第2章 回想
2−1
特異状況調査会、略して
京都を本拠地とし全国に支部を持つ、淀みに関わる問題を包括的に処理する組織である。
表立って特調会を名乗ることはなく、大抵は何かしらの企業や非営利組織の看板を掲げており、多少経路が複雑ではあるが、全ての組織が国の管轄下に置かれている正式な国家機関である。
その歴史は古く、遡ればかの陰陽師が跋扈した時代まで行き着くというが、その真偽は定かでない。
ここ神野町に居を構える逆村探偵事務所も、そんな特調会の支部の一つであった。
駅から徒歩十分、商店街と住宅街の狭間にある場所にぽつりと存在する、二階建ての小さなコンクリート造り。その一階にあるのが逆村探偵事務所である。
事務所に来るのは初めてだったが、住所は教えてもらっていたし看板はついているしで迷う余地はなかった。
今は朝の九時過ぎ。普通の会社員ならば始業開始時刻といったところか。来てくれと言われた時間よりだいぶ早く出てきてしまった。
昨日の夕方、水川先輩と別れてすぐに逆村さんへ俺が目撃した淀みのことを電話で報告した。場合によっては急ぐ必要があるかもしれないと思ったからだ。
逆村さんも先輩に憑いていた淀みが普通でないことはすぐに理解したようだが、逆村さんに時間の余裕がなく、電話はすぐに終わってしまった。一応、最近はこれといって重大な事件も起きていないから緊急性はそれほど高くないだろうと言ってくれたのだが、不安はどうにも拭えず、日が開けて今朝、はやる気持ちのままに家を出たのである。
CLOSED の札がかけられてはいたものの、事務所の鍵は既に開いていた。いやまぁ、鍵を貰っていないから締まっていたら困るのだけど、逆村さんは朝に弱いと聞いていたからギリギリになるまで事務所には誰もいないのだと思っていた。
開いていなかったら近くの喫茶店にでも行って時間を潰そうかと思っていたのだが、入れるのなら入ってしまおう。おそらく、昨日車の中で話に出ていた二人のどちらか、あるいは両方がもう来ているのだろう。
「おはようございまーす」
挨拶しながら中に入るが、返事はなかった。
扉を開けてすぐのエリアは開けていて、観葉植物も置いてある。応接室らしき部屋へのドアがあり、奥にはキッチンと思しき場所が見える。反対側にはパーティションが置かれており、それが客対応用とそれ以外のエリアの境目となっているであろうことが窺えた。
どういう風に仕事をすることになるのか、デスクワークなのかすら曖昧なままに話が進んでいたので、どう振る舞えばよいのかさっぱりわかっていない。社員になったことは確かだが、それ以外の情報が皆無なのである。
「まぁ、とりあえずはオフィスエリア、かな……」
そう独り言ちてパーティションの奥へと向かう。
探偵事務所と聞いていたから、なんとなく、書類の山に埋もれたデスクが並ぶ古めかしく雑然とした薄暗い光景を思い浮かべていたのだが、実際はかなり違っていた。
中心に白く細長い大きなデスクが置いてあり、その周囲に四つのオフィスチェアが配置されている。デスクの上には幾つかの書類が散らばってはいるものの綺麗に整理整頓されており、すっきりとした印象がある。
壁際にはもう一つ小さなデスクがあり、そちらも少々古びた印象はあるものの、かなり綺麗な状態が保たれている。これは多分、逆村さんのデスクだろう。
空いたスペースには小さなテーブルとソファがある。ミーティングか何かで使うのだろうか。
その反対側の壁一面は、ほとんどがガラス戸付きの本棚になっている。詰められているもののほとんどがファイルだ。仕事の記録だろう。まだまだ紙の書類が猛威を振るっている時代である。
照明は眩しすぎない程度に明るく、オフィス内を満遍なく照らしている。
なんというか、モダンな IT ベンチャーのオフィスみたいだと思った。逆村さんのセンスなのだろうか。個人的にはかなり気に入っている。
しかし、先程からその光景に似合わない存在がちらちらと視界に入っている。
なるべく意識にのぼらせないようにしていたが、さすがに放っておくわけにもいかないだろう。
ミーティングスペースと思しきエリアにある二人がけのソファ。
いわゆるゴシックロリータと呼ばれるタイプの服を来た長身の女性が、そこで睡眠を取っていたのである。
二人がけとはいえコンパクトなソファにその長身はさすがに収まりきらなかったようで、折り曲げられた身体はどこか窮屈そうだ。
起こすべきなのだろうか。
そもそも、この女性は誰なのか。
鍵が開いていたことから察するに、事務所のスタッフであると考えるのが自然だ。
しかし、この服装がその予想に疑問を投げかける。
探偵事務所にゴスロリという組み合わせはどこかフィクションめいた空気を醸し出しているが、俺が聞いている限り、逆村探偵事務所の業務は身辺調査等の一般的な探偵業と変わりなく、決して難事件の解決などではない。
もぞり、とゴスロリの足が動いた。
ソファの下に脱がされたブーツが丁寧に置かれている。ということは、この人はそれなりにしっかり睡眠を取るつもりでソファに寝ているわけだから、やはり事務所の人なのだろうか。
昨日の話からすると、現在逆村探偵事務所に所属しているのは俺を含めて四名だ。そこから逆村さんと俺を除いた二人、名前だけ聞いている林田さんと赤岡さん、ここで寝ているゴスロリさんはそのどちらかということになる。
それならば俺はどう振舞うべきだろうか。
初めてここに来た身としては勝手がまるでわからない。社員となりはしたものの、何も教えられていないままにオフィスのあちこちをいじり回していいわけではないだろう。
こうなっては仕方がない。
睡眠を邪魔しては悪いという気持ちがなくもないが、このまま気まずい空間で時間を潰すよりは声をかけて挨拶でもしておいた方がいい。
そう思って彼女の方へと近寄りいざ声をかけようとした瞬間、ふと、過ぎったのだ。
少なくとも、ここに寝ているのは女性である。
女装した男という可能性はなくもないが、図らずも見えてしまった脚先や、顔立ちと喉仏の有無などから、ほぼ女性であると結論づけてもいいだろう。
また、俺は林田さんとも赤岡さんとも会ったことはなく、互いの顔を把握していない。
さて、そんな状況において、今ここに寝ている女性からすれば今の俺は一体どんな存在であろう。
俺が声を発する前に、ゴスロリさんの目がパチリと開かれた。
その視線は数瞬空を彷徨うが、ほどなく俺を捉えた。
目が合う。
俺の意識はそこで途切れた。
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