2−2

気が付くと、視界一面に事務所の天井が映っている。

背中の感触が柔らかい。どうやらソファに寝かされているようだった。

いまいち状況が掴めないままにとりあえず起き上がろうとすると、背中と顎に痛みが走る。

「……っつ」

幸いにしてそれほど強烈な痛みではなかったので、少し我慢すれば問題はなさそうだ。

「あ……」

顔を顰めながら身体を起こしていると、すぐ近くから声がした。向かいのソファに顔を向けると、そこにはゴスロリ服の女性が座っていた。眼鏡をしている。

「顎、大丈夫ですか?」

「えぇまぁ……ちょっとヒリヒリするけど」

どうやら彼女は俺の状態を把握しているらしい。

俺の答えを聞いてか、彼女は頭を垂れる。

「本当にごめんなさい。寝起きだったから、咄嗟の判断でつい……」

「……何のこと?」

「え、覚えてないんですか?」

顔を上げた彼女の表情はさっきよりも深刻さを増している。

「もしかして、記憶喪失……」

「いやいや、そういうんじゃないよ」

どんどんと青ざめていく顔を見て、俺は慌ててフォローする。

「気付いたらソファで寝てたから、何でだろうと思って。事務所に入ってきたところまでは覚えてるんだけど、そこからの記憶が曖昧でさ」

「あ、そうなんですね……」

彼女はほっと息をつく。少しは安心してもらえたらしい。

それはよいのだが、結局、俺は何故ソファに寝ていたのだろうか。どうやら目の前の彼女は事情を知っているらしいから尋ねてみようと思ったその時、パーティションの向こう側から逆村さんが現れた。手にはコーヒーカップを持っている。

「お、起きたね」

逆村さんは俺を見てそう言ったあと、視線をゴスロリさんの方へと向ける。

「よかったね。人殺しにならずに済んだみたいだ」

「さすがにそこまでの心配はしてませんでしたよ!……いやまぁ、ちょっとはその、ヤバい場所蹴っちゃったかも、とは思いましたけど……」

飛び交う不穏な言葉に刺激されたのか、失われていた記憶が急激に蘇ってきた。

そうだ、俺はソファに寝ているこの人を起こそうとして近づいたのだ。

そして声をかける直前に彼女が目覚め、次の瞬間、強い衝撃とともに意識が飛んだ。

「俺、顎を蹴っ飛ばされたんですね……」

「起きたら知らない男の人が目の前にいたから、思わず……」


それから、ひたすら謝り続ける彼女に対して、迂闊に近づいた自分も悪かったとなんとか言い含め、場を収めることに成功した。

「あ、自己紹介が遅れてすみません。僕は林田です。よろしくお願いします」

ゴスロリの彼女がそう口にした。

僕?

「……俺は凪島です。こちらこそよろしく」

とりあえず自分も名乗ったが、頭の中には疑念が膨らむ。

そういえば昨日の逆村さんの口ぶりだと女性は一人、赤岡さんだけのように聞こえた。ということは、つまり今目の前にいるこの人は。

「一応言っておくけど、林田くんは女性だよ」

やり取りを聞いて何かを察したのか、逆村さんが口を挟んできた。

それを受けて林田さんははっと気付いたような顔をして口を開く。

「あー、そっか。これ、昔からの癖なんですよ。お客さんの相手をする時とかは、私、って言うようにしてるんですけど」

なるほど。どうやらいわゆる僕っ娘というやつらしい。

「それにしても林田くん、きみ、今日はやたらと早いね。どうしたの?」

「いやー、昨日カラオケでオールしちゃって。家帰るの面倒だったんでここで寝てたんですよ」

「……大した距離じゃないでしょ」

「あまりにも眠すぎて……」

林田さんはえへへと笑ったあと、こちらに振り向く

「あ、シャワー借りたから匂いとかは大丈夫なんで!」

鍵を開けっ放しで眠りこけはしても、そういうところは気にするらしい。

「ここ、シャワー付いてるんですね」

「二階が住居スペースになってるんだ。というか、もともと二階建ての一軒家だったのを改装して事務所にしたんだけどね」

「あれ、じゃぁ、逆村さんの家ってここなんですか?」

「いや、ここには今は誰も住んでないよ。水周りが生きてるから、彼女みたいにたまに使う人はいるけどね」

「朝からお風呂に浸るの、気持ちいいんですよぉ」

「そもそも、なんで上のベッド使わなかったの?」

「それだと爆睡して寝坊しちゃうかなって」


逆村さんが席を立ち、こちらにやってきた。傍らにはタブレットを抱えている。

「林田くん、凪島くんの隣に行ってもらえる?」

「はいはーい」

カツカツとブーツを鳴らし、林田さんがこちらにやってくる。実際に動いている光景を見るとますます内装とのギャップが激しく映る。逆村さんは慣れているのか、全く気にも留めない。

