2−3
大学生の時、淀み絡みの事件に巻き込まれた俺は、その時たまたま出向してきていた逆村さんの世話になり窮地を脱することができた。その縁があって、大学生の間にも何度か逆村さんの仕事を手伝ったことがある。
探偵半分淀み半分といった具合で、簡単な仕事なら経験はあったのだが、今回の件にどれほど活きてくるかはわからない。
最初の一歩としては、水川先輩の昔の友人をあたるとか大学に聴き込みに行くとか、色々と案は出たのだが、結論は別の形になった。
どこから聞きつけたのか、高校時代の先輩であり水川先輩と同じ大学へと進学していた麻生遥先輩から、就職祝いをするから新宿まで出て来いとの連絡が来ていたのである。
その話を逆村さん達にすると、ひとまずその場で軽く探りを入れてくるのがよいだろうとのことだった。
水川先輩と遥先輩の仲は特に悪くはなかったと思うが、お互いにあまり親密な友人を持つタイプではなかったので、大した情報が手に入るとは思えない。
しかし、今後の調査の為に何かしら取っ掛かりになる情報は出てくるかもしれない、そう判断してのことだ。
「プライベートと仕事を混同するのは避けたいんだけどね。渡りに船って感じだから仕方ないかな。あまり突っ込んだことまでは聞けないだろうし聞かなくていいよ。プライベート優先で」
とは逆村さんの談である。
交友関係を仕事に利用することに抵抗がないわけではないが、今のところ誰かに迷惑をかけるような事態には至っていないし、ここは思い切って我慢することにした。
というわけで、逆村さん達とのミーティングから二日後の夜、俺は新宿にやってきていた。
待ち合わせ場所は未だ不明だが、時間が近づいてきたら多分遥先輩から連絡がくるだろう。前もって細かいことを決めておくような人ではないのだ。
しかし、俺が定職についたことを先輩はどこから知ったのか。
高校時代からちょくちょく連絡を取り合ってはいたが、この前まで日本中を飛び回っていた間はほとんど関わりはなかったし、自分の状況を教えたこともない。
そのことを知っていたのは俺自身を除けば伊藤と外山くらいだったから、誰かから聞いたとすればそのどちらかから聞いたとしか考えられないが、遥先輩がその二人と接点を持っているとは考えづらい。どちらも大学に入ってから知り合った相手だからだ。
仮に繋がりがあったとしても、俺が逆村さんの事務所に勤めることになった事は今度こそ俺以外には逆村さんとその関係者しか知り得ない。
改めて現状を考え直してみると、微妙に不穏な空気が漂っているような気がしてきた。
果たして、俺は安全な環境にいるのだろうか。
そんなことを考えていたらスマホに連絡がきた。遥先輩からのメッセージだ。
うしろ。
一瞬ぞわりと背筋が冷えたが、三文字の短いメッセージが言わんとする事は明らかだったので振り向いてみると、なんとそこには誰もいなかった。
ただただ人が過ぎ去っていく。
不思議に思って前に向き直すと、至近距離にいつの間にか一人の女性が立っていて、こちらを見ながらニヤニヤと笑っていた。
唐突だったのでギョッと後ずさりしてしまったが、よく見てみれば不思議でも不気味でもなんでもない。
眉の上で切り揃えられた前髪に、ミディアムロングの黒髪。サイドに赤いメッシュを一本入れたその風貌は、記憶の中の姿のままだった。
彼女が麻生遥、俺の先輩であり今日の待ち合わせの相手である。
眼鏡の奥でグレーの瞳が静かに輝く。
「やっぱり振り向く時は右回りなんだねぇ」
どうやら、後ろを振り向かせたその隙に回り込んだようである。
久しぶりに会って開口一番の台詞がこれなのが相変わらず先輩らしい。
白いワンピースに七分袖のデニムジャケットを羽織り、赤いパンプスを履いている。遥先輩としてはなかなか新鮮な格好だ。この一年で服の趣味に変化があったのだろうか。
「お久しぶりです、遥先輩」
「久しぶり。考はあんま変わってないね」
服装も髪型も、最後に遥先輩に会ってから特に変化はない。元々その辺りに疎いし、こだわりもないのだ。
「遥先輩は……少し髪を伸ばしました?」
「お、よく気付いたね」
「前会ったときからだいぶ伸びてますよ」
「あれ、そうだったっけ」
そう言いながら肩まで伸びた髪先をくるくると弄っている。
その様子を見ながらさっきまで頭に浮かんでいた疑問を投げかけようと口を開こうとしたら、先に彼女が切り出してきた。
「さてと、積もる話もあるだろうけど、立ち話もなんだしとっとと店に入ろうか」
「あ、はい」
先を越される形になったが、思い返して見れば遥先輩の振る舞いは昔から大体こんな感じだった。
実際、雑踏の激しいこの場所では会話をするのも少々手間だし、話をするのは落ち着いた場所に移動してからでいい。
言い出すや否やさっさと歩き出してしまった彼女の後を、少し駆け足で追っていく。
先輩に導かれるまま裏路地に入り込み辿り着いた店は、和風の装いの中にどこかエスニックな装飾が散りばめられた不思議な雰囲気の場所だった。
