2−4
「そういえば、最近水川先輩に会ったんですよ」
「……へぇ」
俺が話を始めた瞬間、先輩の眼の色が暗くなった。
探りを入れようとしているのが悟られてしまったのだろうか。
少なくとも何かを怪しまれているらしい。続く言葉は慎重に選んだ方が良さそうだ。
「高校以来だったんですけど、なんていうか、すごい変わってましたね」
「そう」
「……少し話したらもう何年もニートしてるって言ってて驚きましたよ」
「そうだね」
さっきまでガブガブとお酒を飲んでいたのに、今はピタリとその手が止まっている。遥先輩の眼はじっと俺を見据えており、ブレる気配を見せない。
「遥先輩は知ってました?」
遥先輩は水川先輩と同じ大学に進学した。
学部は違えど昔からの縁で多少の交流はあっただろうし、何か知っている可能性はある。
「知ってたよ。一縷の事件については大学でも話題になってたからね」
事件?
思わぬ単語が飛び出してきた。
水川先輩が何かしでかしたのか?あの先輩が?
「事件って、いったい何があったんですか」
「本人に聞けばいいじゃない」
「いや、そりゃ聞きづらいですよ」
「プライベートで会う仲なんだろう?そのぐらい大したことないじゃない」
「いや、別にこの前コンビニでたまたま遭遇したってだけなんで……」
俺の答えを聞いてから、遥先輩はしばらく黙ったままになってしまった。
彼女は昔から思考に没頭するとどこであろうと自分の世界に入り込んでしまう。こうなったら何を言っても聞かないのでただ待つしかない。何を考えているのかは知らないが、何十分も続いたりはしないだろう。
「考」
しばらくテーブルに残っていたものを摘んでいたら、突然名前を呼ばれた。
咀嚼してから返事をする。
「なんですか?」
「とりあえずさっきまでのやり取りはなかったことにしてね」
「はい?」
「さて、一縷の件だけど、本来ならあまり他言するべきことではないんだが」
「あの」
「君なら話しても大丈夫かなと判断した。だから、教えるよ」
「え、あ、はい」
唐突な展開に脳の反応が一瞬遅れてしまったが、どうやら水川先輩についての情報が手に入るようなので、心して聞くことにしよう。
「結論を先に言うと、一縷は大学を二年で退学した。自主退学だ。私はそれ以来会っていない」
水川先輩の話していた内容や現状から、なんとなく予想はしていた。しかし、改めて事実だとわかると驚きは隠せない。あの水川先輩だからだ。
「成績面ではとても優秀で、一年の途中からもう幾つかの研究室に出入りしていた。プログラミングの能力を買われてバイトのようなことをしていたらしい。だから一縷が大学を辞めると言い出した時は引き止めに動いた人間も多かったんだが、事情が事情だからあまり強く言うこともできず、説得は失敗に終わった」
遥先輩の語り口調は淡々としている。
「で、この事情というのが厄介でね。当時うちの大学にいた人間なら大体の奴が知ってはいるんだが、話題にするのはタブーみたいな状況だ。君も必要以上に口外はしないでほしい。一縷のためにもならない」
「……はい」
必要以上に、という言い回しが俺の魂胆を見透かしているようで少し後ろめたい。
「大学二年になってしばらくして、一縷は一つ下の後輩に付き纏われていた。いわゆるストーカーという奴だ。性別は逆だが君と同じだな」
「そうですね……」
「同じ学科の男子学生で、講義の手伝いをしていた一縷に一目惚れしたらしい。最初の数週間はやたらとアプローチをかけてくるちょっと鬱陶しい後輩くらいのものだったんだが、行動がどんどんとエスカレートしていってな。私も一縷から何度か相談を受けていたんだが、具体的な中身はあまり口にしたくない。とにかく、当時の一縷は相当に参っていた」
「……それでどうしようもなくなって大学を……?」
「まさか。一縷はそれくらいで自分の居場所を放棄するような性格じゃない。参ってはいたが、その時だってそろそろ警察を頼ろうかどうかって話をしていたくらいだ」
「それじゃぁどうして」
俺の問いかけに対して、遥先輩は珍しく言い淀む。
しかし逡巡は一瞬だけで、口はすぐに開かれた。
「大学が夏休みに入ってから一週間後、一縷の家が放火された」
「は?」
「焼け跡からは、一縷の両親の遺体が見つかった」
言葉が出てこない。
「犯人として逮捕されたのは、一縷のストーカー、つまりその後輩だった」
遥先輩は一息ついてから残っていたカクテルを飲み干した。
ふぅ、と大きな溜息を吐く。
「夏休みに入る頃、一縷はそいつに襲われた。幸いそれ自体は未遂に終わったんだが、反撃でそいつの顔にかなりの傷を負わせたらしい。報道なんかではそれを逆恨みしたとか言われてるが、実際のところどうなのかはわからない」
まぁ、知りたくもないけどね、と遥先輩は吐き捨てる。