向かいのソファに腰を下ろした逆村さんはタブレット端末を起動してテーブルに置く。

「今日のところは残ってる細かな手続きをしたり過去の記録を読んでもらおうかと思ってたんだけどね」

「何かありましたっけ」

「本部に出す書類とかだよ。まぁ、それは時間が空いたらでいいよ。今はひとまず昨日の話の続きをしよう。緊急性が高いかもしれないからね」

「はい」

水川先輩に憑いていた淀みの件だ。

「電話越しだったし時間もなかったしでちゃんと話を聞けなかったからね、もう一度、詳しく話を聞かせてくれるかい」

「わかりました」

「林田くんにも聞かせるし、あとで赤岡さんにも共有する。うちで処理できればそれでいいけど、場合によっては本部が出張ってくる可能性もある。構わないね?」

これは確認であり選択肢の掲示ではない。そもそも拒むつもりはないが、仮に拒んだとしても何も変わらないだろう。

「えぇ、大丈夫です」

俺はそう言ってから、昨日の出来事を改めて二人に説明した。

たった一瞬の出来事だったので、内容自体はそれほど多くなく、時間も要さなかった。


俺が話し終えたあと、逆村さんは少し考える仕草を見せたが、ほどなく口を開いた。

「……昨日も電話で話したけど、ここ最近は淀み関連と思しき問題はあまり発生していない。あったとしても軽微なものばかりだ。凪島くんから連絡をもらったあとに軽く記録を漁ったんだけど、ここ数年に神野町近辺で起きた事件の中に淀みに関わることで原因不明なものはない」

「……そうなんですね」

「話によればその水川さんは神野町に来てからもう何年も経っているみたいだね。となれば、少なくともここに来てからは彼女の淀みが何か問題を起こした可能性は低いと言っていい」

「そういうことになるんですかね」

「あぁ。だけど、放っておいていいというわけではない。表沙汰にならない形で周囲に害を及ぼし続けているのかもしれないし、これから何かを引き起こすかもしれない。少し淀みが濃くなったくらいなら注意しておきましょう程度の話でよかったんだけど」

「……はい。見間違いではないですね、あれは」


先輩と俺の間に聳え立つ黒い壁。そこから生えてきたしなやかな腕と、浮かび上がった空虚な頭部。記憶は白昼夢のようにおぼろげでも、じりじりと喉元に食い込んだ細い指の感触は、未だ消えずに残っている。

「淀みの濃さは危険度のバロメーターでもあったわけだけど、君が見たように淀みが確固たる形を持っているものはもはやまるで違うレベルにある。一応、特調会の見解としては形を与えられたということは安定性を手に入れたことも示している、という具合なんだけど……」

「水川先輩の場合は違う、ということですか?」

「その可能性がある。見逃せない点は二つだ。淀みが君に干渉を試みたということ、そして、彼女が自身に憑いた淀みを認識できていないということ」

こちらに向けられたピースサインは、決してふざけたものではない。

「念の為に聞くけど、凪島くん、何か身体に異常を感じたりはしていないかい?」

「大丈夫、だと思います。少なくとも今の自分の認識では、ですけど」

「ふむ。まぁ、僕から見ても変なところはないように思えるし、君については安心しておいていいのかな」

淀みによる干渉は、大抵が何らかの物理的現象として現れる。

物が動く、音が鳴る、幻覚が見える、などなどの、いわゆる怪奇現象にカテゴライズされる形で、人の錯覚に紛れるようにしてこの世に対する淀みの干渉は行われている。

俺が昨日遭遇した現象も、言って仕舞えば単なる幻覚と片付けてしまうことだってできる。

しかし、淀みを軽視できないのは、時に人の認識のより深い場所へと干渉を行うことがあり得るからだ。

かつて俺が巻き込まれた事件では、ある人に取り憑いた淀みが周囲の人間の暴力性を強く喚起し、最終的には刃傷沙汰にまで発展した。影響を受けた人達は、総じて武器を手に取り暴力を行使したのだ。できることならあの血溜まりの光景はもう思い出したくはない。

こういった干渉は、本人が気付かない内に行われることがほとんどだ。無理やり操るのではなく、その人自身の思考に影響を与えるからである。

ゆえに俺に自覚がなくとも、先輩に憑いている淀みから今も何らかの影響を受けている可能性は捨て切れないのだ。

しかし、専門家である逆村さんから見ておかしなところがないのなら、ひとまずは安心してよいのだろう。


一連のやり取りを聞いてから、林田さんが口を挟んできた。

「それだけ具現化してるってこともヤバいなって思いますけど、自分でそれを制御できてないって、その人かなりマズイ状態にあるんじゃないですか?」

林田さんは何かを手に持って振り回すような仕草をする。それにどんな意味があるのだろう。

「それ、どういう意味?」

俺は林田さんに尋ねる。動きではなく言葉についての疑問だ。

「えっと、淀みが濃ければ濃いほど憑かれている人の疲労は激しくなりますよね。頭使うのが嫌になるくらい。で、さっき所長は安定してるって言ってましたけど、それはそうとしてもとんでもない濃さの淀みであることには変わりないわけですし、それが姿を見せたりすれば、憑かれてる本人、この場合だとその水川さんですね、身体に相当な負荷がかかるんじゃないですか」

