空気が押し出される。

「……頭痛いな……」

声は掠れているし、視線もフラついたまま。額には汗が滲んでおり、見るからに辛そうだ。

駅前広場のタクシー乗り場にはタクシーが一台乗り付けていた。

運転手が窓から身を乗り出して通りの方を窺っている。

何の騒ぎか気になったのだろう。


「病院、行きますか?」

俺がそう言った瞬間だった。ぐい、と思いっきり服が引っ張られる。先輩の右手が俺の服の裾を掴んでいた。手の甲に血管が浮かぶほどの力強さで。

項垂れていた顔がこちらに向けられる。

焦燥と怒りが混ざり合った表情の中、ぐらつく両目が俺を睨みつけている。

こんな表情を、俺は見たことがなかった。

先輩の内に潜む昏い感情がその片鱗を覗かせた、のだろうか。

「……イ、ヤ」

絞り出された途切れ途切れの言葉だったが、抵抗の意思を示すには十分だ。

「すみません。じゃぁ、家まで送ります」

「……大丈夫、平気……」

どう見ても平気ではない。

帰りたくないというわけではないみたいだし、このまま放っておくわけにもいかない。この調子じゃこの場から動くことすらままならないだろう。

運転手に声をかけ、先輩を後部座席に押し込む。抵抗はなかった。さすがに自分の状況がどれだけ酷いかはわかっているようだ。

先輩を座席に寝かせたことで狭くなったスペースに、自分の身体をねじ込ませる。助手席だと離れすぎていて少し不安だったのだ。

ボソボソ声の先輩から教えてもらった住所を伝えると、運転手は心配そうな顔でこちらを振り返りつつ、タクシーを発進させた。

運転手の表情はこちらを気にかけているにしては妙に緊張しているように見える。

ふと先輩の様子を確認すると、その頬に血が付いていた。梶田さんが振り上げたナイフから飛び散ったのだろう。

「失礼します」

ポケットティッシュでそれを拭き取る。完全に拭い去ることはできなかったが、目立つことはなくなった。あとは運転手が何も追求してこないことを祈ろう。


「その子、大丈夫なのかい?」

タクシーから降りるとき、運転手が声をかけてきた。声色と表情をから察するに、純粋に心配してくれているらしい。

「えぇ、なんとか。貧血を起こしちゃったみたいで」

先輩の身を起こしながら代わりに答える。

「そうか、お大事に」

「ありがとうございます」

走り去っていくタクシーを見送り、先輩の家へと向かっていく。

タクシーで横になって多少は回復したみたいだが、いまだに肩を貸していないと立つのも難しいらしい。

虚脱状態、と言うのだろうか。全身に力が入らなくなっているようだ。


こうなってしまった原因は、十中八九、あの時現れた淀みだ。

取り憑いた淀みが現実に何らかの干渉を行う時、憑かれている人間の体力は大きく消耗する。

コンビニの前で俺の目の前に現れた淀みは、結局形を為すだけで俺に何も干渉しなかった。もちろん、何かされたことに自分では気づいていないだけという可能性もあったのだが、今日の、さっきの顛末を見れば俺には何も干渉がなかったと断言しても良いだろう。

先輩に憑いている淀みが襲いかかってきた梶田さんの全身を包み、その後、彼は突如その刃先を自身に向けた。あれほどの勢いで迫ってきた男が急に立ち止まり、自分の喉にナイフを突き立てたのだ。