店の奥の半個室へと追いやられ、気付けば遥先輩があれこれと注文をしており俺の分の酒まで勝手に頼まれていた。
「さっぱりしてて飲みやすいんだ。一杯目にはうってつけ」
彼女はそう言いながらジャケットをハンガーにかけている。
「聞いたことない名前です、これ」
「ここのオリジナルなんだってさ。ビールダメでもこれならいけるよ」
俺はビールがイマイチ好きになれない。苦いのが嫌いだとかそういうわけではないんだけど、なんとなく飲みたさを感じないのだ。遥先輩とは何度か一緒にお酒を飲んでいるので、彼女は俺の好みを把握している。
飲み物が届き、乾杯を交わした。
「どうだった?日本全国飛び回って」
一杯目をいきなり飲み干した遥先輩が唐突に聞いてきた。
「ずっと追っかけられてたんだろ?」
どうやら、この前まで俺が置かれていた状況を大体把握しているみたいだった。
「どこで聞いたんですか、その話」
「伊藤くんだったっけ、君の大学時代の友達。彼に聞いた、のかな?」
「かな?」
なんだかニュアンスが怪しい。
「気にしないでいいよ。情報源が彼ってことに変わりはないから」
伊藤のことだ。直接聞かれても答えるような真似はしないだろう。おそらく遥先輩が話術やら何やらを駆使して断片的に情報を入手していったのだ。この人は、そういうことをよくやる。
「はぁ。それにしても、遥先輩って伊藤と知り合いだったんですね」
「研究室の後輩が彼と付き合ってるんだよ」
「あいつ、いつの間に……」
料理がいくつか運ばれてきた。唐揚げ、アヒージョ、海鮮サラダなどなど雰囲気の統一が全くなされていないラインナップだ。先輩に任せるとこうなる。実をとるタイプなのだ。
「まぁ、最初は辛いとか感じてる余裕もなかったですよ。とにかく逃げなきゃヤバいって感じだったんで」
「よく卒業まで保ってたね、彼女」
「むしろ卒業のせいですかね。それまでは同じ環境にいたんであっちもなんとか衝動を抑えてられたんじゃないですか。実際のところどうだったのかは知りませんけど」
俺は大学生活の後半、同級生からのストーカー被害に遭っていた。
一度エスカレートし始めた時期に警察に駆け込み、様々な方向から防御策を講じたことで卒業までは比較的穏やかに過ごすことができていたのだが、大学を卒業するタイミングで再び活動が再開されてしまったのだ。
「もともと一年か二年かは定職就かずにふらふらする予定だったんで、資金面では問題なかったんですけどね。途中からは観光も楽しめたんで、ある意味開き直れた部分はありましたよ」
「それならよかったよ」
店員がやってくる。
先輩は二杯目に日本酒を頼んだようだ。早速グビグビと飲み始める。
「予定よりも色んな場所を行き来したせいで貯金の減りが激しくなってたのだけは想定外でしたね。だからこうして今は職につくことにしたわけですけど」
「彼女は上手く撒けたの?」
「関東ってところまでわかっても、それ以外のことは見当もつかないだろうってくらいには」
「神野町を最終地点にしたから出来た芸当かな」
「そうなりますかね」
神野町という場所は、特別に特別でない。
話の区切りに食事を進める。ラインナップはごった煮だが、そのどれもがとても美味しい。料理の味は確かな店のようだ。
「これといった特徴があるわけじゃないんだが、料理やお酒の質が良いのが気に入ってる」
先輩が言う。
「よく来るんですか?」
「気が向いた時にふらっとね。今日頼んだのは普段からのお気に入りのメニュー」
「なるほど」
「あ、いつも一人だからね、ここに来るのは」
「そういえばカウンター席ありましたね」
それから先輩は三杯目の酒と料理の追加を注文する。ペースが早い。
「というか俺が神野町で就職したって話、よく知ってましたね」
待ち合わせの時に浮かんでいた疑問を口にする。
「神野町だって知ったのはついさっきだよ」
「は?」
「カマかけたの。まぁ、アタリはつけてたけど」
まんまとしてやられたらしい。
そういえば確かにこの前来たメッセージでは場所については言及していなかった。
「就職したってことと関東にいるんだろうなってことは伊藤くんから聞き出してたけど、具体的な場所までは知らなかった。そもそも伊藤くんが知らなかったみたいだし」
それはその通りである。別に隠すつもりはなかったが、バタバタしていて具体的な情報を伊藤には伝えていなかったのだ。
「事情が事情だから神野町なんだろうなとは思ってたけど、それを事実として認識したのはさっきの会話だよ」
この調子だと、俺が逆村探偵事務所に入ったことも把握していそうだ。
「ほら、三年くらい前だっけ、考が大変な目に遭ってた時に色々調べてさ」
三年前。俺が淀みを認識できるようになってしまった事件のことだ。
当時は遥先輩にも相談していた。頼れる人が少なかったのだ。
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