3−4

会計を済ませて店を出ると、散らばる雑踏が耳に戻ってくる。

「今日は頼まなかったけどね、ここは炒飯もなかなか美味しいんだ。次来ることがあったら食べてみるといいよ。量がかなり多いんだけど、君なら問題ないと思う」

「俺はそんな大食らいってわけじゃないですけどね」

「私よりは胃に物が入るだろう?」

「そりゃまぁそうですね」

水川先輩は女性にしては背が高い方なのだが、成人男性の平均身長程度の俺と比べるとやはり体格は華奢だ。そして、直接確認したわけではないが、多分、先輩は身体があまり強くない。

俺の知る限り、高校時代の体育はすべて見学していたはずだ。代わりに先生の手伝いなどをすることで授業自体には参加していたらしいのだが、先輩が運動している姿を俺は見たことがない。


商店街の本通りへと戻ってきた時、目の前を見知った顔が過ぎ去っていった。

「どうかした?」

先輩が横から声をかけてくる。

思わず目で追ってしまっていて、不思議に思われたようだ。

「あ、いえ、なんでもないです」

俺は慌てて返事をするが、頭の中は今見た光景でいっぱいになっていた。

通り過ぎていったのは件の浮気調査の依頼主、梶田さんだった。

同じ街に住んでいるのだ。それだけならば別に不自然なことではない。すれ違う事もあるだろう。

だが、あの表情は異様だった。

ものすごい形相をしていたわけではない。むしろその逆だ。

その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。能面のように凝り固められ、血の気の引いた真っ白な表情。