その現象と淀みを切り離して考えることは難しい。

古ぼけたアパート。

多分、俺の家よりも昔からある建物なのだろう。整備などがおざなりなのか、ところどころに塗装の剥げや錆が目立っている。

コンビニで遭遇した時に思った通り、俺の家とそう離れた場所ではなかった。

部屋の場所を尋ね、ドアの前までやってくる。

中まで入ることはなるべく避けたかったのだが、この様子だと玄関先で倒れ込んでしまいかねない。

「鍵、出せます?」

「……左ポケット」

先輩の部屋は、驚くほどにシンプルだった。

四畳半の部屋に小さなキッチンが備えつけられている、ただそれだけの部屋。

隅にある小さなテーブルに、大きめのノートパソコンが開かれたまま置かれていた。

畳まれた布団、小さな冷蔵庫。

目に見える範囲にはそれしかない。

ずる、と先輩の身体が地面に引っ張られていった。

「……先輩?」

「ちょっと、疲れた……」

その有様はちょっとではないだろう。部屋まで辿り着いたことで気が抜けたのかもしれない。

どこか申し訳ない気持ちがありつつも、部屋に上がって布団を敷く。

正直に言うと、あまりの簡素さに女性の部屋に上がるという意識がほとんど湧かなかったので、心理的抵抗は少なかった。

玄関に伏した先輩の靴を脱がし、布団まで運んでいく。

改めて思ったが、先輩の身体はこの年頃の女性にしては随分と軽い。華奢な肩周りは力を込めるとたやすく砕けてしまいそうに思える。

「……変なこと、考えてない?」

「あ、いえ、そんなことないです」

妙な背徳感に目を瞑りながら、先輩を布団に寝かせる。

「ごめんね、面倒かけて……」

「いえ」

先輩は疲れて寝ているのだから無言になるのも当然の話なのだが、その間が気まずい。

「先輩、こんな風になること多いんですか?」

「……いや、ほとんどない、かな」

「高校の時、体育もほとんど見学だったって聞いてたんで、もしかしてこれが原因なのかなって思ったんですけど」

「……まぁそんなところ」

そう答える先輩の表情はいつになく暗い。声色からわずかに感じ取れるのは、怒りだ。

「変なこと聞いてすみません」

「あぁごめん、君に怒ったわけじゃないんだ」

ふぅ、と先輩は大きく息を吐く。少しは良くなったみたいだが、やはり会話をするのは疲れるらしい。

「先輩、タオル、使いますね」

冷蔵庫の上に銭湯用具一式が置いてあった。濡れタオルをこしらえ、先輩の額に載せる。その間、先輩は黙ったままじっと天井を見つめていた。

昔の水川先輩はこんな風にプライベートな領域に他人の干渉を許すようなタイプではなかったので、今こうして先輩が俺のなすがままになっている状況は非常にむず痒い。

先輩が寝ている布団の横で、ぽつんと座っている。四畳半という狭い空間ゆえ、距離が近い。

「……凪島くん」

「はい」

「面倒をかけたね」

「いえ、そんな」

「……何年か前にも同じくらい体調を崩したことがあったんだけど、その時は色々ありすぎて病院に運び込まれてね」

「え、それじゃぁ今回もやっぱり病院行った方が良かったんじゃ」

「結局ね、極度の疲労ってことで少し点滴を受けただけだったから。心配はいらないよ」

「いや、そんな風に寝込んじゃってるんですから、そりゃ心配しますよ」

「……それもそうか」

先輩は冗談めかして軽く笑う。なんだろうか、普段よりも先輩の口が軽くなっている気がする。

普段といっても、俺が知っているのは高校時代の先輩の姿のみなのだけど。

「こう言うと失礼かもしれませんが、この部屋、ほとんど物がないんですね」

「そうかな?」

「机にパソコン、それと布団だけっていうのはかなり少ない方だと思いますよ」

「あぁ……まぁ、ジャージとか本は押入れに入れてあるからね。量は少ないけど」

その言い回しに引っかかるものがあった。

「……あの、もしかして、服、ジャージしか持ってないんですか……?」

「そうだよ。楽だからね」

高校時代の記憶を振り返る。そういえば、生徒会絡みの用事で休日に会うことがあっても常に制服だったような気がするが、もしやその頃からずっとそうだったのだろうか。

「それじゃぁ、ジャージ以外の服を着たことは……」

「あはは。さすがにそこまでじゃないよ。大学に入るときにしっかり買い揃えたさ」

つまり、高校時代は私服を持っていなかったということである。

