第3章 発露
3−1
翌日、俺は朝から事務所に来て資料を読んでいた。
水川先輩の淀みに関するものではなく、林田さんが今担当している浮気調査に関するものである。依頼主や奥さんのプロフィール、これまでの調査の記録など、一通り目を通しておいてくれと逆村さんから言われていた。
今日はこれから林田さんが依頼主の奥さんを尾行する予定なのだが、俺はそれを手伝うことになっているのである。
これまでの記録を読んでみると、奥さんの浮気はほぼ確定的だ。今日の尾行の目的はその決定的な証拠を手に入れることらしい。
「おはようございまーす」
玄関の方から声がした。林田さんがやって来たようだ。
「あ、凪島さん、おはようございます。早いですね」
「おはよう。……んん?」
背後から声をかけられたので振り向くと、そこには確かに林田さんが立っていたのだが、その服装が普段とまるで違うパリッと決められたパンツスーツ姿だったので、驚いて変な声を出してしまった。
「どうかしました?」
「いや、そういう格好もするんだなぁって思って」
「あぁ。さすがに尾行するときにいつもの格好じゃ目立って仕方ないですからね。仕事で外に出るときは控えめな服にしてますよ」
「そりゃそっか」
「これもこれで気に入ってますけどね」
そう言ってから眼鏡をくいっと持ち上げる。演出が過ぎる気もしたが、確かに様になっている。
「さて、コーヒー淹れてきますけど、凪島さんも飲みます?」
「そうだね、お願いするよ」
「凪島さん、昨日はどうでした?」
コーヒーを一口啜ってから林田さんが聞いてきた。遥先輩の件だろう。
「少し気になる話は聞けたかな。先に進んだって感じはあまりしないけど」
「へぇ」
「あとで逆村さんに報告して今後の方針を決めることになるのかな。淀み絡みの調査って手応えが感じられないから難しいよね」
「そうですね。確証みたいなものはどこまで行っても手に入りませんし」
「とりあえず、次は水川先輩と話をしてここ最近の様子を窺うのがいいのかな」
「かもしれませんね。そもそもここで問題が起きちゃったら元も子もないんで」
林田さんはそう言った後、無言でじっと俺の方を見つめてきた。眉間に少し皺が寄っている。怒っているという感じではなさそうだが、どんな意図なのかまるでわからない。
「どうしたの?何かついてる?」
「まぁ……」
「え、どこ?」
「あの、凪島さん。一つ聞いていいですか」
「え、何を?」
「昨日会って話を聞いた方って、凪島さんの恋人なんですか」
林田さんの口から飛び出てきたのは予想外の質問だった。
「いや、違うけど……。高校時代の先輩だよ」
「ふぅん……」
林田さんの目が細められている。普段はパッチリと開かれた大きな瞳なので、ギャップが激しい。
見つめられているのか睨みつけられているのかわからない状況がしばらく続いた後、林田さんがため息を吐いた。
「気を付けてくださいね」
「?」
意図の見えない発言だったが、それからすぐに林田さんが仕事の準備へと戻ってしまったのでそれ以上の追求はできなかった。
何か不興を買ったというわけでもなさそうだし、とりあえずは放っておくことにしよう。
もしも何か言いたいことがあるなら、彼女ならちゃんと言ってくれるだろう。
予定していた時間になったので、俺と林田さんは事務所を出発した。林田さんの運転する車の助手席に乗っている。俺は免許を持っていないので運転ができないのだ。
「奥さん、休日の朝から浮気するもんなのかな?」
これから俺たちは依頼主の家まで向かい、近くの駐車場に車を止めて奥さんが出かけるのを待つことになっていた。
「今日まで見てきた感じだと、最近調子に乗ってて行動が派手になってますね。放っておくと多分家に連れ込むくらいしますよ、あの人」
「あーあ……梶田さんかわいそう」
「この前話した感じだと、感情はもう一線を越えちゃったのかすごく淡々としてましたけどね、梶田さん。事務処理感すごかったですよ」
「もう割り切っちゃってるのかな……」
「どうなんでしょう。最初依頼に来たときはとんでもなく悲惨な表情してて見てらんないって感じでしたけど」