そして、頭部の周囲を漂う黒い靄。

間違いなく、淀みだった。

その異様さに気を取られ、じっと据えられた視線の先まで意識する事ができなかったのは手痛い失敗だった。

先輩に声をかけられ一度は目を離したが、不穏な予感が拭いきれず、俺は梶田さんが歩き去った方へ振り向き直す。

猫背でトボトボと歩く様子は老人のように見えた。

左手には見覚えのある黒い鞄をぶら下げている。梶田さんが事務所に来るときいつも身につけていたものだ。

すると、梶田さんはその鞄から何かを取り出したようだった。

こちらからは梶田さんが取り出したものが何なのかはわからなかったが、梶田さんの周囲にいた人たちがざわつき始めた。

瞬く間にどよめきが広がっていく。

「何か起きた?」

水川先輩がその様子に気付いて声を発した直後だった。


「ああああああああああああ!」


耳に重く響く、限界まで喉を絞り上げることで吐き出された捻れた咆哮。

人間が出せる音とは思えなかった。

梶田さんは叫び声を上げながら、破裂したかのような勢いで走り出す。


迂闊だった。


梶田さんだけではなく、彼が何を見ていたのか、何を追っていたのか、そこに注意するべきだったのだ。

梶田さんが向かうその先には二つの人影があった。

その後ろ姿には見覚えがある。

つい先日尾行したばかりの二人。

梶田さんの奥さんと、その浮気相手だ。

大声に反応した二人が振り向く。

真っ先に反応したのは奥さんの方だった。

梶田さんを見て驚愕の表情を浮かべた直後、一瞬でその顔は恐怖に染まる。

混乱していた俺の思考も、その瞬間に状況を悟った。


「ダメだ!梶田さん!」


走り出すことに躊躇はなかった。

だが、間に合わなかった。


梶田さんの身体が奥さんに衝突した。

数秒の静寂があった。

苦痛に歪んだ表情を浮かべながら、奥さんが膝から崩れ落ちていく。

そして、倒れ伏した奥さんの下から赤黒い液体がじわりと広がっていく。

血。

そして悲鳴。

一瞬にして混乱が蔓延し、周囲の人たちが逃げ出していく。

奥さんの隣にいた男は腰を抜かして地面にへたり込んでいた。

梶田さんが、必死で後ずさりしてその場を逃れようとする男の方へと身体を向ける。その前面は返り血で赤く染まっていた。

「ひっ」

すぐ後ろから、水川先輩が息を飲む音が聞こえた。

どうやら走り出した俺の後をついてきていたらしい。

俺は、自分の足が止まっていたことに気付く。

「それ以上はダメだ!やめてください!」

思わず叫んでいた。

そして、それだけにしておけばよかったのだ。

血に染まった刃物。

血溜まり。

そこに倒れ伏す女。

その光景は、俺のトラウマを刺激した。

なんとしてでもそれ以上の被害を防がなければならない。そんな思いで頭が埋め尽くされて、冷静に考える余地はすべて奪われてしまっていた。

俺は再び駆け出す。

何か考えがあったわけじゃない。

刃物を持った相手に何の策も練らずに飛びかかろうとするのがどれだけ愚かな行為か、そんなことすらもわからなくなっていたのだ。

だが、間に合うはずがなかった。

梶田さんはこちらに見向きもせず、淡々と手に持った大ぶりのサバイバルナイフを振り下ろし、男の胸に突き立てる。

男の喉から、掠れた音が響いた。

深々と突き刺さったナイフが抜かれ、傷口から吹き出た鮮血が梶田さんを更に赤く染めていく。

その時初めて俺は笑顔の梶田さんを見た。

痙攣する男を見下ろしながらニコニコと微笑むその表情は、今この場で起きていることが嘘に思えるくらいに晴れやかなものだったのである。

しかし、梶田さんの目が俺に向けられた直後、笑顔は一瞬で消え去った。

無。

さっきすれ違った時と同じ、何も読み取れない、空っぽの感情を貼り付けた表情になっていた。

俺に向けられていた視線が不意にずれ、背後に向けられる。

つられて振り向くと、俺のすぐ後ろに水川先輩が青ざめた表情で立っていた。

油断だった。

彼から、目を離すべきではなかった。

「お前みたいなやつがああああ!」

再び咆哮が響き渡る。

思わず振り向くと、血に染まったナイフを振り上げた梶田さんが俺に向かって突進してきていた。

理由はわからないが、梶田さんの次の攻撃対象が俺になったのは間違いない。

「先輩!遠くへ!」

避けることはできなかった。後ろに先輩がいたからだ。

梶田さんを無傷で制することはできないだろう。狂った人間の力は常人のそれとはまるで違う。ましてや相手は男である。

だが、大怪我を覚悟してさえいれば何とか相討ちに持っていくことくらいはできるはずだ。

目の前に梶田さんが迫り、今にもナイフが振り下ろされそうになった、その瞬間だった。


突如、横から身体を突き飛ばされた。


全集中力を前方に向けていたせいで横からの衝撃に対応しきれず、俺の身体は無様に倒れていく。

それからの一瞬は、スローモーションのように感じられた。

倒れゆく中、自分が元々立っていた場所に視線を向けると、そこには両手を張り出した水川先輩がいた。どうやら彼女が俺を突き飛ばしたらしい。

迫りくる梶田さんは、姿勢を崩した俺に少しも目を向けることなく、入れ替わるようにして立ち塞がった水川先輩に向けて、そのままナイフを振り下ろそうとしていた。

先輩は俺を庇ったのか?

なんでそんな無茶を?

なんでそんな馬鹿な真似を?

このままでは大怪我どころでは済まないと、俺は必死で姿勢を戻そうとする。だが、思考の速度に身体がついていかない。

せめて避けてくれと叫びたくても、声を出すことすら追いつかない。

どうしようもないのか。

諦念と同時に俺の脳裏に浮かんだのは、大学時代のあの記憶。

血溜まりに倒れた、彼女の姿。


しかし、その光景が再現されることはなかった。


水川先輩の身体から、黒い靄が噴き出して辺りを覆い尽くす。

広がった靄が凝縮し、彼女と梶田さんの間に黒い壁として立ちはだかる。

水川先輩に憑いている淀みが、今ここで姿を現したのだ。

驚く間も無く状況は一変していく。

何もかもがスローに流れていく中で、淀みだけは変わらぬ速度で蠢いている。

壁から突き出された腕は、あの時俺にそうしたように梶田さんの頰を撫ぜ、首元に指を滑らせた。指先が首筋に沈んでいく。

浮かび上がった頭部は、空っぽの瞳で梶田さんをじっと見つめている。

そこまでは、俺が体験したものと同じだった。

だが、今度は指先が止まることなく食い込んでいき、ついには掌全てが首筋に吸い込まれていく。

そして、それまで無表情だった顔がニタリと不気味な笑みを浮かべた、次の瞬間だった。

黒い壁が突如形を変え、梶田さんの全身を包み込んだのである。

梶田さんの姿は完全に覆い隠され、中が全く見えなくなった。


グルン、と何かが捻れる。


音がしたわけではない。

景色に変化があったわけでもない。

ただ、さっきまでそこにあったはずの何かがねじ曲がってしまった、そんな感覚が確かに感じられたのだ。


スローモーションは唐突に終わりを告げた。

今まで周囲に漂っていた淀みはいつの間にか消え去り、地面に倒れ込みそうになっていた俺は咄嗟に体制を変え、何とかして先輩と梶田さんの間に割って入ろうとしていた。

だが、幸か不幸かその行動は意味を成さなかった。

梶田さんの動きが止まっていたからである。

彼はナイフを振り上げた姿勢のまま、視線をふらふらと彷徨わせていた。

一方、先輩は俺を突き飛ばした反動か、尻餅をついて地面に座り込んでいた。

「大丈夫ですか!」

ついさっき現れた淀みのことが頭を過ぎったが、とにかく今は安全を確保するべきだと判断し、俺は先輩を抱きかかえて梶田さんから距離を取る。

そうしてから改めて先輩の様子を伺うと、彼女は目を大きく見開いて息を荒げていた。

「平気、ですか」

尋ねてみたが、返事はない。聞こえてはいるようだが、呼吸を整えるのに必死なようだった。

「お、おおおお……」

不意に梶田さんが唸り声を上げた。

緊張が走ったが、ナイフをまだ手に持ったままとはいえ腕はだらりと下ろされており、彼の視線は虚空を見つめていた。

どうにか鎮まったのだろうか。

まだまだ安心は出来ないが、とにかく一定の距離を取ることが出来たのは大きい。これならこの場から上手く逃げ出すことも可能だ。

「先輩、立てますか?」

できるだけ早くこの場を離れるべきだと思い、傍らに座り込んでいた先輩に話しかける。しかし、彼女の口から吐き出されたのは俺に対する返事ではなく、驚愕と恐怖を纏った掠れ声だった。

「あ……」

先輩の視線の先に俺も目を向ける。

そこには先ほどまでと変わらず立ち尽くす梶田さんがいた。

違ったのは、彼が大粒の涙をながしていたこと、そして、ナイフを両手で構えていたこと。

「悪いのは、誰だ?」

彼の口から、誰に向けるでもなく、ポツリと言葉が落とされた。


どうしようもなかった。

声を出す暇もなかった。


言葉が空気に溶け込むよりも早く。


彼は、自らの喉にナイフを突き立てた。

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