「まぁ、それも燃えちゃったからね。それ以来ずっと安物のジャージを着潰してるよ」

燃えた。

それが意味するのは、遥先輩から聞いたあの話。

口を滑らせたことに気づいたのか先輩が少し慌てた様子で口を開いたが、しかし俺の表情を見てその動きを止めた。

先輩の表情から感情が消えていく。


「凪島くん。君、知ってるね?」


顔に出てしまっていたのか、反応が変だったのか。

火事があったんですか?と聞けばよかったところで、遥先輩から聞いた話を思い出して苦い表情で黙ってしまったのが失敗だったのだろう。

水川先輩は人の感情の動きに鋭い。

些細な違和感から幾つもの嘘や隠し事に気が付くタイプの人間だった。


「……はい」

「どこで聞いた?」

「……麻生先輩から」

誤魔化すべきか悩んだが、ここは正直に答えた方が不信感を与えずに済むだろうと判断する。

「そうか、遥から……」

先輩の表情が少し緩んだように見える。どうやらこれで正解だったらしい。

遥先輩をダシにしてしまったような感じで心苦しいが、仕方ない。

「その調子だと大学を辞めたことも聞いてるんだろう?」

「えぇ」

「そういうことさ。何もかもが燃えて、大学も辞めた。わざわざきちんとした服を買う必要もなくなってジャージだけで生活してる、それだけの話だよ」

それだけ、で済ませていい話なのだろうか。いくらニートとはいえ私服がすべてがジャージというのは、少しおかしい気がする。

だが、この言い方は言外にこれ以上の詮索をするなと主張していた。

気まずい沈黙が流れる。

そろそろ部屋を去る頃合いなのだろう。

「それじゃぁ、俺はこれで」

そう言って立ち上がろうとした時、先輩の手が俺のズボンの裾を掴んでいることに気がついた。

「……」

姿勢を元に戻し、先輩の方を向く。

「?」

「いや、その、手を……」

「あぁごめん、布団と間違えてた」

パッと離された手はすぐに布団の中へ引っ込んだが、先輩の様子はさっきと変わらない。何もなかったかのような表情で布団に収まっている。

その言葉が嘘なのか本当なのか、判別することはできない。

昔から、何を考えているのか、それを振る舞いから読み取るのが難しい人だった。人の内心を推測しようなど愚かな行為だが、それにしたって先輩の計り知れなさは他の人と比べものにならなかった。

正しさを体現するかの如き身のこなし、時には冷血と称されるほどに厳格なその振る舞いは、ある種の憧れを生み出していて、生徒会の外側からは崇拝の対象にもなるほどだったのだ。

同じ場所で活動していた自分から見ても、水川先輩は神秘性を纏っているように感じられることがあった。

そんな先輩の過去の、高校時代を一緒に過ごしながらも見えていなかった部分。

朧げながらに見えてきたその風景を、俺はどんな風に扱えばいいのかわからなかったのだ。


親。

悪意。


この先に踏み込めば、どうしたって触れざるを得ない。

淀みに憑かれた彼女の過去に不作法に触れることの危うさは、今、彼女がこうして倒れ伏していることが物語っている。

そして今の俺には、その業を背負うほどの覚悟が備わっていない。

「送ってきてくれてありがとう。助かったよ」

「いえ」

コンビニで再会した時、水川先輩の纏っていた神秘性が既に失われていることを否応無しに思い知らされた。

そこに多少の失望があったことは否定しない。

高校時代、憧れがあったわけではないが、書記という立場ゆえに目の当たりにしてきた彼女の凛とした立ち居振る舞いに、少なからず尊敬の念を抱いていたからだ。

しかし、そういった装飾が剥がれ落ちた後に残ったものを見て、俺は後ろめたさを伴うわずかな愉悦を覚えていた。

これまでに見たことのない先輩の姿。

それでもなお残る理知の欠片。

くたびれたジャージ、手入れの疎かになった髪、それらを身に纏いながらも漂うかつての面影に、服を剥ぎ取り裸身を覗くような下卑た感情を抱いたのだ。

「俺は事務所に戻ります。何かあったら連絡ください」

「ん」

「遠慮しなくていいですからね。俺としても放っておくのは気が引けるんで」

「わかった。いざとなったら頼らせてもらうよ」

返事を聞いてから俺は立ち上がる。今度はどこも掴まれていなかった。

「鍵、閉めるの忘れないでくださいね」

「あぁ」

「……お大事に」

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