「依頼の段階で?」
「半分錯乱状態なんじゃないかって思いましたよ。理性でなんとか抑えて真人間っぽい振る舞いをしようとしてたみたいですけど、行動の端々が挙動不審でしたね。奥さんには相当惚れ込んでたみたいです」
「好きって感情はでかければでかいほど壊れたときの余波がひどいことになるからなぁ」
そう漏らしたあと、隣からじっとりとした視線を感じた。何か言ってくるわけでもなかったので、俺もそのまま黙っていた。
「それが今は怖いくらい静かなんですよ。怒りの方が上回っちゃったんですかね」
「冷めるときは一気に冷めるからね。あとはもう淡々とやるべきことをこなして離婚、ってことなんじゃない?」
そして、俺たちはその手伝いをするということだ。
わかってはいたが、気の滅入る仕事である。
春にしては陽射しが強く、まだ昼前だというのに車内の温度は汗がかすかに滲むくらいには高くなっていた。
梶田さんの家の玄関を監視できる位置に駐車場があったのでそこに車を止め、俺たちは車内から動きがあるのを待っていた。
「アイスおいしー……」
林田さんはハンドルに顎を乗せながらチューブタイプのアイスをズルズルと吸っている。さっき俺がコンビニで買ってきたやつだ。
「梶田さんが出かけてからそろそろ一時間経つね」
梶田さんが用事で出かけることについては前もって連絡をもらっていた。それを踏まえ、最近の奥さんの振る舞いを考えればこのタイミングで浮気相手と会わないわけがないだろうということで、決定的な証拠を掴むには今日がうってつけだろうと林田さんと逆村さんが判断したのである。
だが、しばらく経っても奥さんが出てくる気配がない。
「もしかして今日は何もないのかな」
だからといってこの場から離れられるわけではないのだが、結果的に無駄足になってしまうのは避けたい。
「そうでもないと思いますよ」
林田さんがそう口にしたのとほぼ同じタイミングで、梶田さんの家の前に一台の車がやってきた。遠目なのではっきりとは見えないが、運転席からは茶髪に緑のジャケットを羽織った男が降りてきた。
「あれ、奥さんの浮気相手です」
林田さんは、いつの間にかだらけ切った姿勢から元に戻っている。
「車に乗ってきたのは初めてですね」
車がやってきてから数分もしないうちに玄関のドアが開き、梶田さんの奥さんが出てきた。事前に見せてもらっていた写真と比べると、随分と服装が派手になっている。
「おめかしするのに時間使ってたんですよ」
「なるほど……」
俺はそう言いながら、梶田さんの奥さんが車の助手席に乗っていく光景を何枚か写真に収めていた。もちろん、浮気相手も一緒に映っている。
「やっぱり今日ならホテル入るとこ撮れそうです。下手するとどこにも寄らずにいきなりホテル行きますよ」
「あれだけおしゃれしてるのに?」
「だからですよ」
「どういうこと?」
「浮気相手とデートするときに普段着なのは、言い訳ができるようにするためです。友人とか親戚とか、相手によって言い訳の種類は変わるでしょうけど、あくまで日常生活の一環で特別な相手じゃないよってアピールするにはその方がいいですからね。逆に、今日みたいに車での移動なら人目を気にしなくていいから本気でおしゃれするんですよ、相手に見せるために」
「そういうもんなんだ……」
そのとき、梶田さんの奥さんを乗せた車が動き始めた。
「それじゃぁ追いかけますね。遠出になりますけど、最後は絶対ホテルですよ」
「確信してるね」
「ここ最近ずっと普通にデートしてるだけだったんで、僕の隙をついてやってなきゃ絶対欲求不満ですよ、あの人たち」
林田さんのあけすけな物言いにそのまま乗っかっていいものか悩んでいたら自分たちの車も動き始めた。
「さてさて、どこに行くんですかねぇ、あの人たち」
林田さんの楽しそうな声を聞きながら、そういう性格だからこういう仕事やってるんだな、と腑に落ちる思いだった。
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