それを受けて逆村さんが応える。

「確かにその通り。もしかすると水川さんは常日頃から強い疲労感や倦怠感を覚えている可能性がある。医者に通っているなら、気分障害とか、酷ければ鬱とか、そういった診断結果ももらっているかもしれない」

「はい。自分に憑いた淀みを認識していて制御できているなら、身体を必要以上に蝕むことはないと思います。でも、凪島さんの話を聞いた限りだと、些細なきっかけでその黒い壁が現れてしまっているんじゃないかと思うんです。今は大丈夫でも、いつかは自分のキャパシティを超えてしまって淀みに呑まれちゃうんじゃないんですか」

淀みに呑まれる。

人があまりにも濃い淀みに蝕まれ続けると、意識を蝕まれ、廃人同然の存在になってしまう。

脳が傷ついたりするわけではないので、そうなったとしても回復した事例がないわけではない。しかし、一度呑まれてしまった人間はほぼ確実に後遺症に苛まれる。その後の人生に悪しき影響を与えてしまうことは免れられないのだ。

「そうだね。だから、知ってしまった以上、我々は彼女を放っておくことはできない。もちろん、彼女自身の身を案じているというのが一番の理由だ。だけどそれに加えて、人に干渉を試みるほどに肥大化した淀みが誰の制御下にも置かれぬままになっているのは非常に危険な状態だと言わざるを得ない。もし何かあれば、彼女だけではなく周りにいる多くの人間を巻き込むことにもなりかねない」

「そうなりますね……」

俺は一言そう呟いた。


予想通り、事態は大きくなってきた。あれほどに具現化した淀みを見たのは昨日が初めてだったが、そんな自分でさえも直感でその危うさを理解できたのだ。

逆村さんは直接あれを見てはいないが、俺のもたらした断片的な情報と過去の経験からそう結論づけたのだろう。

「ということで、今日から当面の間、君が取り組むことになるであろう仕事の話だ」

タブレット端末を操作しながら逆村さんは渋い顔をしている。テーブルに置かれたままだから画面はこちらからでも見ることができる。どうやらカレンダーを確認しているらしい。

「どうかしました?」

「本来なら、知り合いである君に任せるのはあまり良くないことだと思うんだけど……」

逆村さんが言わんとすることはなんとなく予想できた。

「凪島くんに任せたいのは、水川一縷さんの身辺調査だ。いつ、どのようにして、どんな淀みが彼女に憑いたのか、それを探りたい」

「俺が先輩を……」

「まぁ、背景を把握しないと淀みがどんなものなのか推測することもできませんしね」

林田さんが言う。

「でも、いいんですか?見知った人相手にそれやるの、色々大変ですよ?」

「そうなんだよね。だけど君も赤岡さんも融通効くような形でスケジュール空いてなくてさ」

「そうでしたっけ」

「それに、凪島くんと水川さんは知り合いとはいえ再会したのが最近ってだけで、交流があったのは何年も前の話だ。その辺りはなんとかなると思ってる。凪島くん、どうかな?」

逆村さんの目が俺に向けられた。

実際、逆村さんの言うように俺と水川先輩の間に交流があったのは高校時代までだ。その当時だって、生徒会という組織の中で共に活動はしていたけれど、特別仲がよかったというわけでもない。

だがそれゆえに、昨日会った先輩の様子が高校時代のそれと様変わりしていたことにかなり驚かされてしまった。

ともすれば冷徹とでも称されそうなほどに完璧主義で、崩れたところなど微塵も見せる気配のない堅物の生徒会長。風紀委員とすら見紛うほどに規律正しく振る舞う様は、近づくものに対する壁を作りつつも、多くの生徒から憧憬の目を向けられていたのだ。

そんな彼女が今やくたびれたジャージで街を出歩きコンビニでカップラーメンを啜るニートになっている。

年月は徐々に人を変えるものだが、これだけの変化には何かしら別の原因があるとみるのが自然だろう。

正直に言えば、そうした変化について個人的に興味がないわけではない。知れるものなら知りたいと思っている自分がいるのは確かだ。


「えぇ、問題ありません。やらせてください」

人の過去に深入りすることは危険を孕んでいる。知りたくもなかったことを知ってしまうリスクもある。ただ、俺はそういう点で少し感覚が麻痺していたのかもしれない。

「身辺調査って点では普通の探偵業と変わらないから、やること自体はそれほど難しいことじゃない。せいぜい依頼人がいるかいないかくらいしか変わりはないし、僕も可能な限りサポートする。ややこしいことになってきたら林田くんや赤岡さんにも手伝ってもらうことになる」

「顔が割れてると面倒そうな場合は僕の出番ですかね」

林田さんが顔を乗り出してくる。

「そうなるかな。梶田さんの件と都合がつけばだけど」

「あれ、多分クロですしそろそろボロが出ますよ」

「……そっか。ま、それは後で話を聞くよ」

そう言ってから逆村さんは一つ咳払いをする。

「というわけで、だ。調査の基本についておさらいしてから、今後の具体的な動き方を考えていこう」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る