「一縷はそれから周囲の人間と一切連絡を取らなくなった。メールは返ってこないし電話も不通。家を尋ねようにもそれは不可能だし、じゃぁどこにいるのかと聞かれても誰もわからない。あんな事があったんだから仕方ない、と夏休みの間は皆がそう思っていたんだけど、結局、夏休みが明けても一縷が大学に顔を出すことはなかった」
「そして十二月、冬休みに入ろうという頃に一縷がふらりと大学にやってきた。退学届を手に持って」
「いきなり退学届を出されて事務員さんも驚いたみたいでさ。関わりのあった先生達にそのことを伝えたらしい。そしたら大パニックさ。私はその場にはいなかったんだけど、講義室に大量の教授准教授院生が集まってかなりの壮観だったみたいだ。結局、説得は出来ずじまいだったんだけどね。退学じゃなくて休学にしたらって提案も跳ね除けられた」
「皆が諦めた後、私も一縷に会いに行ったんだ。そしたら一縷の方は普段通りでさ、正直拍子抜けしちゃったよ。やつれたりなんかもしてなくて、本当にいつも通り。ただ、大学を辞めるっていう意志だけは固かった。私としては本人がそこまで決意してるならとやかく言う方が無粋だなと思って何も言わなかったんだけど、理由だけは知りたいと思って聞いてみたんだ」
「……どんな理由だったんですか?」
「はっきりとは答えてくれなかったよ。事件と全く関係ないとは言わなかったけど、それだけじゃない、ってずっと言ってた」
「今どこに住んでるのかとか、メールとか電話とか、全部ごめんって言うだけで何も教えてくれなかったな。だから、それ以来会ってないし会いようもなかった」
先輩の表情が少し曇る。
「とまぁ、私が一縷について話せるのはこれくらいだよ、十分かな?」
「……はい」
正直に言えば、水川先輩に憑いている淀みとどんな関係にあるかは全くわからないが、それについてここで話題にするわけにもいくまい。
「で、考」
「なんですか?」
「私がこの話をしたのは、君の好奇心を満たすためだけじゃない。一縷に対してこの話題に触れる事がないように釘を刺すためでもある」
しかし残念ながら、俺は既に両親について水川先輩に尋ねてしまっていた。
「一縷にとってはまだまだ触れられたくない話である可能性が非常に高い。だから、かつての友人を慮って、君に注意を促している」
「そうでしょうね」
「……というのを普通なら一番の理由としてあげるべきなんだろうけど」
「違うんですか?」
「なんとなく、君によくない事が起こる気がしているんだ」
「俺に?」
「最後に一縷に会った時、事件のことについて話している間ずっと悪寒が止まらなかったんだよ。冬だからってわけじゃない。室内だから暖房も効いてた」
普段は淀みを認識できない人であっても、強く濃い淀みのもたらす影響は何らかの形で知覚しうる。
嫌な気配がする、耳鳴りがする、寒気がする。
気のせいと片付けてしまう事が多いこれらの現象の中には、淀みによるものがいくつも潜んでいる。
「こういう第六感的な話を気にするような人間じゃないと自分では思っているんだけどね、まぁ、考には話しておこうかなと思って」
「そう、ですか」
「一縷の事を心配しているってのも嘘じゃないからさ、迂闊に地雷を踏まないよう気をつけてよ」
「……わかりました」 遥先輩が悪寒を感じたというのが事実なら、水川先輩に憑いている淀みはその時から既にある程度の濃さを持っていた可能性が高くなる。
大きなショックを受けたりすることでも淀みは発生しうる。自分の精神を守ろうとする心の働きが、結果として淀みを引き寄せることになることもあるからだそうだ。
時系列を考えれば、水川先輩の家が放火されたタイミングで淀みが発生したと考えるのが妥当だろうか。もちろん現時点では仮説に過ぎないが、これから調査を進めていくにあたっては重要な情報となるかもしれない。
遥先輩が大きく伸びをして、長いため息を吐いた。
「さてと、なんだか辛気臭い話をしちゃったね。本当なら考の就職祝いってはずだったんだけど」
「そういえばそうでしたね」
俺は軽く笑って返事をする。
「君が一縷の話を持ち出したりするからだよ」
「なんかすみません」
「あれだな。考はもう少しデリカシーみたいなものを身につけた方がいいかもしれない。ま、私が言えたことじゃないんだけどさ」
そうですね、とは言いづらい言い回しだったので俺は無言で受け流すことにした。
遥先輩はこのくらいで機嫌を損ねたりするような人ではないが、避けられるリスクは避けておくに限る。
「よし。料理も一通り片付いてきたし、気分転換も兼ねてそろそろ二軒目に移ろうか。時間は大丈夫?」
しっとりとした遥先輩の笑みが、俺に向けられる。
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